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一方、三枝蓊の剣術修行に関する記述は、『大正大礼贈位内申書』に「平岡武夫(今北畠治房)武技場を開くやこれに従い武術を修練す」とあり、同じ平群郡の法隆寺村在住の平岡武夫(枚岡鳩平とも。のちの北畠治房男爵)が開いた道場で武術を学んだということになっているのですが、それなりに調べてみたつもりですが、北畠が道場を開いて剣術を教えていたことを示す史料というのが、なかなか出て来ません。そこで、あくまで「ひょっとしたら」という話なのですが、三枝が法隆寺村に通っていたであろう時期に、村で剣術を教えていた可
三枝蓊こと市川三郎は、御親兵に加わるために京都に来たと供述しましたが、御親兵に加わるために訪ねたのが、『英国外交官の見た幕末維新』(ミットフォード著/講談社学術文庫)では「寺町通の本門寺」、一方、『英国公使館書記官ミットフォード寄書訳文』(倫敦タイムス社/東京大学史料編纂所)では「寺町通宝満寺」だったとしています。が、京都の寺町通には本門寺というお寺も宝満寺というお寺もありません。両者に近い名前の本満寺(上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町)というお寺が寺町通に存在するので、おそらくはミット
知恩院はさながら野戦病院と化しました。負傷者たちは廊下に横たわりながら治療の順番を待ち、ウィリスら三人の医師はシャツやシーツを引き裂いて包帯を作り、汗だくになりながら次々と手当を施しました。幸い重傷者の二人以外はいずれも傷が急所を外れていて、命の危険まではないことが確認されました。一方、事件の一報が朝廷に届いたのは午後4時頃でした。ちょうどフランス公使とオランダの外交事務官が明治天皇の謁見を終えて退室したところだったといいます。事件を知って朝廷内は大いに動揺し、徳大寺実則、東久世通禧、松平
角を曲がった暴漢の目の前には、馬に乗ったパークス公使とアーネスト・サトウがいました。暴漢は猛然とパークス公使に斬りかかりましたが、パークスはとっさに馬を駆けさせ縄手通の方に逃れました。※.縄手通から見た新橋通。この角のあたりでパークスやサトウは襲われた。すかさず暴漢はサトウに狙いを定め、二度三度と斬りつけました。サトウの馬を曳いていた馬丁が胸を斬られ、馬は鼻先を切り落とされ、肩にも傷を受けてしまいますが、暴漢はサトウを仕留めるのをあきらめたのか、今度は第九連隊の歩兵たちに襲い
慶応四年(1868)二月三十日の昼下がり、明治天皇に謁見するため、宿舎である知恩院を出立して御所へと向かっていた英国特命全権公使ハリー・パークス一行の隊列は、新橋通から縄手通へと差しかかっていました。そして、パークスの前にいた12騎の騎馬護衛隊が丁字路を曲がって縄手通に入った途端、角の菓子屋から二人の男が飛び出しました。二人の暴漢は拳銃を一発撃ち放つやいなや、左右に分かれ、二列縦隊で行進していた騎馬護衛隊の騎兵たちに狂ったように襲いかかりました。不意をつかれた騎馬護衛隊は、さほど広く
パークス一行を直接警護する尾張・肥後・阿波の三藩以外に、沿道警備にあたる藩が紀州・鳥取など十一藩あったわけですが、それらの藩に対しては無論警備担当エリアが割り振られていました。それらの藩兵は当然ながら事前に準備をしていたはずなので、詰まるところパークス一行がどの道を通って御所に向かうのかは、誰にでもわかってしまっていたということになります。『和歌山以下十一藩隊長上申書』(東京大学史料編纂所)によると、往路のルートは桜の馬場から東大路通をまたいで新橋通を進み、突き当りを右折して縄手通を北に進
天皇へ謁見するためパークス一行が知恩院を出発したのは、午後1時頃だとされます。これは一行に加わった通訳士のアーネスト・サトウや、同じく事務官のアルジャーノン・ミットフォードの回顧録に書かれているだけでなく、一行に同行はしなかったものの、知恩院にあって英国公使一行の応接にあたった尾張藩士青木信寅の日記にも「昼過ぎ夷人出かけ申し候」とあるので間違いないものと思われます。が、一方で日本側の史料に朝五つ時(午前8時)頃の出立とするものもあるようですが、おそらくこれは、警護のために集められた尾張・肥
京都東山の名刹、華頂山知恩院は浄土宗の宗祖法然上人が後半生を送り、その生涯を終えた地です。※.知恩院三門(国宝)浄土宗に深く帰依していた徳川家康によって手厚い保護を受け、諸堂の造営が行われ、更に二代将軍秀忠によって三門が建設されるなど、寺域は大きく広げられました。その三門の前の参道はゆるやかな下り坂となっていますが、かつてここには桜並木が立ち並んでおり、桜の馬場と呼ばれ、洛中でも指折りの桜の名所でした。※.三門前参道(桜の馬場跡)慶応四年二月
ネット上で「幕末の四大人斬り河上彦斎の写真」として広く出回っている古写真について、3年前に記事にしました。興味のある方は下をクリックして下さい。河上彦斎写真の謎この写真は河上彦斎のウィキペディアにも本人の写真として掲載されているのですが、実は出典が不明となっています。そこで調べてみたところ、スペインのアニメファンの方のブログが出どころとなっていて、根拠のないものだということがわかったのですが、その後も調べ続けたところ、ちょっと有力情報かなと思えるものにたどり着きました。この
文吉はやくざの親分でありながら目明しとなって幕府に協力していたわけですが、その延長線上で考えると、これまでわかっていなかったその正体が推測出来る人物がいます。それは島田左近です。島田左近に関しては、むかしだいぶ書きましたが、出自が謎に包まれていること、京に来てから異常なほどの出世を成し遂げていること、殺害される直前まで無官であったにもかかわらず、義母千賀浦とともに九条家を牛耳っていたとされること、安政の大獄で文吉率いるやくざ者たちを手足のように使って志士の摘発に功を上げていたこと、そして左
押小路高倉上ル目明し文吉右の者、先年より島田左近に随従いたし、種々奸謀の手伝いたし、あまつさえ去る戌午年已来姦吏の徒と心を合し、諸忠士の面々苦痛をさせ、非分の賞金を貪り、その上島田所持いたし候金子を預り過分の利足を漁し、近来に至り候ても尚又様々奸謀を相企み、時勢一新の妨をなし候間、かくの如く誅戮を加え死骸引き捨てに致し候。文吉殺害の理由については、斬奸状に「(安政の大獄で)島田左近に従って勤王の志士を苦しめ、更に島田左近の所持していた金を利用して金貸しを営み暴利を貪っていた」と書か
文吉は、公儀の目明しとヤクザの親分という「二足の草鞋」を履いていました。現代でいえば暴力団の組長が刑事か何かに任命されて、政府の方針に逆らう人々を検挙したようなもので、世間に憎まれるのも無理はないといえるでしょう。ただ、裏を返せば、文吉が仮に本当はその筋でいう任侠の博徒、いってみれば小説やドラマで描かれる清水次郎長のような仁徳のある人物であったとしても、こと京の都においては幕府の手先というだけで憎まれる存在にならざるを得なかったことでしょう。無残な最期を遂げた人なので、どうしても同情
ちょっと間が空いてしまいましたが、実は二つばかり訂正したいことがあります。ひとつめはこれまで他の記事でも何度か書いてきた「三条大橋北側の晒し場」について。当時の史料にたびたび出て来て、文吉もこの場所で晒されたわけですが、この晒し場は処刑された罪人の遺体を晒す場所だと解釈していたのですが、どうやら違ったようです。というのも、『佐野正敬手記』に「晒屋棒杭にしばり有之」とあるのです。「晒屋」ということは、当然ながら商売のための晒し場だったことであり、処刑場ではなかったということになります。
惨殺された文吉は、洛北の御菩提池村(みどろがいけむら。現・京都市北区上賀茂狭間町。深泥池とも書く)の出身です。生年はわかりませんが、殺害された文久二年(1862)に四十代に見えたとする史料が複数あることから、文政年間の前半、西暦でいえば1820年前後の生まれなのではないかと思われます。農民の出だといわれていますが、所司代与力佐野正敬の手記に「下人」とあり、もとは武家や商家、名主などに仕えた下男であった可能性もあります。もっとも「最低の男」という意味とも解釈出来る文脈ではあるのですが。
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました
河野顕三は坂下門外の変で討死してしまいました。その河野顕三ですが、同じように志半ばで倒れた他の幕末の志士たちと大きく異なる点がひとつあります。それは、彼らの伝記・履歴などの中に、常套句のように必ず書かれている「幼時より武術を好み」などの文言がない事です。要するに河野顕三、剣術の心得がまったくなかった可能性があるのです。剣術練達の士であった河本杜太郎や平山兵介・黒澤五郎を差し置いて、そんな彼だけが安藤信正に一太刀浴びせることが出来たというのは何とも皮肉な話ですが、神様というのは時々こう
文久二年(1862)一月十五日の朝五つ(午前8時)、登城の合図を告げる太鼓が打ち鳴らされ、磐城平藩安藤家屋敷から老中安藤信正の一行が出て来ました。安藤家の行列が坂下門へ向け歩みを進めていたところ、突然列の左側から銃声が発せられました。撃ったのは越後浪士の河本杜太郎でしたが、この銃弾は大きく外れて隊列の前を進んでいた旗本の馬に命中しました。それに続いて列の右側、坂下門の下馬札のあたりに立っていた河野顕三が安藤信正の駕籠を狙って銃を撃ちました。しかし、寸前にこれに気づいた近習の松本練次郎
大橋訥庵を中心として着々と進んでいた老中安藤信正襲撃計画でしたが、安藤の進める反対勢力への懐柔策が功を奏し、長州や水戸の藩士たちなどが次々と脱落していき同志の数はどんどん減っていきました。そして文久二年(1862)一月十二日、大橋訥庵が奉行所に捕まってしまいます。訥庵自身が一橋家に上書を提出したことが原因で、計画が露見してしまったのです。こうして首謀者を失い、いよいよ追い詰められた河野顕三らはわずかな人数で襲撃を決行します。一月十五日の朝、河野顕三は以下のような姿で江戸城坂下門の下馬
兄顕二の死後、その跡を継ぎ姓を河野と改めた顕三は、妻(名前不詳)を娶り一子・力をもうけました。しかし、時代は顕三に家業の医師を続けることを許しませんでした。いや、顕三自身が時代の波に飛び込んだというべきでしょうか。江戸向島小梅に私塾・思誠塾を開いていた儒学者大橋訥庵は、宇都宮藩に招かれ、江戸藩邸において儒学を教えていました。大橋は過激な尊王攘夷思想の持ち主でもあり、和宮の降嫁を幕府による策謀だと憤り、これを実力で阻止するために同志を集めていました。顕三もこれに加わることになるのですが
江戸での医学修行を終え、安政四年(1857)に兄顕二と共に故郷下野に戻った河野顕三ですが、それから2年後の安政六年(1859)の秋頃、二十二歳の顕三は目の病に冒されてしまいます。顕三の目の病、それはトラコーマでした。トラコーマはナポレオンのエジプト遠征によってヨーロッパにもたらされ、その後世界に広まった感染症で、ナポレオン率いるフランス軍の兵士はほぼ全員感染していたといわれています。日本での感染拡大は明治維新後のこととされているので、河野顕三はかなり初期の感染者であったと思われます。
坂下門外の変で老中安藤信正を襲撃し、返り討ちにあって死亡した6人の浪士のひとり、河野顕三(こうのけんぞう)は下野国河内郡吉田村本吉田(現・栃木県下野市本吉田)に、医師の甲田顕雄(号・意伯)とその妻・千世(幼名キヌ)の次男として天保九年(1838)に生まれました。母方の祖父は石崎(河野)守弘といい、吉田村とは鬼怒川をはさんだ対岸の芳賀郡長沼村大道泉(現・真岡市長沼)に住し、代々一橋家領の名主をつとめる家柄でした。ちなみに、守弘の父、すなわち河野顕三の曽祖父にあたる石崎音次郎は地元で知られた
壬生浪士組(のちの新選組)結成時のメンバーである粕谷新五郎は、非常に多くの謎に包まれた人物です。出自ははっきりしていて、ご子孫も健在なことが確認されているし、壬生浪士組やその前身である浪士組に加わっていたり、それまでの経歴もある程度はわかっているのですが、それでも「謎」なのです。『勤王殉国事蹟』(明治7年/東京大学史料編纂所データベース)第36巻には、長男の親之介が記した粕谷新五郎の事跡が残されていますが、簡潔にまとめられていて、家族の名前と、小山宿(現・栃木県小山市)に埋葬されてい
坂下門外の変に散った河本杜太郎ですが、そもそも彼がどうして襲撃グループに加わることになったのかは謎という他ありません。というのも、杜太郎は過激に逸る大橋訥庵らの一派を説得するよう、同郷の本間精一郎に言い含められて関東に下ったはずなのです。生来の短気で粗暴な性格から、説得するつもりがかえって彼らに影響されてしまい、同志に加わってしまったのでしょうか。「本間先生といい君といい、越後人は腰抜けばかりだな」などと罵られ、引くに引けなくなってしまったのでしょうか。あるいは首謀者である大橋が逮捕され、
文久二年一月十五日、越後十日町の浪士河本杜太郎は坂下門外に老中安藤信正を襲い、返り討ちにあって討ち死にしてしまいます。その日、杜太郎がどういう容姿をしていたのか、当時の史料に残されています。『脇坂家書類』紺浅黄横竪縞紬小袖、下着胴竪絞り縞絹廻り茶瀧縞地半浅黄木綿、鳴滝絞り茶小倉袴、帯刀鞘ばかり短刀を帯び、抜刀を持つ『文久壬戌秘記』浅黄木綿肌着、藍竪縞紬綿入れ合着、同弁慶紬綿入れ、薄紅茶小倉蝉なし馬乗り袴、鮫鞘九寸五分脇差、書類、紺足袋残念ながら着物に関しては勉強不足で、これ
文久二年一月十五日の朝五つ(午前8時)頃、江戸城坂下門外において河本杜太郎ら浪士が老中安藤信正の行列を襲い、返り討ちにあって全員が討ち死にを遂げましたが、それから4時間後の昼九つ時(正午)頃、外桜田の長州藩邸に一人の男が駆け込んで来ました。桂小五郎を訪ねてきたという男は、水戸脱藩浪士の内田萬之助と名乗りましたが、これは変名で、実は水戸脱藩の川辺佐次衛門元善という人物でした。川辺は茨城郡細谷村住の家禄二十四俵の郷士でしたが、安政の大獄で烈公こと徳川斉昭が蟄居処分となると、これに抗議したことが
蔵出し京都画像~京都画像クイズNo.56の正解は、幕末の勤王の志士の一人です。解答を寄せられた皆さん正解です。裏松固禅や海山元珠等の超難問さえ正解だった皆さんには簡単だったかな(普通は誰やそれ?ですがね)。それでは正解と解説です。京都市下京区四条河原町上ル一筋目東入ルの汁の店で有名な「志る幸」さんの看板の傍らに問題の人物の石碑があります。正解は古高俊太郎桝屋喜右衛門でも正解です。この石碑は、古高俊太郎邸宅跡に建てられています。駒札勤王志士古高俊太郎邸
河本杜太郎ら浪士の襲撃を受けた安藤信正は坂下門に入り難を逃れると、すぐさま門番所へと駆け込みました。そして、ただちにもう一人の老中久世広周に使いを走らせ、事件を報せ対応を要請しました。信正の背中は血まみれになっていました。それでも信正は「膏薬でも塗っておけばよろしい」と気丈に振る舞いましたが、やはりそれではまずかろうと、奥医師の伊東玄朴、戸塚静海を呼び寄せて診断に当たらせたところ、背中の傷は深さ一寸三分(39mm)、長さ一寸二分(36mm)で、背骨にも損傷があったといいます。早速縫合手術が
浪士の平山兵介、小田藤三郎、高畑総次郎の3人は大勢の安藤家の手勢に囲まれ、駕籠に近づくことが出来ませんでした。高畑はもはや無理だと観念したのか、坂下門とは正反対の方向に向かって駆け出します。が、とっさのことで方角を見誤ったのか、出口のない内桜田門の方へ行ってしまい、橋の前の下馬札のところでついに安藤家の手の者に追いつかれて斬られてしまいます。それでも気力を振り絞って再び駆け出しますが、会津藩邸の前にあった腰掛のあたりで再び取り囲まれて、さんざんに斬られてついに斃れました。衣服はズタズタに切
文久二年(1862)一月十五日の朝五つ時、登城すべく西の丸坂下門に向かっていた安藤対馬守信正の行列に、一発の銃声を合図に突如浪士たちが襲かかりました。その人数は7,8人ほどだったとされています。この一発目の銃弾を撃ったのはおそらく河本杜太郎だと思われます。しかし前回お話したとおり、銃弾は安藤信正の乗る駕籠は狙わずに、安藤家の行列の前を進んでいた旗本某の乗っていた馬に当たりました。そして更に行列の左右から二発の銃弾が撃ち込まれました。このうち、左から撃ったのが誰だったのかは全くわかりま