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人間というものは、物質的な生活がより豊かなほうへ豊かなほうへと流れることを本質的に求めている。歴史も人間の営みの軌跡であるのだから、いつの世であってもそのことに変わりはない。ただ、そのテンポが川の早瀬のように急速な時代もあれば、ゆるやかな時代もある。急速な時代の典型は、現代であろう。1925年のラジオ放送開始を起点に見てみると、1953年にテレビ、1987年に携帯電話、2007年にiPhone、そして2023年に生成AIが登場。この間、約100年である。鎌倉時代。この時代もそうとう
私が30代の頃に神奈川県内の金属工場株式会社に勤務していた頃に、私よりも14歳年上の内谷さん(仮名)っていう私は誰よりも霊感強いのよ❗️という先輩がいました。この内谷さんが、鎌倉ミステリーツアーをやりたいと言い出し私と20代の同僚の女子の江原さん(仮名)、蒲田さん(仮名)二人に声かけました。4人での鎌倉ミステリーツアーが楽しみでした。そして、鎌倉駅で全員集合。内谷さんが、ご自身の鎌倉歴史や霊感自慢話をしながら案内する場所は…私にとっては憑依体質にはヤバいような波動のある、本当に危
🌸北条高時(鎌倉時代)激動の時代に生まれた愚将⛳北条一族の滅亡☆鎌倉幕府第14代の執権となった北条高時、北条一族と共に自害した☆高時、鎌倉に攻め込んできた新田義貞に追い詰められ*高時が命を絶ち、鎌倉幕府の歴史にも終止符が打たれた*幕府において、強大な権力を誇つてきた北条氏は滅亡した☆高時は、名門一族の最後を飾るには、ふがいない人物だった⛳高時、現実に逃避して遊びにふける☆彼が執権になったのはわずか14歳*高時に代わり、北条家の執事だった長崎高綱が実権を握る
鎌倉・宝戒寺の南東、東勝寺跡。1333年、新田義貞によって鎌倉幕府陥落。北条得宗家最後の当主・北条高時、及びその一族郎党は、この東勝寺で自害したという。東勝寺跡は、史跡保護の為に金網で囲われ、入れない。↓奥の崖には、中世横穴墓・ヤグラが見える。↓↑いつか、ここに入れる日は来るのだろうか…?↓因みに、東勝寺跡の裏手には、『北条高時腹切りやぐら』が在るのだが、崩落の危機に瀕しているので、立入禁止になってしまっている。ま〜た、何年放置されるんでしょうかね。↓史跡は、“観
鎌倉・鶴岡八幡宮の東、天台宗円頓“宝戒寺”。境内には、いくつかの境内社も。こちらは、太子堂。↓徳太子が祀られている。↓こちらは、徳崇大権現。↓北条得宗家最後の当主・北条高時が祀られている。↓こちらに祀られているのは、大聖天(歓喜天)。↓古代インド神話の、ガネーシャ神。一般的には、夫婦和合etc.人の欲望を叶えてくれはするものの、しかと“礼”をしないと…という、諸刃の剣の様な存在。北条高時と金沢貞顕やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡(日本史リブレット)[
10月2日に巡った甲斐国の続きです前回の記事はこちら↓甲斐善光寺から、武田神社方面に行くか甲府へ戻りながら近隣の仏閣へ詣でるか悩みましたが、特急かいじに4時には乗車しなくては行けないので、お山🏕の方には行けそうに有りません甲斐善光寺があるからか、近くには浄土宗寺院も有るので、浄土宗寺院巡りも兼ねて歩ける距離で立ち寄りました甲斐善光寺から徒歩数分…🏃🏃東光寺のお寺に詣でました東光寺の山門山門の横にはお地蔵様🥰六地蔵?独立してない、善光寺如来の様な光背?が1つになった形式ですもう
さて、11月6日でございます。本日は大河ドラマ「太平記」で北条高時の側室?養女?の顕子を演じた小田茜さんの誕生日です。おめでとうございます!そして、、『銅の軍神ー天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線ー』本日、11月6日(月)から書店発売です!!・・・書店さんにより開始日は6日、7日と少々変わります。ご注意をお願いします。軍靴の音が高まる昭和初期、国威発揚のために祀り上げようとされた新田義貞。二度と悲劇の軍神を生み出さないために宗家当主がとった驚くべき
鎌倉にある宝戒寺です。金龍山釈満院円頓宝戒寺という天台宗の寺。元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府軍は新田義貞軍に追い詰められ、東勝寺において得宗北条高時はじめ一族郎党870人が自害。鎌倉幕府は滅亡しました。建武2年(1335年)、後醍醐天皇は滅亡した北条一族追悼のため、足利尊氏に命じて円観慧鎮を開山として北条高時邸宅跡である北条執権邸跡にこの寺を創建したといいます。本堂。本尊・地蔵菩薩像を安置します。聖徳太子堂。得宗大権現堂。得宗大権現は後
鎌倉にある東勝寺跡です。青龍山東勝寺という臨済宗の寺の跡地。嘉禄元年(1225年)、鎌倉幕府3代執権北条泰時が、退耕行勇を開山として創建。北条得宗家の氏寺。北条執権邸の裏手にあり、有事の際の兵の駐屯を想定した広大な寺であったといいます。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れ隠岐配流(元弘の変)。幕府は都に光厳天皇を立てます。後醍醐天皇皇子・護良親王が討幕の令旨を発令。元弘3年、後醍醐天皇は隠岐を脱出、幕府は北条(名越)高家、足利高氏らを鎮圧に向かわせます。高家は後醍醐天
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りの続きです円覚寺→円応寺→建長寺の次は宝戒寺にやって来ましたいよいよ、核心の部分であるゆかりの地に突入なんでしょうか…宝戒寺寺号標伽藍復興案内板鎌倉殿の13人の幟旗宝戒寺の縁起案内板北条氏館跡石碑こちらが山門になるのかしら?本堂が見えます本堂天台宗寺院の宝戒寺は、金龍山釈満院宝戒寺と号します建武2年(1335年)新田義貞の鎌倉攻めにより滅んだ北条氏一族の霊を弔う為に、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条家屋敷跡に建立したと言われています御本尊
鎌倉駅西口を出て、市役所を左手に7〜8分ほど歩くと、佐助一丁目の交差点がある。それを右に曲がり、銭洗弁天方面を5分ほど歩く。狭い路地を右に曲がり、のどかな畑を左に少々登り坂。すると「佐助共同墓地」緑に囲まれて風光明媚な素晴らしい所。右を見ると、墓園には珍しい鳥居が見える。葦津家之墓である。戦後神社本庁設立に尽くし、民族派の論客として名高い葦津珍彦氏。お会いしたことはないが、書籍を通じて尊敬する葦津先生のお墓を参拝させて頂きました。後、場所を移し鎌倉市小町の北條高時腹切りやぐら、東勝寺跡か
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡鎌倉市にある「明月院」の御朱印です。素晴らしく達筆です!では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡鎌倉巡り第4回目です。今回は北鎌倉を巡ります。北鎌倉といいながら、前回忘れてしまった北条高時公「切腹やぐら」へ。今は亡き「東勝寺」東勝寺跡のやぐらが切腹場所かと思ってましたが・・・奥のハイキングコース入り口に石碑がありました。左手っぽいです。草木に覆われており奥に進む勇気もなく、ここから眺めます。ここで一族郎党約300人の命が失われたそうです。貴方たちが一生懸命作った日本の今はどうですか?期待に応えられてますか?安らかにお眠りください。では
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡鎌倉市にある「宝戒寺」の御朱印です。達筆です!では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡鎌倉市にある「宝戒寺」に行ってきました。北条執権屋敷があった場所です。北条高時公を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏公に命じて造ったお寺です。門には北条家の家紋本堂。本堂内は撮影禁止でした。仏様がいっぱいいらっしゃいました。聖徳太子堂。徳崇大権現堂。北条高時公を神様として祀ってます。大聖歓喜天堂。宝篋印塔。北条氏及び鎌倉合戦東勝寺戦没者の慰霊塔です。鐘楼境内には大きな木が幾つもありました。滅びた北条執権跡地。少し寂しいですね。では、(*^-^
5月22日、鎌倉幕府が滅亡した日。徳崇大権現会後醍醐天皇が北条一族を弔うため足利尊氏に命じて建てさせた宝戒寺では、北条一族を供養するための「徳崇大権現会」が行われます。普段は徳崇権現堂に安置されている北条高時像が本堂へ移され、「大般若経転読会」が行われます。☆☆☆☆☆
現状を予言していたような内容のサイトを発見するいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!昨日、北条高時に関する記事を書きました。その際、偶然発見をした太守(id:takatoki_hojo)さんの「北条高時.com」というサイトですが、そこに、「あらためて「なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのか?」、その原因を考えてみた」という記事がありま
彗星があらわれたこと-妖霊星を思い出したこといつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!ZTF彗星が5万年ぶりに地球に大接近していると聞き、自分の研究範囲にある文献を思い出しました。通常とは異なる星、どうやら彗星をあらわす「妖霊星」という言葉です。ただ、今の彗星よりも不吉な意味を含んだ言葉です。天下に大きな動きがある時にあらわれる
昨日、インターネットTV“Will-BeStation”から生放送させて頂いた『歴史のお話』“東勝寺合戦”、御覧頂き、ありがとうございました。鎌倉幕府の終焉、北条得宗家の最後の戦い、いかがでしたか?まさか?奇跡のタイミングであんな事が??“天運に見放される”とは、この事か…!?▼見逃したというアナタ!こちらから、録画を御覧下さい!↓↓↓↓↓https://youtu.be/zzvFWaQr44g歴史のお話~第134回「東勝寺合戦」~主演文化歴史学者Kick
明日、1/16(月)PM8:00~インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“東勝寺合戦”生放送!鎌倉幕府、北条得宗家の最期!※PM8:00~YouTubeライブでお送り致します。生放送開始直前に、こちらでURLを公開!↓↓↓↓↓https://youtu.be/zzvFWaQr44g歴史のお話~第134回「東勝寺合戦」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文化歴史学者KickMizukoshiと歴史好き、シンガーソングライ
明日、1/16(月)PM8:00~インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“東勝寺合戦”生放送!鎌倉幕府、北条得宗家の最期!※PM8:00~YouTubeライブでお送り致します。生放送開始直前に、こちらでURLを公開!↓↓↓↓↓https://youtu.be/zzvFWaQr44g歴史のお話~第134回「東勝寺合戦」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文化歴史学者KickMizukoshiと歴史好き、シンガーソン
ちょこちょこと国内旅行をして、そのことをアップしていますが・・・ブログの性格上、あっちこっちに書き散らして、系統だった書き方をしていません。まぁ、個人的にそれぞれの旅行の思い出に浸りたく・・・旅の記事のリンク先を旅毎に纏めたのが「公紀行」です。まぁ、あくまでも個人の振り返りのための記事なので、適当に無視してください。2022年11月の平日にお休みをいただいて鎌倉を巡ってきました。鎌倉と言えば、ただでさえ混むのに・・・その年の大河ドラマの舞台地ですから、寒い時期の平日
2022.12.10鎌倉幕府14代執権の北条高時自刃の地3回の鎌倉行脚もそろそろ終了このマップに記されている神社仏閣、史跡のほぼ8割を訪ねることができましたそして…「鎌倉幕府」がついに終焉となるゆかりの地に向かいます北条義時以来の北条得宗家の屋敷北條執権邸地跡と伝えられる「宝戒寺」を訪ねました金龍山釈満院円頓宝戒寺(天台宗)御本尊:地蔵菩薩(国指定重要文化財)開山:円観開基:伝・後醍醐天皇建武2年(1335)鎌倉攻めにより滅んだ北条一族の霊を弔うた
宝戒寺から腹切りやぐらへ24日の続きです。レストランシャポンファンでフレンチに舌鼓を打った後は、レストラン前の住宅街の中を延びる路地を進み、鎌倉幕府終焉の地を巡りました。鎌倉殿の13人で描かれた鎌倉幕府初期の時代から100年余り、ついに鎌倉幕府は終焉の時を迎えます。先ずは、執権館跡です。幕府滅亡後、執権館跡には、北条氏の慰霊の意味を込めて、後醍醐天皇が宝戒寺を建立され現在に至っています。したがって、現在は宝戒寺となっていて、かつての館の面影はありません。ただし、境内には徳宗大権
東勝寺・・・かつて鎌倉の葛西ケ谷にあった寺院。13世紀中頃に創建されたと伝えられ、北条得宗家の氏寺であった。室町時代には関東十刹の第三位にも叙せらた。11月末の平日鎌倉日帰り旅・・・北條執権邸跡である宝戒寺に行った後は、その裏山にある東勝寺跡へ向かいました。裏山の方へ向かっていきますと、東勝寺橋という橋があります。橋自体は新しいもので、大正13年建造のアーチ橋で、関東大震災復興期の典型的な構造とのことですが・・・アーチ橋は撤去されている例が多いらしく、
宝戒寺・・・鎌倉市小町にある天台宗の寺院で、山号は金龍山。1333年の北条氏滅亡後その霊を弔うため、後醍醐天皇の命をうけた足利尊氏によって、北条氏歴代執権屋敷跡であるこの地に建立された。宝戒寺公式サイト宝戒寺の公式サイト。縁起、年中行事、境内、季節の花、アクセス情報などをご覧頂けます。hokaiji.comさて、11月末の平日に有給休暇を取って、鎌倉に行ってきました。小町通りを経由して鏑木清方記念美術館に行ったのですが、あいにくの休館・・・いろいろ考えて、小
鎌倉覚園寺にお参りしたあと、とある場所を探して、住宅街をうろうろしていました。初めて行く場所です。本当にこの道でいいのかな~。グ~グルマップ先生に聞いていたにもかかわらず、道を間違えて引き返したり。目指しているのは、「北条高時腹切りやぐら」というところ。以前ネットで「鎌倉一のミステリースポット」として紹介されているのを見ました。名前を聞いたことはあるけれど、どこにあるのか知らず、一度訪ねようと思った次第です。ただ、上の看板を見たところ、落石
太平記がお薦めです。片岡鶴太郎の北条高時が良いです。兎に角、主演している人がみんな魅力的です。
今週も水曜日はお出掛けしました。行き先は北鎌倉です、円覚寺です、北条時宗です。北条時宗、最近流行っていますよね。NHKドラマでも放送しているようです。僕がよく見ているYouTubeの広告にも頻回に出てきます。それは「2度の元寇を撃退出来たのは神風が吹いたのではなく、鎌倉武士・鎌倉幕府が強かったのだ」という趣旨です。元寇の真実が解明されるか、という期待も抱いて「いざ鎌倉へ」。北鎌倉まではJR横須賀線で東京駅から1時間弱、直通です。北鎌倉駅東口を下車して直ぐが円覚寺です。歩ける範囲
インドア派らしく吉川弘文館の歴史文化ライブラリーから543を。「鎌倉末期十年の政治と合戦を詳述し、幕府滅亡の理由を問う」という主題です。鎌倉末期には御家人が困窮し、悪党化したり得宗被官になる者も少なくありませんでした。西国では寺社勢力との対決から、騎馬武者の合戦が廃れていきました。悪党を鎮圧する武士には恩賞が出ないので、本気で対処しようとする御家人はいませんでした。だからといって、最後の得宗・北条高時が暗愚な暴君というのは『太平記』史観です。高時が