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🐎競馬、芸能、歴史、韓流華流時代劇、ミュージカル、宝塚歌劇...等々etcエトセトラ...こうしていろんなブログ内容を発信し続けるのも「筆まめ」の一種なんでござんしょうねぇ~(笑)。実は江戸時代にも、こういった所謂(いわゆる)「筆まめ✍️」な先達の皆々様がいらっしゃたお陰で、当時の風俗(フーゾクじゃ無いよぉ😓)やら社会状況を知ることができるわけで、その恩恵を現代人も受けているわけでござんす、はい🙋♂️。江戸時代は特に士農工商の一番上の皆さまがけっこう書いて✍️いるんですよコレが...
勝小吉の『夢酔独言』:勝部真長編より抜粋:『そこにはやはり伊賀衆の子孫としての忍者的生き方伝承されてあったと思われる。治にいて乱を忘れず、不断に身体を鍛錬し、武術を練り、心法工夫して、人間能力を最大限に発揮しようと苛酷な訓練を自己自身に課するところに、伊賀忍者の伝統が生きている。「忍術の者は、ただ忍び隠れると言うことではなく、堪忍の忍、忍耐の忍である」という。しかも縁の下の力持ちで、危険な任務に従いながら、どんなに手柄を立てても、秘密裏に闇から闇に葬られ、名もあらわれず、報われること
氷川清話夢酔独言勝海舟/勝小吉著川崎宏編中公クラシックスJ48勝親子によるまさしく独言です。とにかく親子とも粋な江戸っ子による痛快な弁で、たいへん面白く読めました。勝海舟はホラ吹きらしいですが、自分の知識では、どこまでがホラでどこまでが本当かよくわかりません。自分の知る限り、少なくとも咸臨丸のくだりは少しホラが混ざっているようですが。それにしても西郷隆盛に対しては、文中のあちらこちらで絶賛しており、西郷に対する勝の評価の高さが伺えます。勝小吉はほとんど懺悔録といってい
■能勢妙見山別院東京都墨田区本所4丁目6−14東京都墨田区にある日蓮宗の寺院です。大阪府豊能郡能勢町にある能勢妙見山の別院にあたります。こちらの能勢妙見山別院は、能勢妙見山の唯一の東京別院です。安永三年(1774年)に創建され、能勢妙見山を領有し、能勢妙見堂を篤く信仰していた旗本能勢氏の江戸下屋敷に妙見大菩薩を祀ったのが起源との事です。坂本龍馬の師匠である勝海舟とその父・勝小吉の信仰がとても篤かったことで知られており、院内には勝海舟の銅像が建っております。坂本龍馬もこちらに何度も通
ちょっとした偶然である。が、それはそれで面白いからメモしておこうと、書く気になった。最近、「靖国の精神史」(小堀桂一郎著)という本が届いた。「はじめに」で、今上天皇が退位した、と書かれていて、靖国神社が建立されたのは、九段坂上だと。ここで気になった。気になるはずである、九段は僕の本籍地で、僕は九段北で生まれたから。非常に近いはずだ。それで地図を出してきて、調べたら驚いた。生まれた九段北から靖国神社は所謂、目と鼻の先という
さて、せっかくなのでここで鉄舟と泥舟についてもふれておこう。山岡鉄舟は、禅を学び、私心のない赤心の塊のような人物だ。山岡鉄舟-Wikipedia『勝海舟』ては、海舟の使者として西郷隆盛の下へと向かう。一升飯、一升酒をばくばく食って呑んで江戸から京へ。勝海舟の下で庇護されていた薩摩藩の益満休之助が途中から加わる。敵地を抜けて西郷に会うのは至難の業だったが、益満が加わったことで、なんとか検問を突破する。益満は江戸で倒幕のための放火などテロ行為をしていたが、勝はそれを知っていて匿った
赤心(せきしん)…今の政治家にこれのある人物がいるのかと考えると、とても情けない気分になる。おそらく聞いても答えられない人物が多く、また知っていても非常に狭い保守的な解釈しかできないだろう。『氷川清話』を読むだけでも、海舟にとって赤心とはいかなるものかよく分かる。またこの本は、さまざまな人生の機微についても書かれていて、今でも参考になることが多い。例えばショーバイの心得。ある料亭で忙しそうな女将を見て、海舟が「繁盛していていいねえ」と言う。女将はいささか色をなして怒る。「今、ウチは
小学の高学年になって、尊敬する歴史上の人物のひとりに勝海舟が加わった。当時、渡哲也主演でNHKの大河ドラマ『勝海舟』が放映され、また実家の最寄り駅の山手線・田町駅に、勝海舟と西郷隆盛の会見のモザイクが壁に描かれもした。大河ドラマでは渡哲也が体調不良で降板し、松方弘樹が引き継いだ。海舟の親の小吉役は、歌舞伎の名優でもある尾上松緑。これが実にいい味を出していた。原作『勝海舟』を読み、また母親には『氷川清話』を買ってもらった。勝海舟勝海舟(一)(新潮文庫)|寛,子
清澄通りを両国駅方向に戻り駅近くで路地を曲がると・・・榛稲荷神社榛稲荷神社、創建年代は不詳ですが江戸時代、神社周辺に榛馬場(はんのきばば)と呼ばれた武術練習場があり、その練習場の土手に榛の木(はんのき)が植えてあったそうで、榛の木の傍に祀られて榛稲荷神社と呼ばれていたそうですまた江戸時代には、周辺に葛飾北斎や勝海舟な著名人が居を構えていました葛飾北斎は、生涯で90回以上も転居を繰り返したとされ、この神社のすぐ近くに住んでいたことがあったそうです。北斎は90歳で
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝小吉が戻ってきた❣】2年前、好評を博した「小吉の女房」のパート2の放映が4月から始まりました。NHKBSPで毎週金曜日の夜8時から。勝の父である小吉を中心に妻のお信、息子の麟太郎(後の海舟)、妹のお順の家族と勝家と関係の深い人たちとの市井での暮らしを描いたドラマです。小吉には古田新太さん、お信に沢
勝小吉「夢酔独言」を読む気が起こった。老い先短い私はもっと遊んだほうが良いのだろう。
江戸っ子の生まれ損ない金を貯めという川柳がある。江戸っ子は宵越しの銭は持たない、という金離れの良さを著した言葉があるが、この川柳は逆説的な物言いだ。もっとひどいのもある。江戸っ子は五月の鯉の吹き流し口はあれどもハラワタはなし類型的な江戸っ子像として、金離れが良く、細かい事にはこだわらず、意地っ張りで喧嘩早く、口は達者で駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感が強い、そして根気がないという。これが江戸武士になるとさらに分が悪い。江戸武士とは旗本
この文章は2009年に書いたものですので,そのつもりでお読みください.「順天堂医学」56巻の「医学プロムナード」に掲載された文章を許可を得て転載しています.現在放映中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、武田鉄矢の扮する勝海舟が大活躍をしており、香川照之の扮する岩崎弥太郎と並んで、大人気のようです。勝海舟はたしかに幕末・維新期の多くの偉人たちの中でも、飛び抜けた大人物だと思いますが、その父親である勝小吉も非常にユニークな興味のある人物です。まさにこの父にしてこの息子ありという関係で、この父子の
何となく微熱が体に居座った感じは、梅雨時はどなたもがお感じになられることでしょうか。どかっとバケツをひっくり返したようなそれではなく、しとしとと降る雨音は、ひとまず心の静まるものでございます。今日は運勢12位、偉そうなことを言ったり嘘をついたり自慢したりしそうな日だと読みました。飾れぬのが声だなーと思いました。で、読ませていただきました。たぶん具合悪いよー、にこもる言い訳が、まずは誤魔化してんじゃねえっにつながりそう。何かというと、ついつい言い訳がましくなりますのは
即位儀式彩る壁画「賢聖障子」全9面を初公開京都国立博物館47NEWS江戸時代から昭和の天皇即位といった重要な儀式を彩った京都御所(京都市上京区)の障壁画「賢聖障子(けんじょうのしょうじ)」が、東山区の京都国立博物館で...朝鮮通信使、人形で再現「雨森芳洲庵」元館長・平井さん長浜/滋賀毎日新聞江戸時代の儒学者、雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)の顕彰施設「雨森芳洲庵」(長浜市高月町雨森)の元館長、平井茂彦さん(74)が、朝鮮から江戸幕府へ...若者が使うまじは今時
みなさん勝小吉(かつこきち)さんてご存知ですか?私はまったく存じ上げませんでした。勝海舟のお父様なんですって!勝小吉←wikipediaご参照を、デビュー45周年を迎えた中村雅俊さんが演じる舞台へお邪魔しました。二部はショーです。ノボリを撮るご婦人方に混じってパチリ***脚本/鹿目由紀脚本・演出/鴻上尚史【あらすじ】時は幕末。自由気ままに生きる男、その男とは勝海舟・・・の父・勝小吉(中村雅俊)。その性格が災いして出世の道から外されたが、潔さに惹かれて頼
⭐天保二年(1831)小吉三十歳嫡男麟太郎、御殿より下り家に帰る。野犬に睾丸を噛まれ重傷。用人の利平次没す。☆十返舎一九歿(57)辞世句「この世をばどりゃお暇と線香の煙と共にはいさようなら」★武家の日傘使用禁じられる。☆葛飾北斎『富獄三十六景』を描く。⭐天保三年(1832)小吉三十一歳★鼠小僧次郎吉処刑さる。☆安藤広重『東海道五十三次』刊行。☆頼山陽歿(53)★諸国飢饉、東北地方洪水の為、不作。⭐天保五年(1834)小吉三十三歳★二月江戸大火。★三月水野忠邦、老
NHK-BSプレミアム時代劇【小吉の女房】2019.1/11~3/1毎週(金)20:00-20:43全8回勝小吉による自叙伝であり古典の名作でもある📖『夢酔独言』をモチーフに、山本むつみのオリジナル脚本により勝海舟を育てた型破りな夫婦を描いたホームドラマ時代劇。<主なキャスト>◆お信(旗本勝家の家付き娘)/沢口靖子◆勝小吉(勝家の婿養子)/古田新太◆勝麟太郎(小吉の嫡男のちの海舟)/福富慶士郎(#1-4)勝麟太郎/鈴木福(#5-8)◆お登勢(お信の祖母)/江波杏子◆男谷
閏八月の二日、銭三百文戸棚にあるのを盗んで()、飯を沢山弁当へ詰めて、「浜へ行く」と言って、夜八つ(午前2時)時分に起きて漁師の喜平の家を逃げ出して、江戸へその日の晩の八つ頃に来たが、あいにく空はまだ暗く、鈴が森では野犬に取り囲まれ、一生懸命大声をあげてわめいたら番人乞食(鈴が森刑場の番人をしている非人であろう)が犬を追い散らしてくれたのでやっと高輪の漁師町の裏に入って、海苔取り船をひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥(くたび)れたせいか、あくる日、陽が昇っても寝ていたから、ところのも
<おことわり>文中、各所に不適切な文言が出て来ますが、あくまで江戸時代の人物の日記でござんすので、そのまま掲載します((^-^;)有り体に申せば「きゃんたま」の事です(笑)。『秋月藩の仲間(中間=ちゅうげん)親方』なんにしろ杖をついては埒があかぬから、かごへ乗れと、駕篭を頼んで毎日毎日よく世話をしてくれた。「江戸へ行ったら送ってやろう」と、府中(駿府)まで連れて来てくれたが、その晩親方が博奕の喧嘩で大騒ぎになって、国(日向高鍋、現在の宮崎県)へ帰ると言い出し、俺にくれた反物を取り返し、代わ
「二丁目の廓の客」ある日の晩、飯が食いたいから、二丁町へは行ったが、麦や米ばかりで飯をくれぬ。曲がり角の女郎屋で客が騒いでいたが、その客が俺に言うには「お前は小僧のクセになぜ、そんな二本杖で歩く?患ったか。」というので「左様でござります」と言ったら、「そうであろう。よく死ななかった。どれ飯をやろう」と言い、飯や肴やいろいろの菜を竹の皮につゝませ、銭を三百文つけてくれた。俺は地獄で地蔵に会ったようだと思い、土下座して礼を言ったら、その客が「お前は江戸のようだが、ほんの乞食ではあるまい。どこの侍
『府中の与力』ある日、府中の城(駿河府中つまり駿府)の脇の、御紋付を門の扉につけた寺があるが、その寺の門の脇は竹やぶばかりで、その脇に馬場があって、馬場の入口に石がたんと積んであるから、そこへ一夜寝たが、翌日朝早く侍が十四、五人来て、借馬の稽古をしていたが、どいつもこいつも下手だが夢中になって乗っていた。俺が目を覚まして起き上がったら、馬引どもが見おって、「ここに乞食が寝ておった。ふていやつだ。なぜ囲いの内にへえりおった」とて散々叱られたので、いろいろ詫びをして屈んで、馬乗りを見たが、あんまり
『十四歳・出奔・乞食旅』十四の年、俺が思うには、男は何をしても一生くわれるから、上方辺りへかけおちをして一生いようと思い、五月の二十八日に、股引きを履いて家を出たが、世間の中は一向に知らず、金も七、八両ばかり盗み出して、腹に巻き付け、先ずは品川まで道を聞き聞きしてきたが、なんだか心細かった。それからむやみに歩いてその日は藤沢に泊まり翌日早く起きて宿を出たが、どうしたらよいか思案しながらふらふら街道を行くと、町人の男二人連れと意気投合し一緒に上方に行こうとなって、その日は小田原に泊まった。その
『十歳のころ・馬の稽古』十の年の夏から馬の稽古を始めた。先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。俺は馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、ふた月めに遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったから横丁へ逃げ込んだ。そうすると先生が、次の稽古に行ったら、小言を言いおった。「まだ鞍も座らぬクセに。以来は堅く遠乗りはよせ」といゝおった故、大久保勘次郎という先生の所へ行き攻め馬の弟子入りをしたが、この師匠は良い先生で、毎日
『九歳のとき』九つの時、養家の親類に、鈴木清兵衛という御細工所頭を勤める仁、柔術の先生にて、一橋殿・田安殿始(め)諸大名、大勢弟子をもっている先生が横網町と云う所にいるゆえ、弟子になりに行くべしと、親父が云うから行ったが、三、八、五、十がけいこ日にて、初めて稽古場へ出て見た。始めは遠慮をしたが、段々いたづらをしゐだし、相弟子に憎まれ、不断ゑらきめに(えらいめにか?)あった。ある日稽古に行くと、はんの木馬場という所で、前町の子供、その親どもが大勢集まって、俺が通るのをまっている。一向に知らぬ顔を
『八歳のとき』深川の屋敷も度々の津波故に、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで駿河台の太田姫稲荷の向かい側、若林の屋敷を当分借りていた。其の屋敷は広くって、庭も大層で、隣に五、六百坪の原っぱがあったが、化け物屋敷と皆が話した。俺が八つばかりの時に、親父が家中の者を呼んで、その野原に人の形をこしらえて、百物語をしてこいと言ったので、夜皆がその隣の屋敷に一人ずつ行って、かの化け物の形の袖へ名を書いた札を結びつけてくるのだが、みんな怖がって可笑しかった。一番終いに俺が行く番であったが、四文
『七歳・養子・凧喧嘩』俺が七つの時、今の家(勝家)へ養子に来たが、その時十七歳と言って、けしぼうず(=幼児の髪型。男女問わず「髪置」の儀式まではこの髪型だったようだ。有り体に云えば「子連れ狼」の大五郎カット☝️😉)の前髪を落として、養家の方で小普請組支配石川右近将監と組頭の小尾大七郎に、初めて判元の時であったが、その時は小吉といったが、頭(小尾)が「年は幾つ。名はなんという」と聞いて来たので「小吉。年は十七歳」と言ったら、石川が大きな口をあけて、「十七にしては老けた」と笑いおった。その時は青木
『五歳のとき』俺が五歳の時、前町の仕事師の子の長吉というヤツと凧喧嘩をしたが、相手は三歳年上で大きいので、俺の凧を取って破り糸も取ったので、胸ぐらを掴んで切り石で長吉の面を殴ったので、唇を切って[原文は→くちべろをぶちこわして]大出血して泣きやがった。その時俺の親父が庭の垣根から見ていて、侍(若党か?)を迎えによこしたので家へ帰ったら親父が激怒して「人の子に疵をつけて済むか済まぬか。おのれのような奴は捨てておけぬ」と言って、俺の体を柱に縛りつけて、庭下駄で頭をしこたま殴られた。いま、その傷が
一昨年の3月に神田神保町の古本屋街を漁って😳見っけて即買い✌️😄。今春、NHKのBS時代劇で沢口靖子主演【小吉の女房】というのがoaされていた。その沢口扮するお信さんの旦那さんが今回の主役☝️「俺スカ」のノブオ役の古田新太が演じていた人物「勝小吉」。あの幕末の立役者の一人、勝海舟の破天荒なオヤジ😱🙀😫😄である。はじまり、はじまり....拍手👏★天保十四年(1843)四十二歳鶯谷に庵を結ぶ。初夏『平子龍先生(平山行蔵)遺事』の稿成る。初冬『夢酔独言』を書き綴り、家訓庭訓にする。随筆「卯