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ご訪問ありがとうございます小5の凹凸高IQ息子の特性のこと、中学受験のことを、気の向くままに書いているブログです東京神奈川入試が終わったら。。。いよいよ、新小6として迎える一年間が始まってしまいますもう、その後は塾の勉強に追われることが目に見えてる土曜日に先週の授業の宿題が8割程は終わったのでよし!!今しかない!!!と、強行突破でぷち旅行してきましたぁ次男に、何したい?と聞いたら、断層とか地層を見たいと言うので行き先は、箱根を越えて伊豆へ丹那断層公園1930年の北伊豆地震の
NHK第一AMラジオ。周波数は666kHz。午前5時20分過ぎのコーナー、11月26日の『今日は何の日』です。【記念日など】■ペンの日(1966年、日本ペン倶楽部設立日に因んで制定。初代会長は島崎藤村。)【歴史上の日】1906(明治39)年満鉄設立この年の6月、勅令第142号で南満州鉄道株式会社設立の件が公布された。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めること
1/3断層の出現..・・前からたびたび述べてきた・・・.地震のエネルギーは地震体積と名付けたかなりひろい体積の中に立体的に蓄えられていると考えざるをえない・・.その証拠・・・すでにいくつかあげたけれども.前の表で(Mとrとの関係)この地震体積の半径rが与えられているから.それに基づいてもう少しいろいろなことを考えてみることができる.大きい地震があると地表に断層があらわれて道や田畑がきれいにたちきられることがある
火雷神社だと思ったら雷電神社でした(笑)火や水の働きをつかさどるとされる神々をまつる。雷電神社と名が付く神社は、北関東を中心に、小さなほこらなども含め300以上が点在する。「雷雲の通り道になる大きな川が流れる地域で、雷よけや、恵みの雨をもたらす神様として親しまれたのではないか」ここじゃここじゃ😙火雷神社⚡火雷神社の創建やご祭神などの縁起ははっきりしていませんが、こちらの神社のなにが有名かつ貴重かといいますと、丹那断層(※)と同じ断層上のズレの跡にあること!1930(昭和5)年に起
昨日はやっと連続真夏日トンネルを抜け出したようであったが、蒸し暑さは残っていた。夕方には雷鳴が聞こえていたが、雨は無く未明の今は雷鳴は無いが小雨の音が聞こえている。そんな中、午前中は拙個展を見て近隣多摩市稲門会の会長と副会長から講演の依頼が入り駅前の喫茶で打ち合わせ行ってきた、11月18日の土曜日午後1時から3時までで文化フォーラムという会が続いているらしくその一環として拙自論の発表の場をいただき喜んで受諾、配布資料や案内状の文案などの資料を渡してきた。午後はコロナオミクロン株の集団接
北条寺様に源頼朝公ゆかりの地を巡る近隣の地図が置いてありました。それを見てみるとすぐ近くに北条義時公こと江間小四郎の屋敷跡が江間公園になっていると書かれていたので、夫と行ってみました。行ってみると、芝生や遊具やテニスコートを備えた広々とした気持ち良い場所で、現代までよくぞ公園として残っていてくれたなぁ…と思いました。家族連れや友達同士で思い思いにサッカーやテニスなどを皆さん楽しんでいらっしゃいました。後で石碑を読んでわかったのですが、前はここに小学
2006年にお亡くなりになった長倉さんの寄稿文です.1930年(昭和5年)11月26日午前4時3分マグニチュード7.0震度6の直下型地震が伊豆半島北部を襲い一瞬にして死者255名負傷者161名倒壊家屋2073戸等の大災害が発生しました.多くの人々が家の下敷きになりかろうじて助かった人も茫然自失の状態でした.震源地に近い韮山村(現伊豆の国市)でも多くの家が倒壊し.更に南条区中部落では火災が発生したのです.これより7年前
渇水の災難は.丹那地区ばかりでなく.下流の田方地方の水田や飲料水にも大きく影響していた.鉄道省には各地区より陳情書が何回も出されていたが丹那トンネル開通後にまとめて処理することとし一切無視していた.そのことで熱海(梅園付近)の事務所に千人ほどの暴徒化した陳情団が押し寄せたりした.丹那下流の重要な八ツ溝用水(水門)をめぐり.上沢(かみざわ)地区への暴徒化した多数の農民も押しよせた.上沢は
伊豆半島は.ほぼ全域に大小の火山群が存在し.伊豆半島東方沖には時々群発地震が発生している.マグマがかなり浅いところにあるのだろうか..昭和5年(1930年)の群発地震は気象台(気象庁)の記録では.気圧変化速度が極大になるとき発震数が増加する.と記されている.という事は.何らかの少しの力が加わると地震が発生しやすい地域なのだろう.丹那盆地の地下水を芦ノ湖3杯分(換算)も抜けば当然重力異常が発生し.その
母の話では、近所に関門トンネルも手掛けたトンネル掘削専門の下田組の人達が住んでいて時折トンネル堀の話を聞いていたそうです。丹那トンネル掘削後半には朝鮮の人達が増えたそうで日本人より体力的に勝っていたといいます-------------------地震発生後の11月27日付けの東京朝日新聞によると小範囲に被害が大きい口惜しがる気象台大地震を予知して準備中にこの災厄丹那トンネルの被害状況判明す
熱海口では事故後工事が再開された地質は集塊岩となり出水も減少し工事も順調に進んだが、大正13年坑口より2500m付近で白い斑点の混じった青い粘土層(温泉の熱で岩が変質)に突き当たった。こんな感じのものでしょうか?(箱根硫黄地獄附近のもの)青い部分は指先で押すとブヨブヨした感じです白い部分はねっとりとした感じ掘り進むと高圧で坑道内にふくれあがり作業を中止するしかなかっ
トンネル掘削には多量の電力が必要とされるいよいよ丹那トンネルの掘削工事となり計画中止となったときの料金で電力会社に発注したところが「日本の景気が良くなり料金も上昇した」と以前の倍の料金を提示し一歩も引かない掘削用水力発電所を鉄道院が設置しようとしたが伊豆のほとんどの川の権利をその会社が取得していた中伊豆民俗資料館展示品よりお借りしました中伊豆歴史民俗資料館やむを得ず大正7年3月2
函南町の火雷(からい)神社に御挨拶へと伺わせていただきました。三島から箱根へと向かう山道の集落にある小さな神社ですが、高位の神様がおいでになります。この神社には、1930年の大地震北伊豆地震の爪痕が残されています。この地震で、この地には地表に1km~2kmに横ずれが生じ、その断層がこの神社を渡った跡がそのまま残されています。道端の鳥居です。何の変哲もない鳥居に見えますが・・・小さくて背が低いです。背伸びせずに、僕の手
静岡県側沼津から御殿場方向も富士山麓に向かい上り坂の連続だ現在の長泉町付近25/1000の勾配は蒸気機関車の貨物列車にはかなりきつい25/1000は1000m行くと25m登ることこの様子でかなりの坂だという事がわかるでしょう子供のころ蒸気機関車が貨車の前に2連や前後に接続しボッボッボッとすごい音と煙でノロノロと走っていたのを思い出す下りはカシャンカシャンとクランクが金属音をたてて猛スピードで下
北伊豆の群発地震発生により地震研究所などの観測班が現地に向かっていたその矢先に本震(M7.3)が発生した地震後、多くの機関による断層(亀裂)の野外調査が行われた中央気象台では國富信一技師東京大学では今村明恒博士京都大学では本間不二男教授東北大学では渡辺万次郎博士地震研究所では石本巳四雄博士他には地質調査所海洋気象台などの70名近い人数が入ったそれぞれの観察地
この地震で箱根芦ノ湖南方の函南町田代地区(円形の盆地)から修善寺東方の原保(わらぼ)地区まで断続的に切れ切れに断層(亀裂)が出現した中央気象台(現・気象庁)の震央決定記録には地塊運動(ブロック運動)に視点を置き「今回の地震は極めて複雑であって非常に短い時間に数箇所の地震が相続いて起こったように思われた付近一帯に地鳴りを聞き震動が極めて急激な上下運動のあった韮山村東方山地とした」・・
余震は母の話によるとドロドロドロという音とともに何回も来たそうで道路をトラックが通る音にも子供たちが反応し大泣きする子もいたそうです近所の大塚様からお借りしたものです韮山小学校の倒壊三嶋大社倒壊は免れた三嶋大社手水舎三嶋大社前の商店街三島の女学校の寄宿舎けが人もいるようで遠方からの寄宿生が多いと聞いていました三島町(市)北上地区函南村(町)丹那の断層(亀裂)
「しかし、地下のずれた場所に誤差が出たんですよ。実験と計算では30Kmの下、実際にずれた場所は10Kmだったんですね。しかし実験と実際はいろいろの条件が違うし、確かに光るということが分かったわけです」コーヒーを飲みながら「そこでもう一つ実験をしたんですよ」ある学校の教室で生徒には知らせず、運動会のピストルを鳴らしたんです。そこで、生徒に今の音について書けと言ったんです。
藤村郁雄先生の話は続く「電報だから時間がはっきりしているそこで予知ができたということで気象庁では実際にそういうものが有るのかどうか調べることにしたんですよまず気象庁の近くの本郷小学校にアンケート用紙を配り家族でも知り合いでも良いから地震当日、光を見た人は記入してくれと言って渡したんです。いつ、どこで、どの方角で、どんな光で、色はどうだったかという内容です。かなりの
椋平廣吉翁について、詳しいことは、他のサイトに書き込まれていますので簡単に書き込みます。椋平廣吉と言えば民間地震予知研究家で知らない人はいない有名な方です。昭和5年11月25日午後1時頃京都大学理学部長あてに「アスアサヨジイズジシンアルムクヒラ」と電報を打った。理学部長は気にもとめずにいたところ翌26日午前4時頃北伊豆地震が発生した。※5、北伊豆地震・宏観異常現象に記載しましたが光に関する多数の異常現
藤村郁雄先生は岩手県盛岡市出身。気象技術官養成所(現・気象大学校)卒業中央気象台観測課に配属される昭和10年富士山頂に常設観測所ができ、藤村先生も参加「あなた方、どうして私の所に来たのですか」「同じ町内に以前から先生がいらっしゃるのを知っていたことと、気象には全くの素人で、雲で地震予知するにはしっかりした知識が必要と思ったからです」「はあ、はあ、はあ、なるほどね、分かりました。地震ね」突然に「椋
発光現象この地震では、多くの発光現象が目撃されている。伊東市の魚屋さん大川氏が、この日の午前3時頃仕入れた魚を持って修善寺に向かう途中、伊東市の西北方向に、太陽が昇るときと同じくらいの明るさに光っていた。(伊東市の北西方向は丹那盆地の方向)もちろん夜明けの光ではない。しかも、その光は紫赤白黄色が混ざった奇妙な色合いだった。「気味の悪い光だ」と思いつつ目的地に向かっていた時、マグニチュード7.3の地震発
1930年(昭和5年)の話です。伊豆、伊東沖の群発地震が2月から9月にかけ発生し、収まったと思ったら今度は北伊豆で11月7日より有感地震が頻発。11月25日には770回もの地震が発生。「今に大きな地震が来るから気を付けようね」と家族で話し合っていた。11月25日未明北伊豆を震源とするマグニチュード7.3の地震発生。地震発生とともに、家族は一斉に晩秋の暗闇の外へ避難する。
少し前Yahoo!ニュースに北伊豆地震を題材にした書籍が掲載されていました内容に驚きました震源地が丹那地区と書いてありました実際は田代地区です更に断層は・・・・と書いてありますが南北に連なる盆地は火山噴火跡でそこに周囲からの泥土が流れ込んでできた盆地です地震を引き起こす力などないただの亀裂でしょうね!私の以前書き込んだ内容も間違いがありました丹那断層と書き込んでいますが全て亀裂と訂正しますそこで、
『薩摩地方で群発地震発生中…』出先なので詳しいデータが取れませんが、今朝から薩摩地方で9回もの群発地震が発生中です。霧島山の地震計に大きな変動が出ています。前回のブログでも薩摩…ameblo.jp『平成25年台風第26号に類似コース。水は南海トラフ巨大地震と深く関係。安芸構造線。地域の防災活動』平成25年台風第26号平成25年台風第26号-Wikipediaja.m.wikipedia.org令和3年台風16号は平成25年台風26号のコースと類…ameblo.jp
地震予知に初めて成功しそうだった91年前の北伊豆地震(饒村曜)-個人-Yahoo!ニュース地震予知に初めて成功しそうだった91年前の北伊豆地震(饒村曜)-個人-Yahoo!ニュース91年前の11月26日、伊豆半島で北伊豆地震が発生しました。前兆現象があり、飛行機を使うなど観測を強化しようとした矢先の地震で、公表には至りませんでしたが、予知に初成功しそうだった地震かもしれません。news.yahoo.co.jp北伊豆地震(1930年11月26日)|災害カレンダー-Yah
ヨンハ家族の宿泊した[塔ノ沢一の湯本館]の絵画がテレビ出演したそうですこの絵をヨンハも見たのでしょうかちなみに、安藤広重(山川出版社では歌川)が正しいですね~~2007/8/30から、ヨンハが箱根へ家族旅行しました。2007/8/29「永遠」発売記念イベントinパシフィコ横浜国立大ホールファン5000人招待2&7&8&2&9&5=33(11×3)千鳥『YONADAYin箱根①&「夏のカケラ」ほか』今年のYONADAYは箱根日にちは4/21(土
豆塚神社から、次に向かったのは北条義時館跡。北条義時館址の碑があります。江間公園として、整備されています。江間公園の一角に、国指定天然記念物『地震動の擦痕』と言うのがあります。昭和5年11月26日、北伊豆地震が発生。最大深度6の烈震。ゴールデンウィーク中盤の歴史探訪も、晴天に恵まれました。
1930年(昭和5年11月26日)北伊豆を襲ったM7.3の地震の話です死者・行方不明者727名シニアクラブの丹那出身の先輩が「田代地区がひどく揺すられたけど、けが人も出なかったのはどうしてだと思う?」私「う~ん・分からない」震源地は箱根芦ノ湖に近い函南町田代地区おそらく震度7ではなかったかと思われます地図には田代の地名が記載されていない地震断層説では発生した断層の中央が震源地としているので実際の震源地の地名は記載
散策日平成28年8月26日私は以前に『闇を裂く道』という、JR東海道線熱海駅・函南駅間の丹那トンネルの建設を記録した小説を読んでおり、その小説の舞台となった丹那盆地を訪れてみたいと思っていた。この日は静岡県への家族旅行の最終日。帰路の途中で寄り道させてもらった。昼飯の後は、車を運転している私以外は疲れと暑さででぐったり。やって来たのは”丹那断層公園”。昭和5年11月、丹那トンネルの掘削は丹那盆地のの真下に達した所で破砕帯にぶつかり、大量出水で工事が滞っていた。丁度そ