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昨日の日記に新撰組のことを書いたけれど敵対していたとされる勤王志士の中にも好きな人はいます。7年前に山口県を旅していますが、私にとって山口県は山口県ではなく長州なのでした。幕末(と源平)って、日本人なら反応してしまう時代ではないでしょうか?私自身は幕府側でもなく、倒幕派でもなくどちらの人達も信念を持って時代を駆け抜けた先人として捉えています。ゲームはフィクションのラブストーリーだけど時代考証はされてたりするんですよね。だからPlayしながら自然と歴史にふれて
◯2022年12月21日に、大覚寺を訪れ、すでに6個ものブログをものしている。早く先へ進まないと、まるで、ブログが進まない。今日は2024年5月15日である。一年どころか、一年半前の話を書いていることになる。◯だからと言って、せっかく見聞してきたことを等閑にするわけにも行かない。今回の話は、『津崎村岡碑』の話になる。大覚寺の大沢池の畔に建っていた碑になる。そこには、次のような案内板が設置してあった。津崎村岡碑近衛忠熈公(このえただひろこう)篆字額明治二十五年建
ごきげんいかがですか水曜日は清水比庵の歌をご一緒に国を思ひ歌を作りし光平の歌のすぐれてこの国かなし光平とは誰か?この歌には、伴林光平とだけ、前書きがある。幕末の国学者であり、歌人である、勤王の志士であるらしい。ネットでは、伴林光平(ともばやしみつひら/ばんばやしみつひら、文化10年9月9日(1813年10月2日)-文久4年2月16日(1864年3月23日))とは、幕末の国学者、歌人、勤王志士。国のために勤王志士となり歌を詠んだ。優れた歌を作ったが、国はおもうようにはならな
こんにちは♪今日は皆神神社→玉依毘売神社→象山神社に行ったお話でふ玉依毘売神社より車でこれまた数分順調に象山神社⛩️にとうちゃーく٩(๑❛ᴗ❛๑)۶やはりお空のエネルギーの凄いことよ〜空気が明るい🔆なんか雅な雰囲気もある皆神山を降りた時に出た飛行機雲のようなものはやはりこの辺から出てたのねなぜ消えない( ̄▽ ̄;)ま、気を取り直して佐久間象山の像象山先生と言えば言わずと知れた朱子学者、思想家であり未来から来たのではないかと言われるほどに先見の明があり天才的であった為に😅色々あ
慶応三年(1867)十月に新選組に逮捕されながら、十二月に解放された工藤剛太郎は、明けて慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、御所日ノ御門の警護にあたりました。のちに主君稲田邦植への出兵命令を伝えるため、勅書を奉じて淡路島へと向かいましたが、伏見方面は兵乱が未だ収まっていなかったので、嵐山から丹波へと迂回して帰国したといいます。そして稲田邦植に従い西宮出兵、更に高松藩征討に参加したのち、稲田勢は東征大総督有栖川宮熾仁親王に従い江戸へと進軍します。ちなみにこれらの稲田家
工藤剛太郎は四国徳島藩蜂須賀家の家老であった稲田家の家臣として、天保四年(1833)に生まれました。誕生日については三月二十四日、五月二十四日、あるいは八月生まれと諸説あります。父の名は武市、祖父の名は平左衛門とされ(『勤王殉国事蹟』)、代々稲田家に仕える家柄でしたが、禄高は三石八斗と微禄であり、武士の家柄といっても普段は農業で生計を立てていたようです。そんな中でも工藤剛太郎は少年時代から武芸、特に剣術に長じ、貫心流の達人であったと伝わります(『阿波名家墓所記』ほか)。稲田家の領地は主
叡電三宅八幡を下車大超寺に向かう途中に通りました有るには三縁寺その碑池田屋騒動で亡くなられた志士達が埋葬されている様ですでは目的の大超寺にむかいます
感謝してます!まるかんのお店美来の中川典子です!いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます「身体」「心」「魂」の三位一体で、人生を豊かにするお手伝いをしています・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の元の暦・神様開運アイテム!5月新作発表!5/20まで受付中です!『日の元の暦・神様開運アイテム!5月新作発表!』感謝してます!まるかんのお店美来の中川典子です!いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます「身体
昨年の十月頃に『人斬り松左衛門』と題して、九条家諸太夫宇郷玄蕃頭の暗殺や、横井小楠襲撃を実行した堤松左衛門のことを書きました。その最後に、京都の霊山墓地に、変名である南木四郎としての墓と、本名の堤松左衛門の墓の二つが存在しているという話を紹介しましたが、それに関して補足を。霊山墓地は元々霊明舎(現・霊明神社)の墓地だったものが明治になって官祭招魂社となり、霊山護国神社の墓地となったのですが、その霊明神社の神名帳(仏教でいう過去帳)に以下の記述があります。文久三亥年三月廿三日神
四国が題材だったり、出身者のお話なども手に取るようにしています。目論んでいる、自転車旅が少しは楽しくなるんじゃないかぁ~程度のノリなんです。四国一周でググってみると、ブログだったり、YouTubeだったりがヒットします。室戸岬の周辺で必ずと言ってよいほど、登場するのが、室戸岬の近く出身の中岡慎太郎の銅像です。残念ながら薄学の私はこの名前だけでは「?」でした。司馬遼太郎氏の「龍馬が行く」で登場しているでしょうが、登場人物多いしなぁ~(とボケる)調べると、坂本龍馬が襲撃されて最後を迎えるので
水口の大岡寺にはホームページなどでは紹介されていない、油川信近ら幕末に活躍した志士たちの招魂碑が建っていました。前回の油川信近に続き、残りの4人について簡単にですが紹介したいと思います。2.豊田美稲(とよだよしね)甲賀郡池田出身。天保三年(1832)生まれ。通称は謙次。二十歳の時に家を出て諸国を遊学し、江戸で塚田孔平に北辰一刀流を学んだといいます。肥後の宮部鼎蔵・松田重助らとともに池田屋事件の過激浪士たちの中心人物の一人でしたが、宮部とともに浪士たちの過激な意見に対しては慎重な
茶室に場所を移してしばらくすると、四人はそれぞれ地を出し始めた。酒の燗をする長兵衛の耳もようやく東国訛(なま)りになれ、話の内容も判りかけてくる。口数の多さでは、一番年若の優男(やさおとこ)が図抜けていた。その若者は部屋に入るなり、囲炉裏と床の間の造りを褒め上げ、旅籠の隠居が手ずから燗をつけてくれることに感謝しきりだった。頬骨が出て鰓(えら)の張った親分格は目つきも鋭いが、そうした外見とは異なり、穏やかな受け答えをする男だった。これなら無理難題は吹っ掛けてこないだろ
さて、前回少しお話しましたが、慶応元年(元治二年/1865)四月二日に京都見廻組の西原邦之助を、そして慶応二年(1866)四月一日の夜に新選組の谷三十郎を斬ったのが、実はいずれも渡邊昇だったとすると、話はうまい具合に噛み合います。西原を斬ったことで幕府に追われ、しかも渡邊は大村藩のれっきとした藩士であったので、幕府側は逮捕するよりも暗殺という手段を選んだ。そして一年後に再び渡邊が上京したことを知って、その命を狙うが、渡邊と旧知の仲であった新選組局長の近藤勇は、渡邊を助けようと手を打
『死生の境』(田中萬逸/博文館/明治42年)に収録されている渡邊昇の談話、「子爵渡邊昇氏談」の中の新選組に関する証言の二回目です。今回はかなり長いのでさっそく参りましょう。広々とした天神の境内、石畳をからからと、神前にたどり着いた時は、ちょうど日がトップリ暮れた頃。神に額づいて武運の長久を祈願し、裏手は淋しい銀閣寺(※)に通ずる小路、そこに反対に待ち伏せて、出て来る鼻をまず一人やっつけようと、あたりに気を配って待てども待てども流石に曲者は出て来ない。さては逃げ失せたかと、附近の楼に登っ
襲撃事件の三日後、慶応四年(1868)三月三日に無事天皇への謁見を済ませた英国公使ハリー・パークスは、すぐさま横浜に戻って行きました。そして戊辰戦争の戦後処理やその後の新政府の方針に大きな影響を与えつつ、明治十六年(1883)まで駐日公使をつとめました。在職期間18年は現在に至るまで英国公使・大使の最長記録です。パークスは明治十六年に日本を離れたあと中国に渡り清国公使(兼駐韓公使)となりましたが、二年後にマラリアにかかり死亡しました(享年57歳)。※.ハリー・パークス事件当
三枝蓊の斬首刑は慶応四年(1868)三月四日に執行されましたが、現場まで同行しながら襲撃に加わらなかった川上邦之助、松林織之助、大村貞助の三人に対しては、翌日の三月五日に流罪とすることが決まり、更に二日後の三月七日に流される先が隠岐島に決まりました。『太政官達』明治元年(慶応四年)三月七日松平出羽守別紙の通り仰せ付けられ候間、その旨相心得るべく候事。(別紙)川上邦之助大村貞助松林織之助右三人、今度隠岐国流罪仰せ付けられ候間、護送方の儀、手配いたし用意調(ととの)い次第、裁
襲撃事件が起きた慶応四年(1868)二月三十日、朱雀操(林田衛太郎)の父式之助は東山道鎮撫軍に従軍して、既に京を離れていました。一方衛太郎の叔父(母の弟)濱某は太政官の警護のために詰所にいましたが、天皇謁見のため御所に向かっていた英国公使一行が縄手通で襲撃されたことと、襲撃した暴漢が御親兵に属している者らしいという噂話が彼の耳にも入ってきました。「衛太郎も御親兵の兵士だが」と不安に思っていると、翌朝、襲撃者の一人が衛太郎であったというたしかな情報が入ってきました。驚いた濱某はすぐさま小堀家
※.本文にグロテスクな内容が含まれます。ご注意ください。朱雀操の死についてはいくつか疑問点があります。ひとつは所持していた刀(兼元)の刃だけでなく、裏側の峰にも無数の傷があること。これは、たとえば彼が刀を落として、慌てて拾い上げたものの無我夢中であったので峰打ちのまま切り合ったというのならば、あり得ない話ではないと思われます。しかし、実際には朱雀の方が優勢で中井弘蔵を押しており、ついには中井は袴を足に絡ませて尻餅をついてしまったというので、朱雀が刀を落としたというのは考えにくいと
さきかけて散るや大和のさくらはなよもやこころのままならぬともパークス襲撃事件で現場で死亡した朱雀操こと林田衛太郎の残した辞世の句ですが、この句は解釈のしようによってはまったく別の意味になります。「さきかけて」を「魁(先駆け)」と読めば、明治新政府が幕府の開国政策を引き継いだことに憤慨した攘夷志士の先駆けとなろう、たとえ「心のままにならぬ」、つまり計画通りにいかずに散ることがあったとしても、という意味になると思います。が、一方で「咲きかけて散る」のが「心のままにならぬ」のだと
そして慶応四年(1868)二月三十日、天皇へ謁見のため御所に向かっていた英国公使ハリー・パークスの一行が新橋通から縄手通に差しかかった時、突如二人の浪士の襲撃を受けました。その浪士とは三枝蓊と朱雀操です。二人は縄手通を二列縦隊で進んでいた英国騎馬護衛隊の騎兵たちを、左右からさんざんに斬りつけ、十二人の騎兵のうち九人が負傷しました。朱雀操は右側から騎兵を襲いましたが、それに気づいた中井弘蔵が馬を飛び降りて駆けつけ、刃から火花が飛び散るほどの激しい斬り合いとなりました。中井が尻餅をついて
朱雀操こと林田衛太郎が遊学中だった慶応三年(1867)十月十四日、徳川幕府第十五代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。大政奉還です。更に十二月九日には王政復古の大号令が発令され、「徳川三百年」と謳われた徳川幕府の治世はついに終焉を迎えるのです。その王政復古の大号令から三日後の十二月十二日、陸援隊を中心にした浪士が紀州高野山に兵を挙げましたが、その中に朱雀操の姿もありました。そして鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利すると、高野山勢は山を下り大坂を経て京都に帰還します。一方、衛太郎(朱
ひとつ訂正です。朱雀操こと林田衛太郎の実家は京都代官小堀家の家来であり、れっきとした武士の家柄だったと書きましたが、代官の家来は手代といって、本来は町役人や村役人が登用されるものであって、決して「れっきとした武士」とは言えなかったようです。お詫びの上訂正させていただきます。ただ、史料を読むかぎり林田家をはじめ、小堀家の家臣たちは苗字帯刀を許されていたようで、特殊な例であったのかも知れません。小堀家は代々京都代官を世襲していましたが、そのため朝廷との結びつきが強く、そのためか幕臣であり
朱雀操こと林田衛太郎は、京都代官小堀勝太郎の家臣林田式之助の息子として弘化四年(1847)十一月二十一日に京都に生まれました。幼少期より読書を好み、学問に励んだ衛太郎は、山口又左衛門(樟陰)及び岩垣六蔵(月洲。学習院教授)に儒学・漢学を学んだほか、「平田大角の門」(『濱某手記』)に入って皇道を志したとされます。平田大角とは平田篤胤及びその養子鐵胤のことで平田派の国学を学んだという意味ですが、篤胤・鐵胤ともこの時期に京都にいた事実はないので、おそらくその門下の大国隆正かその弟子の師岡正胤(節
パークス襲撃事件のもう一人の実行犯で、現場で死んだ朱雀操に関しては、これまで詳しい経歴がわかっていませんでしたが、幸い東京大学史料編纂所データベースに叔父(母親の弟)が書いた『濱某手記林田貞賢英公襲撃始末』(以下『濱某手記』と略す)という彼の出自が書かれた史料があるのをみつけました。この史料をもとに彼の歩んだ短い人生を探っていきたいと思います。朱雀操は本名を林田衛太郎貞賢といい、弘化四年(1847)十一月二十一日に「京師」つまり洛中で生まれました。新選組でいうと斎藤一や藤堂平助(1844
三枝蓊の自白から共犯者の川上邦之助、松林織之助、大村貞助も逮捕され、それぞれの供述も出揃うと、残るは彼らをどう処罰するのかという問題になりました。川上邦之助らに関しては隠岐島に遠島ということで、すんなりと決まりましたが、問題は実行犯の三枝です。太政官は「国法を犯した大罪人であるので磔刑にするべき」と主張しましたが、肥後、岡山などの諸藩は「寛大な処置を与えなければ、今後日本の正気が尽き果て、御国体にも関わりかねない」として寛大な処置を求めました。「寛大な処置を与えなければ日本の正気が尽
逮捕された川上邦之助、松林織之助、大村貞助の三人に対する取り調べが始まりましたが、三人は特に抗弁することもなく、素直に聴取に応じたようです。「その三人は、通りの下の方にある家で待ち構えていて、彼(三枝)と林田(朱雀)の計画が失敗するか、ほんの一部しか成功しなかったら、飛び出して来て、その後を襲う手はずであった」~『英国外交官の見た幕末維新』(A.B.ミットフォード)つまり、三人は新橋通と縄手通との丁字路の下(南側)にある家で待ち構えていて、上(北側)の角の菓子屋で待ち伏せしていた三枝
翌慶応四年(1868)三月一日の朝、三枝蓊(さえぐさしげる)に対する三回目の尋問が行われました。今度はアーネスト・サトウやアルジャーノン・ミットフォードではなく、御親兵の隊長を二条城から呼び寄せて尋問に当たらせました。尋問を前にミットフォードは三枝と接見しており、三枝は「外国人がこんなに親切な人間だと知っていたら、あのような企ては決して実行しなかっただろうし、そのことについて深く後悔している」と、後悔の念を何度も口にしたといいます。尋問に当たった人物の名前はわかっていませんが、おそら
さて、そろそろ時間を戻しましょう。慶応四年(1868)二月三十日の夜、三枝蓊に対して二回目の尋問が行われました。一回目の尋問では共犯者はいないと述べた三枝でしたが、二回目の尋問では共犯者がいることを認めました。ミットフォードの回顧録によると、「朱雀操と名乗っていた共犯者の本姓は林田というが名前は知らない。彼は京都の近くの桂村の村医者の息子で士族ではない。彼は浪人で御親兵の南一番隊に属していた」と三枝は供述したようです。が、先述したように、実際には朱雀操はれっきとした武士であり、おそらく三
慶応三年(1867)十二月某日、堺の町医者田中清夫の家に身を寄せていた三枝蓊の元に、ある報らせが届きます。それは陸援隊を中心とした浪士たちが鷲尾隆聚侍従を擁し高野山に兵を挙げ、紀州藩をはじめとする徳川方諸藩の動きを封じるというものでした。この浪士団は中岡慎太郎(前月十五日暗殺さる)が集めた土佐藩陸援隊そのものでしたが、藩に無断で白川藩邸の武器を持ち出し高野山に兵を挙げたので、土佐藩の方では「白川の者、帰り候とも御邸に入れぬ事」として関係を絶ってしまいました。そのせいもあってか、千三百人余の
文久三年(1863)十一月下旬、京を離れて因州鳥取へと向かった三枝蓊は、国学者で鳥取藩国学局教授であった飯田年平の元に身を寄せます。しかし、藩の要職にあった飯田の元に天誅組が隠れていては、万が一露見した時に大きな迷惑がかかることを憂慮し、翌元治元年(1864)二月に屋敷を飛び出してしまいます。そして、絵師として雲伯地方(島根県東部から鳥取県西部)を周遊したのち、東伯郡の、とある富豪の家に居候することになりました。この家が三枝家であり、まるで我が子のように温かく世話してくれたことに、幼くして