ブログ記事56件
ヤフーの記事に日経の大変大まかなな記事が掲載されその反響は大きく、内容が分からない方々が静岡県(県知事)叩きや静岡新聞のデマ記事だと投稿されました一県民として見過ごされずブログ連載しています2021年1月1日静岡新聞より残土置き場南アルプスの残土置き場周辺はボロボロの地質で崩れやすい斜面が多く地盤の安定性に問題がある以下は以前に私がブログに書き込んだものです大正から昭和初めの出来事です
2020年12月8日静岡新聞より概念図です概念図は大井川に沿った縦断面図と鳥観図(井川ダムの上流、下流)の3種類概念図は福岡捷二座長が10月27日の前回会議で、JRに作成を指示していた田代ダムや長島ダムの前後に川に最低限流さなければならない流量下流域の表流水を利用している水道用水や農業用水、工業用水・・・水利権の水量も盛り込んだしかし、同会議で結論が出ていないトンネル湧水の県外流出やトンネル付近での表流水の減水量は記載していない
第一回区民対象のミニ講演会19:00から警察の防犯講演との抱き合わせで時間は30分とのことでかなり表面的なことの話になりましたグラフの説明1、注目するのは、北伊豆にM3.5の地震発生北伊豆地震の震央です(田代地区・火口跡)大涌谷から僅か10Km程しか離れていませんここには、私が地震予知を始めて一度も地震は発生していません温度は一気に90℃程になりました(マグマ貫入)2、
1930年(昭和5年11月26日)北伊豆を襲ったM7.3の地震の話です死者・行方不明者727名シニアクラブの丹那出身の先輩が「田代地区がひどく揺すられたけど、けが人も出なかったのはどうしてだと思う?」私「う~ん・分からない」震源地は箱根芦ノ湖に近い函南町田代地区おそらく震度7ではなかったかと思われます地図には田代の地名が記載されていない地震断層説では発生した断層の中央が震源地としているので実際の震源地の地名は記載
寒いさむーい富士五湖から暖を求めて南へ南へ…。昨日のお話の続きです十三夜さん、『あの“断層”』へ‼️0207『丹那断層公園』からさらに南下します。丹那断層に沿って。目指すは、『火雷神社』ここは前回(2018年3月30日)も来てました。だけとここのこと、なぜ書かなかったんんだろう?河津桜が咲いていた❣️一足早い春の便り。わあい!!ホノイカズチを祀る神社さん。火雷神ほのいかずちのかみとは『記・紀にみえる神。黄泉国(よみのくに)で伊奘冉尊(いざなみのみこ
今宵は、十三夜さん。おおお!十三夜さんに月虹🌈?さて、今朝はとても寒かったわたしの村周辺。マイナス8℃を記録しました。おやおや?例年ではマイナス16℃などを記録してしまうのに、今年は暖冬なのでマイナス8℃は身にしみる。今日は色々やることがあったのに、朝、山中湖の悪友から電話あり。『熱海では梅が咲いてるらしいよー!』梅かあ、梅…花が見たい!暖かい所へ行きたいよ〜〜‼️ということで南に進路を取ります❣️まったくノープランのこんなプチトリップは久しぶりで
①・・・前からたびたび述べてきた・・・地震のエネルギーは、地震体積・・・・・ひろい体積の中に立体的に蓄えられていると考えざるをえない・・・。その証拠・・・・すでにいくつかあげた・・前の表でこの地震体積の半径rが与えられているから、それに基づいて、もう少しいろいろな・・・・考えてみる・・・大きい地震・・・断層があらわれて、道や田畑がきれいにたちきられることがある。1891年の濃尾地震・・・根尾谷断層1906年のカリフォルニア地震・・
今は、長距離列車も通らず、地元周辺の人たちしか利用しない在来線の東海道線。この熱海駅〜函南駅間に長いトンネルがある。新幹線の新丹那トンネルと並行して走る丹那トンネルだ(写真=西側の函南駅よりトンネル坑口を望む)。難工事で7年の予定が倍に東京・大阪を結ぶ交通の大動脈と期待されて起工された、全長7804メートルのこの長大なトンネルは、このほど開通85年を迎えた。戦前の昭和9(1934)年12月1日の開通を迎えるまで、合計67人もの犠牲者を出した難工事であった。起工式が行わ
Shaudowの『日本人と自然災害32』1925年5月23日~1933年3月3日2019.07.09H・A・笑童人間は生まれてきてはいけなかったのだろうか神は悲しみを与えるために私たちを創造したのだろうか‥‥その答えは自然と接する日本人の生き方にあったそして、やはり日本人は昔から日本人そのものであった日本人は、多くの自然災害を経験し学習することによって、自然と共生することを学んだ。そしてその経験から得たものを後世に残している。しかし、現代を生き
先日のシニアクラブ定例会会議終了後餃子パーティーだ具は会員の女性の皆様がつくり包むのと焼くのは自分たちで・・・隣に生まれも育ちも丹那の私よりかなり高齢のお話大好きな先輩が坐った話が地震の話になると「地震で田代盆地の人が死ななかったのはどうしてかわかる?」(田代は北伊豆地震の震源地)「前震が毎日ひどくてね、みんな家から出て野宿してたから助かったんだよ」「へ~そうだったんだ!」餃子作りそっちのけ(笑)震源地は
2006年にお亡くなりになった長倉さんの寄稿文です1930年(昭和5年)11月26日午前4時3分マグニチュード7.0震度6の直下型地震が伊豆半島北部を襲い一瞬にして死者255名負傷者161名倒壊家屋2073戸等の大災害が発生しました多くの人々が家の下敷きになりかろうじて助かった人も茫然自失の状態でした震源地に近い韮山村(現伊豆の国市)でも多くの家が倒壊し更に南条区中部落では火災が発生したのですこれより7年前大正12年9月1日の関東大
渇水の災難は丹那地区ばかりでなく下流の田方地方の水田や飲料水にも大きく影響していた鉄道省には各地区より陳情書が何回も出されていたが丹那トンネル開通後にまとめて処理することとし一切無視していたそのことで熱海(梅園付近)の事務所に千人ほどの暴徒化した陳情団が押し寄せたりした丹那下流の重要な八ツ溝用水(水門)をめぐり上沢(かみざわ)地区への暴徒化した多数の農民も押しよせた上沢は水田から畑作転換として鉄道省から補償金が出ていたがそ
母の話では、近所に関門トンネルも手掛けたトンネル掘削専門の下田組の人達が住んでいて時折トンネル堀の話を聞いていたそうです。丹那トンネル掘削後半には朝鮮の人達が増えたそうで日本人より体力的に勝っていたといいます地震発生後の11月27日付けの東京朝日新聞によると小範囲に被害が大きい口惜しがる気象台大地震を予知して準備中にこの災厄丹那トンネルの被害状況判明す12月に入り、降雨で箱根町の土砂災害が心配などの記
熱海口では事故後工事が再開された。地質は集塊岩となり出水も減少し工事も順調に進んだが、大正13年、坑口より2500m付近で白い斑点の混じった青い粘土層(温泉の熱で岩が変質)に突き当たった。こんな感じのものでしょうか?(箱根硫黄地獄附近のもの)指先で押すとブヨブヨした感じです掘り進むと高圧で坑道内にふくれあがり作業を中止するしかなかった。ボーリング調査をすると20mほどの厚さで、地質は小石の混じった粘土で、
トンネル掘削には多量の電力が必要とされるようですいよいよ丹那トンネルの掘削工事となり計画中止となったときの料金で電力会社に発注したところが「日本の景気が良くなり料金も上昇した」と以前の倍の料金を提示し一歩も引かない掘削用水力発電所を鉄道院が設置しようとしたが伊豆のほとんどの川の権利をその会社が取得していた中伊豆民俗資料館展示品よりお借りしました中伊豆歴史民俗資料館やむを得ず大正7年3月22日熱海口からツルハシ
静岡県側沼津から御殿場方向も上り坂の連続だ現在の長泉町付近25/1000の勾配は蒸気機関車の貨物列車にはかなりきつい25/1000は1000m行くと25m登ることこの様子でかなりの坂だという事がわかるでしょう子供のころ蒸気機関車が貨車の前に2連や前後に接続しボッボッボッとすごい音と煙でノロノロと走っていたのを思い出す下りはカシャンカシャンと金属音をたてて猛スピードで下って来る岩波駅ではスイッチ・バックといって一度、平ら
北伊豆の群発地震発生により地震研究所などの観測班が現地に向かっていたその矢先に本震(M7.3)が発生した地震後、多くの機関による断層の野外調査が行われた中央気象台では國富信一技師東京大学では今村明恒博士京都大学では本間不二男教授東北大学では渡辺万次郎博士地震研究所では石本巳四雄博士他には地質調査所海洋気象台などの70名近い人数が入ったそれぞれの観察地点の調査報告書は合計300ケ所を超えていたため
この地震で箱根芦ノ湖南方の函南町田代地区から修善寺東方の原保(わらぼ)地区まで断続的に切れ切れに断層が出現した中央気象台(現・気象庁)の震央決定記録には地塊運動(ブロック運動)に視点を置き「今回の地震は極めて複雑であって非常に短い時間に数箇所の地震が相続いて起こったように思われた付近一帯に地鳴りを聞き震動が極めて急激な上下運動のあった韮山村東方山地とした」・・・大仁(おおひと)浮橋北方2Km付近(現・市民の森浮橋)浮橋地区
母の話では余震はドロドロドロという音と共に何回も来たそうで道路をトラックが通る音にも子供たちが反応し大泣きする子もいたそうです近所の大塚様からお借りしたものです韮山小学校の倒壊三嶋大社倒壊は免れた手水舎の倒壊三嶋大社前の商店街三島の女学校の寄宿舎けが人もいるようです遠方からの寄宿生が多いと聞いていました
「しかし、地下のずれた場所に誤差が出たんですよ。実験と計算では30Kmの下、実際にずれた場所は10Kmだったんですね。しかし実験と実際はいろいろの条件が違うし、確かに光るということが分かったわけです」コーヒーを飲みながら「そこでもう一つ実験をしたんですよ」ある学校の教室で生徒には知らせず、運動会のピストルを鳴らしたんです。そこで、生徒に今の音について書けと言ったんです。
こんにちは、vootanです。今週は12月にしては異例の暖かさ、しかし来週には極上の寒波が到来する予報も出てますので、今年最後になるであろう忘年ツーリングに行ってきました。【待ち合わせ】まずはいつもの場所で待ち合わせ、遅刻魔で不良公務員のアイさんは、この日も5分程度遅刻した。ワシが細かいのか?と思うが50過ぎの大人の時間感覚は仕事に準ずると思うので、人にお願いする立場の仕事をしていると、だいたい最低でも5分前くらいには集合場所に着いとかねばならんと思う(というかクセがつく。)
藤村郁雄先生の話は続く「電報だから時間がはっきりしているそこで予知ができたということで気象庁では実際にそういうものが有るのかどうか調べることにしたんですよまず気象庁の近くの本郷小学校にアンケート用紙を配り家族でも知り合いでも良いから地震当日、光を見た人は記入してくれと言って渡したんです。いつ、どこで、どの方角で、どんな光で、色はどうだったかという内容です。かなりの
椋平廣吉翁について、詳しいことは、他のサイトに書き込まれていますので簡単に書き込みます。椋平廣吉と言えば民間地震予知研究家で知らない人はいない有名な方です。昭和5年11月25日午後1時頃京都大学理学部長あてに「アスアサヨジイズジシンアルムクヒラ」と電報を打った。理学部長は気にもとめずにいたところ翌26日午前4時頃北伊豆地震が発生した。※5、北伊豆地震・宏観異常現象に記載しましたが光に関する多数の異常現
発光現象この地震では、多くの発光現象が目撃されている。伊東市の魚屋さん大川氏が、この日の午前3時頃仕入れた魚を持って修善寺に向かう途中、伊東市の西北方向に、太陽が昇るときと同じくらいの明るさに光っていた。(伊東市の北西方向は丹那盆地の方向)もちろん夜明けの光ではない。しかも、その光は紫赤白黄色が混ざった奇妙な色合いだった。「気味の悪い光だ」と思いつつ目的地に向かっていた時、マグニチュード7.3の地震発
1930年(昭和5年)88年前の話です。伊豆、伊東沖の群発地震が2月から9月にかけ発生し、収まったと思ったら北伊豆で11月7日より有感地震が頻発。11月25日には770回もの地震が発生。「今に大きな地震が来るから気を付けようね」と家族で話し合っていた。11月25日未明北伊豆を震源とするマグニチュード7.3の地震発生。地震発生とともに、家族は一斉に晩秋の暗闇の外へ避難する。
アーカイブ化した以前の書き込み(北伊豆地震)43回連載をリニューアルして書き込みます。古い話ですが、現在に通じる話もあります。書き込み用の資料集めや、班長の仕事などでタイトになってペタ返しもおろそかになると思いますがお許しくださいm(__)m円形に石で囲まれたゴミ捨て場が地震により真っ二つにズレた
ご訪問頂き、ありがとうございます。伊豆88遍路14番札所龍泉山慈光院曹洞宗御本尊阿弥陀如来創建1510(永正7)年室町時代後期後柏原天皇足利義稙の頃(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の生まれる前)住所伊豆の国市韮山多田937由緒かつては真言宗の無住寺院だったが、1510(永正7)年に再興
群発地震発生により、地震研究所など観測班が現地に向かっていた。その矢先に本震(M7.3)が発生した。地震後、多くの機関による断層の野外調査が行われた。中央気象台では國富信一技師、東京大学では今村明恒博士東北大では渡辺万次郎博士、京都大学では本間富士男教授地震研究所では石本巳四雄博士他には、地質調査所、海洋気象台などの70名近い人数が入った。それぞれ
この地震で、箱根芦ノ湖南方の函南町田代地区から修善寺東方の原保(わらぼ)地区まで断続的に(切れ切れ)に断層が出現した。当時の中央気象台(現・気象庁)の震央決定記録には地塊運動(ブロック運動)に視点を置き「今回の地震は極めて複雑であって、非常に短い時間に数箇所の地震が相い続いて起こったように思われた付近一帯に地鳴りを聞き震動が極めて短く震動が極めて急激な上下運動のあった韮山村東方山地とした」