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1月12日が命日・忌日の有名人・著名人1712年(正徳2年10月14日)満50歳没(?)徳川家宣さん江戸幕府第6代将軍徳川家光の孫1898年72歳没(?)ジョン万次郎さん漂流民、通訳、教師1916年満61歳没(脳梗塞)パーシヴァル・ローウェルさん天文学者惑星X(冥王星)の存在を予想1969年70歳没(病気)劉少奇さん中華人民共和国の政治家、第2代国家主席1974年満72歳没(?)菊池正士さん物理学者日本原子力研究所所長サイクロトロンの建設に尽力1
本日(27日)は、昨日、報ぜられた台湾の映画監督・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)さんがアルツハイマー病のため、『もう映画を作れない』状態であること、つまり事実上、『引退した』ことを家族が発表したことについて書こうかと思っていた。何せ、ホウ監督は、76歳で現在75歳の私とほとんど歳の変わらない人である。それに、この監督の映画もだいぶ、見てきた。ところが、本日になって、もっと驚くべきニュースが飛び込んできた。中国で、今年の3月まで10年間にわたり、首相(国務院総理)を務めた李克
ロイター通信が報じたスターリニスト中国の配車アプリに登録した運転手は580万人にも達し、4月末から7月末までのたった3カ月で約40万にも増えたという(写真=代表的な配車アプリの「滴滴出行」)。失業若者、タクシーアプリに登録ラッシュ日本がタクシー会社のアプリであるのと違い、スターリニスト中国は基本的に個人営業だ。つまり無職の若者が登録している、ということだ。不動産バブルが崩壊し、デフレ化を示すスターリニスト中国は、16歳~24歳までの若年失業率は日本と比べて飛び抜けて高く
あの狂気の時代=文化大革命では、多数の無辜の人々が反革命と断罪されたが、憐憫の情を催せないのは、毛沢東とともに中国革命を成し遂げた元老たちへの過酷な処分であった。元老級では彭徳懐が最初にやり玉に挙げられたが、毛沢東は自己を国家主席の座から引きずり下ろし、事実上の引退に追い込んだ劉少奇も決して許さなかった。いや、劉少奇の追放こそ、権力闘争であった文革の真の目的だったと言えるかもしれない。劉少奇、現職の国家主席(大統領)をも吊し上げ大会で撲打文革が激化する1967年4月、劉少奇は
そうした中、大躍進政策の中間総括である廬山会議(党政治局拡大会議と8中全会=1959年7月~8月=写真)が開かれた。この会議の前に、毛沢東は大躍進政策の行き詰まりの責任をとって、国家主席を辞任(しかし党主席の地位は手放さなかった)、後任の国家主席に調整政策を担うことになる劉少奇が就いていた。彭徳懐の手紙に猛反発した毛沢東廬山会議の前に、党中央の間で、大躍進政策の失敗を招いた毛沢東の責任を問う雰囲気が醸し出されていた。そこに、彭徳懐は大躍進政策を批判する手紙を毛沢東に送った。毛沢
「私が死んだら、遺骨は海に流してほしい。私は五つの海を巡りながら、共産主義がいつしか全世界で実現するのを見たいのだ」...................................(ryushoki)若き日の劉少奇と王光美(「天安門に立つ」日本放送出版協会より)劉少奇の言葉です。遺言ですね。ほんの30数年前、中国は狂っていました。文化大革命と呼ばれた時代ですが、ご存じですか?民衆の味方であったはずの英雄・毛沢東は、独裁主義を色濃くして、昔の
ずっと先のことよりも、今回は明日、あさって、1か月先みたいなちょっと未来のことをおもむくままにようこそおいでくださいました。はるか遠くから来ていただいたことにも感謝です。地上波テレビは見ないのですが、ネットから配信される番組を先ほどまで視聴していました。2週間前から気がついていました。でも、こと中国のお話ということもあり、血なまぐさいことはわかっていたので見るのを避けていたのですが、今日は他に見るものが
昨晩、お風呂から上がってテレビをつけたらNHK-BSの「映像の世紀プレミアム」が放送されてました。この番組は歴史的な映像を見せてくれるので、テーマによっては見るのを欠かせない番組なのですが、、今日のは完全に見逃していた!私のバカバカ!昨晩のテーマは「中国“革命”の血と涙」近代中国の歴史でした。しかし、ちょうどテレビをつけた時は、一番関心を寄せていた文化大革命のところでした。当時国家主席であった劉少奇氏。毛沢東が彼を失脚させるために始めたと言われる文化大革命。劉氏関連の書籍
中国共産党高級幹部が避暑地として使っていた江西省・廬山で1979年7月2日、同党中央政治局拡大会議が始まった。同会議は8月1日に終了し、翌2日から16日まで開催された中央政治局全体会議と合わせて、廬山会議と呼ばれる。廬山会議では毛沢東の急進的な「大躍進政策」を批判した彭徳懐が失脚し、その後の中国共産......続きを読む
伊勢丹/新宿店「メンズ館」15年ぶり大刷新、3月16日全館オープン流通ニュース2003年9月に誕生したメンズ館は、15年ぶりに大規模リモデルする。顧客の変化、百貨店を取り巻く環境の変化にあわせ、「ファッションと拘り」という自分達の...山岡鉄舟の書月形に返還旭川から100年ぶり読売新聞書は業務移管された旭川監獄(現旭川刑務所)の修武館に保管されていた。月形町は2006年、書のレプリカを作製するとともに、原本の返還を求めてきた。18年...武家政権「源氏長者」に正統性
武藤敬司、ブッチャー引退セレモニーに参加…ジャイアント馬場追善興行2・19両国国技館Yahoo!ニュース2月19日に両国国技館で開催される「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」の実行委員会は1999年に61歳で亡くなった馬場さんの命日にあたる31...【藤本欣也の中国探訪】劉少奇没後50年(上)一葉の写真が語る名誉回復の虚実産経ニュース写真や資料が展示された「劉少奇同志記念館」に向かった。名誉が回復された劉氏の生涯の中で、党が一体どのように釈明しているのかを確認したい
115年の歴史に幕タウンニュース扇町に移転し115年、国内最古・築90年の校舎で6千人以上の少年が学んだ小田原少年院。来年4月1日の廃庁を前に11月15日、閉庁式が行われた。関係者ら...歴史ある神社や城下町、酒蔵カフェを巡る!下関・長府へ開運ドライブウオーカープラス今回は下関・長府を紹介する。長府毛利家の城下町として栄え、江戸時代の町並みが残る長府。神社や下関の歴史を感じられる人気スポットを巡るドライブへ出発...「歴史に残らないセックスワーカー」戦争中に重要な役割を
有名な数学者、華羅庚。中国科学院の初代所長。で、猊下は亡命することとなる。で、これが中華民国で発行した最後のお札だそうです。デノミしたのか、いきなり単位が小さくなってた。で、1959年民國政府は台湾に渡ります。周恩来、劉少奇、鄧小平がバスで工場の労働者慰問に言っているところ。文革前のほんのちょっとの平和な時間。朱徳は中国軍「建軍の父」と言われている人物。しかし、この身分証の形式は現在の大学学生証の
毛沢東の主治医を22年間務め、その死まで常に傍らに付き添った、李博士。アメリカ移住し、毛沢東の死後20年を経てこの本を出版し、3ヶ月後に自宅浴槽で遺体となって発見される。死因は心臓発作・・・・・なんて、説明書き見たら、読むでしょ!「私生活」の赤裸々もさることながら、「毛沢東」の強烈さに、ただただア然。「中国」とは、なんという国なのでしょう。。衝撃的すぎて、気分悪くなった。。1957年モスクワ。フルシチョフに招かれ建国40周年祝に同行した。左に李博士。昔、「毛沢東語録」って
1958年の初めごろは、出産抑制が支配的な考え方になっていた。この時点でも反対意見や不満が存在していたことは間違いないが、それでも支配的だったのは出産抑制のほうであった。こうした状況が、1958年4月ごろから少しずつ変化し始めた。その始まりは、梁中堂によれば4月19日の「光明日報」の記事であるという。1958年4月19日「光明日報」に韓佳辰「”団団転の関係”は唯物弁証法ではない馬寅初著<私の経済理論、哲学思想と政治的立場>」、周家本・強重華「馬寅初”新人口論”を評する」という二
中国では、毛沢東の時代に大躍進政策が行われた。農業と工業を発展させるための政策であったが、これが失敗に終わった。殆ど個人崇拝の毛沢東であったが、同じ党内からも、流石に、毛沢東に対する批判の声が聞こえ始めるようになっていた。そして、国家主席は毛沢東から、劉少奇(りゅうしょうき)に変わった。だが、毛沢東はこの人事が面白いわけがない。おめおめと、自分の失敗を認めて簡単に引退する訳にはいかなかった。政権奪回のために革命を起こす事を考えた。文化大革命である。1964年のこと。毛沢東は現共産党の実権派達
始まりは、江青の人生の特集をテレビで観たときから。なんてひどい人がいたのだろう、それもついつい近年まで。存在は知っていたけど、文化大革命も「大地の子」で見て知っていたくらいで深くその事実を見ようとしなかった。しかし、その江青のことを少し調べ始めたら、王光美という女性に行き当たり、その夫の劉少奇にたどり着いた。そしてこの本を探し求めた。運よく、浦安市の図書館と、明海大学の図書館で入手し、一気に読んだ。図書館よありがとう。半ばあきらめていた本を読むことができてありがた