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初心者なので、遊びながらのお勉強です。でもだんだんと思うようになります。とんでもない答えが出る時もあります。「二人が前後してあるいて、後ろの人は年配の女性にして」とお願いしました。するといい具合になりました。当時はどんな姿かわからないけどイラストとしては良いのではないでしょうか欲張って実写にしてとお願いしました。だんだん現実味が帯びてきました。実際に炭の道を歩いてみるとどうなるのだろう。別子銅山探検隊隊長
そんなに働かなくてもいいよぅー炭俵は背中の2つにしてとお願いしたら・・・・・人物の顔が変わりました。AIにも好みがあるのかな。炭俵の大きさを同じにして・・・いいぞ良いぞ一人じゃ淋しいよね。二人にしてとお願いしました。あらー!二人にはなった。?・・・・・記念写真じゃないんだけどAIも悪戦苦闘がつづきます。***********炭の1俵は4貫目(約15kg)です。昔は3貫目(約12kg)だったとの説もあります。そして運んでいたのはだいたい女性だった
はーい送られてきました。う~んですね私だって炭中持さんを見た事が無いのですから、想像でお願いしているわけです。それにしても「ちょっと違うなぁ」と思いますね。服装はまだいいとしても炭が炭俵ではないですね。足元が「靴」になっていました。表情が暗いと言うか陰気ですね。何度が繰り返してお願いしましたが、なかなか思うように出来上がりません。もう一度最初から始めました。残念ながらgameover私は無料で使っています。これ以上はアップグレードしなくてはなりませ
冬は寒いので、私にとっては冬眠するのがいちばんです。毎年、3月の末ごろまではほとんど出歩きません。ひどい日は、トイレより先へ行かないことさえあるくらいです。下から二番目の孫が「じいちゃん、山に行こう」私は聞かなかったことにしようとしたのですが、「2月23日は天気もいいし、これを逃したら、しばらく天気が悪いんよ」こちらの冬眠宣言など聞き入れてくれません。「冬眠中です!」と抵抗してみたものの、結局は半ば強引に引っぱり出され、銅山峰まで行ってきました。
今日は2026年2月23日(月)です。昨夜は録画をしてあった「人生の楽園」を見ました。都会から愛媛の新居浜に移住。楽しい人生を過ごしている夫婦の物語を見ました。僕は新居浜市は徳島の中学校の同窓の皆さんと行った事が有ります。懐かしいので僕のブログから振り返って見ました。何度か記事に書きましたがお初の方もいらっしゃいますからまた掲載しました。過去記事です。↓===========今日は2022年1月21日(金)です。僕
今日は2026年2月23日(月)です。昨夜は録画をしてあった「人生の楽園」を見ました。都会から愛媛の新居浜に移住。楽しい人生を過ごしている夫婦の物語を見ました。僕は新居浜市は徳島の中学校の同窓の皆さんと行った事が有ります。懐かしいので僕のブログから振り返って見ました。何度か記事に書きましたがお初の方もいらっしゃいますからまた掲載しました。過去記事です。↓===========今日は2022年1月21日(金)です。
今日は出張明けの金曜日。仲間と反省会をしました。さて、本日のテーマは、住友別子銅山株式会社あての年賀状です。1月のいずみの例会のサイトーさんの100円均一から拾ってきました。単なる年賀状なので、だからなんだのアイテムですが、鉱山局関係ということで、1枚だけ拾いました。別子銅山関係のブログ⇒別子鉱山住友採鉱課宛の葉書|津田沼徒然草のブログ⇒日立鉱山から差し出した足尾銅山の絵葉書の謎|津田沼徒然草のブログ⇒愛媛・別子の櫛型初日印配達印との
そもそも今回、愛媛県に行こうと思ったのは、「別子銅山」が見たかったからです。2019年に鳴門の渦潮を見に行った時、観光船乗り場で「東洋のマチュピチュ」と書かれたポスターを見て、初めて「別子銅山」を知りました。その翌日にお詣りした大阪の住吉大社の参道の石灯籠の説明書きにも「別子銅山」のことが書かれていたので、「これはぜひ、行ってみたい!」と思っていたのが、6年後に実現しました。別子銅山は1961年(元禄4年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山までの283年間、稼働していました。「東洋
瀬戸内周遊旅行3日目。体調が悪すぎて…道後温泉で目覚め、松山に移動結局予定していた朝風呂も松山城も行けず、まぁ監督が愛媛出身の田中さんに教わったおいしいものを回って買ってきてくれました。霧の森菓子工房松山店霧の森・霧の高原オフィシャルサイト|Kirinomori&KirinokogenOfficialSiteKirinomori&KirinokogenOfficialSitewww.kirinomori.co.jp霧の森大福が有名で大人気!!すごく並ぶし売り
別子銅山にはたくさんの遺構がありまして、銅山本体以上に役員や社長さんの豪邸がたくさん綺麗な状態で残されています。数年前に訪問下時は見学不可だったのですが、現在は月2〜4回、2時間だけ解放しております。設定に無理がすぎるwww近所の方ぜひどうぞ。もう少し・・せめて毎週とか・・いつかそうなるといいなぁ。塀からのぞいてみたら、、、外装綺麗になってる&内にブルーシートがみえますこれは・・楽しみ!数年後にはここら辺一帯が見学できる様になるのかなーvこういう門柱がアチコチにあるのです、建
2025年11月愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。その22.別子銅山です。内宮神社から県道47号を国領川に沿って南下すると右側の川の対岸に道の駅マイントピア別子があります。この辺りは別子銅山の端出場ゾーンと呼ばれるエリアです。この建物に入ってすぐ右にある受付で料金を払います。バスに出発まで少し時間があるので、館内をウロウロし、観光列車の発着場に行くと、ちょうど列車が戻ってきました。道の駅の駐車場を出発した満員のバスにはガイドさんも乗り込み、移動中ほぼずっと解
大洲のイラストレーターMicaでございますようこそようこそお疲れさまです先日まで短期バイトで上須戒まで山越え往来していたMicaです、こんにちは去年、上須戒の仕事場の近くにいかにも古い神社を見つけまして初日のお昼休みにお参りしておぉー✨おぉー✨と感激しながら写真を数枚撮ったりして、去り際の参道ではメジロが2羽飛んで来て見送ってくれて可愛かった✨今年も、初日のお昼休みにご挨拶(お参り)に行きました鳥居に天満神社と書いてありま
78・日浦坑口風景鉱車と籠電車が見える日浦~東平間を籠電車が走り別子山村在住の人の便を計っている。筏津、積善、余慶で採掘された鉱石は索道を経て、日浦通洞を通り東平へと運ばれました。周辺の森林から伐採された木材は坑木として、また、端出場発電所の水も通洞内の水路によって運ばれました。別子小中学校の修学旅行もこの地を通り、かご電車に乗り新居浜へと向いました。日浦通洞は別子山村の西の端に位置していましたが、交通の要でした。。
86.筏津配給所売場レジ係昭和47年8月配給所と呼ばれた場所は、現代のスーパーマーケットのような存在でした。そこには、日々の暮らしに不可欠な品々が豊富に揃っていました。当初は日浦通洞経由で物資が運ばれていましたが、第四通洞が開通すると、鮮魚なども手に入るようになり、村の人々の暮らしを支える店として重宝されました。
88.別子山村立小中学校特別教室昭和47年8月正面には学校があり、右手に木立に隠れるように、三階建ての校舎建っている。1970年(昭和45年)の建設で、音楽室、理科室、工作室などの、特別教室や給食調理室がありました。現在は別子小学校、中学校として利用されています。左手に車が駐車している所は保育園です。
87.別子山村立小中学校正門昭和47年8月1961年(昭和36年)本校校舎落成。愛媛県でも珍しい、鉄筋3階建ての近代的な校舎として注目を浴びました。(児童257名、生徒134名)給食室を備え、広範囲な校区に対応するためスクールバスも運行していまし
さて、あっという間に師走が来る会社の年賀状の準備、お歳暮の選定ああ、、年末だなあ、、と感じる12月は新しい派遣先なんか、ドキドキするが、まあ、あまり気負わずに、、大窪寺でひいた、おみくじも大吉だったし←意外と気にしてた笑なるようになるかあ、、楽しもう☝️11月はちょっと片付けや自分や身近なまわりのフォロー仕事や雑務意外とそういうのが、一番大事なのかもね😏さて、ツラツラと書いてたブログですが、また12月は12月の新たな風が吹くかな?寒くなってきましたので、皆様
98.別子山村役場一見すると平屋に見えるが、実は2階建ての建物。1959年(昭和34年)別子小学校弟地分校として建築、本校に統合後は役場として利用されました。現在、役場は、新居浜市別子山支所として、保土野に移転し、この建物は倉庫として利用されています。
97.日の地より筏津社宅を望む、中央の森は金比羅山元来、別子山の人口は400人から600人ぐらい。農耕や狩猟で、生計を立てていました。ゆえに、多くの人々を養うことは難しく、各集落には7、8軒ほどの家々が点在していたようです。筏津はその状況とは異なり、異常なほどの人口密集地でした。坑内動労という特殊な職務に従事する人々で給与も他より高水準で、生活水準もずば抜けて高かった。また、住宅費や水道光熱費が格安で、彼らはその余剰分を食費、衣類、そして電化製品などに費やしました。
85.日の地より望む筏津社宅風景昭和47年8月写真は、筏津社宅の光景です。下段には長屋が、中央には二戸一の社宅が確認できます。社員の階級に応じて社宅が割り当てられ、この住まいは上層部の特権であった。左の一番上にはクラブがあり、その下は映画館がありました。月に一度ぐらいの割合で映画が上映され、料金は無料でした。娯楽の少ない山間の地ゆえ、いつも多くの人々が集い、畳席だったので座布団持参で訪れました。その下は住友病院筏津診療所の建物です。医師は常駐していましたが、歯医者は期間
84.日の地県道より望む筏津坑々口昭和47年8月「日の地」とは、銅山川の左岸、陽の光が降り注ぐ場所を指します。対して右岸は「陰地」と呼ばれ、日照時間が限られていました。特に筏津は山に囲まれ、雪が遅くまで残っていました。筏津の左岸を「日の地」と呼んでいました。正面には筏津坑の坑口が見えます。閉山後、別子山村がこの地を借り受け山荘を建て、観光坑道として公開しました。その後、新居浜市との合併になり、筏津山荘は取り壊され、坑口のみがリニューアルされました。
114.一の谷駐車場より一の谷社宅を望む昭和47年8月明治31年の写真で、一の谷に住宅が建てられていることが確認できます。地図には、六軒の長屋とクラブが記載されています。鳥居が立ち、長い階段を上り詰めた先に、金毘羅権現が祀られていました
79.筏津社宅風景中央白い屋根の所が現場事務所昭和47年8月白い屋根の、手前に見える「湯気抜き」のついた建物は、風呂です。左手には筏津坑へと続く線路が走り、坑口は建物の陰になって見えない。風呂屋の手前の長い建物は社宅で、六軒長屋の証である六本の煙突が並んでいましたが、プロパンガス化によりその姿を消しています。山の中腹に見える道路は、古来より高知県大川村に続く道です。県堺の太田尾越まで1時間ほどで行けます。
83.筏津黒橋より望む事務所昭和47年8月筏津の上流の方に架かっていた橋が黒橋です。事務所の建物の左側に見えているのが、筏津西走り坑で坑木などの物資を搬入していました。鉱石の搬出はありませんでした。石垣いっぱいに事務所が建てられており、通行は旧別子でよく見られる張盤とよばれる工法で作られた川に突き出た道路でした。
82筏津事務所中央警備員詰所。昭和47年8月。筏津の上流の方に架かっていた橋が黒橋です。事務所の建物の左側に見えているのが、筏津西走り坑で坑木などの物資を搬入していました。鉱石の搬出はありませんでした。石垣いっぱいに事務所が建てられており、通行は旧別子でよく見られる張盤とよばれる工法で作られた川に突き出た道路でした。
80・筏津坑口、約100m這入った所に人車巻がある昭和47年8月筏津坑は100m入ると突き当りになっております。鉱床は地中深く潜っており、それに沿って掘められ、最終的には海面下560m以上に達しました。人車巻とは坑夫さんが乗ったケーブルカーのような乗り物です。現在、筏津坑は新居浜市の管理になり、観光坑道となっております。安全面を重視した結果か、見違えるように綺麗になり、年中無休で24時間開放されております。