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しばらく前にEテレ『3か月でマスターする江戸時代』にも触れて「しかして忠臣蔵の実態は?」てなことを書いたりしましたですが、歴史の認識を昔々に学校で習ったままの状態にしておきますと、それこそ「時代遅れ」の情報であったか…ということになりかねない(ま、歴史のことに限った話ではないでしょうけれど)。このほど手に取った中公新書『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』でも、「そうなんだあね」と思うことしきりでありましたよ。そもそも「いいくにつくろう鎌倉幕府」と暗記して、鎌倉幕府の成立は1192年と覚え
今から書くのは2月21〜23日に夫と伊豆に旅行した時の記録の続きです🎵2月22日にKKR伊豆長岡千歳荘さんをチェックアウトした私達は、最初に近くの願成就院様に向かいました『KKR伊豆長岡千歳荘さんに宿泊しました❗️❤(2025年)』今から書くのは2月21日の記録です🎵銀婚を記念して伊豆に旅行して以来、春の結婚記念日の頃に伊豆に旅行するのが私達夫婦のならいになっています💓なかでもKKR伊豆…ameblo.jp夫と私は伊豆が大好きで、ここ10年近く春になると伊豆に旅行して
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」9/悲劇の将軍たち編~「言霊将軍」実朝を暗殺した黒幕【再読】幕府創設の大功労者であり、幕府の長老ともいうべき北条時政は、実朝の時代には一体何をしていたのだろうか?実は、追放され幽閉されていたのである。しかも、幽閉したのは実の子の義時と政子である。頼朝は落馬による死と伝えられているが、暗殺の可能性がある。そして、時政も含め有力御家人の間に頼朝排除の動きがあったのである。二代目頼家については先述したように、時政は比企氏を葬り、それに不満を唱えた頼家をも殺し
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」8/悲劇の将軍たち編~「言霊将軍」実朝を暗殺した黒幕【再読】頼朝は坂東武士の代表者として、武士の権利を中央に認めさせることに成功した。問題はその後である。頼朝は「功成り名遂げる」と次には大姫入内を策した。これは藤原氏がそして平氏がたどった道である。しかし、頼朝を担ぎ上げた坂東武士たちは、それをどう見たか。言わば「裏切り者」である。1199年正月、頼朝は落馬という武士にあるまじき事故がもとで急死した。この時点で幕府と朝廷の関係はどうだったか。少し遡
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」7/源義経と奥州藤原氏編~”戦術の天才”義経が陥った「落とし穴」【再読】義経は、日本の歴史を語る上で最も重要な人物の一人である。なぜそう言えるかといえば、それは「義経伝説」があるからだ。義経伝説とは、一言で言えば「義経は衣川で死なずに生き延びた」ということなのだが、一つは「義経北行伝説」、そしてもう一つは「義経ジンギスカン説」である。これらは多くの作家が題材に採り上げている。一方、これに対して学界はまるで無視している。しかし問題は、なぜそんな伝説が生ま
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」3/源頼朝と北条一族編~「源源合戦」「幕府成立」を予見した北条時政の謀略【再読】さらに、清盛はもう一つミスを犯した。それは、その頃から反平家勢力の拠点となっていた南都(奈良)の仏教勢力を討たせたことだ。南都焼討である。この焼討のために、創建以来数百年威容を誇り続けた奈良東大寺の大仏が焼亡してしまった。この暴挙はそのまま平家に対する反感となった。明けて1181年、平家に好意的な安徳天皇の父、高倉天皇が死ぬ。そして2月には、清盛が「熱病」のため急死してしま
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」2/源頼朝と北条一族編~「源源合戦」「幕府成立」を予見した北条時政の謀略【再読】ここに源三位頼政という男が登場する。頼政は清和源氏の出身で、初めて三位の高位に登った。もともと摂津に君臨した源氏の系統で、保元・平治の乱でも平家側に味方したため、都でも源氏の一族としては唯一羽振りがよかった。この頼政が、今こそ平家を討つべきだ、と以仁王に説いたのである。頼政は蜂起するものの失敗に終わる。清盛はこの反乱に大きな衝撃を受けた。平家との協調路線を常に歩んできた頼政
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」1/源頼朝と北条一族編~「源源合戦」「幕府成立」を予見した北条時政の謀略【再読】源頼朝は、14歳から34歳までの20年間を伊豆で流罪人として過ごした。人生の実りの部分を終身刑の囚人として過ごしたのである。しかも、その間父を死に追いやった平家は着々と勢力を伸ばし、その総帥清盛は天皇の外祖父となり、平家一門の知行国(直轄する国)は日本全国の半分を占めるほどである。そんな状態から、頼朝は兵を挙げ平家を倒し天下を取ったのである。一体、どうしてこのような奇蹟が起
2月6日が命日・忌日の有名人・著名人1181年(治承5年1月14日)19歳崩御(病)高倉天皇陛下第80代天皇1215年(建保3年1月6日)78歳没(腫物)北条時政さん鎌倉幕府初代執権1593年(文禄2年1月5日)崩御(?)正親町天皇陛下第106代天皇後奈良天皇の第二皇子1685年54没(脳卒中)チャールズ2世さんイングランド王1804年70歳没(?)ジョセフ・プリーストリーさん化学者酸素の発見者炭酸水の発明1894年64歳没(?)テオドール・ビル
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。嘉応2年(1170年)、工藤茂光(くどうしげみつ)は京で平清盛(たいらのきよもり)に会いました。平清盛清盛さんは、この頃は出家していたんだよね。さらに太政大臣になって、すぐ辞任したけど権力を持っていたよね。清盛「為朝めが暴れておると?」茂光「はい、伊豆諸島を支配して年貢を納めてせぬ。困っておりまする。」清盛「あやつは保元の乱の後に腕の肝を外され弓が引けぬはず…まさか治ったのか?」茂光
己巳《つちのとみ》己巳(つちのとみ)は金運財運が上がる幸運日と云われています。鎌倉時代の武将北条時政が江ノ島の弁財天に一族の繁栄を祈願すると大蛇が現れ三枚の鱗を残していきました。それを弁財天のお使いと喜び北条家の旗印を「三つ鱗」と定めました。十四世紀の軍記物語『太平記』の説話です。母の実家である京都藤匠にて染めた摺り友禅の絹布です。#己巳#巳年#北条時政#弁財天#三つ鱗#藤匠#摺り友禅#ふくひろ
実は、ドラマは観ていません。源氏の話になると、どうも僕は源(きそ)義仲が大好きで、彼が反映されないドラマは見る気にもなれませんでした。ただ、政治家としての頼朝、そして鎌倉幕府の歴史的な意味は重要だとは認識しています。個人的に、非業の死を迎えた義仲に肩入れしすぎています。オマケに、このドラマでも早々に死んでしまいます。木曽福島あたりから悲鳴が聞こえてきそうでした💦😭それでも、日本史のダイナミックなうねりの中に鎌倉殿の13人は、とても意味がありました。上は、鎌倉殿の13人の相関図、右はド
長戸今回は立山初冠雪の11月8日に書き始めた、と。千佳一気に寒くなりましたもんね。豚白初冠雪なのに一気に雪が下りてきたよね。それでは始めよう。長戸【得宗】北条義時の服喪明けをどうするかが話題になっていたな。豚白1225年5月11日、【本家後継】北条朝時が【得宗】義時の服喪明けの祓いを行った。【左遷】安倍晴幸が行っている。千佳あれっ、【式目制定】北条泰時さんが色々考えていたのになぜ【本家後継】朝時さんが?豚白実は【本家後継】朝時は【式目制定】泰時とは別に行ったんだ。翌12
今日は2024年10月17日(木)です。僕は旅番組歴史番組が好きです。昨夜は「美しい日本に出会う旅」を観ました。今回は伊豆の紹介でした。その中で修善寺が出てきました。僕は修善寺に行った事が有ります。懐かしいのでその時のブログを振り返って見ました。過去記事です。↓=============2014年3月14日(金)の出来事です。「修善寺物語」で有名な修善寺に行きました。むかし、新宿の会社に居た時に会社の慰安旅行で、
さて、史料の不整合と記した中野五郎らの遠流であるが、吾妻鏡の原文を読むと「入道左金吾近習之輩中野五郎以下可被處遠流之由」とある。つまり、出家した源頼家の側近であった中野五郎らを遠流にするというのであるが、中野五郎を文字通りに捉えると、苗字が中野である者の五男ということとなる。建仁三(一二〇三)年一一月時点で考えると、四年前の建久一〇(一一九九)年四月二〇日に源頼家から特権が発令された源頼朝の側近五名の一人である中野能成が相当する。このときに遠流となったのは中野五郎ただ一人というわけではないから
その一点とは、安達景盛を源頼家のもとに引き渡せという要求である。それも単に引き渡すのではなく処分させて欲しいという書状なのであるから、これで大人しく伊豆国に安達景盛を向かわせようものならその方がおかしい。何しろ、吾妻鏡の記載に従えば源頼家は安達景盛の殺害を意図したこともあったのだから。このときの吾妻鏡の記載が全て嘘であるとしても、それはそれで問題である。何しろ安達景盛は母系で比企一族の血を引いており、比企一族滅亡後の武蔵国のパワーバランスを考えたときの重要人物の一人となる。それこそ、こ
建仁三(一二〇三)年一〇月二七日の吾妻鏡の記事に奇妙な記録がある。北条時政が和田義盛を通して、武蔵国の武士達は北条時政に背くことのないようにと命じたというのである。先に書いた通り、北条時政は源実朝の祖父であるという点では他の御家人達と異なるが、それ以外は突出している部分など存在しない。吾妻鏡の当該箇所の記録も北条時政を「遠州」、すなわち遠江守として扱っており、朝廷から任命された国司であることは認めていても、それ以上の地位や立場を書き記してはいない。不遜とするしかない記事であるが、それ以
その次に、鎧、太刀、馬を献上した。この役割は佐々木広綱と千葉常秀の二名をはじめとする面々が担当した。これで源実朝の元服の儀が終わり、翌一〇月九日、源実朝の政務が正式に始まった。源実朝が政所に出向き、北条時政と中原広元の両名の指導のもとで政務にあたるのだが、実務は北条時政と中原広元の両名が主導して着々と進めており、この日の源実朝は基本的に御簾の中にいて何もしないでいる。なお、従二位源頼家がいなくなっても政所の存続が許されたのかという疑念に対する回答は後述する。その後、北条時政が主導して、
吾妻鏡は北条家にとって都合よく記された歴史書であるが、それでも北条家の暗躍と悪辣さを感じずにはいられない。ましてや北条家への配慮など全く必要ない愚管抄では北条家の行動を遠慮なく書き記している。ただし、愚管抄は日本国の通史たることを前提として著された歴史書であるため事件に対する分量はどうしても少なくなる。それに、いかに慈円が同時代の人物であるといっても、この頃の慈円は前年まで天台座主として比叡山にいた人物であり、その後の記録を追いかけても京都とその周辺にしか滞在していないことが見てとれる。つまり
京都に第一報が届いたのは九月七日のことである。九月一日に源頼家が病死し、源頼家の後継をめぐって鎌倉幕府の御家人達の間で争いが起こり、源頼家の長男が北条時政に殺害されたほか、源頼家に近い御家人達も殺害されたというのである。しかも、この第一報を届けたのは鎌倉幕府の派遣した正式な使者なのだ。この使者は鎌倉で起こった事件の全容として前掲の内容を述べた上で、源頼家の弟を次の征夷大将軍に任命するよう朝廷に要請したのである。これらの京都の記録は、藤原定家の日記だけでなく、近衛家実も、白川伯王や業資王
建仁三(一二〇三)年九月一〇日、源頼家の弟の千幡を次の将軍へ推薦することが決まった。ただし、かなり強引な決定であったようで、反発する者が多いであろうという懸念から北条時政の屋敷に千幡を移し、江間泰時と三浦義村の両名が警護に当たった。同時に、鎌倉幕府の全ての御家人に対し領地は以前のとおり認めることの文書を発給した。ただし、文書の肩書きは遠江守としての北条時政であり、北条時政が将軍の命により発給するという体裁になっている。九月一二日、平知康をはじめとする鎌倉在中の文人官僚の多くが京都へ戻る
このような混迷の渦中にあって、誰も想像しなかったことが起こった。建仁三(一二〇三)年九月五日、源頼家の病状が回復したのである。そこで、この三日間で何が起こったのかを聞いた。息子の一幡が亡くなった。比企能員も亡くなった。比企一族の多くの者が命を落とし、源頼家に親しい人達も命を落としたか、流罪となったか、鎌倉幕府の役職を失った。これに源頼家は激怒し、和田義盛と仁田忠常の両名に文書で命令を出した。謀反人北条時政の抹殺である。実の祖父であろうと関係なかった。しかし、この命令
※BGMでも聴きながらお読み下さい。JohnLennon-BeautifulBoy今、唯一、水槽を観てる時だけは全てを忘れて心が穏やかになり時を忘れて見入ってしまいましたが、僕が入退院を凝り返しているので、家族にその間、面倒をみて貰わないといけなくなり、家内は三女の事で精一杯だし、二女も暇が無い。それで、唯一、僕の心を穏やかにするとは言っても家族には
源平の怨霊小余綾俊輔の最終講義[高田崇史]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}小余綾俊輔シリーズ最終章です。源平と言えば源氏と平氏。源頼朝と平清盛と思いますが、それぞれの立ち位置を紐解いていくと、源平という括りは必ずしも正しくない?清盛の御落胤説。源氏の嫡流と思われていた頼朝も、清和天皇から数えると傍流。北条氏が平氏であることは知っていましたが、傍流ではなく陰謀の中心人物として紹介されています。坂東彌十郎さんが演じた時パパが、実は一番の食
天野蓮景の言葉が過激であったのか、中原広元の承認無しで行動するのはやはり問題があると考えたか、いったん屋敷に戻った北条時政は中原広元を呼び寄せることとした。中原広元にしてみれば、これから何が起こるかわかっている以上、北条時政の元に行って生きて帰ることのできる保証は無いと考えたか、飯富宗長一人だけを引き連れて北条時政の屋敷に向かった。飯富宗長の役割は中原広元を守ることではない。いざというときは中原広元を殺すことである。荷担するにしろ、反対するにしろ、中原広元のみの安全は保証できなくなる。ならばそ
そして建仁三(一二〇三)年九月二日のできごと、すなわち比企能員の変につながる。この日、病床の源頼家のもとに若狭局がやってきた。若狭局は比企能員の娘であり、事実上の正妻の地位にある。ただし、吾妻鏡では足助重長と源為朝の娘との間に生まれた女性である辻殿を源頼家の正室とし、若狭局は源頼家の側室の一人として扱っている。その若狭局が病床の源頼家のもとにやってきて告げたのは、これから一幡と千幡の二人で日本国を令制国単位で二分しようという企みが存在しているという話であり、その話の中心を担っているのが
一方で、前述の通り、八月に開催する鎌倉幕府の八月の恒例行事は源頼家不在の状態で開催したのだが、源頼家不在の記録の初出は八月一五日に鶴岡八幡宮で開催した放生会である。例年は源頼家が参加していたが、この年は源頼家不在である。つまり、八月一〇日から八月一五日までの間に源頼家の容態が予断を許さないものになっていたことが確認できる。このあたりのことを調べると、八月一五日付の御教書(みぎょうしょ)が出てくる。御教書は三位以上の貴族に仕える者が主人の意思を奉じて発給する文書のことであり、文書を作成す
『江戸川柳辞典』(浜田義一郎編/東京堂出版)より選句思ふむねあって時政乳くらせ乳くる男女の密会父、北条時政は、娘、政子と源頼朝の関係を黙認した。Herfather,HojoTokimasa,tacitlyapprovedofhisdaughterMasako'srelationshipwithMinamotonoYoritomo.良い父親?それとも悪い父親?Goodfatherorbadfather?
9月5日その1出来事1158年(保元3年8月11日)-在位3年の後白河天皇が守仁(もりひと)親王に譲位し、上皇となって院政を開始。守仁親王は二条天皇。保元・平治の乱とそれに続く治承・寿永の乱1205年(元久2年閏7月20日)-鎌倉幕府初代執権・北条時政が、実子の北条政子・義時によって執権を廃され出家させられる。義時が第2代執権に就任。1595年(文禄4年8月2日)-京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。
QEDのシリーズも高田崇史さん作品も初読みですが、面白かったなあ〜!QEDとはquoderatdemonstrandum「証明終わり」だそうで。(知らんかったわい)シリーズ作品もいっぱいあるんだな。歴史ミステリと名付けられていますが、歴史は歴史なんだけど、ちょっとオカルト的というか、ファンタジー要素も入っているのかな?これを鵜呑みにしたらいけない類のものだと思いますが、「へーそういう伝説が・・・!」と、エンタメ的に大いに楽しめたって感じです。この本のテーマは、「源氏と平