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―お局サマ―さて、前回天正十五(1587)年に、豊臣秀吉が関白に就任した話をしました。その2年前の話です(あるお公家さんの日記から)。水洗い(上水施設)が必要となり、内蔵頭の山科言継というお公家さんが、作業を担当する衛士を募りました。そして「衛士二人分で、訪銭(とぶらいぜに:賃金)は、百疋(1貫文)でございます」と答えた結果、「勾当内侍(天皇の家政機関である「掌侍(内侍)のうちリーダー格)」は、これをはねつけます。そこで
―買い物上手―戦国時代、朝廷も天皇家も食べるのには困ってなかったでしょうが、行事等は莫大な金がかかるので、権力者頼りのたいへんな時代でした。ここで問題、ある年の瀬に御所の水洗いが必要となりました。そこで山科言継という公家に、作業する衛士の費用の見積もりをさせます。このとき、言継は「衛士二人で百疋(約銭1貫文≒約7~10万円)と答えましたしかし、担当の勾当内侍(けっこうトップクラスです)は、それをはねつけ値切りにねぎります。では、決定した額は10
館林市のつつじが岡公園に今年も行って来ました~群馬県館林市の「名勝つつじが岡公園」は1万本約100種類のツツジが咲く日本屈指のつつじの名所です。冬はハクチョウ、ミコアイサなどがやって来ます!普段は人がいないのに大変な人出今年は無料駐車場が満車で有料駐車場に停めてしまいました。ヤラレタ分福茶釜の茂林寺も近いので狸。それでは630円を払って入場しましょう~まずは日の出霧島がお出迎え!クルメ系、宮城野。関寺(せきでら)紫。ヤマツツジ系は見ごろを過
曇り空、渡良瀬遊水地から館林市のつつじが丘公園へ行きました~駐車場も臨時で満車です~。冬にミコアイサを撮りに行く時には閑散としているのに・・しかも入場料630JPY2度ビックリ!ツツジの季節にはこうなるのね。これで人影を入れずに撮るのは📷・・・・冬は通行止めになっていたところに入れます。すんごーい!誰もいないように見えるでしょ。たくさんいますよ・・久留米ツツジでしょうか?キリシマですか。でも札が少ないからほとんど種類が分からないです。これが見た
(つつじのイメージです(これは庭のつつじです))この頃は庭のつつじも大分、咲いてきました。庭の中で一番花が多いのがつつじなので、これからゴールデン・ウィーク過ぎ頃までが1年の内で一番、庭がカラフルになる頃です。つつじと言えば、子供ができる前、もう20年近く前になりますが、武蔵境に住んでいた頃はゴールデン・ウィークの初日あたりには、とても朝早く起きてクルマで高速道路をとばし、館林ICで降りてつつじが岡公園に向かう、というのが半ば習慣のようになっていた時期もありました。つつじ
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、新田義貞の妻勾当内侍と、後醍醐天皇の側室の阿野康子の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は、4月4日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
新田義貞の首塚と妻「勾当内侍」の墓と伝わる五輪塔がある花見塚神社。勾当内侍は一条行房の娘または妹だそうだ。新田義貞が内裏の警護を仰せつかりその任についていたころ恋に落ちたらしい。社殿新田義貞の首塚と勾当内侍の墓勾当内侍の墓は諸説あり勾当内侍が討取られた首を生誕の地である新田荘まで持帰り菩提を弔った説によりこの地にあるというゆかりのお寺『廣谷山香華院儀源寺[太田市]』新田義貞の妻(勾当内侍)ゆかりのお寺らしい。越前で戦死した新田義貞の首を生誕の地である新田荘まで持帰り菩提を弔う為に
新田義貞の妻(勾当内侍)ゆかりのお寺らしい。越前で戦死した新田義貞の首を生誕の地である新田荘まで持帰り菩提を弔う為に庵を結んだ事にはじりの曹洞宗廣谷山香華院儀源寺そのおり勾当内侍は出家して儀源比丘尼となった。門前の地蔵尊六地蔵尊境内本堂ご本尊:釈迦如来常香炉勾当内侍
尼君のところで、師泰殿と大稚児が料理をする。いかつい下男は、傀儡師に義手を作ってもらっていた・・。
師泰殿は蕪を調理し、尼君の下男は、料理の弟子志願?
兼好法師は酔っぱらって踊り、御舎弟の密偵は尼君をたづねる・・。
道誉殿は郊外の尼君に唐物の香炉を贈った。
6.7日と滋賀県に行ってきました^_^琵琶湖の西側の堅田駅で降りて、まずはイタリアンのランチ😀食後に浮御堂に行って来ました。琵琶湖に浮かぶ、お堂を見てほっこり出来ました。この後は、琵琶湖東側のホテルへ歩いて向かいました。出島灯台、なかなかレトロでいいです。南北朝時代の新田義貞の妻の勾当内侍のお墓がある野神神社へ音声ガイドもありいいですね。この後、琵琶湖大橋を20分ぐらいかけてわたり、さらに10分ぐらい歩いて歩いてホ
ずっと書いている福井行きの目的は、新田義貞討死の地である新田塚を訪問することでしたが、その新田塚に明治3年(1870)に祠が建立され、明治9年に「藤島神社」と呼ばれるようになるです。もともと、義貞は藤島城へ救援に向かう途中で戦死したことから藤島の社号が付けられたのだと思います。その後二度の遷座で明治34年に足羽山麓の今の場所に鎮座しています。大きな鳥居を潜り、本殿近くまで階段が続きます。近年、義貞を愛した勾当内侍を祀った野神神社も建立されて、恋人の聖地になっているようです。(そう言えば
前回はこちら神田神社の後、歩いて野神神社・勾当内侍の墓に行きました。野神神社の鳥居です。勾当内侍御廟道の石碑です。勾当内侍廟の道標の説明板です。井戸です。勾当内侍の墓の説明板です。拝殿です。本殿です。勾当内侍の墓です。勾当内侍の事の説明板です。拝殿をバックに、僕の浴衣姿の自撮りをしました。勾当内侍の墓付近から見た、琵琶湖大橋です。続きはこちら
執事殿の梅ヶ枝は、尼君への「プレゼント」だった・・。
怪力尼殿は、源平ヒーローの子孫にして新田ヒーローの親族だった・・。
□「勾当内侍(コウトウノナイシ)」は、室町時代を創った英雄「足利尊氏(アシカガタカウジ)」と敵対する「新田義貞(ニッタヨシサダ)」の愛する奥方様のことですよ。★勾当内侍(コウトウノナイシ)は、〈春のそよ風におののくひとひらの花。冴えわたる秋の月。〉と形容されるほどの美しい人だったと伝えられております。▼勾当内侍(コウトウノナイシ)は、後醍醐(ゴダイゴ)天皇の後宮に仕(ツカ)えていました。天皇の警備にあたっていた新田義貞は後宮からきこえてくる琴の音色に誘われ、奏でている勾当内侍
ふようやくタイミング?がきて、お参りできました。知り合いがたくさん、関わってます。過去世のご縁なのか非常によろこんでいただいたことが伝わりました。胸がざわざわして目頭が熱くなる。初めての場所はエネルギーを感知しやすいです。よろこんでもらえて、うれしかったです。ラリマーのネックレスを見ていただきました。
中山道柏原宿、3百年の記録刊行滋賀・米原市教委が「萬留帳」京都新聞地元の郷土史家谷村潤一郎氏(故人)が、6年かけて全冊を解読翻刻した資料を基に、市教委が2014年から調査に着手。今回初期の10冊を第1巻にまとめた。歴史、思いはせ「朝鮮通信使」日韓で再現中国新聞通信使の関連資料の世界記憶遺産認定と、日韓両国の友好を願った。韓国人留学生や、通信使が立ち寄った呉市の住民たち約100人が民族衣装を身にまとっ...絣の文化/鳥取毎日新聞木綿糸を藍で染め、精巧な文様を織り上
南京観光地中山陵孙中山孫文のお墓︎12年間フルゆとり中国留学生活-はてなブログ前回に引き続き、南京の観光地のお話です。中山陵に行ってきました。2号線の苜蓿园站まで行きます。そこから歩いて登ってもいいと思います。しかし、私は...4588石川瓊州墓(山口県萩市川島197・善福寺)drunkenjohnny-Muragon4588石川瓊州墓(山口県萩市川島197・善福寺)-画家。行年49歳。没年安政8年11月5日。戒名:雲山緑水居
滋賀県堅田にある野神神社。ドライブ中に見つけた小さな神社です。すぐ側にあった立派な石碑が気になりました。車を降りて、ちょっと確認します。なになに?勾当内侍御廟道?ここに祀られているのは女性のようです。すぐ側には駒札があります。どうやら、勾当内侍という女性は新田義貞公の夫人だったようです。太平記には2人のロマンスが描かれています。戦いに勝利した新田義貞。九州へ逃れた足利尊氏を追撃せず、京都の勾当内侍と別れを惜しみます。そうしている間に、ふたたび尊氏は京都へと攻め上ってきます