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明日から2日間、名古屋市枇杷島スポーツセンターで、剣道の昇段審査会が行われます。5月9日(土)七段審査会5月10日(日)六段審査会先日、京都で行われた審査会の結果は以下の通りでした。七段審査会(京都)2026年4月30日(木)京都市体育館受審者数:501名合格者数:104名合格率:20.8%六段審査会(京都)2026年4月29日(水)京都市体育館受審者数:445名合格者数:129名合格率:29.0%※全剣連ホームページより僕は過去10年以上にわたって、全国各地で
<剣道LABO®︎>主催の稽古会です。稽古内容は、素振り・切り返し・正面打ち・諸手突き・区分稽古(打ち込みや地稽古など)を行います。*区分稽古は一般よりも軽めの内容にアレンジします(^_^;)参加条件は社会人剣道家であること以外、年齢・性別・所属団体等は問いません。ご参加お待ちしております‼︎【注】当稽古会は『定員制』です。参加ご希望の方には『事前のお申し込み』をお願いしております。【注】稽古会告知ページの『参加予定』にチェックしただけでは、申し込みは完了しておりません。
先生から金言集~薄紙を重ねるように稽古を日々積み重ねるこの言葉も先生から教わった言葉です剣道稽古をコツコツ積み重ねることを表現するのによく使われる言葉です1日の稽古では強くはなれない強くなることはそんなに簡単ではないのですがただ1日の稽古をおろそかにすれば薄紙にすらならないのです昇級審査昇段審査に不合格でも合格しても試合に勝っても負けたとしてもどの道明日も稽古日にしないと薄紙の積み重ねにはならない
澤木興道という曹洞宗の禅僧がいた。妻も寺ももたず、「宿なし興道」と呼ばれて親しまれた人物だ。彼は言った。「坐禅をするのは悟るためでしょうーー馬鹿言え!坐禅まで日当をつけるのか!他のことはとにかく、坐禅をするときはただせい。」稽古は収穫の場ではないのかもしれない。強くなったか打てたか勝ったか褒められたか稽古に見返りを求めるな。彼の言葉に触れるとそんなふうに言われているような気がする。ただ稽古せい。---------------------------------
令和8年5月予定表です。5日剣志会錬成会6日道場少年剣道大会7日会費納入ミーティング17日スポレク選考会及び連盟対抗選考会24日西風錬成会31日女性剣道大会
息子が剣道を始めたのは、中学1年の時。中学3年になった今も、暇さえあればエアー打突を繰り返している。剣道を好きでいてくれること自体は、素直に嬉しい。でも、そんな息子を見ながら、僕は歯痒い。もっとこうすれば勝てるのに。もっとこうすれば選手に定着できるのに。そういう親心という名のお節介が、心の中で常に渦巻いている。一方で、こうも思う。剣道は生涯をかけて高みを目指すものだ。中学3年間、高校3年間、大学4年間——そこで結果を出すことだけがすべてじゃない。40代でも60代でも、さらに
いま、YouTubeでたまたま、韓国と日本の剣道の試合を見た。は?あれが、剣道の試合、それも決勝戦だなどと、しかも、団体の、大将戦だなどと、絶句した。礼に始まり礼に終わる。剣道を始めて最初に覚えるのは、この言葉ではなかろうか。僅かな時間で勝敗が決する。静寂の中、小気味よい、竹刀の、綺麗に技の入った時の音が響く。鍔迫り合いを長くするのは、如何なものか。いちいちの所作が嫌らしく、美しくない。日本の武術は美しい。と、わたしは思う。弓道、居合、合気道。それぞれに
剣は一刀で生死を分ける。古代の人たちは、その力に神の存在を感じた。三種の神器のひとつが剣であることは、偶然ではないと思う。剣は日本人にとってそれほど厳粛なものだと言えるだろう。竹刀を竹刀として稽古する。竹刀を刀の代用として稽古する。当てる、打つ──やり直しがきく。斬る──それでおしまい。剣道に「剣」の一字がある意味を、僕はどれだけ意識できているだろう。それ一つで剣道に違いが生まれるはずだ。------------------------------------<
子どもに長い棒を持たせてみると、何も教えずとも、振り回し始めます。そして、何かを叩き始める。棒を持った子どもが2人いれば、自然と叩き合いが始まる。それは、きっと本能から湧き上がる欲求なのでしょう。剣道には、そんな子どもの欲求に応える力が、“もともと”備わっています。今の指導現場には工夫があふれています。仮装大会、鬼ごっこなどの縁日的なアクティビティ──子どもたちが楽しめるようにと、試行錯誤する大人たち。けれどもし、「こうでもしないと来てくれない」「続けてくれない」そんな前
剣道は、「礼に始まり、礼に終わる」と言われます。では、「礼」とはいったい何なのでしょうか。僕は、その本質は相手を思いやる心だと考えています。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」そんな日常の挨拶に込められているのは、「私はあなたの存在を認めていますよ。あなたにも、私の存在を認めてもらえたら嬉しいです」という思い。挨拶しても相手に届かなかったとき、どこか悲しくなる。あの心の痛みは、挨拶にこの思いが込められている証なのでしょう。剣道も同じだと思うのです
剣道とトレーニング。切っても切れないものだと思っていた時期がある。筋力があれば有利。スピードがあれば有利。それは事実だと思う。でも、筋力もスピードも、歳を重ねれば必ず衰える。剣道を学ぶ僕たちは、将来衰えるものを、一生懸命になって鍛えているのだろうか?僕たちが剣道に求めているのは、そんな刹那な強さなのだろうか?僕に剣道を授けてくれた先生は、こう言っていた。筋力は、弱いより強い方が有利。だけど、弱くても勝てる。スピードは、無いよりあった方が有利。だけど、遅くても勝てる。その
日本には、“恥の文化”と呼ばれてきた側面があります。自分の行いを世間や先人の基準に照らしてみる。そんな感覚が、武士の時代から受け継がれているのでしょう。武士は命のやり取りだけでなく、日常の立ち居振る舞いにも誇りをかけていたと伝えられています。「人に見られて恥ずかしくない生き方をせよ」そんな無言の戒めがあったのかもしれません。剣道の稽古場に立つと、その心が今も息づいているのを感じます。一本の良し悪しだけでなく、「恥ずかしい稽古はしたくない」──そんな空気が、稽古場を包んでいる。
今日は東京武道館に来ています。剣道四段・五段審査会の視察・見学です。剣道LABO®︎を立ち上げた10年前から、全国各地で行われる各段位の審査会へ足を運び続けてきました。1年間に見学する立合の数は、おそらく世界チャンピオンです笑。自分がすでに通過した段位であっても、自分の成功体験だけを頼りにしない。現場で目を凝らし続けることが、クライアントへの責任だと思っています。今日もしっかり勉強します。------------------------------------<剣道LABO
つい先日、剣道を始めたばかりの中1女子部員に聞いてみました。「どうして剣道を選んだの?」と。彼女の答えは――「なんか剣道がカッコイイって思ったんだよねー。あと、推し(好きなアイドル)が中学時代に剣道部だったんだってー。」なんだか、とっても素直で、まっすぐで、聞いていて嬉しくなりました。剣道界でも“勝利至上主義”の問題が指摘されることがあります。でも、考えてみれば、剣道を始める子たちは「全国大会に出場したいから」「日本一になりたいから」という理由で剣道を始めるのでしょうか?「
「スポーツ」の語源は、ラテン語の「デポルターレ(deportare)」——気晴らしや娯楽、楽しむこと。つまりスポーツは、“楽しむためにやるもの”という価値観が土台にあります。一方で、剣道は武士の職業観に根ざしています。戦うため、生き残るために鍛錬し、そこに礼儀や節度といった精神が育まれました。やがてそれは「人としてどうあるか」を学ぶ“道”へと変わっていった。スポーツは責務から解放される感覚、逆に剣道は責務を帯びる感覚。皆さんも、終業する時の解放感と、始業する時のキリッ
剣道の本質は真剣勝負だ。勝負があるから、剣道家は日々研鑽する。剣道家個人の技術や精神が向上すれば、同時に剣道界全体の質も向上する。勝利を追い求めることは、個人や全体の質を高めるために有効だ。剣道界には「勝利至上主義」の問題が根深くあるが、勝利を目指すこと自体がこの問題の本質ではない。それでは問題の本質はどこにあるのか?勝利を過剰に追い求めることで人の目を盗む人を欺く人を陥れる人の失敗をよろこぶここに問題の本質がある。刃筋が通っているように演出して審判の目を盗む。打突前に
剣道は竹刀で相手と叩き合う。その一面だけを切り取れば暴力だ。剣道には蹲踞がある。この礼法が、剣道を暴力から、お互いが相手を通して自分を高め合う武道へと昇華させる。勝負の前後に蹲踞を挟むことで、荒ぶる闘志が収まり、高揚が鎮まる。本来、身を低くするのは、目の前の相手への敬意の表れだ。蹲踞の意味を知る者は、勝っても喜びをあらわにしない。負けても悔しさに崩れない。試合後の両者は、勝者と敗者の区別がつかないほど、どちらも淡々と試合場を去っていく。蹲踞のルーツは古い。身を低くして敬意を示す
時代劇を観ていて、ふと気になったことがある。戦国時代の武士たちは胡坐をかいているのに、江戸時代になると正座が主流になる。胡坐や立膝は、いつでもすぐに立ち上がれる座り方。戦いの時代には、それが当たり前だった。一方、正座は足が痺れるし、とっさに動けない。刀を抜くにも時間がかかる。江戸幕府は、この“動けない姿勢”をうまく使った。江戸城で将軍に会うときは、正座が絶対。大名たちは動けない姿勢で頭を垂れる。正座には「あなたに斬りかかるつもりはありません」というメッセージと、「徳川の秩序
剣道を続けてきて、あらためて感じていることがある。剣道とは、日本文化そのものだと。グローバル化が加速する時代においては、むしろ、自国の文化を学ぶ価値が高まると言われる。なぜか。自国の文化を知らないままでいると、いつの間にか、自分のやり方が「普通」だと思い込んでしまう。だから異文化に触れたとき、それを「変だな」「おかしいな」と感じてしまいがちだ。でも、自国の文化を深く知っていくと、見え方が変わる。「自分たちも、ある歴史と環境の中で、このやり方にたどり着いている」そう気づけると
剣道は、日本文化そのものだと思う。日本では、古代神話に登場する三種の神器のひとつに「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」がある。剣は、武器であると同時に“国そのものの象徴”として扱われてきた存在だ。竹刀は日本刀の代用であり、剣道具の原型には戦国武将の甲冑がある。剣道着や袴は“ジャパンブルー”と呼ばれる藍染製品だ。そして何より、「礼に始まり礼に終わる」精神と、「残心」という考え方が今も息づいている。残心とは、技が決まった後も気を抜かず、相手への敬意と警戒を保ち続けること。この考えは、武道だけ
剣道で使う竹刀は、本来「刀の代わり」だ。刀が持つ意味、生死、覚悟、そして人としての在り方。竹刀は、そういったことを学ぶための道具だと言えるだろう。しかし今、「竹刀は竹刀である」という考え方が、広がっているように思えてならない。「竹刀は竹刀である」と考える。すると剣道は、生死を見つめる修錬ではなく、ただのスポーツになる。スポーツ化した剣道は、とても都合がいい。マニュアル化できて、誰でも教えられる。短期間で形になり、試合の勝ち負けで成果を測れる。勝った者が、優秀な者とされ
「最初は剣道部に入るつもりはありませんでした」部員全員が、そう答えた。剣道LABO®︎の映像解析サポートの傍ら、私立の中高一貫校で剣道部の指導に携わらせていただいている。新年度が始まり、新入部員が来てくれるかもしれないこの時期。今いる部員たちに聞いてみた。「なぜ剣道部に入ったんだ?」返ってきた答えが、冒頭の一言だった。では、なぜ入部したのか。見学に来たとき、先輩たちが稽古している姿がカッコよく見えた。そして、その先輩たちが学校生活の中でも優しかった。ただ、それだけだと。
観戦3月29日日曜日10数年ぶりに京都まで剣道観戦へ。実は私め元剣道家でしたww大学OBの剣道大会幕〜、手作り感満載w昔々出たことあったような(笑)久しぶりに見たね〜。うむ外をプラプラしてると、サッカーやってる⚽️こっちを観戦しようちょうど始まる感じ↓大学生やね。どことやってるんやろ🤔京都橘VS立命館やん!これは面白いどうやら京都学生サッカー選手権大会やて。皆上手いね〜3-2で京都橘が勝ちさて、戻るか。お!次もあるみたい同志社VS京産大見るよね〜(笑
先日、子ども達の剣道の試合がありました。長男は、中学生の部個人戦へ、次男は、4年生ですが、高学年チームの人数が足らず、高学年の部団体で出場でした。長男は第4試合場の第一試合。始まる前のあの緊張感の中での『正面に礼』が一番緊張するそうです。一試合目は、3人でのリーグ戦。そこから勝ち上がればトーナメント戦に出場となります。結果は、2本勝ちと、判定負けで2位。トーナメントには出場できずでした。長男の所に行くと、2年の先輩や、同級生が話かけてくれてました。『頑張ったよ!判定負け悔しいよ
今日は子どもの剣道の試合で体育館へ。椅子は5列あるけど、すでにほぼ埋まっている。でもよく見ると——座っているのは人じゃなくて荷物。しかも3列分。空いてたから子どもが座ろうとしたら、後ろを振り向いて、急いで荷物をポン。「ここ取ってます」と無言の圧😑…いや、さっき誰もいなかったよね?私はというと、地べたに座って観戦。ふと椅子を見ると、人じゃなくて荷物が試合観戦してる思わず心の中で「おい、おばさん」とつぶやいた剣道って礼儀を大事にするスポーツなのに、大人の方が余裕なくなっ
昨日、【メタ認知】と題した文章を投稿しました。今日はその続きです。剣道LABO®︎主催の稽古会では、参加者同士での指導やアドバイスは行わないことで統一しています。もちろん、僕が誰かにアドバイスをすることもありません。そして、僕は参加してくださる皆さんに、こうお話ししています。「ここは、自分に集中できる贅沢な環境です」一般的な稽古場では、相手からアドバイスをもらうこともありますし、良かれと思って相手にアドバイスすることもあります。周りに意識が引っ張られることもあるでしょう。そ
「メタ認知」という言葉、聞いたことありますか?メタ認知とは、自分の思考や動きを、一歩引いて客観的に観察・調整する能力のことです。メタ認知が高い人ほど、自分の課題に気づくのが早く、成長のスピードも上がると言われています。「汝自身を知れ」という古代ギリシャの言葉がありますが、メタ認知はまさにその現代版。日本でも、能楽師・世阿弥が「離見の見」という言葉を残しています。演じながら、観客席からの視点で自分を見よ——そんな教えが、500年以上前の日本にすでにありました。スポーツ心理学や教育学でも、
どうなんだろう?喜んで良いのかどうなのか、自分でも正直分からない、伯乃富士が休場した。昨日の一番で怪我を悪化させたらしい。そのおかげかどうか分からないが、大相撲中継をゆっくり見ることが出来るようになった。千代の富士、貴乃花、遠藤、貴景勝•••もっと古く言えば初代若乃花、大鵬かな?好きで応援して見てはいたが、ドキドキしながらの観戦で楽しんで見たというより、何だろうな?まるで自分の子供達の剣道の試合を見ているような、そんな感覚で見ていたのかもしれないな。相撲を楽しんで見たと言う思いは無い。
中学生のころ、このような指導を受けたことがあります。当時の僕は、竹刀を振りかぶるとき、真っ直ぐではなく、右に傾く癖がありました。「真っ直ぐ振りかぶれ」そう言われても、本人は真っ直ぐのつもりです。だから、なかなか直りません。すると先生はこう言いました。「右に曲がっていると言われたなら、大きく左に曲げろ。そのくらい極端にやれ。」「そんなに?」と思いましたが、やってみると、「そうだ。それが真っ直ぐだ!」と言われ、真っ直ぐに振れるようになりました。人の感覚は曖昧です。癖を修正す
福岡市総合体育館に来ています。本日は、剣道七段審査会の視察・見学です。昨日行われた六段審査会の結果は以下のとおり。◾️受審者数407名◾️合格者数125名◾️合格率30.7%(※全剣連HPより)合格率を裏側から見れば、10人受けたら7人は不合格となる審査。決して薄い壁ではありません。審査は特別な舞台。誰だって緊張します。では、その緊張の正体は何でしょうか。おそらく、「自分以上の自分でありたい」という欲から生まれるものではないかと、僕は考えています。背伸びせず