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「加賀藩が江戸時代をとおして保ち続けたスタンスが明治維新での出方につながったというのは本当に誰の導きかと思います。」その問いに答えるなら、「誰の導きか」ではなく、「誰の“呪縛”か”」と表現した方が実態に近いです。加賀前田家が明治維新で取った「新政府への即日寝返り→いち早く官軍として鳥羽・伏見に参戦→北越戦争で長岡を粉砕」という、外様大名としては異例の速さと苛烈さは、江戸時代260年間に積み重ねた“ある呪縛”の帰結だったからです。その呪縛を最も強く残したのは、実はこの3人でした前田利家
「利家のアドバイスもあり、利長はそのあたり完全に予想して動いてたのでしょうか。」前田利長は、ほぼ100%完全に予想していたと言って差し支えありません。彼は「関ヶ原で西軍に与したら家が潰れる」「かといって最初から東軍に与すると、母を人質に取られながらも加賀百万石は確実に削られる」という二重のジレンマを、1599年の時点で既に完璧に読み切っていました。利長が取った「綱渡り戦略」の全貌(時系列で整理)時期利長の行動本音・計算1599年4月利家死去即座に家康に恭順を示し、母親(
「利家の三成への動くなアドバイスは秘密の忠告でしたか、家康だけでなく西軍の有力大名も実は知ってたりして。」実は、前田利家の「三成に決して動くな」という忠告は、かなりの範囲で知られていたと考えてほぼ間違いありません。完全に秘密だったわけではなく、むしろ「半ば公然の事実」でした。その根拠を順に挙げます。利家自身が複数の側近に同席させていた1599年2月、三成を京極邸に呼んだとき、利家は病床ながら・息子の利長(当時継承者)・家老の横山長知・奥村永福・さらには秀吉の側近の増田長
「利家は三成にどうアドバイスしてたのですか。決して動くなでしたか。」加藤清正・福島正則ら「武断派」7将による石田三成襲撃事件(1599年2月)の直後、前田利家は病床にありながら三成を自分の屋敷(大坂・京極邸)に呼び、直接会って「最後の忠告」をしています。そのとき利家が三成に伝えた内容は、当時の記録(『当代記』『前田家文書』『石田軍記』など)でほぼ一致しており、要約すると以下の通りです。「これから俺が死んだら、お前は絶対に動くな。大坂城に籠もるなり、佐和山に引きこもるなりして、一切表
「秀吉もむすっとした家康の向かいに利家がいたからこそ安心して家臣に雷が落とせたのか。秀吉の怒りを前にして何度も死を覚悟したと思うが、前田利家の真骨頂は豊臣家家臣として世を安泰にした政治力なのかも。いつになったら実現するかわからないが、賤ケ岳後に小松城で震えていた場面から、最後に息をひきとるまでのめくるめく人生を大河ドラマで見てみたいものだ。」まさにその通りです。秀吉が最晩年に「俺が死んだら利家がいるから大丈夫」と言い切れたのは、「むっつり家康の隣に、いつもニコニコしながら刀を置いている利
「戦いひとすじだった利家がどのように新しい生き方を築きあけたかに興味が多いにある。良い友人を持ったのか。」利家が「戦いひとすじの武闘派」から、天下人・秀吉の最側近として「政権の中枢で生きる」新しい生き方を身につけられたのは、まさに「良い友人(+奥さん)」に恵まれたことが最大の要因です。以下が、利家を「新しい生き方」に変貌させた「最強の友人・仲間」たちです。妻・まつ(芳春院)→生涯最大の相棒「戦国の女傑」と呼ばれるほど政治センス抜群。秀吉・ねねとの女房外交のすべてを仕切った。利
「それほどの信頼回復は、伏見や京都での人的交流のおかげでしたか」はい、伏見・京都での人的交流が決定的な役割を果たしました。北陸にいるだけでは絶対に得られなかった「秀吉+側近たちとの日常的な信頼関係」が、1585年以降の利家・利長親子の「京都・伏見常駐生活」で急速に築かれていったのです。信頼回復を決めた「京都・伏見での人的交流」の具体例時期・場所主な交流内容誰との関係が深まったか・効果1586~1588年大坂・京都利家・利長が頻繁に聚楽第に登城。秀吉の茶会・能・連歌の席に
「利家はいつごろ秀吉の城に登城し他の家臣と並んで謁見できるようになったのですか」はい、利家は賤ヶ岳の戦いの直後から少しずつ段階を踏みながら、最終的には「他の豊臣政権の主要家臣と完全に同列に扱われる」地位まで完全に回復・昇格しました。以下、時系列で利家が「秀吉の居城にどういう形で登城・謁見できたか」をまとめます。時期利家の登城・謁見の地位・扱い1583年4~6月(賤ヶ岳直後)まだ「柴田方として戦った大名」の扱い。直接大坂城には呼び出されず、北陸での後始末を命じられる。登城は実質不可。
「ある意味、利長はねね殿のそばにおくのが一番安心できたかもしれない。言い過ぎか。」いいえ、言い過ぎではなく、むしろ非常に的確な見方です。実際、当時の関係者や後世の史料を見ると、「利長はねね(高台院)のそばに置いておくのが秀吉にとっても一番安心だった」という評価が、かなりリアルに成立します。なぜ「ねねのそば」が一番安心だったのか(理由)ねねは前田家と極めて親しかったまつ(芳春院)とねねは同い年で、織田家時代からの付き合い。ねねはまつを「姉貴分」として心から信頼しており、利家夫妻
「利長は人質にされたとはいえ、秀吉のそばで相当な勉強ができたとみるのが正しいですか」はい、非常に正しい見方です。前田利長(利家の嫡男)は、1585年(天正13年)頃から約10年間(1595年頃まで)、実質的に秀吉の大坂城・聚楽第・京都方広寺周辺に「人質」として滞在しましたが、この期間は単なる「軟禁」や「監視」ではなく、天下人・秀吉のすぐそばで最高レベルの政治・軍事・外交の実地教育を受けた貴重な時間でした。利長が実際に学んだ・経験したこと(主なポイント)時期利長がいた場所学んだ
「賤ケ岳敗戦後の前田家夫妻の行動はどうなったのですか。見張りやすい場所に置かれたのですか」賤ヶ岳の戦い(1583年4月)で柴田勝家方が敗北した後、前田利家・まつ夫妻の処遇は、非常に微妙かつ危険な状況に置かれました。以下に史実に基づいて時系列でまとめます。1.戦直後(1583年4月~5月)利家は賤ヶ岳で織田信孝・柴田勝家方として戦ったが、戦いの最中に佐々成政・金森長近らと「密かに秀吉と内通していた」と後世指摘される行動(積極的に追撃せず、むしろ秀吉軍を助ける形の動き)をとったため、
兼六園の続きから2014年に関西に引っ越してから金澤には行っていたようなので、もう11年たっていたんだなぁと改めて思いました。今回は11月にいったのですが、2014年は10月でした👇👇11月両日とも晴れていたので☝️2014年に撮ったときの大好きな一枚です👆以前はこんな感じで、工事中でした桜の頃も綺麗なんだろうな🌸金澤城と言えばこのお方👇前田利家公前回来た時いらっしゃったのかな?追記…橋爪門を入ると五十間長屋があってそこで御城印を買えます
松井田城址2025年12月7日(日)晴れ9:00~13:00参加者11名国道18号線バイパス登城口から見学コースを一周距離5.2km累積標高差230mコース定数71589年(天正17年)7月小田原後北条氏は、豊臣秀吉に臣従する条件として群馬県北部の沼田城を譲り受けた。3ヶ月後、後北条氏側は臣従する約束を守らないばかりか惣無事令をも破り利根川右岸の名胡桃城を占拠した。怒った秀吉は、関白太政大臣として全国の諸大名に小田原征伐の出陣命令を出す。1590年(天正18年
【誕生日占い】【12月3日生まれの性格と運勢】あなたは、市販のもの、あるいはパッケージングされたものに物足りなさを感じるようです。できる限りオリジナルの形に触れたいと思っているのです。そのため、素材を手に入れて自分で加工したり、訳された文章ではなく原文に触れて自力で理解しようと努力したりすることがあるでしょう。…以下詳細は下記をクリックして下さい12月3日生まれの性格と運勢|日本占い師協会【JFTA】www.uranai.org【去年のブログ】【2024.12
来年の金沢百万石まつりのメイン行事「百万石行列」、その前田利家と松をつとめる俳優が決まった。大東駿介と菅井夕香だと、地方紙が一面トップで伝えていた。二人とも30代で、こんなに若いのは見たことがない。60歳以上の利家ばかり、そこまでは生きていなかっただろうに。二人ともよく知らないが、妻はしっかり知っていた。祭りに合わせて毎年「ミス百万石」が3人選ばれていたが、来年からなくなるらしい。価値観多様化の時代に合わなくなったとのことだが、近年は応募人数が20人台にとどまっていたらしい
ここ史跡は、旧「荒子城」跡(現在は「冨士大権現天満宮」などがある場所)前田利家1537-、幼名は「犬千代」父は地元尾張国の国人領主(有力土豪)であった前田利昌(または利春)この荒子地域を統治、そのため、利家の誕生は「荒子村」という前田利春(利昌)?-1560(加賀藩前田家の始祖正妻:┏長齢院?-1573)┣前田利久?-1587┗竹野氏┃┗まつ(芳春院)1547-1617
2023年に中部地方(名古屋、岐阜、福井、石川)を周りました。翌年のお正月に能登半島地震がありました。まだ復興途上という場所も多いのですが、そういう場所も含め、私がお邪魔した当時の姿を備忘録としてUPします。駅舎と直結のヴィアン金沢ヴィアイン金沢(JR西日本グループ)楽天トラベル広くはないけど新しくきれいで便利です。駅前はこんな感じに見えました。有名な鼓門があるのとは反対側ですね。今日は金沢市内観光をして次の観光地にはレンタカーで移動します。市内観光はホ
今日は佐賀県の名護屋城で行われたお城EXPOに参加してきました!みなさん名護屋城はご存知ですか?歴史好きな方は知らない人はいないでしょう秀吉の明国征服のために佐賀県の唐津市に作った城で、あの巨大な城をわずか半年で作ったんです大阪城は完成まで15年ですそんな名護屋城に秀吉の命令で150の武将が集まったんです!この佐賀の唐津市の端っこに20万もの人が集結しましたその武将たちの旗の数は圧巻そうこうしてる間に開演です!このチケットはすんごい倍率の中、奇跡的に当たったんですずっと外
七尾城石川県七尾市にあります。前編の続きで悪戦苦闘の末、何とか九尺石のある城域の主要部までやって来ました❗️ハァハァ😩調度丸に行く途中で…思わずおお〜😳アップでパチリ📷これは立派👏👏👏、但しこれは当時の物ではなく、積み直した石垣のようです調度丸に向かいます出た‼️このセットバックした石垣が見たかった🙌いやー実にカッチョええー😍遊佐屋敷跡に来ましたなかなか立派👏👏👏この奥から本丸(山頂)に行く道は、通行止め⚠️でした奥に行くと、遊佐屋敷跡の切岸にも石積があるけど、雨でヌルヌ
#七尾城石川県七尾市にあります。言わずと知れた有名城ですが、自分は今回初めての攻城でした🔥🔥🔥ここは、今回の能登遠征の二日目に攻城しました(この日はここだけ)今回の遠征のメインイベントとなるお城ですね👏👏👏今回は登城口〜九尺石辺りまでを前編として、ご紹介させていただきます😊まずは七尾城登城口駐車場に集合しました🙌広くてキレイな駐車場ですね😊トイレも完備していますこの日も天気予報は☔️、いまは降っていないけど、夜の間は結構降ったみたい😅下はグチャグチャかな💦出発準備するメンバーさん
ドイツからのお客様を京都・大徳寺塔頭・芳春院(ほうしゅんいん)をご案内させていただきました。芳春院は、加賀藩初代藩主・前田利家の正室・芳春院(まつ)が慶長13年(1608年)に創建した寺院です。本堂の背後にある庭園には、「飽雲池(ほううんち)」を中心に二重楼閣「呑湖閣(どんこかく)」が建ち、その姿が池に映る景観は幽玄そのものです。呑湖閣は金閣・銀閣・飛雲閣・観音閣と並び「京の五閣」の一つに数えられ、京都を代表する楼閣建築の名勝です。また、2021年には禅寺として初めての「盆栽
本日は川辺の楽園④です!前田利家の名言に学ぶ真の人間関係:不遇な時こそ見えてくる友情の価値「人間は不遇になった時、はじめて友情のなんたるかを知るものだ。」この言葉は、順風満帆な状況にある時には気づきにくい、人間関係の深い真実を突いています。「不遇になった時」とは、仕事での失敗、病気、経済的な困難、あるいは組織内での立場が危うくなった時など、自身の力だけではどうにもならない逆境に立たされた状況を指します順調な時には、多くの人が集まってくるものです。しかし、それはその人の
【誕生日占い】【11月2日生まれの性格と運勢】運命と相思相愛な人物です。あなたは大きな幸運に恵まれること、素晴らしい成功経験をすることがあらかじめ決まっているのかもしれません。決断を先延ばしにしない性格と潔い行動を心掛けましょう。良心に恥じるような行動はやめることです。あなたはモラルが高い人なので、自責の念にかられ激しく反省することになるからです。…以下詳細は下記をクリックして下さい11月2日生まれの性格と運勢|日本占い師協会【JFTA】www.uranai.org
湯畑(ゆばたけ)温泉街の中心部に湧き、名実ともに草津温泉の中核をなす源泉である。囲いの内側にある湯樋は、高温すぎる源泉水を加水することなく低温化するための施設であるが、湯の花を採集する目的も兼ねている。湯の花の採集は、江戸時代中期にあたる寛政2年(1790年)頃に始められた。採集は年に3回行われている。現在の施設は、周囲はロータリー状に整備されている。1975年(昭和50年)当時の町長の経営するホテルに投宿した芸術家・岡本太郎が、地域づくり計画の一環として太郎に手がけてほしい
期間:2025/10/31〜11/07天井:100倍率:2倍初回:半額武)五郎八姫:気高き吸血鬼射)前田利家:烏天狗筆頭呪)愛姫:九尾の抱擁覇)前田慶次:七十二変化©コーエーテクモゲームス
いつもSNSでお世話になってます。今回は、📻【カターレ富山】「vsレノファ山口レビュー絶対ピンチ」作業用c/w「♪Nothingisover」https://youtu.be/3jMOn2QH-TA残留できるか?カターレありきたりで織田信長北陸なので前田利家あと、DisneyのドラマSHOGUNのモデルなった徳川家康ではでは....
戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、茶の湯は単なる嗜みや文化活動ではなく、政治的・社会的な機能を持つ重要な場でした。特に豊臣秀吉の時代、茶会は権威の象徴であり、結束を強める装置としての役割を果たしました。茶器はその象徴性を具現化する道具であり、所有することは地位や格を示し、取引や貸借は資金調達や人脈形成の手段でもあったのです。名物茶器や高麗製の希少な品々は、海外製であることや限られた流通により、文化的価値と同時に政治的価値も帯びていました。秀吉は自らの権威を内外に示すために茶会を活用し
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。山川出版社の「栃木県の歴史」と「石川県の歴史」。江戸時代の部分は読んだ。で、その書き方はかなり異なる。石川の方は、ほぼ「加賀藩史」である。今の石川県は加賀藩とその分家であ
40年も疎遠だった親戚筋今回もう1つ知っておきたい事それはうちの家紋当家の家紋は『丸に梅鉢』だそうで確かにお墓にも仏壇にも彫られていました梅鉢の多くは菅原道真(すがわらのみちざね)を祖とする菅原氏や天神信仰を由来とする家系だそうで名字の分かる家紋で大名・旗本の家紋戦国武将の使用家紋だそうそんなにいいものか?(爆笑梅鉢紋を用いた武将は前田利家前田慶次筒井順慶堀秀政などが代表的だそうで菅原道真を祀る天満宮の神紋にあやかり道真信仰に由来すると言われている
ここ数日分のブログ投稿が当方の不慣れな操作が原因だと思うが、なぜか?消えてしまった。復元を試みたが出来ず。。。今日からまた新しい投稿を再スタートするよ。名古屋も先週までの夏日から一転して爽やかな秋の気候に変わり、絶好の散歩日和になってきたよ。今日は名古屋の三大観音(大須、笠寺、荒子)の一つの荒子観音に散歩に来た。●室町時代から現存する重要文化財の多宝塔が経つ。●この地は前田利家の生誕地。春には前田家の家紋の梅鉢紋にちなんで作られた梅園の花びらが