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こんにちは。先日、神奈川県藤沢市に鎮座される江島神社へ行って来ました。この日は強風でメガネがすっ飛びそうに竜宮城のような片瀬江ノ島駅日曜でしたが早朝だったため人が少ないです日本三大弁財天瑞心門境内から見た江ノ島の朝日そして今回、神様にお呼ばれしたこちらの奥津宮。三姉妹の一番ご長女「たぎりひめのみこと」がいらっしゃいます。神々しいですね。神様にはご挨拶と感謝を申し上げます拝殿天井の八方睨みの亀たぎ
様々なサインをキャッチし、点と点と点が繋がり、八尾市の玉祖神社に呼ばれてることに気付きました。シンクロの流れを知りたい方は、こちらから読んでみてくださいね。↓玉祖神社に呼ばれてることに気付いた前日、ワタシは東大阪市にある石切劔箭神社に参拝しました。↓この時は、次のミッションが隠されてるなんて気付いていません。『3/13石切劔箭神社へ…③』上の記事の続きです。栗原神社に呼ばれる前、ソウルファミリーのSさんとやり取りしていたのですが、実はSさんの子宮にポリープが見つかり、入院すること
今日は、引き続き「氏姓で紐解く中世史」について書きます。名字・氏とは姓とは?この名字(みょうじ/Surname)ですが、現在では民法上では「氏」。通称では「姓」といいます。この氏姓は、古代日本に中国から輸入されました。当初は、氏は一族を、姓はその氏の位階・体裁・性格を示す称号を指していました。「氏(うじ)」というと、今でいう名字のようなもののように思えますが、本来の意味は氏族を表すもので、現代の家族・家名を表す「名字」よりはるかに広い意味で共通の祖先を持つ同族集団のこと
B118源頼朝公は暗殺された!?《シヴュラ雑談会007》102122101922源頼朝公の死について2022年10月19日談(21日公開)阿山>源頼朝公は北条時政に殺害されました?シヴュラ(巫女)>合ってるそうです。阿山>どのような殺害方法で殺されましたか?シヴュラ>何かいろいろ試されてやっと死んだみたいな感じですね。阿山>歴史的に馬から落ちたと言うことになっていますが?シヴュラ>何か毒を盛られている様に出てき
2月6日が命日・忌日の有名人・著名人1181年(治承5年1月14日)19歳崩御(病)高倉天皇陛下第80代天皇1215年(建保3年1月6日)78歳没(腫物)北条時政さん鎌倉幕府初代執権1593年(文禄2年1月5日)崩御(?)正親町天皇陛下第106代天皇後奈良天皇の第二皇子1685年54没(脳卒中)チャールズ2世さんイングランド王1804年70歳没(?)ジョセフ・プリーストリーさん化学者酸素の発見者炭酸水の発明1894年64歳没(?)テオドール・ビル
大河ドラマ館に行って知ったこの企画伊豆の国に関してほとんど調べずに来てしまったので、北条ゆかりの地を散策するのに参考になるかと、この謎解き企画に参加しました。無料だし!光照寺二代目将軍頼家の「病相の面」がこちらに残っているそうです。願成就院源頼朝の奥州攻めの際戦勝を祈願して北条時政が創建したお寺です。そして、北条時政のお墓もあります。もう、終わった企画なのでネタバレです、😅眞珠院鎌倉殿の13人ではうちの相方イチオシの新垣結衣が演じていた八重姫を偲んで建て
こんにちわ。私のこんな拙いブログをご覧いただき、ありがとうございます。日本史にハマっている私の旅記録シリーズです。今回は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観て行きたくなった伊豆の国市が舞台です。↓北条家ゆかりの願成就院創建は、鎌倉時代初頭の文治五年(1189)に遡ります。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権で北條政子の父、北條時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まります。幕府の事蹟を伝える歴史書「吾妻鏡」には
こんにちは😊エナジーフラワーヒーラー&アクセスバーズ&ボディファシリテーターのMORNINGDEW*ASAKOです。先月末、名古屋の義母の主治医の話を聞きに東名高速に乗ったところで、義母からのラインが。「追加の検査があるので病院の先生からの話は2、3日先になりました」マジかー。さて、2、3日あいてしまった、どうしよう。。。そうだ!運慶を見に行こう!!「鎌倉殿の13人」を見て以来、
…守護・地頭設置の許しを得た御家人は誰か?鎌倉の源頼朝の代官として京都に在中していた源義経は文治元年に平家を滅亡させたものの、その直後から頼朝との対立が顕在化し、義経は京都から脱出する事になる。それに代って上洛したのが頼朝の妻・政子の父に当る「北条時政」であった。鎌倉政権の「京都守護」となった時政は後白河法皇と交渉し、義経を追捕する為として全国に守護・地頭の設置を認めさせた。これを「文治の勅許」と云々、この京都守護の職務は、承久の乱後には
三島市に新名物が誕生しました。三島のおせん、初めて知りました。男はつらいよ・フーテンの寅さんセリフに登場。監督?脚本家?が知っていたから?三嶋大社と広小路駅の間にある本町交差点の近くにある、千歳屋、山田園、ミシマトイスで販売。三島のおせん北条時政に滅ぼされた伊東祐清の子の許嫁が、三島を舞台に仇討ちを図るも自害。美女の悲劇は、浄瑠璃・歌舞伎で上演。早速、買いました。三島コロッケ味がします。
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の頼朝死後の鎌倉幕府の権力確立の承久の乱についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想北条氏が源氏の直系血筋を断ち、御家人との争いにも勝ち朝廷にも勝って、鎌倉幕府の権力を確立する(『まんが日本史』より、タイトル画面)北条時政・北条政子・北条義時の親子で確立した幕府の権力1199(建久10)年、落馬が原因で亡くなった源頼朝、今回はその頼朝亡き後の鎌倉幕府が源氏からその配下の御家人の北条氏の執権体制で権力が
そして2日目も☀️快晴。お庭を散策の後朝食とデザートを頂きました。さてお料理、温泉、卓球と3拍子揃い、スタッフの方々も素敵で、楽しく過ごす事が出来ました。主人と皆さんに感謝です。続いて願成就院へ。こちらは北条時政公が、源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したものでその後は、鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として繁栄をきわめました。そして境内には、五百羅漢や足利茶々丸公方御墓が。また看板犬のロッキー君や美しい彼岸花の姿もあります。ところで、何時も趣味どきっ
伊豆の国にある願成就院です。天守君山願成就院という高野山真言宗の寺。開基は北条時政。時政は伊豆韮山に領地を持つ小豪族でしたが、長女の政子が源頼朝と結婚したことから挙兵に協力。鎌倉幕府初代将軍となった頼朝死後、2代将軍源頼家を追放して誅殺、12歳で3代将軍となった源実朝の業務を代行、初代執権となりました。時政は本貫地である伊豆韮山にこの寺を創建。北条氏の氏寺で、時政死後も2代執権北条義時、3代執権北条泰時が伽藍建設を続行。発掘調査により苑池が発見されており、もとは浄土式庭園を備えた大
今日は2023年9月23日(土)です。僕は旅番組が好きです。昨夜は録画をしてあった「バス対鉄道旅」を見ました。今回は清里から修善寺までの旅でした。途中石和温泉にも寄りました。僕は清里も石和温泉も修善寺も行った事が有ります。懐かしいのでその時のブログを振り返って見ました。過去記事です。↓=============2014年3月14日(金)の出来事です。「修善寺物語」で有名な修善寺に行きました。むかし、新宿の会社に居た
伊豆にある円成寺跡です。伊豆の豪族・北条氏の邸跡。伊豆守山麓にあり、付近には願成就院があるなど一帯は北条一族の本貫地。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡すると、生き残った北条一門の女性たちは伊豆韮山に戻ります。覚海円成(鎌倉幕府9代執権北条貞時側室/安達泰宗女)が伊豆の北条邸を円成寺という尼寺に改め、北条一門の女性たちとともに住みました。その後は伊豆守護となった関東管領・山内上杉氏の管轄となり上杉氏の娘が入寺。堀越公方の御所となった後、堀越公方を攻めた北条早雲の兵火に遭い、
皆さま、こんにちは♪先日9月18日に、近くにある、願成就院に行って来ました昨年?NHK、鎌倉殿の13人で有名になった、北条時政公が建立されたとする寺院です。願成就院は、静岡県伊豆の国市寺家にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。国宝の仏師、運慶の、阿弥陀如来像など、5躯を所有する。境内は、かつて壮大な伽藍を誇った、願成就院跡として国の史跡に指定されている。創建は、鎌倉時代初頭の文治五年(1189)に遡ります。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝
快晴である。カンカン照り。秋の寂しさなど微塵もない。ここ美ヶ原は素晴らしい陽気。どこかに出掛けるのに最高の天気だが、住人の私は朝からどこへも行く気がない。なにもする気もないので、結局[鎌倉殿の13人]11巻目を観ている。鎌倉時代は源が頼朝、頼家、実朝と鎌倉殿で、北条が執権だった。これが足利尊氏が出てくるまで続く。ところで、この三谷幸喜のドラマ、北条政子をずいぶん控えめに書いている。それに比べて北条時政の嫁、りくをかなり悪女に書いている。私たちの持っているイメージは、北条政子がこの悪女のイメー
P036取(とり)-行(おこな)はる。建久元年四月七日下河辺(しもかうべ/の)-荘司(しやうじ)-行平(ゆきひら)を以て若君の御弓の師と為さる。行平は是(これ)数代将軍の後胤として、弓矢の道故実の達人なりとて賞せられ、御厩の馬を引き給はる。同八年二月に頼朝卿と同じく上洛あり。六月に参内ましまして御剣(ぎよけん)を賜り、同十二月に従五位上に叙せられ、右近衛(うこんゑ/の)-少将に任ず。翌年正月に讃岐権介に任じ、同十一月正五位下に叙せられ給ふ。故右大将(うだいしやう)家正治元年正月十三日薨去あり。
P008二行に対座し、義盛中央に候(こう)す。凡(およそ)出仕の侍三百十一人御家人等(ら)皆思ひ思ひに家造(いへづくり)し館(たち)を構へ、命を守り、忠を励(はげま)す、有道順理の政(まつりごと)に四方悉く其の風に懐(なつ)きて、推(をし)て鎌倉殿と称し奉る。其の所は本より遠境辺鄙の事なれば、海郎(かいらう)野人の外には住人(すむひと)少かりしに、今この時に方(あた)つて大名小名多少の人集り、或は市を立て或は店(たな)を飾り、家居更に軒を轢(きし)り、売買諸職の輩町(まち)を立て、小路を通して
P004頼朝の軍敗績(はいせき)して、佐奈田与一、武藤三郎討死す。頼朝は椙山(すぎやま)に登り、伏木(ふしき)の中に隠れ給ふを、梶原平三是(これ)を知り/ながら助け奉る。軍(いくさ)散じて、北条時政、土肥実平、近藤、岡崎尋ね逢ひ奉り、土肥の真名鶴が崎より舟に乗り、頼朝既に安房国に渡り給へば、三浦介義澄以下迎へ奉り、小山、豊嶋、下河辺(しもかうべ)の輩御味方に参りぬ。甲斐の源氏武田太郎信義、一条次郎忠頼起(おこ)り-立(た)ちて、旗を揚げ/たり。千葉介常胤は三百余騎にて頼朝の御陣に参(まゐ)り-
P003父左馬頭義朝は右衛門(うゑもん/の)-督(かみ)藤原(ふじはら/の)-信頼に頼まれ、謀叛に与(くみ)して、清盛の為に没落して、東国に赴き、長田荘司に討たれ給ひぬ.頼朝は十四歳にして、弥平兵衛宗清に生捕(いけど)ら/れ、殺さるべきに定まりしを、池/の-禅尼にたすけられ、伊豆国蛭が小嶋に流され、伊藤入道祐親が館におはします。祐親是(これ)を殺しまゐらせんと計りければ、伊藤を忍(しの)び-出(い)で/て、北条時政を頼みて入り給ふ。時政、即ち我が娘政子を合せて婿(むこ)とす。斯(かく)て二十
P002/て、平氏相国清盛に高位を授け、一類に給はる分国三十七ヶ国、日本の半分に越えたり。是(これ)より武威盛(さかり)になり、主上上皇近臣の御悩(おんなやみ)と成りにけり。是(これ)にも御後悔の叡慮なく、頼朝を六十余州の惣追捕使(そうついふし)に補(ふ)せられ、暫く/は公家武家牛角(ごかく)なりけるを、王法次第に衰微になり、武家日を追ふ/て昌栄(しやうえい)せり。京都には両六波羅に奉行を置き、築紫には探題を居(す)ゑ、諸国には守護を定め、荘園に地頭を置きて、公家の政務を用ひず。頼朝の権威雲に
武衛の皆さん、大河ドラマ鎌倉殿の13人伊豆の国大河ドラマ館跡の企画展の詳細が分かりました。いずのくに北条の里開館期間令和5年7月22日〜令和5年12月17日まで。開館時間9時30分〜15時30分開館日土・日・祝入場料無料実際に大河ドラマで使用した小道具、北条氏や近隣の豪族をドラマに沿って展示。いずのくに北条の郷ホームページ↓いずのくに北条の郷2022年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送を契機として伊豆の国市の歴史に大きな注目が集まりました。北条義時、政
どうもブルポンです。今週末仕事で休みがないため本日振替休日です。朝から図書館の自習室で勉強して、スーパーに買い物に行き、そこそこ掃除をして終わる1日でした朝のジョギングで北条時政のお墓がある願成就院まで行ってきました。朝早かったので中に入れませんでしたが、なぜかブロックが塀の前に積まれていたので塀の外から見ることができました。今度はきちんと中に入ってみたいです。やはり1人だと効率のいい生活はできますが、家族の賑やかさがないと寂しいものですねではまた
鎌倉殿ロスになっている武衛の皆さんに朗報です。鎌倉幕府執権北条氏発祥の地でもある伊豆の国市で、「北条三代の栄華と夢の跡」と題した講演会が7月22日にあります。一部は、鎌倉幕府初代執権北条時政、二代執権北条義時、三代執権北条泰時について。二部は、鎌倉幕府滅亡後に鎌倉から伊豆國韮山に戻り一族を弔う女性について。場所は、伊豆の国大河ドラマ館があった韮山時代劇場です。↑詳細は画像を拡大して下さい。申し込みは、先着順300名。既に応募が始まっています。『北条氏邸跡・円成寺跡』香山寺・山
アマゾンから昨日届いていたのがこちら。『源頼朝』鎌倉政権を樹立した人物ですが、ぢつはあまりその人となりを知られていないのではないかという気がする。なにせ源平合戦の主人公は弟の源義経に奪われているし、北条時政などの陰になった感じで政治面もあまり語られない。前にはこちらの本も買っていました。石橋山以外はほとんど合戦に参加していない人なので、これら二冊はやや地味な内容といえます。今回の本で面白いなと思ったのは「まぬけなスパイの情報」という章。「常陸(茨城県)か
鎌倉殿の13人で坂東彌十郎さんが演じた北条時政が言いそうな言葉なので、横に似顔絵はんこを差し込みました。面倒くさがらず、やる。それが仏教。
皆さんは〝日本の三大仇討〟ってご存じですか?『赤穂浪士の討ち入り』はすぐお分かりだと思います。もう一つは荒木又右衛門の『伊賀越えの仇討ち』・・・そして3つ目が、今からちょうど830年前の今日果たされた、曽我兄弟の仇討ちなのだそうな。以前から所領問題で叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた工藤祐経は安政2(1176)年、鷹狩りに出た祐親を襲い嫡男・河津祐泰を殺害。祐泰の2人の息子・一萬丸と箱王丸は、母の再婚先の姓・・・兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時政と名
芦ノ湖から歩いて歩いて、箱根神社にやってまいりました。その途中に通る「一の鳥居」。駅伝で往路のゴール近く、ということでおなじみです。そして芦ノ湖の北岸をぐるっと周る形で箱根神社。人気スポットなので大勢の観光客の方たちが集まっていました。のぼっていきます。と、左手に小さな神社を発見。「曽我神社」。仇討ちで有名な曽我兄弟の弟・五郎時致(ときむね)の霊を祭ったもの。時致は箱根権現で稚児だったのだそうです。『曽我兄弟物語』を読んだ
今日も朝から晴れの1日となった。朝は富士山が見えたが山頂の雪がかなり溶けていた。山頂の気温も上がってるのが分かる光景だったな。今日は昨日のブログの続き。源平池の源氏池(右側)の周囲(神苑ぼたん庭園)を見た後は次の場所へ…※説明しやすくする為に案内図は毎回載せます🙇こちらは案内図右側の鳥居⛩鳥居の目の前には畠山重忠邸址(あと)と…畠山重忠(1164-1206)は鎌倉幕府の有力御家人。知勇兼備の武将で幕府創業の功臣として活躍したが源頼朝没後に初代執権の北条時政(※)の謀略によって謀反の疑