ブログ記事13件
久しぶりの千秋文庫。「館蔵古地図展」を見に来ました。江戸時代や明治時代のいろんな地図。日本地図や世界地図もあります。江戸後期や明治時代の日本地図の正確なことに驚きます。わたしが知っている日本地図のまま。よく考えると、宇宙飛行士にでもならない限りは自分で正確かどうかは確かめようはないんですけどね。帰りに靖国神社に寄ると「みたままつり」の準備に入っていました。靖国神社のみたままつりというと、何か特別なお祭りに聞こえますが、実際は大規模な縁日みたいなもんです。
2025年6月神奈川県横須賀市深田台平和中央公園満開のアジサイ戦没者慰霊塔撮影する私の背後に、加農砲砲台砲側弾薬庫が眠っています(地下、痕跡分からず)見晴らし良し画面中央は猿島大戦後、横須賀米国海軍基地司令官として、混沌とした同市の経済や文化の復興に、絶大な温情を以て寄与した人物平和のモニュメント米ヶ濱砲台は、旧陸軍が建設した東京湾要塞を構成する砲台の一つで、明治23年~24年にかけて建設横須賀軍港の守備、及び、不入斗(いりやまず)にあった要塞砲兵第一連隊(=のちの横須賀重砲
先週の土曜日は、完全に休みにして都内を散策してきました。生憎の雨でしたが、途中から曇りに変わって歩きやすかったです。靖国神社に参拝した後、境内にある遊就館を観てきました。戦争関連の展示等が多くあります。包丁正宗はかなり大きいですよね。写真撮影出来ないので写真はありませんが…予想以上の大きさなので、実物のサイズ感が気になる方は観に行ってみてください。展示の中でも個人的には、桜花のシンプルなデザインが好きです。命を部品にしてしまった特攻兵器ではありますが、当時の日本の最先端技術の結晶
参拝日2024年4月23日(火)前回、海潮院について書きましたが、その横に隣接する神前神社について書きます。まず由緒ですが、神武天皇をご祭神としています。神話の世界です。「旧県社」とあります。私はお寺巡りが中心なので、神社の格について調べました。wikipediaによると、神社の分類は下記のようになっています。明治時代の格付けです。・官社・・国から奉幣を受ける神社・諸社・・府県社・郷社・村社諸社のうち府県社は1,148社、郷社は3,633社
3回に分けて書いてきた東京湾要塞第二海堡への上陸ツアー。毎回書いてきているが、東京湾の三浦半島と房総半島の中間に造られた人工島である。その歴史など、またこの第二海堡の様子などに興味を持たれた方は3日前のブログからお読みいただくと、その歴史なども含めて書いてある。この第二海堡まで、横須賀の三笠桟橋から片道約30分。東京湾の要路である浦賀水道をクロスする形で船でいく。海堡での滞在時間は、約1時間。見学を終えての帰路だ。この浦賀水道は一日に往来する船の数が約500隻。タン
引き続き、第二海堡上陸ツアーの話である。この地図をアップするのも、3回目。東京湾要塞第二海堡は、三浦半島と房総半島の間、浦賀水道に造られた人工島。造られた歴史については、その1を。それから、観光資源として上陸できるようになった流れはその2をお読みいただきたい。昨日は、地図上で逆への字型にみえるこの第二海堡の中央部分にあるトーチカのことを中心に書いた。今日は、その西側(地図でみると左側)のあたりのことを書き綴っていく。トーチカのあったあたりがこの海堡の最も高
久々の靖國参拝。正式参拝の後、遊就館の撮影OKゾーンにて。最後に、エントランスの無料スペースに戻り、そこの展示物をゆっくりと。こちらは、九六式十五糎(cm)榴弾砲。↓大陸ではノモンハン事件、フィリピンではバターン・コレヒドールで戦った後、沖縄防衛戦に従事し、昭和20年6/23、糸満市真壁で全弾を撃ち尽くして玉砕。こちらは、八九式十五糎(cm)加農(カノン)砲。↓首里から嘉手納への攻撃で使われたとか。沖縄の洞窟陣地内で発掘された物らしい。奥が九六式十五糎榴弾砲。↓
久々の靖國参拝。拝殿周囲の小径を行く。こちらは、『憲兵の碑』。↓第二次大戦末期、東京への空襲により、靖國神社拝殿&本殿が焼失しそうになった時、憲兵隊が消火活動に当たり、ここを護った…という話。そのまま進み、本殿の真後ろの白い建物が木々の間に見えて来る。↓こちらは、霊璽奉安殿。靖國神社の御祭神、国の為に戦い散華した“246万余柱の英霊”の名簿が納められているという。奉安殿の側面屋根(奥の大屋根)。↓その向かい側の参拝者臨時駐車場の奥に、何やら鳥居が。↓かつて、明治
走水低砲台跡の南側、観音崎砲台群。ここから、三軒家砲台跡へ。ゲート跡を入るとすぐに、左の壁面に謎の鉄扉が。↓2枚並んでいる。↓下図、中央やや下の“見張所”というのが、先程の階段下の建造物跡。そして、右端通路とy字型通路を結ぶ点線の通路が、2枚の鉄扉の正体かと。↓27cmカノン砲が4門、12cmカノン砲が2門在った模様。一番右の砲座から。↓周囲の窪み“弾室”と、小さな丸い穴は“伝声管”(通信設備)跡か。↓砲座の斜め下には、コンクリートで埋められた弾薬庫。↓同行の
横須賀市、走水神社のすぐ近くの走水低砲台跡。第一&第二砲座の間の弾薬庫の上の、塞がれた揚弾口の脇…↓揚弾口の上の通路へと繋がる旧階段を見つつ…↓上って行くと…第一砲座跡に出る。↓他の砲座と同様、周囲の壁の窪み“弾室”が有る。↓↑砲座の脇には、謎の長い鉄棒が。↓以上、4つの砲座と兵舎、弾薬庫が遺された、走水低砲台跡探訪、終了!走水低砲台を含む、所謂、東京湾要塞は、一度も実戦を行わなかった。最大の危機は、日露戦争の最終局面で、バルチック艦隊が東京を直接砲撃する事を計
横須賀市、走水神社の近く、走水低砲台跡。こちら、第三砲座跡。↓おそらく、中央部分には、この様な27cm加農砲が据えられていたハズである。↓第四砲座と同じく、周囲には弾室。↓砲座跡を撮影しているのは、同行の鎌倉エフエムの士。↓↑砲座跡の直径は、1m強。↓こちらの階段は、弾薬庫の上を通って第三&第四砲座をつなぐ通路への上り口。↓↑通路のすぐ下、ブロックで塞がれている所は、弾薬庫から弾薬を揚げる揚弾井の上部、揚弾口。↓日露戦争、資金調達の戦い高橋是清と欧米
横須賀市、走水神社の近く、走水低砲台跡。第四砲座に上がってみる。↓中央には、27cm加農砲が据えられていた跡。↓直径1メートル程か。↓周囲の壁には、窪みが並んでいる。↓この窪みは、地下弾薬庫から揚げた砲弾を立てておく場所。(弾室)↓砲座の外周には、この急階段。建設当時のままである。↓砲座のすぐ上には、何か建造物の跡らしき物が。監視所もしくは、指揮所か?↓第四砲座を見下ろして。↓ここから、第四砲座の外側の緑地を第一砲座方面に移動。下図、各砲座のすぐ上の緑
火砲について学んでゆきたい。今回はカノン砲について紹介する。カノン砲(加農砲)およびカノンは、火砲(大砲)の一種。キャノン砲とも呼ばれる。現代の定義は同口径の榴弾砲に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が長く、高初速・長射程であるが重量とサイズは大きく、やや低仰角の射撃を主用する。しかしながら、概ね冷戦後の現代は火砲の進化(榴弾砲の長砲身化)による砲種の統廃合(榴弾砲の統一)により、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっている。カノン砲は16
靖国神社。戦史遺産は、遊就館の外にも。青銅の80ポンドカノン砲。↓幕末、品川台場に据えられていた物。青銅の120ポンドカノン砲。↓やはり幕末に、天保山砲台に据えられていた物。鋼鉄の30ポンドカノン砲。↓安政大地震による津波で沈んだロシア艦・ディアナ号の搭載砲の一つだとか。横須賀の三笠公園の記念艦・三笠の前に保存展示
靖国神社。参集殿の斜め前には…遊就館!明治15年から戦没者の遺品等を展示している。今では近現代戦史だけではなく、古墳時代から江戸時代に至るまでの日本の武具も見られる。。通常展示に加え、創建150年展も。↓館内に入ると、チケット売り場の前のフリースペースに零戦や野戦砲が。↓実は、正式参拝をすると、ここの半額割引券を頂けるので、この日は5