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黒田寛一は『日本の反スターリン主義運動2』(こぶし書房、1968年刊)で次のように書いた。1965年に「合理化反対闘争が動力車労組によってたたかわれた。たとえこれらの闘いは挫折したとはいえ、この反合理化闘争のただなかでわれわれが提起した闘争目標と闘争内容の質的高さは記録されなければならない。「一人乗務反対!ロング・ラン反対!」のスローガンをもってたたかわれたこの反合理化闘争」(113頁)、と。黒田の内面には、「米・ソ核実験反対」のスローガンにたいしてそう感じたのと同様に、「一人乗務
先に見たように、黒田寛一は、われわれが既成の労働運動・大衆闘争をのりこえていくという大衆闘争論的立場にたつこと、また、われわれが・腐敗した党派を直接的に革命的に解体するという党派闘争論的立場にたつこと、さらに、ソビエトたるわれわれが・現存する国家権力を打倒するという革命闘争論的立場にたつこと、こういったことを解明した。われわれが立脚すべきものとして明らかにされた立場は、すべて、われわれがわれわれの外に在るものを変革するという立場である。われわれはわれわれが創造し推進しているプロレタリア階級闘争
「革マル派」古参官僚の前原茂雄は、政治集会で次のようにしゃべったという(「解放」最新号=第2749号2022年12月19日付)。「黒田の〈場所の哲学〉をわがものとすべく、ともに努力しようではありませんか。」と。これは、自分自身が黒田の〈場所の哲学〉を投げ捨て踏みにじっていることを隠蔽するための言辞なのである。前原茂雄は、JR戦線の革マル派組織が脱落し崩壊したという冷厳な現実をおおい隠すためにのみ、この特別報告をおこなったのである。もしも、黒田の〈場所の哲学〉をわがものとし自己に貫徹
『日本の反スターリン主義運動2』において、黒田寛一は、1965年の9・20反合理化闘争のスローガンをめぐっての内部論議における松崎明の欠陥を「内部思想闘争における日和見主義」というように切開している。次の展開がそれである。「たえざる学習と研究がなされていない場合には、自信をもって理論闘争ができないだけでなく、さらに自分自身の方針・路線・理論のほうが正しいと確信していたとしても、これを組織内全体に貫徹するための理論闘争を組織的に実現することにおける日和見主義さえもがうみだされることにも
JR戦線のわが革マル派組織が壊滅した、という現時点から過去の論議を捉えかえし省察するならば、1960年代の松崎明の諸活動への「ケルン主義」という黒田寛一の批判は、彼松崎明の実践を十全につかんだものとは言えないのではないか、と私は考えるのである。黒田寛一は、1968年に執筆した『日本の反スターリン主義運動2』において、松崎明を先頭とする国鉄委員会の同志たちが「ケルン主義」という傾向におちいったとして、それを次のように切開している。「ケルン主義には二つのモメントが、労働運動の左翼的展開お
デマ宣伝連載をとおして「革マル派」中央官僚派がついに対応できなかったものは何か——黒田寛一の松崎明へのこの批判は正しいか「革マル派」中央官僚派はわが探究派へのデマ宣伝を8回も重ねてきたのであった。だが、彼らは、われわれが革マル派組織建設の挫折の根拠として明らかにしたことに何一つ自己の見解を表明することができなかった。その一つは、松崎明への黒田寛一の次の批判は正しいのか、ということである。黒田寛一『組織現実論の開拓第二巻運動=組織論の開拓』(あかね図書販売)に、黒田が一九六四年
われわれは、革共同第四次分裂の勝利の地平をうちかためた。われわれは、現在の変質した労働組合運動の内部において、これを左翼的にのりこえていくための確固とした組織的および大衆的の基盤をつくりだしてきた。また、労働組合のない職場において、職場闘争を果敢に展開し、わが組織の担い手を創造するための基盤を創造してきた。われわれは、これらの闘いの指針および諸活動を解明するために、黒田寛一が創造しわれわれが主体化してきた組織現実論(大衆闘争論・運動=組織論・党組織建設論を主要な構成部分とするそれ)を適
「革マル派」中央官僚が、ツイッターに、あたかも実在するかのような氏名を名のって、「政府や体制を批判する本を買うと、きっとビデオが警察にまわるね。いやだねー」などと右翼・ネトウヨと見まがうばかりの投稿をして、下部組織成員と労働者・学生・知識人たちに買いに行かせたくなかった本は、いったい何なのか。それは、松代秀樹編著『松崎明と黒田寛一、その挫折の深層』(プラズマ出版)なのである。彼らがこのような焚書を策したのは、「解放」紙上で、デマ宣伝を8回もやったのに、「カチカチ山」事件はエピソードだったん
「革マル派」中央官僚がわが探究派に「反革命」のレッテルを張ったのはなぜなのか。それは、彼ら中央官僚が、「あいつらは反革命だから、あいつらの本を見るな」といって、下部組織成員の目をふさぐためである。彼ら中央官僚が、何としても隠蔽したかったのは、JR戦線の革マル派組織が総体として「革マル派」本体から離反し離脱したという事実であり、その根拠である。この離反の根源を探るためには、1966年初頭のかの「カチカチ山」事件を直視し、それを反省することが不可欠なのである。彼ら中央官僚が下部組織成員の目
「革マル派」中央官僚派は、わが仲間にたいして、「ロシアを拠点に暗躍している」「某国の諜報員です。」「この諜報員に、町内会から出て行ってもらいましょう。」と中傷する郵便物を、偽名で町内の各家に送りつけた。怪文書の送付というこの妄動は、町内の人たちの「これは右翼?」という反応によって粉砕された。さらに、彼ら中央官僚は、わが探究派の本を下部組織成員・労働者・学生・知識人に書店で買わせないようにするために、偽名でツイッターに、「政府や体制を批判する本を買うと、きっとビデオが警察にまわるね。いやだね
ツイッターにいろいろな個人名を語らって投稿している「革マル派」中央官僚を規定しているものは、わが探究派の本への憎しみである。この人物の内面に渦巻いている怨念はすさまじい。この人物は、われわれの彼ら中央官僚派への批判に何一つ反論することができないので、われわれの見解が書かれている本を憎んでいるというわけなのである。ブルジョア的人間は貨幣を崇め奉る。貨幣物神崇拝である。これにたいして、この人物は本を憎む。この両者の違いは、物を崇め奉るのか、それとも物を憎み排斥するのか、ということにある。後
前原茂雄は下部組織成員や「解放」読者をだますために見えすいた嘘をつく。彼は、嘘は大胆にとばかりに架空の物語をこしらえあげ、それらしい雰囲気を漂わせるのをこととしているのである。前原は私に向かって言う。「おまえはかつて国鉄戦線の労働者の会議に何度か参加したことがあるが、そもそも発言したことがあるのか。とりわけ古参労働者の前で。いや、彼らと個別の対話をしたことがあるのか。いつも〝借りてきた猫〟のようにちんまりと緊張してかしこまって黙っていただけではないか。」と。このような言辞は、198
前原茂雄は、1966年初頭の事件について次のように書いている。「同志黒田は、本庄と一部の青年部活動家たちが松崎氏の自宅に押しかけるたというこの事件の一報を、森茂書記長から聞いた。同志黒田は瞬時に、「彼と論議をするのなら、なぜ一人か二人で行かないのか」と同志森を詰問した。そして直ちに打開にのりだした。」と。組織とその諸成員の実践のこの再生産は、きわめておかしげなものである。ここには、種々のごまかしがある。まず、「一部の青年部活動家たち」と書いているのであるが、これでは、あたかも同盟員
前原茂雄は、松崎明の次の発言を引用して言う(「解放」第2745号)。「「六六年の『カチカチ山』事件ですね。わが家に大挙して押しかけてくるわけですよ。」(『秘録』一五八頁)スパイ宮崎が〝本当に革マル派から離れたのか?いつ離れたのか?〟としつこく質問してくるのにたいして、松崎氏は、革マル派とは距離をおいていることを〝納得〟させるために、わざわざ革マル派結成直後の「エピソード」をもちだしたのである。」と。前原のこの説明はきわめておかしげなものである。これでは、松崎氏は宮崎を〝納得〟させ
松崎明は動力車労組田端支部書記長として、助士廃止反対闘争を、ストライキをもってたたかうべきことを提起し、動労本部はこれをうけいれ、田端支部を拠点として設定した。これが、1965年の9・20反合理化闘争であった。年配の人であれば、1969年に動力車労組が列車に白くスローガンを書き、助士廃止反対闘争を激烈にたたかったことを記憶している人も多いであろう。機関助士とは、蒸気機関車を走らせるために窯に石炭を投げ入れることを職務とする労働者であった。国鉄当局は、蒸気機関車を電気機関車やディーゼル機
探究派公式ブログには、≪<連載>松代秀樹「反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失」≫の第7回(最終回)として、「七一九九〇年代初頭に二人の常任メンバーがめざしたもの」が掲載されている。二人の常任メンバーとは、「賃プロ魂注入主義者」と烙印された土井と足利隆志である。彼ら二人がくわだてたのは、1962年の動力車労組の運転保安闘争を教訓化するかたちで展開されている・松代秀樹執筆の「労働運動論」を抹殺することであった。1962年の三河島事故の後の青森大会において動力車労組は、事故