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※この記事は、令和2年10月15日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「実生活に活かす戦国合戦術」第32弾として、「三木合戦(みきがっせん)」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第12回三方ヶ原の合戦第14回叡山焼き討ち第18回長篠の合戦第21回高遠城の合戦第22回江古田原沼袋の戦い
玉置(たまおき)家住宅は、三木城跡から見下ろす加古川(美曩川)に面する場所に建っています。母屋のまるみ帯びた瓦屋根にも特徴があります。この屋根形式の呼称を教えて貰いましたが、忘れました。(←BAKABAKABAKA)おしまい
10月21日(土)の黒田武士ゼミは「三木合戦絵解き」「三木の干殺し」として語り継がれている三木合戦。秀吉の数多い合戦の中で22か月もかけて苦戦して開城させた合戦は三木城だけといわれている。城主の別所長治は、秀吉に書状を送り、家臣や領民の助命を条件に城主一族と自害して果てました。23歳、まだ若い城主でした。三木城跡に建立された長治公の石像天守台跡に建つ長治公の辞世の句碑「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば」
明智秀満⑳「信長公記」『唯今申し上げ侯趣意は、去々年以来、敵対に伏せ置かるるの条、謹しみて申し断るべき心底のところに、不慮に内輪の面々、覚悟を変うるの間、是非に及ばざるものなり。然らば、今に至りて、相届く等ことごとく討ち果たさるべき事、不便の題目なり。御憐愍を以て助け置かるるにおいては、それがし両3人腹切るべく相定め訖んぬ。この旨、相違無き様に御披露仰ぎ、恐々謹言。正月15日別所彦進ともゆき浅野彌兵衛殿別所山城よしちか孫右衛門殿
明智秀満⑧「信長公記」『荒木伊丹、城・妻子捨て忍び出づるの事九月二日の夜、五、六人召し列れ、伊丹を忍び出で、尼崎へ移り候。九月四日、羽柴筑前秀吉、播州より安土へ罷り越さる。備前の宇喜田御赦免の筋目申し合わせ候間、御朱印なされ候の様にと、言上のところに、御諚をも伺い申されず、示し合わすの段、曲事の旨、仰せ出され、即ち、播州へ追い還され候なり。』村重が何故、謀叛を起こしたかには議論があるようだ。信長自身、心当たりがなかったからである。何せ、摂津国の石高は2
明智秀満⑦「岡山市史」『直家は備前の人なり。其先は児島高徳より出づ、高徳長子高秀即ち宇喜多の祖なりと云う。祖父能家、浦上村宗に仕えて功あり村宗の子、宗景之を忌み人をして之を殺さしむ。直家時に六歳なり乳母に従って走る、年十八宗景に仕え愛さらる。加冠して三郎右衛門と称し邑三百貫を受く人となり奸智に富みよく志を得、遂に謀計を以て封内の諸家を殪す。永禄四年畔いて其主宗景を圍む宗景讃岐に走る、遠藤河内を遣わして三村家親を暗殺し、後藤美作を鴆殺して美作を取る天正元年大に岡山に城く
三宅弥平次(81)「三木戦記」『天正六年二月二三日秀吉、再び播磨に入り、糠谷(加須屋)武則の加古川城に國内諸城主を出仕せしめる。長治叔父執権別所吉親(賀相)・家臣三宅治忠等を派遣する。治忠作戦を説くも、秀吉之を用いず、吉親・治忠怒って帰り長治に説く。長治、毛利氏に通じて東播の諸城に檄し、三木城(釜山城)を修して秀吉に叛する。秀吉之を知り書寫山圓教寺の十地坊に本陣を移す。』毛利勢が6万の兵で上月城を囲ったと聞いて、秀吉は信長に救援を依頼した。当時、上月城には
4月17日(月)この日は東北の「中尊寺」に日帰り旅行を申し込みしました。が、満席でキャンセル待ち。その時点んでチョット意欲が消え失せました結局電話は掛かって来ず、ま、今回は「行くな」と言う事でしょうでも、近くでイベントが2つ開催されてて旅行に行かなく良かった・・イベントその①車で10分程の距離三木の法界寺で行われた■「三木合戦絵解き」■三木合戦とは、織田家の中国方面司令官・羽柴秀吉が中国征伐を目的に播磨へ侵攻してきた際、加古郡
『信長公記』巻13天正八(1580)年も前中後編の三つに分けます。中編は、加賀一向一揆を討つ柴田勝家、別所一族を滅ぼし播磨・但馬を平定する羽柴秀吉がメインです、加賀で活躍する柴田勝家、播磨・但馬平定の羽柴秀吉柴田勝家柴田勝家、加賀の一向一揆を討つうるう3.9柴田修理亮勝家は、加賀国へ乱入、添川・手取川を越え、宮腰に陣取りあちこちを放火した。一向一揆勢は野の市に、川を前にしてたてこもった。柴田修理亮勝家は野の市の一揆を追い払い、多くの者を切り捨て、数百そうの船に兵糧米を徴発し
『信長公記』巻13天正八(1580)年も前中後編の三つに分けます。前編は、播磨で反旗を翻し中国攻めの秀吉を苦しめた三木城の別所氏の滅亡と大坂本願寺の退城同意について別所一族の最期と大坂本願寺の退城同意別所長治別所一族の滅亡1.1終日雪で、近年諸将は摂津方面にあって、それぞれの城の守備に骨身を削っていたから、年頭のごあいさつについては、旧冬から信長公のお触れで免除されていた。1.6播磨の三木方面の別所彦進友之がたてこもる宮の上のとりでを羽柴筑前守秀吉が乗っ取り、軍勢をさら
中筋構居(高砂市中筋四丁目・時光寺町)別名:久里山城・白矢城『播磨鑑』によれば、中筋構居は長十九間、横五十間、揖保郡庄中筋村にあった。領主は曽根藤四郎義宗で、三木城主別所長治の幕下であった。三木合戦の際には、藤四郎の末裔の藤市郎が三木城に籠り、一族郎党と共に戦ったが、三木城落城寸前に自害し、また中筋構居も天正六年(1578)に運命を共にした。中筋構居跡(時光寺)埋門?高砂市・加古郡稲美町・加古郡播磨町の城
続き↓淡路から帰った次の日なおちゃんと朝から話しててこのタイミングで母と子が揃って父が居ないのおかしく無い???母上はエネルギーで絡んでるから良いかもしれんけど父はいずこ??で!淡路島のイベントにいたメンバーの中でんー…頭に浮かんだ!あ!!!!!おったー❗️父発見!竹姫の執念が身を結ぶ⁉️そく、母上に父がみっかった〜と写メを送ったらなんか、私が写メを送る前からソワソワが止まらないって言ってて(笑)で、Chiekoさんから送られて来たのがO崎さんと父上別所長治
続き次の日は糸かけ曼荼羅のワークショップ私たちは8角88ピンの曼荼羅に取り掛かりました。お昼までで別荘を撤収しなきゃいけないのでみんな途中までしが出来ず帰ってからの宿題になりました。お疲れ様!楽しかったね!と皆さんと別れ私たちはChiekoさんとChiekoさんが一緒にイベントに誘って出展していた@あつこちゃんと一緒に午後から残りの神社を回りました。まず、岩戸神社。ここも御神事というか意味あって参拝しにきました。次に行くおのころ神社に向かってる途中で何故か伊弉諾神
前回の続き淡路イベント当日ありえない凡ミスと、多大なる寄り道のお陰でおお遅刻😭遅刻の連絡を入れ淡路を楽しむ為に何処に行こうかね?なんて検索しながらワイワイやってると淡路に到着!遅れてごめんなさい🙏出展者さんにご挨拶荷物を出して自分の出展準備を整えてそこにChiekoさんみーっけ❣️リアルで会うの初めましてだけどzoomで散々喋ってるから久しぶり感が漂っていました。ハグして喜んだ😊イベントも中盤になったころmadoka、りえちゃん、なおちゃんの3人で次の日
野口城(加古川市野口町野口)別名:寺家城東播磨を制した別所長治の属城でもある。城主は長井国秀の子長重で、高砂城主梶原氏の女を妻とした。野口城は「播磨一ノ名城」(『別所長治記』)として、羽柴秀吉が播磨征圧の重要拠点とみなした城郭であった。城主長井長重は別所氏の与力として天正六年(1578)四月一日から始まった秀吉かたの大軍を三日三夜耐え抜いている(『播州御征伐之事』)。しかし、奮戦虚しく同月三日落城する。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)野口城跡(野口神社)加古川市の城
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正8年(1580年)1月…播磨の三木城(みきじょう)を羽柴秀吉(はしばひでよし)は眺めていた。秀吉「正月なのに煙がたたないの…飯がないのだな…」秀吉三木城包囲網秀吉は三木城を完全に包囲し城に兵糧を運ぶ路も全て遮断されていた。城内では餓死者が出ていたのだ。城主、別所長治(べっしょながはる)は、長治「もはやこれまでだ。わしは自害する。」長治の叔父の吉親(よしちか)は、吉
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正9年(1579年)9月…元春の居城、日野山城(ひのやまじょう)に元春の長男、元長(もとなが)の慌てる声が響いた。元長「父上!!父上!!」元長は廊下を走って元春のところに来た。元春「何事だ⁉︎騒がしいぞ!!」元長「父上、伯耆国の南条元続(なんじょうもとつぐ)が裏切りました!」南条は伯耆国の有力国人衆なんだ元春「織田(おだ)に付いたと…」元長「南条家の重臣、山田重直(やま
こんにちは。今回も、令和4年秋播磨&有馬遠征をやっていきたいと思います。そして今回もまた播磨・三木からになります。よろしくお願いします。別所長治(三木法界寺)三木城跡から車で数分、別所家の菩提寺・法界寺さんにある騎馬石像があります。騎馬像のモデルは秀吉さんの三大城攻めのひとつ「三木の干殺し」の際の三木城主・別所長治さんでございます。中途半端な田舎/都会あるあるですが、正直、この規模の街に不釣り合いの立派なお寺さんでございます。この石像、おそらく三木城跡の騎馬像のレプリカだ
こんにちは。今回も、今月(2022年11月)の初頭に行ってきました令和4年秋播磨&有馬遠征をやっていきたいと思います。前回は有馬温泉からでしたが、今回は播磨・三木城跡からになります。よろしくお願いします。別所長治(三木城本丸跡・上の丸公園)三木の干殺しでお馴染みの三木城本丸にたつ別所長治さんの石像です。こちらも5年ぶり2回目のご対面になります。相変わらずの風貌・私が個人的にきめた「日本三大ザンネン戦国武将像」のひとつかと。何をどうしたら、こういう無国籍な騎馬像になるのか。発
細田構居(加古川市野口町良野)播磨鑑(宝暦十二年)に、「長二十二間加古庄在田田村今村ノ居屋敷ニ成領主ハ船橋五左衛門天正ノ頃長治ノ幕下」とあり、播州古城跡集録には、「細田城細田村長二十三間横二十二間城主は船橋五郎左衛門尉天正の頃別所長治の幕下と成南の方にて小城跡あり今は村の屋敷に成」と記録されている。(※現地説明看板より)細田構居跡土塁跡?加古川市の城
長砂構居(加古川市野口町古大内)長砂構居跡は、室町時代に築かれた構居(中世領主の城館跡)と考えられており、三木合戦の時に羽柴秀吉によって滅ぼされたと伝えられています。また、いくつかの江戸時代の文献に長砂構居跡に関する記述がみられます。『播磨鑑』長砂構居長三十間(約55m)横十九間(約35m)二ノ丸長三十二間(約58m)横二十間(約36m)加古庄在長砂村村ノ?ノ方領主八生地市助天正ノ頃別所長治ノ幕下秀吉ニ亡サル一本越生市右衛門ト有『播磨古城記』長砂構居本丸長三十
高田構居(加古川市神野町神野)詳細不明。別所幕下の構居。高田構居跡加古川市の城
石守構居(加古川市神野町中村・石守)別名:石守城城主中村孫之進景利は赤松氏の臣として天文二十年(1551)、石守構主となる(『播陽諸大家系譜』)。同新五郎重房は天正年間、別所長治の臣として羽柴秀吉に敗れ、その後、秀吉に従い因幡国攻めで討死(「御領中組々書留」『播州古城跡集録』『播磨古城記』『播州興地通誌』)。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)石守構居跡加古川市の城
手末構居(加古川市神野町東神野・手末)別名:手末城「神納庄手末村に在り。別所の幕下」(※『播磨鑑』より)「手末城、手末村。城主は知らず。別所長治幕下」(※『播州古城跡集録』より)手末構居跡手末構居碑加古川市の城
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。織田(おだ)方であった別所長治(べっしょながはる)、織田裏切り播磨の三木城(みきじょう)に籠城!別所長治その報せを元春は日野山城(ひのやまじょう)で聞いた。元春「ついに動いたか…弥助(やすけ)、弥助はおるか?」忍びの弥助がやってきた。弥助「はい。」元春「これより毛利(もうり)は殿(輝元のこと)を総大将に播磨に進軍する。気がかりは宇喜多直家(うきたなおいえ)。」弥助「宇喜多
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「帰れ!!」「言われなくとも帰りまする!!」天正5年(1577年)に播磨国の上月城(こうづきじょう)を攻略した羽柴秀吉(はしばひでよし)は今後の毛利(もうり)中国攻めにおいて、播磨の主な武将、国人衆と加古川城(かこがわじょう)で評定を行なっていた。加古川城跡(現在は称名城が建っています)この評定を加古川評定って言うんだよ秀吉は播磨の武将、別所長治(べっしょながはる)の代理で参
三木城跡兵庫県三木市上の丸町2022年9月16日入城三木城跡は、東播磨守護代別所氏の居城でした。天正6年(1578年)、織田方が毛利方についた別所長治を攻撃し、三木合戦が始まりました。織田軍は三木城を包囲し、兵糧攻めを行います(三木の干し殺し)。同8年、長治ら別所一族が自害して三木城が落城しました。伝天守台の上に、「今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにはかる我が身とおもへば」と記された長治辞世の句が、あります。(HP参照)二の丸跡別所長治の像本丸跡天守跡別所長治辞世の句碑本丸から
竹中半兵衛陣所跡から、嘉永池の脇を通り過ぎてから、八幡神社の鳥居をくぐり、八幡神社に来た。↓ツバキ八幡神社に咲いていた椿の花。冬に咲く花の代表格。のどかな風景が広がるエリアへと出てきた。この道の先に、竹中半兵衛重治の墓がある竹中半兵衛墓所_遠景築地塀に囲まれた墓所だ。陣所からここまでは、およそ15分といったところか。↓竹中半兵衛の墓竹中半兵衛重治羽柴秀吉の軍師として、数々の武功を挙げた。野心は無いが、自信家で頑固だったという。風貌は女の如きで、現代で見れば「ジャニーズ系
本日、18時からロールさんの出張予約販売の受け付けがありましたので、休みが重なった事もあり、メールを送ったのですが…。いやん返信メールが来てしまったやないのんという事で、関西方面に急遽、行く事が決まってしまいましたやだわ、あんさん、実店舗どころかこないなとこまで来たんか!て、思われやしないかしら一応、ご迷惑がかからないように駐車場も調べて、目星はつけた上で応募したのですが、返信メールにも駐車場の案内が記載されてて…。そういう気遣いをちゃんとしてるのが、ホントすごい
船上城(明石市林崎町・林・田町・船上町)永禄年間に三木城の支城として築かれ、天正八年に羽柴秀吉に攻められ別所長治が自刃すると、船上城に高山右近が配された。高山右近は大規模な修築を実施した。その後、黒田長興、池田利政が城主となり、元和二年に小笠原忠政が封じられた際、小笠原忠政は明石城を築城し、船上城は廃城となった。船上城跡周囲は堀のように水田が広がる明石市の城