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朝日新聞小説「人よ、花よ、」(13)終章「人よ、花よ、」542(2/25)~576(3/31)作:今村翔吾挿絵:北村さゆり感想とうとう迎えた最終章。連戦連勝で、和議のための下固めを万全にした多聞丸。年末に訪れた虎夜叉丸にも、必要な時には必ず力を貸してもらうと約束。これがあとになって効いてくる。そして親房による、帝を無視したまさかの「京攻め」の綸旨。戦は避けられぬと悟った多聞丸は帝に、吉野を捨てて紀伊への動座を進言。親房を抑え、それを受け入れた後村上帝。多聞丸は、帝と民を移
【遣唐使がもたらした律令制と仏教】七世紀の遣唐使は、舒明二年(630)から天智八年(669)までの間に、計六回派遣されている。その間に少なくとも数百人が渡唐し、半数程度は帰国することができたと考えてよいだろう。建国したばかりの唐は律令による政治体制を目指していた。また玄奘三蔵がもたらした仏典によって新しい仏教解釈がはじまり、各宗派が開宗し始めたころでもあった。遣唐使たちは最新の仏教文化に直接接することができた。遣唐使団には留学生や学問僧も含まれており、唐の制度・思想・文化な
こんばんは(・∀・)福岡県那珂川市多次元ライトワーカー光の案内人Greenessence〜緑の滴です。昨日は初観音(11日〜17日)の最終日でした。とっても多かったです。僧侶の方々も多かったですね。気合いを感じました😊3日に急逝したレッスン生の法名をご家族から伺い、卒塔婆供養をしました。それとツインスターにまつわる有縁霊、無縁霊と草野駿河守永公です。1座と2座は観音様の前で。観音様の説明久々に涙が出そうでした。3座は外の護摩道場で行います。今日も観音様の前で護摩焚
足利尊氏と西郷隆盛は似てると思えないだろうか!?以下が両者の共通点である。①多くの武士達を魅了する大きな器を持つ②躁鬱気質で直ぐ自殺しようとする③死を恐れない勇猛果敢さを持つ④事に当たっては計算をしない⑤官軍の一員として討幕に参加し⑥後に多くの武士達に担がれて天皇に反逆する⑦結果的に弟と敵対状態となる(直義・従道)ただし一つ大きな相違点として足利尊氏の陣営が最終的に南朝側に勝利にも関わらず天皇に逆らった逆賊とされたのに対し、西郷隆盛は天皇に反逆し敗北したにも関わらず明治維新の元勲
2020年に上げられていた動画です。明治天皇の玄孫の竹田恒泰さんが南朝の末裔であり陰陽師の竹内睦泰さんとの思い出を語っています。南朝の末裔の人々は現在の皇室である北朝に世代を超えて呪いをかけていたそうで、その呪いが「女が産まれろ!」だったそうです。それで女の子ばかりが産まれていたのですね。念、意識、想念、呪い、など様々な言葉がありますが、人の想いは現実世界に通じ、姿形となって現れる
朝日新聞小説「人よ、花よ、」(8)第八章「妖退治」313(7/3)~353(8/13)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想久しぶりの青左登場。もうけっこうな「お友達」キャラに(笑)ちょっと違う形での御所入り。北畠親房との対面にはこっちも少し緊張。それにも増して石掬丸のピンチにハラドキ。そして、襲撃に失敗した足利直義の次なる作戦に絡む高師直。殺し合って半分になったら召し抱えてやると言われた、金毘
朝日新聞小説「人よ、花よ、」(7)第七章「皇と宙」259(5/8)~312(7/2)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想現時点は興国七(1346)年。前章で、襲撃を受けた弁内侍を救出した多聞丸。大塚の調べでその首謀者が高師直だとほぼ断定された。その話が一段落し、多聞丸は観心寺に僧として暮らしている次郎の弟虎夜叉丸(僧名景正)に会う。嫡流を絶やさぬために父が避難させたが、疎外感を味わって来た
こんばんは(・∀・)福岡県那珂川市多次元ライトワーカー光の案内人Greenessence〜緑の滴です。7月2日(日)のブログになります。実は、東京へ行く前に流れを変えるような出来事がありまして、すったもんだしていました😨今日、予定変更が終わり。鳥のセキレイがベランダへ来てくれて、目の前でさえずってくれました。好転のメッセージ🍀さてさて五万騎塚公園になっていますけれど、善風塚ほどはありませんでしたが肩にずーんと来ました。空から覗いています。この逸話は壮絶すぎて、想像
南北朝時代は、それこそ足利尊氏が南朝に降伏する程所属勢力の変遷が激しいカオスな時代で、「常に北朝側」「常に南朝側」という人物を見つけることが困難(あえて言えば持明院統の皇族は北朝で、大覚寺統の後醍醐天皇直系の皇族は確実に南朝という程度では?と思うレベルです)ですが、本書は第一部東国武将編と第二部西国武将編に分けて主に北朝側で活動した武将53名の列伝を紹介しています。尊氏・直義兄弟はもちろん、アニメ化決定した少年漫画『逃げ上手の若君』に登場する高師直・師泰兄弟に高師冬や上杉憲顕、吉
こんにちは(・∀・)福岡県那珂川市多次元ライトワーカー光の案内人Greenessence〜緑の滴です。昨日、波多氏の供養をいたしました。波多氏は筑後川合戦で北朝側でした。少弐氏で調べた元寇の歴史で、松浦党(松浦氏、佐志氏、波多氏)も参戦しており、その子孫が筑後川合戦も戦っていました。少弐氏は、夢で呼ばれた地元の高津神社の上に居城していた方です。少弐氏ももちろん、筑後川合戦に北朝で参戦。南朝でしたが北朝へ寝返っています😨筑後川合戦を調べていた時に、そういえば松浦党も‥
相模原市中央区にある北相模総守護社である亀ヶ池八幡宮にやって来ました。亀ヶ池八幡宮の由緒が刻まれています。衣冠束帯姿の亀ヶ池八幡宮のご神体の座像には那左衛門大夫(たんなさえもんたゆう)藤原吉高朝臣(ふじわらよしたか)(あそみ)と刻んであるそうで朝臣(あそん)の文字はおそらく684年天武天皇13年に制定された八色の姓(やくさのかばね)の八段かい中の上から二段目を指しているものと思います。南北朝では北朝
こんにちはバルコアです。蕭吉が梁で生活した期間は短く、間もなく、「江陵陥ち、遂に周に帰し、儀同となる。」(隋書芸術伝)と記されているように、梁の滅亡に遇い、北周に帰した。この条を北史は「江陵覆亡し、魏に帰し、儀同となる。」と改めている。江陵が陥落したのは、元帝の承聖三年(553)であったので、魏が正しいと思われる。この時、蕭吉が幾歳であったかは解らないが、梁に在る時には、まだ仕官していなかったので、成人には達しなかったであろう。この江陵の覆亡に拠って梁王朝は、実質的に滅亡し、梁の多
北朝初代光厳天皇山國陵即位西暦1332年退位西暦1334年皇位年数2年第102代後花園天皇後山國陵即位西暦1428年退位西暦1464年皇位年数36年右京区京北の桜の名所で名高い『常照皇寺』に祀られている。この苔むした階段を登った先に御陵がある。御陵印所在地因みに常照皇寺と言えば、某〇次郎さんが『鉈を持った爺さんに追いかけられた』事件で有名(笑)
この混乱が収まった後に、日本を導く人はもう決まってる、と聞いたことがありますが、、、楽しみですね。天○の血脈は古代に北朝と南朝に分かれました。しかし、南朝は途中で李家に乗っ取られました。いずれ日本に大和共和国が誕生します。そのリーダーとなるべき人物がすでに決まっています。その方は正統な北朝の天○の血脈で、島津藩出身、裏天皇と呼ばれる、イエス・キリストの血を受け継ぐ方です。https://t.co/PLH9w7O9bj—TOYO(@toyo1126_2)2022年9月28日
魏晋南北朝(1)http://timeway.vivian.jp/index.html魏晋南北朝の流れ後漢が滅んで三国時代。魏、呉、蜀の三国に分裂。魏に代わるのが晋。「しん」という音の王朝は、これで三つ目だね。秦、新、がありました。この晋が蜀...nyabecch.blogspot.com魏晋南北朝(1)-チャイナ史nyabecch.blog47.fc2.com
南北朝時代中国史における南北朝時代は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。概要この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康...nyabecch.blogspot.com南北朝時代-チャイナ史nyabecch.blog47.fc2.com
玉東町稲佐に所在するガランさん板碑です。文化財の指定は受けていません。康永2年(1343年)の年号が刻まれた板碑です。「康永」は南北朝時代に北朝側が使用した元号です。場所は、国道208号から北側に入った道路沿いで、県指定史跡の稲佐廃寺跡の近くになります。正面上部には大きく梵字「キリーク」が刻まれています。左下に「康永二年」の文字があります。※写真は2020年4月撮影
北朝第2代光明天皇大光明寺陵即位西暦1336年退位西暦1348年皇位年数12年北朝第3代崇光天皇即位西暦1348年退位西暦1351年皇位年数3年西暦1337年から1392年までの南北朝時代は、南朝と北朝、其々に帝が、つまり同時に二人の天皇が居た時代。南朝(吉野)と北朝(京都)のどちらが正統なのかの議論はさておき、明治時代に『南朝が正統』と決定され、北朝は天皇家第〇〇代にカウントはされない事になった。その関係か、御陵印は無し。でも当然、管
伏見稲荷大社を出て、てくてく。深草。JR奈良線の横に京都市伏見区深草坊町71持明院統の12天皇が合葬🙏第89代後深草天皇(在位1246〜59)父天皇の譲を受け位についたが、父の命により1259年(正元1)位を弟亀山天皇に譲った。その後、子伏見天皇、孫後伏見天皇の代に院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。後深草天皇は持明院統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。第92代伏見天皇(在位1287〜98)1275年(建治1)大覚寺統の後宇多天皇の皇太子と
5053東の果ての地で、北朝と南朝が合体した。|ヘンリー熊谷[高次元へのナビゲーター]|noteこの物語は、私とロスコさん(1955-2018)との間で交わされた約束を元にして、毎日綴っています。ロスコさんは、色んな話をされたのですが、とりわけ面白かったのは、歴史の話なのです。そもそも歴史とは、誰が書いたかで違うものに成るのです。要は、今学校で習っている歴史も誰かが都合の良い様に書いたのです。だから、本当のものは何もないのです。ただ、…note.comみなさま、ようこ
●二条師基の家系図(番外編。山岸新左衛門)※太平記※参考文献加賀国江沼郡起源の山岸氏について室賀寿男ウィキペディア1335年、後醍醐天皇(96代。ごだいごてんのう)に反旗を翻した足利尊氏が、京へ攻め入る。天皇の命令により、二条師基(にじょうもろもと)は、打倒足利尊氏に対し、その防御を任される。足利尊氏の家臣、北条名越太郎時兼(ほうじょうなごえたろうときかね)の挙兵により、二条師基は、加賀の敷地伊豆守・上木平九郎家光・山岸新左衛門・瓜生氏(うりゅうし)・河島氏・深町氏ら30
北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像(中公新書)Amazon(アマゾン)414〜3,779円足利将軍家と北朝(持明院統)天皇家は、互いの権威を保障するために対外的に「仲が良いふりをする」必要があり、筆者はこれを儀礼的昵懇関係と呼んでいます。北朝天皇家は室町幕府にあらゆる面で「おんぶにだっこ」の状態であり、将軍は天皇家の執事としてそれを支え続けました。・文保の和談遡って持明院統と大覚寺統の皇位をめぐる争いは鎌倉時代後期から始まり、一方が皇位に就いていると、他方
私は日本全国あちこちを旅行ました。。。一応47都道府県に足を入れるのが出来ましたので。。。でもその中唯一。。。。残念だった県。。。それは島根県です。。。。島根県松江市で起きたすごく残念な事件があったからです。。。この話は何年か前に47都道府県の話の時に島根県の巻で書いた事がありますがもう一度書く事にしました。。。(注:大昔の事なので正確には覚えていませんので正確なセリフではありません。。。大体こんな感じの会話でした。。。)(島根県)島根県。。。昔から韓国とドッド(日本名:竹島)の
先日の京都旅の話です。同社で、先生の弟さん(亡くなられています)を思いました。花園もご経験されたラガーマンだった様ですね。花園…花園天皇と関係あるのでしょうか…・・・。ポジションはバックス(後方の7人)でウィング(得点を決める役割)の選手だったそうです。ワールドカップでの福岡選手の仕事をイメージしてください...弟さんが、どちらのウィング(左右有)だったのか?までは、存じ上げません。家系的に、拘っていた様な気もしますが(笑)
数日、関西方面で参拝をさせていただきました。勿論、現実の仕事もしているので大々的に、書くのは不謹慎だと自覚しています。なので、少々...実は訪れたい所が沢山あり迷いが生じていました。そんな中、やっとの思いで吉田神社に参拝しました。そのやっとの過程を説明すると...---実は、乗降ボタンを押し忘れ乗り換えのバス停で降りられませんでした。バス1日券(税込700円)を購入したので今更、タクシー・レンタカーに切り替えることはできず...次のバ
大本は日本の国家神道と対立し、大本の出口王仁三郎聖師が天皇に対する「不敬罪」に問われたのも、その一環でもあると言えます。その時の天皇に対する不敬罪に問われた内容は、インターネットで検索すると僅かですが出ています。聖師は白馬に跨がって兵士に見立てた青年達を並べて皇居の前で閲兵をしたのです。白馬に跨がるとは、当時の日本では昭和天皇ぐらいのものだったのです。白馬に跨がるとは明らかに当時の昭和天皇に喧嘩を売ったようなものです。一面やり過ぎの面はありますが、そこには【一種の予言】が
●土岐頼遠の家系図12(4代目)土岐頼貞⑥土岐頼清(頼宗)①土岐頼康(6代)養子・土岐康行(7代)②明智頼兼娘(夫・長山頼重)③揖斐頼雄(いびよりかつ)土岐康行⑥土岐頼忠(8代)土岐頼益(9代)⑦土岐頼遠(5代)⑩土岐頼顕(よりあき)⑨長山頼基長山頼重明智頼秀(5代目
🇯🇵✨八咫烏の関係者曰く2020-06-2新地球へようこそアメブロ『八咫烏の関係者曰く』興味深い内容です。動画の方は消されてしまっていて見れません。支配者のゲームは脈々と何千年も続いてきたのでしょうねわたし的に面白いと思ったのは、五龍会。五色…ameblo.jp🍀「坂本塾」の動画は丸1日観ていても飽きません。こんな物知りのおじいちゃんがご近所だと毎日入り浸って質問攻めにしているかも?卯月花(。・ω・。)ノ♡👽(22:05)第1
南北朝時代の天皇として最も知名度が高い天皇は後醍醐天皇でしょう。というより、後醍醐以外この時代の天皇を大半の人は知らないのではないでしょうか。僕も「南朝=後醍醐天皇の子孫、大覚寺統」「北朝=南朝とは別系統の皇統、持明院統で、鎌倉時代は大覚寺統と交互に即位していたが、後醍醐に皇統を奪われ完全に分裂。その後足利氏に担がれて即位した」くらいのイメージしか持ち合わせていませんでした。本書では皇統が分裂するきっかけとなった鎌倉時代の話から始まり、後醍醐と敵対した足利将軍家に担ぎ出される過