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北海道・雌阿寒岳で5年ぶりの地震回数噴火警戒レベルは1を継続北海道の雌阿寒岳で火山性地震が一時的に増加し、5年ぶりとなる多さになりました。噴火警戒レベルは1(活火山であることに留意)が継続中です。weathernews.jp道東の雌阿寒岳で火山性地震が増加今後の活動の推移に注意を|NHK北海道のニュース【NHK】道東の雌阿寒岳では29日午後から火山性地震が一時的に増加しました。このほか噴気や地殻変動の状況に特段の変化はないということで、気象台は今後…www3.nhk.or.jp
【北但地震火災殉難者精霊塔】慰霊塔と呼んでいますが、正式名はこちら👆北但大震災(1925.5.23)から1ヶ月も経たないうちに兵庫県南部の有志により発起され、震災一周忌に除幕式と追悼式がおこなわれています。建立発願人は貴族院議員服部一三氏(元兵庫県知事、日本地震学会初代会長)兵庫農工銀行頭取大谷吟右衛門氏日本燐寸製造製造株式会社社長直木政之助氏神戸姫路電気鉄道株式会社副社長内村直俊氏神戸修養会汐川泰仙氏精霊塔寄進者106名の中には、川崎財閥の川崎武之助氏
城崎温泉の代表的風景、大谿川に架かる石造りの太鼓橋と柳並木。実は、かつてはこの風景はありませんでした。では、いつ出来たのかと言いますと、1925年の今日に起こった北但大震災により、ほぼ全域が焼け野原となった温泉街の復興計画において、大震災前には僅かしかなかった川と道路の段差を、玄武岩を積み上げ側壁として高くし、太鼓橋(弓形橋群)が1926年(大正15年/昭和元年)に建設されました。(北但大震災直後の温泉街)一の湯前にある「王橋」も今よりも小さな橋でしたが、1927年(昭和2年)に現在の橋
昨日の参議院の決算委員会。加田裕之参議院議員が谷公一防災大臣との、阪神淡路大震災30周年にあたる2025年に開催される万博についての質疑の中で、その年に100周年を迎える北但大震災についても触れられました。災害とその教訓を次世代に継承することの重要性について具体的な例として、城崎温泉で新たに起ち上げた震災100周年プロジェクトの取り組み、西村総一郎氏(西村屋)や私の名を挙げられて20代〜40代の若手経営者や女性で構成されていることなどを紹介してくださりました。2025年を機に未来に向けた新
バイデン大統領、金建希夫人との交流で「ロスコ展」言及…金夫人はジル夫人に図録贈るYahoo!ニュース-Yahoo!JAPANバイデン大統領はこの時、金建希夫人が展示企画会社「コバナコンテンツ」の代表として企画して2015年に開催された「マーク・ロスコ展」に言及していたことが...退職した五味医師へ写真展で恩返し奥州・衣川地区センター|岩手日報IWATENIPPO岩手日報奥州市の衣川診療所を退職した五味和俊医師(82)=同市前沢=の写真展は27日まで、市衣川地区セン
福澤諭吉記念慶應義塾史展示館2022年度春季企画展「慶應野球と近代日本」開催-KeioUniversityKeioUniversity2022年は、日本人への野球伝来150年にあたります。慶應義塾は日本野球史には欠かすことができない数々の足跡を刻み、早稲田大学との伝統の一戦「早慶戦」...●福沢諭吉[1]・[2]この二十年間なんら良いことがなかった日本で過ごした"若者たちのクロニクル"ー会期中展覧会...FASHIONSNAP.COM[ファッションスナップ・ドットコ
大正14年の北但大震災後、当店は鉄筋コンクリートにて再建。震災時に火災により焦土と化した教訓から、木造建築が並ぶ中で大火が発生した場合に、まちの中心(隣の一の湯と当店)で東西の延焼を食い止める役割を果たす為です。今日、まちの方から「3Fを増築したのは何年頃?」と訊かれたので確認してみると、父が中学生だった昭和30年〜昭和32年(1955年〜1957年)の間だったようです。ちなみにそれまでの屋上は緊急時にヘリ🚁が着陸することも想定して設計されていたとのことで、子どもの頃の父たちはそこで遊んで
大正14年(1925年)の今日、5月23日午前11時9分57秒、兵庫県但馬地方北部で北但大震災が発生致しました。現在の城崎温泉の美しい町並みはこの大震災からの復興時に先人たちが築き上げたものです。そして今、再び大きな苦難に見舞われています。ただ、先人同様に私たちにも未来へ向かう強い意志と責任があります。何があっても負けません!次代へまちをつなげるためにも決して負けてはいけない!!【北但大震災の概要】円山川河口付近を震源地とし、マグニチュード6.8、旧豊岡市と旧城崎町で震度6(当時の
ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回は、オンストリート編。過去の旅などで脳裡に焼き付いている街角の光景などを画像1枚でご紹介します。今日は、兵庫県豊岡市の『旧豊岡市役所南庁舎分館』です。1934(昭和9)年に兵庫県農工銀行豊岡支店として建設され、その後、山陰合同銀行の建物として使用されてきました。2005(平成17)年に豊岡市役所南庁舎分室として改築され、2014(平成26)年には全6室の宿泊施設『オーベルジュ1925』に生まれ変わりました。『1925』は
ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回は、オンストリート編。過去の旅などで脳裡に焼き付いている街角の光景などを画像1枚でご紹介します。今日は、兵庫県豊岡市の『メンズショップBOB&谷山人形店』です。豊岡市内には『復興建築群』という1925(大正14)年の北但大震災後に復興した建物が多く残ています。市の中心部にある長屋形式のメンズショップBOBと谷山人形店もその一つです。2階部分はそれぞれのロゴマークが施された建築当初のまま保存されています。2015年1
大正14年(1925年)の今日、5月23日午前11時9分57秒、兵庫県但馬地方北部で北但大震災が発生致しました。城崎温泉の美しい町並みはこの大震災からの復興時に先人たちが築き上げたものです。それから95年経った今、再び大きな苦難に見舞われています。ただ、私たちにも力強く未来へ向かう力が必ず備わっています。そして、次代へまちをつなげる責任も。何があっても負けません!【北但大震災の概要】円山川河口付近を震源地とし、マグニチュード6.8、旧豊岡市と旧城崎町で震度6(当時の震度階級による最
みなさんからYahooのリアルタイム震度(共振モニタ)YouTubeの緊急地震速報ライブと、言うのがあるのですが昨日より波形も凄く動いてますし、共振モニタを見ていると今日は日本中微振動してる様です。愛媛県に関しては、一昨日の夜から夜の間は波形が物凄く動いてました。いつも情報ありがとうございます。兵庫の北部、日本海ギリギリの所に住んでますが、1925年5月23日に北但大震災が起こってから95年です。その年の5/23も土曜日、今年も土曜日。このところ持病の閃輝暗点も頻発、耳鳴りも変化してま
「思い立ったらぷちタビ〜癒しの一泊旅行〜」旅気分を味わっていただけましたでしょうか。お世話になりました皆様、有難うございました温泉寺まではロープウェイで5分温泉寺の住職には入浴の作法を教えていただきました有り難いという気持ちが病の治癒にも繋がる、ということにも納得です。ランチは「うつろいカフェ」それぞれの素材をいかすパンを厳選した、こだわりのサンドイッチがオススメです室内にはアートスペースもあります。このカフェ、元々は消防署でしたオーナーが消防署の方々と子供の頃から交流があり、
大正14年(1925年)の今日、5月23日午前11時10分2秒、兵庫県但馬地方北部で北但大震災が発生致しました。円山川河口付近を震源地とし、マグニチュード6.8、旧豊岡市と旧城崎町で震度6(当時の震度階級による最大震度)、兵庫県、京都府、滋賀県で震度5、岡山県、鳥取県、和歌山県、三重県でも震度4を観測。死者428名、負傷者1,016名、全壊1,733棟、半壊2,106棟、一部損壊45,659棟、焼失2,328棟、全焼1,696棟という、西日本では当時、歴史上最大規模の被害をもたらした地震です
【城崎絵葉書帖第35号】北但大震災後、昭和初期の当店(👇左)です。奥の「一の湯」とともに防火壁の役割を負うべく鉄筋コンクリートにて再建。庇には今で言うガーデニングのように植物を植えています。写真には写ってない屋根には2本のポールが立ち、旗を掲げていました。ちなみに震災前の写真を見たことがありますが、店前の道路はこの半分ほどの幅と今では驚くほどの狭さでしたが、城崎では震災復興時に住民が土地を拠出して道路を拡幅し、火災の延焼を防ぐまちづくりが行われました。【スタッフ募集中】勤務内容は
93回目の北但大震災記念日となる昨日は消防団の訓練に参加。訓練後、発生時刻には団員約80名で温泉寺にある慰霊塔を参拝しました。改めて、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。その後は毎年この日に行われる献血へ。日本では毎日約3千人もの方が輸血で命をつないでいます。それは決して人ごとではありません。もしかしたら、明日輸血が必要になるのは自分自身かもしれません。しかしながら、残念なことに献血者は近年減少傾向にあります。特に若年層に至ってはこの10年間で3割も減少しています。また
前回書いたように今日は北但大震災の記念日。朝は消防団による訓練に参加。震災発生時刻には温泉寺にある慰霊塔を参拝しました。92年経ちましたが、決して風化させることはできません。改めて、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。その後は他の団員と共に献血に行ってきました。皆さま、このカードをお持ちですか?日本赤十字社の献血カード。持参することで受付作業等が早く済みますので、献血の際は忘れずに。さて、問診、採血を終えて献血車へ。久々だったので若干緊張気味。いつもながら血管が