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プロの世界は良い選手を得るために様々なコネクションや資金を使いチーム強化に努めます。しかし、ルールに解釈を自分なりに考え、結果的にグレーゾーンな契約をする場合があります。その中で戦前に大きな問題となった契約がありました。その物語の主人公は別所昭投手です。別所昭(後の毅彦)は1922年10月1日生まれ兵庫県出身で、選抜中等学校大会に出場した強豪滝川高校に入学後、めきめき頭角をあらわし、1941(昭和16)年の選抜に出場。同じ野球部に青田昇もいた。別所をエー
このところの当ブログで、先日のドジャース・山本由伸投手のように9回2アウトまでいって「達成目前」でノーヒットノーランや完全試合を逃したケースをあげていますが、当ブログ2022年7月22日に書いた「9回2死から打たれノーヒットノーランを逃した投手の方が達成者より希少」を以下に再録します。***今年のプロ野球は本当に「投高打低」が顕著ですね。日本中のプロ野球ファンを沸かせた4月10日のロッテ・佐々木朗希投手の「完全試合」を皮切りに、5月にソフトバンク・
さらに続いて、当ブログ2022年4月24日に書いた「9回2死からヒットを放ち、別所毅彦投手の完全試合を阻んだ男」を以下に再録します。***このところの当ブログで、西口文也投手、仁科時成投手と「9回2死からノーヒットノーランを逃した」経験を2度もした投手の話を書きました。9回2死で、あと一歩で記録達成というところでどうしても余分な力が入ってしまうのでしょうか。そこで、達成できるか、できないかの運命が分かれ、物語が生まれるのです。極めつけは別所毅彦
別所毅彦(旧名:別所昭)1922年10月1日~1999年6月24日兵庫県淡路市出身投手、右投右打1922年、兵庫県で産まれた別所毅彦は、少年時代から野球に熱中し、その非凡な才能は早くから開花した。小学5年で転校した名倉尋常小学校では、法政大学の選手・島秀之助の弟と軟式野球チームを結成。帰省した島本人から野球の基本を学ぶなど、野球漬けの日々を送る。楠高等小学校では野球部で優勝を経験し、その活躍が滝川中学校への進学のきっかけとなる。しかし、名門滝川中学の入部テストは
5月20日、旭川空港に到着後に渡辺謙さんお気に入りの食堂「茶楽」でラーメンを食べた後、パリ五輪女子やり投げ金メダリスト北口榛花選手の母校「旭川東高校」を目指しました。旭川市役所の庁舎の東側にほぼ隣接するロケーションですので、旭川市役所の地下駐車場に車を停め、東隣の区画にある市役所の第2庁舎、第3庁舎、旭川中央警察署の南側を通って旭川東高校に到着しました。正門には御影石と思われる表札に「北海道旭川東高等学校」と刻まれていました。正門から撮った「旭川東高校」の校舎です。旧制旭川中学
【Q21217】本名を川部雄太というお笑いコンビ「豪快キャプテン」のボケ担当のメンバーの芸名にもなっている、元プロ野球選手の別所毅彦、歌手の堀内孝雄、女優の浜辺美波に共通する愛称は何?【べーやん】【Q21218】白金を触媒として高温でアンモニアを酸化させ一酸化窒素を作り、これをさらに酸化し二酸化窒素にし、水に吸収させ硝酸にする、現在でも利用されている硝酸の工業的製法のことを、1902年に考案したドイツの化学者の名前をとって何という?【オストワルト法】【Q21219】和泉式部の娘・小式部内
別所昭(後の毅彦)は1922年10月1日生まれ兵庫県出身で、選抜中等学校大会に出場した強豪滝川高校に入学後、めきめき頭角をあらわし、1941(昭和16)年の選抜に出場。同じ野球部に青田昇もいた。別所をエースとした滝川中学は優勝候補の一つで、順当に勝ち上がったが準々決勝の岐阜商業戦9回表、一塁ランナーに別所がいた。青田昇が打った三塁ゴロを相手三塁手が悪送球し、それを見た別所は一気にホームまで駆け込んだが、クロスプレーとなりそこで左肘を骨折。試合は延長戦となったが、エース
・・・と言っても、某スポーツ飲料の話ではありません。😅今から75年前の今日・1949(昭和24)年4月14日にプロ野球の試合で起きた三原ポカリ事件のお話です。主人公は今年2月に拙ブログで記事にした、三原脩監督。(↓)戦後直後の1947年に8球団中5位と低迷した巨人軍は、その前年に復員した三原脩さんを説得しシーズン途中の6月から助監督として招聘、9月には総監督に。翌年2位となった巨人は、更に優勝を狙うべく翌シーズン前に南海のエース・別所毅彦投手を強引に入団させる、いわゆる〝別
ちょっと前にある人と話していてこう言われた。お前ってアホなことを真剣にやるのが好きだよね、と。これ、おれにとっては最上の誉め言葉で、言われてうれしかった。言った本人もそういうところがあるわけで、そしてそういうところがこの友と引き合う点なんだろうと妙に納得した。で、早速その日にそれを揮毫してみた。今練習している王義之の行書風に。真剣ヲ以ツテ阿保ヲ為ス。これが漢語で正しいのか分からないが、聖徳太子の、和を以って貴しと為す、に似せて。よく功成り名を遂げた人物
昨日の、阪神VSロッテ戦で、抑えのエースの湯浅投手が、エラーの後に連打されて、同点に追いつかれた。不甲斐なく感じたのか、引き揚げる時に自らの帽子を叩きつけるシーンが印象的だったが、以前のある場面を思い出した。今はコーチの大久保さんがまだ現役の時だった。肝心な場面で代打(だったと思う)で登場したが、敢無く三振した。その結果、大久保さんは、鬼の形相をしながら、怒ってバットで地面を叩きつけ無残にもバットが折れた…。プロ野球ニュースで別所毅彦さんが、そのシーンを見ていて
今年のプロ野球は本当に「投高打低」が顕著ですね。日本中のプロ野球ファンを沸かせた4月10日のロッテ・佐々木朗希投手の「完全試合」を皮切りに、5月にソフトバンク・東浜巨投手、そして6月はDeNAの今永昇太投手と、オリックスの山本由伸投手と二人のノー・ヒッターが生まれました。ドラゴンズの大野雄大投手の「実質」完全試合も含めると、大変なノー・ノー・ラッシュです。ここまで4、5,6月と連続して出ているので7月も出るかなと思っていたら、一昨日7月20日にオリックスのドラフト1位ルーキー・椋木蓮投手が9回
江夏豊の『強打者』に続き、同じプロ野球選手二人の本を読んだ。三人とも名前が、豊である。偶然に過ぎないだろうが、ちょっと面白い。石川『頭で投げる。』は10年前に書かれた本である。福本『走らんかい』の発行は・・・と今、手元にないので面倒くさいから確かめない。二人とも170センチに届かない小柄のプレイヤーなのだが、それにも増してそうした体力的にも他のプレイヤーに劣る素質をカバーすべく徹底して走り込み、強靭な下半身を作り上げたという点が一致している。石川は「下半身はいくら力んで
私は生来不器用で、逃げ足だけが取り柄だったので、中学時代の部活は球技を避けて、陸上競技部だった。でも、スポーツを観戦するのは子供の頃から好きだった。その初めは野球と相撲である。私がプロ野球や大相撲に興味を持ち始めたのは小学生の頃である。と言っても、情報は新聞とラジオのみ、テレビが我が家に来たのは高校生になってから。小学生の頃の記憶をもとに、Googleで検証しながら、記憶を整理することにした。先ずはプロ野球から。父が野球好きで左利きであったからか、セ・リーグ読売巨人(ジャイアンツ)の川上哲
昨日の当ブログ「『あぶさん』のモデル、二刀流の永淵洋三選手」に、近鉄バファローズのテストに合格、ドラフト2位で入団した際に「この契約金で飲み屋のツケが払えるし、自分が酒に誘った仲間の分の借金も返せる」と言ったことや、酒豪の永淵さんの豪快エピソードを紹介しました。昭和の時代は、こういった豪快な選手がいましたね。かつて、石戸四六さんという投手がいました。秋田商からノンプロの日立製作所を経て国鉄スワローズに入団。まだドラフト会議が始まる前で、日立時代の監督・砂押邦信さん(立教時代に長嶋茂雄選手に猛ノ
今週なんとか乗り越えました健康診断という高い高いハードルをクリアしました(゚∀゚)これはもう愛馬に勝ってもらってGOTO焼肉しかないです今週の予定3頭とも一番人気かも(゚∀゚)京都2R未勝利戦アブルマドール牡馬2歳サンデー牡馬ですデビュー戦ではパドック解説者に「牝馬みたいな馬体や〜」って言われてましたそのデビュー戦は2着でした!昔プロ野球ニュースの解説者が、「日本シリーズは2戦目と5戦目が大事なんや」と話されていました。今ならその意味がわかります!大事な、
呪わしい10月は、間もなく終わります。思えば苦しい1か月でした。本来は青い日刊スポーツの紙面を赤く染めた井上晴哉のサヨナラタイムリーの日からの成績は芳しくなく、勝ったのはわずかに2つではなかったでしょうか。まさかここまで負けるとは思いませんでした。本当に、苦しい1か月でした。昨日も…楽天岸から窺えた数少ないチャンスにおいて清田はよくぞ打ってくれました。打球がセンター小郷のグラブを越えていった瞬間、思わず声を出してしまいました。しかし、得点はそれだけでした…。またしても、打て
6月24日は通算310勝をあげた名投手別所毅彦投手の命日です。別所毅彦(別所昭)1922(大正11)年10月1日-1999(平成11)年6月24日兵庫県出身旧制滝川中学では野球特待生で入学、そこではひたすら走りもみされ、今では「しごき」と言われるような野球部で辞めずに頑張った。1941(昭和16)年3月21日選抜中等野球大会で別所を全国に轟かせた出来事があった。準々決勝に岐阜商船の9回表、得点は0対1、ランナー1塁2塁のチャンス。一塁ランナーは別所で、4番
◆広岡達朗『プロ野球激闘史』を読み解く★要旨・私が早稲田大学を卒業して巨人に入団したのは1954(昭和29)年だった。・あの敗戦から8年余りが過ぎ、新生日本が再建に向かって立ち上がった時代である。・1966(昭和41)年に34歳で引退したあとも、コーチ・監督として指導した後輩たちに多くのことを教わった。選手に教えるということは、選手に学ぶことでもある。・この本では、現役選手として監督として、私が死力を尽くして闘った「昭和の達人たち」の素顔を書いている。・私は新人王でプロ野
今までに頂いた野球関係者のサインの紹介。続いては、剛腕、鬼軍曹別所毅彦(昭)さん1943年ノーヒット・ノーラン達成。ホークス、ジャイアンツで沢村賞を受賞。MVP2回ほか多くのタイトルを獲得。通算310勝。1979年野球殿堂入り。別所さんを表すような豪快なサインを頂きました。
読売ジャイアンツセントラルリーグ公式戦1950年8月9日巨人5-0国鉄観衆:8,000人勝:別所毅彦敗:田原基稔本:武宮敏明×2(G)盗:藤田宗一(S)
トリッカーズのバートンを、サフィールのダークネイビーの、クリームをぬって磨きましただんだんとダークネイビーのおかげで、色のトーンが明るくなっていますバートンは私にとって革靴好きへの道を、つくってくれた靴です二子玉川の高島屋で、目に飛び込んできたのを今でも覚えていますやっぱり直感の力って本当にすごいなあ、と改めて感じました一目ぼれした時に思ったことが、めちゃくちゃ頑丈そうで、本当に何十年も履けそうな、靴だということです靴紐を通す穴が鳩目で、しっかりと補強されています
放送作家の小野高義です高校野球は秋季大会真っ盛りとなってきましたね。秋ってかんじです。きょうは我が母校の初陣一回戦は都立ですがそんなには弱くない相手に11-06回コールドの爆勝ち!課題も多かったようですがまずは勢いに乗れそうな勝ちっぷりでした。よかったよかった。でその直後母校出身のプロ野球選手が一軍昇格即スタメンよかったよかった◇でプロ野球大野雄大投手ノーヒットノーラン!千賀投手のノーノーからたったの8日また?
☆9/6千賀滉大投手ノーヒットノーラン!9回にやや制球を乱し2四球を与え、1ダウン1,3塁のピンチを招いたものの、最後まで直球の威力は衰えず、フォークもキレキレで後続2人を討ち取ったのにはシビレましたね、お見事ホークス球団史上2人目と言うのにビックリ。1人目は戦前1リーグ時代、別所昭(毅彦)さんなのも感慨深い。野村克也さんは、杉浦忠、スタンカ、皆川睦雄、の大投手を擁しながら、その機会に一度も恵まれなかったわけで、野球の神様も随分意地悪なのだなぁと思います。☆別所さんはプロ野球
プロ野球(NPB)公式戦は6試合が予定通り開催されました。福岡ソフトバンクホークスは福岡ヤフオクドームで千葉ロッテマリーンズとの対戦の今シーズンの22回戦が開催され、試合は5回裏に福岡ソフトバンクホークスは1アウト・ランナー2塁3塁の場面で甲斐拓也がセンター前へのタイムリーヒットで1点を先制すると、6回裏には2アウト・ランナー1塁の場面で内川聖一の外野フライの打球の処理をしたセンターのレオネス・マーティンの捕球ミスによるエラーの間に1塁ランナーが生還して1点を追加して2-0とすると、7