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🌏1401年足利義満、明へ使節を派遣!🌊倭寇退治と国際デビュー当時の東シナ海は、日本の海賊「倭寇(わこう)」が暴れまわり、中国や朝鮮の沿岸を荒らしていました。明は「日本はちゃんと取り締まれ!」と要求。義満は使節を派遣して国交を結び、「日本もルールを守る国」として国際社会の一員になろうとしました。💰勘合貿易で大もうけ義満は倭寇を禁止する代わりに、幕府が独占管理する「勘合貿易」を始めました。「勘合」とは貿易船に与えられる証明書のことで、正式な許可証を持つ船だけが明と取引できたの
⚔️応永の乱(1399年)―足利義満vs大内義弘🔥乱のはじまり1399年(応永6年)、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)に反発して、有力守護大名の大内義弘(おおうちよしひろ)が兵を挙げました。これが「応永の乱(おうえいのらん)」です。義満は南北朝の争いをまとめあげ、強大な権力を握っていましたが、そのやり方は独裁的。大内氏のような大大名にとっては脅威だったのです。🎯乱の原因義満の圧力:大内氏は周防・長門など6か国を支配し、貿易で富を築く超有力大名。義満
🏯金閣ってどんな建物?―義満と北山文化のきらめきKinkaku-ji:AShiningSymbolofYoshimitsuandKitayamaCulture✨金閣が建てられた時代(1397年)1397年、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が、京都の北山に「北山殿」という別荘を建てました。その中心が、あの有名な金閣です。当時の日本は、南北朝の争いがやっと終わり、義満が政治も外交もバリバリ仕切っていた時代。義満は中国(明)との貿易も始め、国際的にも日
🌸1392年南北朝の合一―足利義満がついに内乱を終わらせた!⚔️南北朝の対立、60年の長き戦い1336年、兄の尊氏が京都に「北朝」を立てると、後醍醐天皇は奈良・吉野に「南朝」を開きました。こうして日本は二つの朝廷に分かれた状態に。以後60年ものあいだ、日本列島は「南北朝の動乱」に巻き込まれていきました。👑足利義満の登場3代将軍足利義満は、政治の才能に長けた人物でした。まずは国内の有力守護を徹底的に抑え込みます。1391年明徳の乱:山名氏を討伐1399年応永の
足利何とか、って人は、いっぱいいるけど。日本史で大学受験をする人と、戦国時代マニアの人以外は、日本人の常識として初代の足利尊氏(たかうじ)「幕府」を開いた三代目の足利義満(よしみつ)「金閣寺」を建てた八代目の足利義政(よしまさ)「銀閣寺」を建てたこの三人だけ覚えていれば、十分です。尊氏の孫が義満、その孫が義政。以上です。これ以外の足利さんに手を出して、こんがらがる必要は全くありません。ちなみに、「」でくくったのは、いずれも歴史用語、つまり現代の我々が後からそう名付けただけで、当
「金閣寺と銀閣寺は、どちらを先に見たほうが、感動が大きいですか?」えーと、金閣と銀閣は、別にセットで作られたわけではないんで、この二つを順番に続けて観る必然性はあんましない、のですが。「金閣寺見たあとで、銀閣寺観ると、きっとガッカリするよ、全然、銀じゃないし」いやいやいや。歴史文化財は、そういうもんじゃないから。やはり「歴史的意義」を深く認識したければ、出来た順でしょう。つまり「金閣を見てから、銀閣」が正しい、と思います。いや、正しいとかなんとかはないんですけどね。ただ、「金閣
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の歴史認識を照らし合わせたくてヒストリーチャンネルで放送されていたので観ました。足利義満、幕府を盤石にするために、守護大名を討ち、日明貿易で富を蓄え、天皇の権威と同等の存在にすらなろうとするその野心(ヒストリーチャンネルの『まんが日本史』より)内容について今回の主役は、力をつけた足利義満です。有力守護大名を討ち、日明貿易を実現し、天皇の権威を自らのものとしようとするくらいの野心に燃える足利義満という描かれ
武家文化の融合が特徴とされる文化の名称は?14世紀後半から15世紀前半にかけて展開された文芸や美術、宗教や風俗の特徴を指して「北山文化」と総称する。室町幕府3代将軍義満の山荘・北山殿に因んだ呼称である。北山文化の基礎は禅宗である。詩作に没頭する禅僧が輩出して、やがて五山文学と云われる分野が定着した。禅宗寺院の装飾から絵画が美術の一部門として独立し、「如拙」や「周文」などの画僧が登場してきた。禅宗寺院の庭園からは枯山水の形式が生まれた。
【きょうの人】0507■足利義満没金閣寺の建立だけではありません独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■足利義満没金閣寺の建立だけではありません足利義満(あしかがよしみつ)正平13年/延文3年(1358年)8月22日(新暦:9月25日)-応永15年(1408年)5月6日室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)で、金閣寺
〈思い立ったら今年は旅に出よう〜京都編〉本当に何年ぶりか忘れてしまったほど久しぶりに友達と京都に行ってきましたまずは京都と言えば〈金閣寺〉薄曇りではっきりとは見えませんでしたが鏡湖池に映る「逆さ金閣」も風情がありました。1950年に放火により全焼したため現在の金閣(舎利殿)は1955年に復元されたもの。その後、大改修も行われて以前の5倍の金箔が使われているそうです。金閣寺を建てたのは室町幕府第3代征夷大将軍の足利義満。南朝と北朝に分裂していた朝廷を統一した義満は、金閣を含む北山殿に天皇や明
令和5年1月28日(土)朝方は小雪がチラついていたが天気になるようであったので、金閣寺に行くことにした。8時20分頃自宅を出る。京阪電車と市バスを乗り継いで行く。京阪祇園四条駅⇒市バス12系統に乗り換える。25分〜30分。⇒金閣寺道で下車。徒歩5分程。なお、金閣寺へは様々な路線バスの系統がある。京都駅からも市バスが出ている。数日前からの寒波に伴う雪で、京都市内も雪化粧となっている。日の当たらないところの屋根や道など、雪が残っている状況であった。今日はお日様が朝から出ているせい
元は鎌倉時代の公卿で西園寺家の祖とされる西園寺公経の別荘を室町幕府三代源義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされているそうです。北山文化の発展の舞台とされ、義満の死後遺言によりお寺となり夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられたそうです。1950年、当時見習い僧侶だった林養賢という人物により放火され、国宝舎利殿、当時国宝だった義満の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財も焼失。今の金閣は事件から5年後の1955年に再建されたもの。焼失前の金閣は金
南北朝・室町時代の復習を◇南北朝時代の美術後醍醐天皇の建武の新政~1392年の南北朝合一まで・唐物(高価な絵画や工芸品)が中国から輸入・バサラ(婆娑羅)の風潮新しい美意識・藤原隆昌・隆章による慕帰家(ぼきえ)・禅宗が中心・禅宗建築バサラサンスクリット語のヴァジュラ(金剛石/ダイアモンド)に由来派手な振る舞い贅沢乱脈な行い邸宅で飲酒遊宴「唐物」(青磁や水墨画などの輸入品)を賭物とした遊び(文芸・社交の場→書院造への発展・茶道や連歌へ整備されてい
銀閣の人[門井慶喜]楽天市場1,980円足利義満の造った「鹿苑寺金閣」と比較される「慈照寺銀閣」。金箔を貼る財力がなかったからとも言われますが、侘びの文化として愛されているように思います。義政の後継候補の義視にしても、父義教にしても、僧籍に在りながら還俗させられ俗世にまみれるハメになったけれど、その間に位置する義政は達観しているというか…。もうこの頃には将軍家の権威は存在せず、戦国時代へ突き進んでいく予兆があり、臣下であるはずの各大名家が台頭しています。そんな中、
○2022年2月3日に京都ぶらり旅で、金閣寺へ参詣した。随分久し振りの金閣寺参拝だった。池泉回遊式庭園を巡りながら、美しい金閣寺を存分に堪能することができた。○この金閣寺自体が北山文化と言って、日本文化の一つの典型であって、粋である。そのことを改めて感じることができた。今回の京都ぶらり旅では、伏見稲荷大社を皮切りに、醍醐寺三宝院、東福寺、泉涌寺、智積院、建仁寺正伝永源院、建仁寺、錦市場、下鴨神社、上賀茂神社、大徳寺と訪れ、此処、金閣寺まで来ている。○まだまだ京都ぶらり旅は続くのだが、すでに、
足利義満様の時代に発展した北山文化🏯まるで雪景色の金閣寺の様綺麗寂柱の金具が五三桐北山鹿苑寺・茶席夕佳亭寒くて写真撮れなかった所が多々あります水も凍っていました❄海外の方々も熱心に見物されてました。五戒…べし。って最近、誰か様も「するべしするべし…」ってツイートされていたような......(¯·ω·¯)←龍門滝と鯉石𓆝𓆟𓆜𓆞結晶の金閣寺はなんとなくロマンチックでした🎎まふまふ@紅白歌合戦@uni_mafumafuなんと!!まふまふトリビュートアルバムの
金閣寺は勿論何度も来ていた🏯ですが、。°.。❅𓈒◌°.。゜.❅𓈒◌。・。❅𓈒◌。。❅𓈒◌°.。雪景色の金閣寺はやはり言葉では言い表せないとっても美しき風景でした👏🏻👏🏻想像以上に綺麗でラブレターまで書きたくなるようなそんな最高の絶景に終始癒されました💌。°.。❅𓈒◌°.。゜.❅𓈒◌。・。❅𓈒◌。。❅𓈒◌°.とっても素敵ね*†*。Meru。*†*
こんにちは🤗ご訪問いただきありがとうございます♪とても嬉しいです💜夫が気晴らしに私の大好きな京都へ連れて行ってくれました我が家が京都から近くてよかった☆我が家は忌中なので神社には参れませんお寺は忌中喪中関係なく参拝しても良いと言う事でお寺巡りに連れて行ってくれました。まずは鈴虫寺300年の歴史があるこのお寺お願い事をひとつだけ叶えてくれる草鞋を履いたお地蔵様がいらっしゃいますまずは鈴虫が鳴く癒されるお部屋で和尚さんの説法を30分…和尚さんのお話は面白くてとてもいいお話もして
京都の冬の風物詩の一つ、雪の金閣寺に行きました。一年前に、金箔を塗り替えているので一層美しさに磨きがかかった筈😊金閣寺の屋根工事完了で公開(2020年12月29日、京都市北区)#金閣#鹿苑寺#京都京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿で進められていた檜皮葺き屋根の葺き替え工事がこのほど完了し、29日、報道関係者に公開された。youtu.be寒波予報が出たので、前日の夕方に金閣寺では雪が降っていることをライブカメラで確認(便利やわ)。金閣寺|臨済宗相国寺派正式名称を鹿苑寺といい、相国寺
車の6カ月点検を済ませ、時間があったので、金閣寺に行くことにした。金閣寺は正式には、鹿苑寺(ろくおんじ)と称し、臨済宗相国寺派の塔頭の一つとなっている。舎利殿の金閣が特に有名なことから『金閣寺』と一般的に呼ばれている。金閣寺は足義幕府3代将軍、足利義満が山荘北山殿を造ったのが始まりとされている。義満の時代北山文化と呼ばれている。金閣舎利殿は平成の修理が済、その輝きやきらびやかな佇まいは誰もが魅了する姿である。鹿苑寺の本尊は方丈にある聖観世音菩薩坐像とのこと。ちなみに、金閣舎利殿には
金閣寺の面白情報ですアメリカ横断ウルトラ・クイズの問題は、日本人の一般常識を基本に創られていました。一般常識の中でも、難易度が有…ultra-q.net
さて――1397年鹿苑寺舎利殿金閣は北(きた)山(やま)殿(どの)と呼ばれた足利義満が建立➜北山文化ということになるのですが……1411年足利義持,明使を兵庫にて国外追放(~1432年,明との国交中断)子の足利義持は朝貢貿易を中止した……父・足利義満はプライド捨てて,朝貢貿易なんて汚いマネしやがって,稼ぎやがって!ロクなもんじゃない!(拙筆「【年代記憶】1397年足利義満,金閣建立②」)どうも――?父・足利義満は,子・足利義持に嫌
汚(北山文化)い!ロク(鹿苑寺)なもんじゃ(舎利殿)ない!金(金閣)満(足利義満)野郎鬻(13)ぐ(9)な(7)!・金閣について建立1397年時代室町時代初期所在京都府京都市北区金閣寺町形式楼閣(3層宝形造りの舎利殿=金閣)第1層平安後期寝殿造風の阿弥陀堂「法(ほっ)水(すい)院(いん)」第2層鎌倉期武家造の観音殿「潮音洞」(外壁に金箔あり)第3層禅宗様仏殿造の「究(くっ)竟(きょう)頂(ちょう)」(外壁に金箔あり)名称鹿苑寺舎利
さて――1397年金閣建立(北山殿造営開始➜十数棟の殿舎を造営,金閣はその内の一つ)ということになるのですが……足利義満出だしっから――1361年3歳南軍,京都に迫る➜父・義詮に連れられ,近江へ避難1362年4歳京都に戻る1367年9歳父・義詮没(生1330年~,位1358年~)大変な人生だったようです……で――1368年室町幕府3代将軍足利義満(~1394年)10歳➜細川頼之が補佐将軍になったはいいが……まだまだこ
銀閣寺に行ったことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようこんにちは!希礎塾の西村です(^^)/銀閣寺には中学3年生の時の修学旅行と、大人になってからの一人旅で行きました中学生の時の思い出と、大人になって改めてみてみると建物の大きさだったりとか、周りの景色、行くまでの道のりなどさまざまなことが少し違っていて新たな発見がありますねということで本日は「銀閣寺の日」1482(延徳元)年のこの日、足利義政が造営に着手した山荘です。2月4日
20日水曜はZoomでゼミを実施。秋学期の授業はこれで最後になる。これからは、卒論の校正など、採点(レポート約500人分)、募集論文の審査など、一斉にいろいろな仕事がおそいかかってくる。一年で一番仕事量の多い時期かもしれない。2月、3月ともゼミの懇親会(リモート)はつづけて行こうと思う。やはり人とのつながりは、重要で、何気ない会話からいろんな可能性が広がってくると思うのだ。まちあるきを実践した2回生も単なる名所旧跡めぐりではなくてストーリーを見
冬至過ぎでも、元気に咲いてるバラの品種は、金閣今朝のニュースで、足利義満の肖像画黒い髭の新しい肖像画若い❗鹿苑寺金閣を建てた、義満はすごい⤴️⤴️
1453年、琉球国/第一尚氏王統の5代・尚金福王が亡くなる。…尚金福王は→琉球国を統一した尚巴志王の子(五男)ー↓ー↓ーそれを受けて、尚金福王の子・志魯(しろ)と弟・不理(ふり)が王位継承権を争い「首里城」が炎上。そして、志魯と不理ともに戦死しました。https://ja.m.wikipedia./志魯・布里の乱5代・尚金福王(五男)の「子と弟」ともに亡くなったので、弟(六男)の弟(七男)である越来(ごえ
どうも、#七弦です。今日は久しぶりの快晴で気持ちが良いですね!では、今日も記事をアップしていきましょう。仁和寺を出発して、まずは龍安寺に向かいます。龍安寺は、「石庭」がとても有名です。御朱印も「石庭」と書いてくださります。目が不自由な方の為の「ミニ石庭」もあります。一般の方は触らないでください・・・だそうです。ちょっくら触ってみたい。今度は本物を撮影。1975年にイギリスのエリザベス女王が訪れ絶賛されたそうです。これを切っ掛けに世界でも有名になりました。
いつもブログを読んでくださり有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする歴史エンターティナークリエイターの原一六四(ひろし)です。昨日は、読者の皆様に情報の提供のお願いをさせていただきました。多くの方が読んでくださったみたいで感謝です。早速に、昨日のブログにコメントをしてくださった方もいました。本当に有難く感謝です。本当に有難うございました。昨日のブログを確認したい方はこちらをクリックしてくださいね。『急募!!あなたの情報を提供してください!!』いつもブログを読んでく