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張良は、三度目は、日の昇る前に行くと老人は、後から来た。老人は、「その謙虚さこそ、宝である」と言い、張良に、「太公望兵書(六韜)」を与えた。「この書を読み、10年後には、王者の軍師となるだろう」と告げた。そして、「此れを読めば、王者の師となれるだろう。13年後、済北の穀城の下にて黄石を見るだろうが、それが私だ」と言った。黄石公の予言は、全て、的中し、張良は、穀城の黄石を得て、それを祀ったと言われる。黄石公は、太公望と共に兵法の祖として、仰がれ、その名を冠した、兵法書の種類は
劉邦が、景駒に兵を借りに行った途上、同様に、景駒に従おうとして、留に赴いた、張良に出会った。劉邦にとって、張良との邂逅は、景駒に兵を借りるより、遥かに重要であった。張良は、劉邦と出会うと、劉邦に従うことに決めたため、張良は、景駒と会見しなかった。劉邦と張良の出会いが、中華世界の歴史の運命を変えたと言える。劉邦と張良の関係は、『三国志』の劉備玄徳と諸葛孔明と同様、「水魚の交わり」である。中国史上において、「王佐の才」、即ち、王の補佐役としては、周の文王及び、武王の太公望、斉の
『史記』は、他に無数の「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。劉邦が、赤龍の子であるとする逸話があり、漢が、火徳の帝朝と称することに繋がっている。また、前述の通り、劉媼が、劉邦を出産する前、夢の中で、神に逢い、劉太公は、劉媼の上に龍が乗っている姿を見たとの逸話は、赤龍の子とする、逸話の補完であろう。ある時、劉邦は、亭長の役目を任ぜられると、人夫を引き連れて、咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた、人夫達は、次々と逃亡した。秦は、法が厳しいため
しかし、劉太公の度重なる、口添えにより、劉邦は、劉伯の遺児の劉信に爵位を与えたが、その称号は「羹頡侯」であった。羹頡は、羹(あつもの)の入った、鍋を擦るとの意味で、過去に劉伯の妻が、劉邦に対して、行ったことを露骨に当てこすっていた。劉邦は、嫂から、受けた、仕打ちを終生、忘れることはなかったのである。挙兵以前の劉邦は、親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ、生活をしていた。幼い頃の劉邦は、魏の公子である信陵君を慕い、彼の食客だった、外黄県令の張耳を訪ねて、親交を深めた。
懐王は、宋義・項羽・范増を主力軍とし、趙を攻めている、秦軍を破った後、秦の咸陽へと攻め込ませようとした。一方で、劉邦を別働隊として、西回りに咸陽を衝かせようとした。懐王は、主力軍と別働隊の行軍の条件に差を設けると、「一番先に関中(咸陽周辺の地)に入った者を、その地の王としよう」と約束したのである。度々、名前を出したが、時を遡って、改めて、劉邦について、解説することにする。本項の題名である、『中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位』の劉邦のことである。劉邦は、中華世界を
しま:さてさて、項羽と劉邦によって秦が滅んだのが前206年。前漢が建国されたのが前202年。つまり、4年間は項羽と劉邦のどっちが新たな皇帝になるか争っていたというわけ。その最終決戦を“垓下の戦い”と言う。勝ったのは農民出身の劉邦だ。ちなみに項羽の最期は“四面楚歌”という故事で有名です!生徒:で、劉邦が建てたのが前漢[前202年~後8年]ですね!都は長安!しま:さて、高祖(=劉邦)は、それまでの周と秦の地方行政制度をMIXします!それが郡国制。「近くは厳しい郡県制。遠くはおまかせ封建制」と
同年7月、秦に滅ぼされた、斉の最後の王、田建の弟の田假が、斉王として、擁立された。田儋の従兄弟、田栄は、田假の斉王擁立に激怒し、田假を攻めたため、前述の通り、田假は、楚に亡命した。田栄は、田儋の息子の田巿を斉王に擁立した。田巿が、王となると、田栄は、斉の宰相、田栄の弟の田横が将軍となり、斉の実権は、田栄が握って、斉の地を平定した。前述の通り、項梁は、楚に亡命した、田假を殺すことを拒否したため、斉の田栄は、援軍を送ることに同意しなかった。項梁は、兵を分けて、項羽及び、劉邦に城
同年2月、項梁は、東陽県で、陳嬰を加え、英布・蒲将軍等の軍を合わせ、大軍となった。項梁は、前述の通り、秦嘉、楚王を称していた、楚の公族の景駒と秦嘉、甯君を彭城の東に攻めて、敗走させた。同年4月、項梁は、追撃して、胡陵の地で、秦嘉を討ち取り、軍隊を降伏させた。景駒は、梁の地で死んだ。この時、項梁の兵力は、十数万人になった。項梁は、胡陵に陣取り、栗県に進軍して来た、秦軍を率いる、章邯に対して、朱鶏石及び、余樊君を派遣して、戦ったが、余樊君は戦死し、朱鶏石は、胡陵に敗走した。項梁
陳勝の死後、叛乱軍の主導者となったのは、楚の将軍、項燕の息子、項梁である。項氏は、代々楚の武将として、活躍し、「項」という、邑に封ぜられ、項姓の祖先となった。項燕は、紀元前225年、秦の将軍、李信が、20万の大軍を率いて、楚に進攻すると、項燕が、勝利を治めて、秦軍の殆ど全軍が、覆没させたのである。翌年、秦の将軍の王翦が、今度は、60万の大軍を率いて楚に進攻し、王翦は、堅守・不出の戦術を悟って、採用した。王翦は、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲し、楚軍を大破
蔡賜は、河南郡上蔡県の住人で、房という、邑の爵位を持っていたため、房君と呼ばれた。紀元前209年7月、陳勝・呉広の乱が起こる。陳勝達は、陳城を制圧すると、陳勝は国号を張楚とし、王を名乗った。同年8月、陳勝は、国中の豪傑を招いて、共に謀議して、蔡賜を上柱国に任じた。蔡賜は、農民ではなく、高位の人物であったと考えられる。秦の章邯は、蔡賜を討伐後、陳の西方において、張楚の張賀と交戦すると、陳勝は、自身、張賀を援けようと出陣するが、敗北し、張賀は、戦死する。紀元前208年12月
周巿は、魏王室の後裔である、魏咎を迎えて王としたいと考えて、斉、趙の要請を受けず、陳勝の都、陳城にいた、魏咎を迎え入れようと交渉する。同年12月、使者が、魏と陳の間を5回往復する、交渉が行われた後、陳勝は魏咎を、魏へと派遣した。周巿は魏咎を擁し、魏王とした。周巿は、魏の宰相となったのである。前述の通り、呉広は、仮王となり、滎陽を討伐しようとした。同年9月、秦は、章邯に、二十万の兵を与え、反撃を開始した。紀元前208年11月には、一度は、函谷関を破った、周文が、章邯に敗北
部下の一人が、李良に対し、「天下中の人が、秦に背き、有能な人物は、自立しています。更に趙王の武臣は、元々、将軍(李良)より、出自が低いです。先程、女児(武臣の姉)が、将軍に対して、下車をしませんでした。武臣の姉を追って、殺すことを許してください」。李良は、秦から、内通を誘う、手紙を受け取り、元々、趙への反意を持っていた。李良は、決断し、武臣の姉の無礼を怒り、部下を遣わして、武臣の姉を道中で殺させて、そのまま、兵を率いて、邯鄲を襲った。李良の謀反は、邯鄲においては、察知さ
そのため、武臣は、兵を西の秦に向かわせずに、韓広に燕を攻略させ、李良に趙の恒山を攻略させ、張黶に上党を攻略させた。韓広は、趙のために燕の土地を攻略していたが、薊に着くと、燕の人々に燕王として、擁立された。陳勝・呉広の乱の勃発は、紀元前2009年の7月であり、武臣が、趙王を称したのは、8月、韓広の燕王の自称は、9月である。韓広は、元は、河北の上谷郡に住んでおり、秦の卒史、即ち、事務官に任じられていた。韓広が、薊に着くと、燕国の過去の貴人及び、豪傑達は、韓広に言った。「楚は、既
武臣の三十万の軍勢は、白馬津にて、黄河を渡り、河北の諸県に着くと、地元の豪傑達に叛乱軍に味方する様に、説いて回った。「秦の政治は乱れ、刑罰は、残虐であるため、天下を損なうことは、数十年に及ぶ。北では、万里の長城を建てる徭役があり、南では、五嶺の守備の兵役があった。国の内外は、騒乱状態となった。民衆は疲弊しているのに、頭を箕で、取るかの様に数え、税を取って、軍費に当てている。民衆の財産は乏しく、力尽きて、民衆は、安らかな人生を過ごせていない。その上、厳しい法律と惨い刑罰によっ
TS-1服用2クール26日目。今日の午前中はほぼ廃人でした。月曜日だからのような気もする。仕事やる気ないのかな😅中国歴史探訪いつもご覧頂きありがとうございます。これまで比較的メジャーな場所をご紹介してきましたが、ややマニアックな場所も紹介して行きます。今回は「漢中」という所です。漢中は西安から南西に約280kmの所です。漢字や漢民族の語源となった場所です。中国の人でも意外にこの事を知らない人が多いです。2023年4月29日から5月1日にかけて自力一人旅で行ってきました。歴史順に楚漢時代と三
陳勝及び、呉広は、叛乱を起こした際、民衆の支持を集めるため、陳勝は、扶蘇、呉広は、項燕を名乗った。前述の通り、扶蘇は、秦の始皇帝の長子にして、悲劇の皇太子であった。項燕は、秦の李信の二十万の軍勢を撃退した、旧楚の英雄で、庶民に人気があり、多くは、その死を知らず、信じていなかった。二人は、それを利用した。陳勝と呉広は、まず、大沢郷を占領すると、大楚を称し、諸県を攻略し、陳を取る頃には、兵車600乗、騎兵1000余、兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は、既に
中華の歴史は、伝説の黄帝以来、「王」の座に就くためには、高貴な血統を必要として、前述の通り、秦の始皇帝の死後、専横を振るい、二世皇帝の胡亥を殺害した、趙高でさえ、秦の王族の血筋ではないため、王位に就くことができなかったのである。陳勝の出現以前に、中華世界では、出自不明の「王」は、存在せず、確実に「種」はあったと言える。しかし、陳勝は、「王侯将相寧有種也」と叫び、将軍及び、宰相のみならず、「王」でさえ、「種」はない、即ち、血統は、関係ないと宣言したのである。陳勝の名言は、血統による、
中国は古代から王朝が何度も交代している。それらがみな漢民族の国家だったかというそうではない。中国周辺の遊牧民(騎馬民族)による征服王朝も多かった。征服王朝は漢族以外の民族によって支配された王朝を総称する呼称である。このように中国の周辺に蟠踞(ばんきょ)する騎馬民族は漢民族にとって脅威であり、そのため中国を初めて統一した秦の始皇帝は中国と辺境との境に土塁を築いて騎馬民族たちの侵入を防ごうとした。それが万里の長城の始まりで、その後の歴代王朝が修復したり増強したりして今の
趙高の死から、時間を遡り、視点を秦から、叛乱軍に移す。「中国史上最初の農民の叛乱」、陳勝・呉広の乱が、勃発したのは、紀元前209年である。以降、中華世界において、農民の叛乱が、王朝を滅ぼすことが繰り返された。新末の赤眉の乱、後漢末の黄巾の乱、唐の末の黄巣の乱、明の末の李自成の乱等、農民の叛乱が、統一王朝を滅亡させたのである。「中国史上最初の農民の叛乱」を起こしたのが、陳勝である。南陽郡陽城県の出身であり、陳勝は、若い頃は、日雇い農夫をしていた。過去に、自身の雇い主に対して、大きなことを
趙高は、胡亥の死体から、玉璽を奪うと身に帯びて、秦の帝位に就こうとしたが、側近、百官は、趙高に従わなかった。秦帝国の臣下達は、暗愚であるが、秦の王族の血脈の胡亥に従ったが、王族ではなく、宦官に過ぎない、趙高を皇帝と認めなかったのである。趙高は、殿上に登ろうとしたが、宮殿は、三度、崩壊しようとした。趙高は、天が、自分に味方せず、自分が、支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、趙高は、楚の劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは、全く、相手にされなかった。
TS-1服用2クール15日目。今日は集中力発揮して資料作りしたからか、いつもの睡魔が襲ってきませんでした。やる気スイッチが入るとアドレナリンが出て睡魔を遠ざけるのかな?今日も中国歴史探訪です。今回は高校の漢文で必ず出てくる「鴻門の会」跡です。2023年2月26日。昨日紹介した兵馬俑博物館の後に訪問しました。中国語では「鸿门宴」(ホンメンユエン)と言います。秦の始皇帝死後乱れた中華において、打倒秦で立ち上がったのが項羽です。鴻門の会は項羽と劉邦が会見した場所です。劉邦は本来主筋の項羽より先に
超有能で平民から皇帝へと昇りつめた「朱元璋」中華で人気ないので、日本でも認知されていない同じく平民から成り上がった「劉邦」と同じく上に立つと猜疑心で功臣を殺しまくった💦優秀過ぎて、中華の文化価値観から外れているので自分の子にさえ否定されたりしている超有能「曹操」もそうですよね、「悪い子だと曹操が来るよ!」と子供を脅すネタにされたりヨーロッパのあの「顎の一族」いたけど、朱元璋も顎の人だったらしい(笑)
筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。西周時代には、中原、または、洛陽の周辺を指していた。中華世界、初期の王朝、「夏」「殷」「周」の三代には、中原及び、洛陽周辺は、「夏華」と呼ばれ、「夏華人」と自称していた。黄河流域で、黄河文明を営んでいた、漢民族の前身となる、都市を持つ、部族国家の連邦の民の国際社会では、「中国」との語は、王及び、覇者を中心とした、秩序に基づいていた。その後、「中華思想に基
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄河周辺に過ぎなかった。しかし、西周及び、春秋戦国時代の間に、各国が、競って、東西南北に領土の拡大の一途を辿ったため、中華世界は、周建国当初と比較できないほど巨大になった。秦王政は、六国を帆乏し、中華世界を統一すると、重臣の王綰・馮劫・李斯等に「称号」を刷新する、審議を命じた。夏・殷・周・春秋戦国時代に用いられていた、称号の「王
塾長の書斎更新:「香乱記〈1〉〜〈4〉(154)」をUPしました。https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book154/#古代中国#歴史小説#宮城谷昌光#楚漢戦争#田氏三兄弟#田横#斉#項羽#劉邦#黥布#新潮文庫
白鵬は劉邦になることに成功した!この後日本相撲協会は「白鵬王朝」となる。それは魁皇がバカだったことに原因がある!ということになる。魁皇の弟子もカワイソウ!これは実質、浅香山が白鵬に吸収される!!(実質白鵬部屋となる)これは融合せずに分離する。それがわからぬ魁皇はアホ!!!(白鵬は必ず恩を仇で返す)騙されるバカが悪い!と思うはず!それが白鵬。これまで存在したことのないエルボー横綱、それが白鵬翔なのだから。(その意味ではこの先、浅香山にエルボーを
これは最もダメな案!!浅香山個人が栄える提案。(近い将来確実に大相撲は亡ぶ)浅香山は大相撲の将来ではなく、自分のカネの心配をしている!!(浅香山は個人の利益を追求している)【大相撲】宮城野部屋の師弟一括転籍案、既に協会へ申し入れか浅香山親方「思いは伝えている」?浅香山の白鵬延命策はこの先大相撲の存在を危うくする!日本の大相撲が実質消滅すればそれはこのときの浅香山に原因がある!ということ。浅香山は自分の利益を追求している!そこに本当の意
お客様に教えて頂き、初の古本で購入しました。項羽と劉邦全12巻。1巻読み終えて、沢山の人に指示される劉邦出てきました♪本能で好きなことをして自分を楽しませる達人で、人に嫌なことをしない、圧倒的に強い男というイメージです。とっても興味深いです。
四面楚歌とは!由来意味、項羽故事使い方、作者現代語訳わかりやすく西楚の覇王項羽は垓下の戦いで、前漢の初代...history-ancient.com
鴻門之会の剣の舞!あらすじ登場人物わかりやすく、現代語訳問題解説前漢の初代皇帝高祖劉邦と西楚の覇王項羽の...history-ancient.com