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世の中は動き始めましたみなさん、おはようございます昨日の啓蟄はいかがでしたか日本保守党飯山陽(あかり)さん東京15区から出馬です頑張って欲しいですいよいよ本物の動きの始まりですアリガトウ「3月6日」の國史です「永仁の徳政令」永仁5年(1297年)鎌倉幕府、9代執権の北条貞時は御家人の土倉(高利貸し)からの借金を帳消しにし担保にしていた土地を御家人に返す徳政令を出しました徳政令とは庶民の暮らしを取り除く立派な政治という意味です
昨日の夕方に飛び込んできた、大谷翔平の電撃結婚のニュース。みんな関心があるのか、職場がザワザワしてましたね。ホント、おめでたい事です。さて、鎌倉散策の続きです。鎌倉宮から更に奥へと歩いて行くと、谷戸の中に建つ寺院、覚園寺に着きます。鎌倉幕府2代執権の北条義時が建立した、大倉薬師堂が覚園寺の起源だそうです。残念ながら焼失してしまい、現在の薬師堂は足利尊氏が再建しました。9代執権、北条貞時が覚園寺として整備し、現在に至っています。覚園寺の境内
主人のBIRTHDAY記念鎌倉旅行の続きです円覚寺→明月院の次に縁切寺で有名な東慶寺へ〜本当は1番最初に東慶寺へ訪れたのですが、開門前で30分待つ時間が勿体なくて円覚寺へ行っちゃいました😅改めて東慶寺へ🏃🏃🏃東慶寺の縁起案内板寺号標石段と山門10月初旬はまだ青紅葉山門境内は2022年6月より写メ🈲です臨済宗円覚寺派寺院の東慶寺は、松岡山東慶総持禅寺と号します創建は弘安8年(1285年)開基は北条貞時開山は覚山尼覚山尼は、8代執権北条時宗の正室明治までは本山を持たな
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…円覚寺→建長寺→円応寺→宝戒寺→西御門来迎寺→北条義時の墓の次は、奥鎌倉の覚園寺へ〜覚園寺の縁起案内板覚園寺の山門石塔スマホでは上手く撮れないけど、紅葉🍁してる木々🌲は綺麗でした覚園寺境内案内図愛染堂が見えて来ました愛染堂ここから先は拝観料が掛かり、写メ厳禁です🈲覚園寺の薬師堂はタウンニュースより画像お借りしました🙏簡単な縁起を…真言宗泉涌寺派寺院の覚園寺は、鷲峰山真言院覚園寺と号します健保6年(1218年)鎌倉幕府2代執権北条義時が建立
8月10日観音様の功徳日に四万六千日参り長谷寺→安養院の次は、この日の1番の目的の覚園寺へ〜安養院から徒歩で鎌倉駅に戻り、バス🚌で鎌倉宮終点、そこから徒歩です鎌倉宮バス停🚏そばには、弘法大師八十八ヶ所道の石碑覚園寺の山門が見えて来ました黒地蔵盆の立て看板もありました覚園寺の縁起案内板山門石塔蓮の花ぁ〜愛染堂元は近くにあった大楽寺の本堂鉄製の不動明王が祀られています鎌倉時代初期には、鉄製の仏像が作られたそうです十二神将の戌神の伐折羅大将がお迎えしてくれますここから先
(問)鎌倉七福神のうち、宝戒寺に祀られるものは何か。1弁財天2福禄寿3毘沙門天4寿老人正解は3。鎌倉七福神は、布袋尊・・・浄智寺弁財天・・・鶴岡八幡宮毘沙門天・・・宝戒寺寿老人・・・妙隆寺夷神・・・本覚寺大黒天・・・長谷寺福禄寿・・・御霊神社鎌倉検定では江の島弁財天が除かれてしまいますが・・・江の島は鎌倉源氏三代・鎌倉北条九代が信仰した霊地。源頼朝は江の島に弁財天を勧請しています。江島神社の辺津宮は源実朝の創建。北条時政は龍神が残していった三つの鱗を
円覚寺の洪鐘祭は、61年目ごと(60年に一度)に行われる弁財天の祭礼。2020年(令和2年)の開催予定でしたが延期され、2023年(令和5年)10月29日(日)の開催が決定されました。円覚寺の国宝「洪鐘」は、九代執権北条貞時が七日七夜江の島弁財天に参籠して鋳造が成功したというもの。洪鐘鋳造の成功に感謝した貞時は、円覚寺に弁天堂を建立し、弘法大師が刻んだと伝えられる弁財天を円覚寺の鎮守として祀ったのだと伝えられています。そのため、江の島の弁財天と円覚寺の弁財天は夫婦弁天と呼ばれ、61年目ご
⑰亡父の面影「最後の将軍」の挽歌と「烈公」大阪経済大学名誉教授・家近良樹(幕末維新史)産経ニュースすなわち、南の琉球(沖縄)には欧米各国が日本や清(中国)との交易活動をにらんでさかんに来訪していました。一方、北方ではロシアがさかんに南下の動きを見せ...大森一樹くんのこと、村上春樹さん寄稿…同じ空気の中で過ごした十代と「駆け出し」だった頃の...読売新聞オンライン読売新聞社はスポーツを通じて日本を元気にする「元気、ニッポン!」プロジェクトを始めます。中学受験サポート.読
昨日、インターネットTV“Will-BeStation”から放送させて頂いた『歴史のお話』“霜月騒動”御覧頂き、ありがとうございました。九州での蒙古軍との戦い“元寇”の後、北条得宗家の家人“御内人(みうちびと)”と、最後の有力御家人・安達氏との戦い。まだまだ争いの絶えない鎌倉幕府。見逃したというアナタ!こちらから録画を御覧下さい!↓↓↓https://youtu.be/sbwKXUCGMgc歴史のお話~第132回「霜月騒動」~主演文化歴史学者KickMi
平家物語は冒頭に、諸行無常という。そして、盛者必衰とつづく。残念ながら、北条時頼が体現した撫民の世も、その例外ではない。北条宣時(1238〜1323)が若き日を思い出して、ある日の深夜、時頼様に呼ばれて、急いで行ってみると『お前と飲みたくなっただけだ』と言われ、台所で酒の肴を探してきてくれと頼まれた。ようやく皿に味噌がこびりついているのを見つけて報告すると『おお、それはいい』と喜び、それを肴に遅くまで飲んだものよ。と言ったと、『徒然草』にある。そして、最後に宣時は、あのころの世は
今日は更新が遅れました。残業をするとこういうことになるのだなと。できる限り、毎日更新はしていきたいです。北条貞時生年月日1272年1月14日(木)日干支壬寅同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・徳川家康1543年1月31日・ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1770年12月16日・福沢諭吉1835年1月10日
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...5月29日(日)#友引(壬午)旧暦4/29月齢28.3年始から149日目(閏年では150日目)にあたり、年末まではあと216日です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..23週目に突入🚀22/52回目のサンデー残りが丁度3
覚園寺・・・鎌倉市二階堂にある真言宗泉涌寺派のお寺。山号を鷲峰山と称する。建保6年(1218年)、北条義時が霊夢をみたことによって、大倉に建てた薬師堂を建が始まりと伝えられる(大倉薬師堂)。以降、北条家の歴代執権によって尊崇された。永仁4年(1296年)に、北条貞時が元寇による外敵退散を祈念し、薬師堂を正式の寺に改め、覚園寺と称するようになった。GW前の4月20日(水)にお休みをいただき、鎌倉に行った話の続きです。この日の最後に訪れたのが覚園寺というお寺です。
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、鎌倉幕府の第9代執権、北条貞時の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は、3月28日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
20100618この日が観音様の日だとは毎日何かの日だぁ国宝洪鐘(おおがね)こちらにも鳥居がある。神域は厳かな雰囲気が漂っている。慰霊碑のようだが、途中で折れてしまっている。どうしたのだろうか。弁天堂国宝洪鐘(おおがね)北条貞時が国家安泰を祈って、鋳造、寄進した。鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。と書かれている。鎌倉時代のものがこんなに綺麗に今まで残っているとは、円覚寺の
次の寺院へと向かう前に、見所の多い円覚寺をもう少しだけ散策●黄梅院(おうばいいん)黄梅院とは、円覚寺境内の塔頭(たっちゅう)で、最奥に位置し、山を背負った緑深き寺院。足利高氏の帰依を受け、五山文学に功績を残したことで有名な夢窓疎石の塔頭と伝わる。塔頭とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後、その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院。奥行きのある円覚寺も、ここが終着点。最後は、円覚寺に二つある“国宝”一つは「舎利殿」だが、決められた期間での拝観となるため
兵庫城跡は見るべきものは少なく、前編にてもはや終わってしまった感がある。。だが、ここで終えてなるものか兵庫津にはまだまだ見所あるで~~↓大輪田橋兵庫城跡碑より南進して徒歩2分。荒川運河に架かる橋、大輪田(おおわだ)橋。1924(大正13)年竣工。、美しい3連アーチ型。今なお現役の頑丈さ。戦時中の神戸大空襲、阪神淡路大震災。すでに100年近く神戸の歴史を見てきた橋だ。*****大輪田橋を渡り、中之島方面へ。渡り終えて1分にある阿弥陀寺。↓魚の御堂礎石こ
大方丈を出てから、私と夫は坂を登って奥へと向かいました。途中、龍のように曲がりくねっていて芯も抜けて樹皮だけのようになっているのに元気に枝葉を茂らせている奇跡のような梅の木があり、「臥龍梅だ❗️」と写真を撮りました。私達が臥龍梅と勝手に名づけた梅の奥に、妙香池がありました。上の写真真ん中の縞模様の石が虎頭岩です。日当たりがよくて紅葉が綺麗でした…。🍁北条時宗公、貞時公、高時公の御廟です。三人の石櫃がお堂の下にあるそうです。御廟の前にも、立派な臥龍
円覚寺様は弘安5(1282)年に執権北条時宗公が元寇で亡くなった方の冥福を敵味方なく弔う為に開創しました。臨済宗円覚寺派の大本山です。開山なさったのは無学祖元(仏光国師)様です。禅宗に深く帰依していた時宗公に、宋から招聘されました。初めは建長寺住持でした。先程の参道を踏切を渡りつつ通ると、総門があります。鎌倉は暖かいのか、紅葉はまだ始まった所でした。総門の扁額です。瑞鹿山円覚寺が正式名称です。無学祖元国師様が開創された時に、法話を聞きに白鹿の一群
1292年にフビライハーンは日本侵攻計画を発案しますが、1294年にフビライハーンの死去により、計画は中止します。もし、この計画が実行されていたら、日本は征服されていたかもしれません。それほど、日本はグダグダであり、混乱しています。これも奇跡のひとつであると考えられます。1281年に弘安の役でモンゴル軍の襲来を阻止した日本ですが、1284年に北条時宗は死去してしまいます。元寇を防ぐためだけに現れた英雄という後年では評価が高いのですが、残された者にとっては溜まったものではありません。何し
ハッピーライフを願うあなたへ知らない道をテクテク…幸せ見つけ隊o(・x・)/山下響子です。ご訪問ありがとうございます。昨日は一粒万倍日というめちゃくちゃツイテル日だったはずが、、、道に迷い、えらいとこまで来てしまいました。なんだ、これはーーー?調べてみたら清盛塚。鎌倉幕府の執権北条貞時が建てた平清盛の十三重の供養塔らしい!兵庫県の指定文化財でわざわざ訪ねてくる人もいるわけだから、、、道に迷って辿り着いたこともラッキーだと思うことにしようそれにしても
こんにちは!ブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村今回は、円覚寺へ行ってきました。円覚寺↓は1282年、元寇で亡くなった兵士を弔うために鎌倉幕府8代執権、北条時宗が宋の高僧、無学祖元を招いて開いたお寺です。↑は、開基廟と言ってここが北条時宗公のお墓です。この建物は江戸時代に造られたものだそうです。↑は、仏涅槃図(複製)です。釈迦の臨終の様子を描いたものだそうですが、そう言
-物語はいろんな場所で悲喜こもごもな展開をしていきますが、どこか落語家さんが話したら面白いと思う場面が多くありますが、落語に影響を受けたのでしょうか?向田確かに「道灌」って落語の演目があるのと、「山吹の歌」の伝説も書きたかったので、必然的に意識はしました。ただ私自身寄席で落語を観るのは好きだけど、演目には詳しくないんです。-そういえば前作も落語の「死神」が出ましたよね?向田前作の北条貞時を連れて鎌倉を歩く女性の設定は、書き終えるまで悩んでいたんです。半ば無理やり死神にしたばっかりに、ま
「得宗専制」という政治体制を誕生させたのは、北条貞時の父・北条時宗でした。当時、モンゴルが日本に来襲するという未曽有の国難(元寇)をひかえ、権力を集中し、即断即決で事を処理しなければなりませんでした。そこで時宗は、少人数の寄合を開き、そこで重要案件を処理しました。鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』には「深秘(しんぴ)の御沙汰」などと記載されています。つまり、密室政治で専制政治を断行したのです。その寄合はわずか五人のメンバーでした。主要メンバーは安達泰盛と平頼綱。
北鎌倉「円覚寺」を散策part1の続編です。前回までは妙香池のところまで紹介しました。今回はその先を紹介します。いよいよ国宝を・・・この門の向こうに国宝の建物があります。舎利殿舎利とは言うまでもなく釈迦の骨の事で、この円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」といい、釈迦の歯を祀っているそうなのです将軍源実朝公が佛舎利の夢を見られ、宗の能仁寺に使者を遣わして請来したそうなのです。禅宗様式の建物として国宝に指定されているのです。この舎利殿は鎌倉にあったもと太平寺
久しぶりに「講」が開催された。友人の麦村寸図氏(鎮西教育大学問題児担当)が、研究会という名目で京都まで飲みにやってきたので、ついでに三宮へお出でを願い、暇中先生(根菜大学幼児及び老人介護担当)を交えて一献傾けたのである。とはいえ、すぐにがぶ飲みが始まったわけではない。今回は、周到に何となく計画して、午前中平清盛ゆかりの遺跡を(適当に)巡ってきたのである(ちゃんとお勉強もしているのだ)。目玉は、教科書でしか知らなかった、大輪田の泊である。平家の財政を支えた日宋貿易の拠点だ。ぶらぶら
歴史寺伝では、舒明天皇の時代(629年-641年)に允恭天皇の六代目の子孫で、祖父の代に当地に流罪となって土着した白助(白介)が、信濃善光寺の阿弥陀如来のお告げにより、大和初瀬山より十一面観音菩薩を勧請し、承和5年(883年)建立したのが起源とする。大和初瀬の長谷寺(奈良県桜井市)は、朱鳥元年(686年)、川原寺の道明が元長谷寺を創建したのが始まりで、神亀4年(727年)に徳道が十一面観音像を造立し、現在の長谷寺を開山したと伝えられている。大和の長谷寺は、奈良時代から存在した寺院であることは
ありがとうございます五山第一位の建長寺、第二位の円覚寺、第三位の寿福寺について見てきましたので、次に第四位の浄智寺について見ていきます。山号は金峰山、現在は臨済宗円覚寺派に属しています。弘安四年(1281年)に「死去した北条宗政の菩提を弔うために妻と子の師時が創建しました。寺伝によれば開山は南洲宏海・大休正念・兀庵普寧の三人とされていますが、実際の開山は南洲宏海で師の二人に開山の名誉を譲ったためといわれています。元享三年(1323年)の北条貞時の十三回忌には浄智
今回、正統派のオタ活。聖地巡礼なるものをしてきました。これは初めての経験。とはいっても、そもそも鎌倉も京都も大好きなので(鎌倉は特に)既に何度も行ってるし、なんら違和感もなく、聖地巡礼っぽさもないな、うん。ただね。今回初めてやったのは、推しをいちいち写真に撮ることです。江ノ電の車窓から海を眺めるねんつるちゃん稲村ヶ崎を案内してくれるねんつるちゃん傘と、ねんどろいどと、カメラ&ケータイとで忙しかったこの子は鶴丸国永と言います。多分鎌倉時代の初期から中期の京から鎌倉にきました。今