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11月25日の一読は、「鉢植えの松」のたとえで語られる分度の話である。田村氏はここで、分度とは「我慢」や「縮こまること」ではなく、限られた根に合わせて枝葉を整える技術だと示している。鉢植えの松は、地植えの松のように、どこまでも根を伸ばすことはできない。鉢の大きさに応じて、根の張れる範囲には、はじめから限界がある。にもかかわらず、枝葉だけを好き放題に伸ばしてしまえば、根は養分を吸いきれず、やがて衰えていく。だからこそ、年々、緑を摘み、枝を透かし、鉢に見合った姿に整
11月19日の一読は第3章の続きです。田村氏はまず、商品や事業には必ず季節変動や循環的な波がある、という前提を置いている。どれほど好調に見える商品であっても、今年売れたからといって、来年も同じように売れるとは限らない。だからこそ、閑散期に投入する商品を工夫する売上の山と谷をならすこの「平準化」の発想が、経営の安定につながると田村氏は述べている。「年切り」という自然の理ここで田村氏が引くのが、果樹の世界で言われる年切り(循環輪転)の話である。今年たくさん実をつけ
11月7日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第8節では、金次郎の処世観が「世の海を渡る」という比喩を通して語られています。人生にも、事業にも、必ず波があります。順風の日もあれば、逆風にさらされる日もある。穏やかな凪もあれば、思いがけない荒波に出会うこともある。金次郎は、こうした違いを運の良し悪しや、才能の差としては捉えませんでした。それらはすべて、同じ海を渡る中で、どのような渡り方を選ぶかの違いにすぎない――そのように見ていたように思えます。
10月21日の一読は第9章の続きです天保七年。五十年ぶりといわれる大凶作が桜町領を襲いました。普通であれば、年貢はほとんど取れず、村は荒れ、百姓は生き残るだけで精一杯。ところが、桜町領では――年貢米725俵、冥加米97俵、あわせて822俵。平年の“およそ5割弱”という数字を確保することができました。これは奇跡や美談ではありません。金次郎が十数年かけて積み重ねてきた、“日々の手立て”が静かに働いた結果でした。1.平年の5割弱、分度比7割という事実桜町領の年貢
10月14日の一読は第8章の途中までです。幕末の小藩ほど、見えにくい苦しさを抱えていた。二万石・三万石規模の藩は、旗本(1万石以下)よりもむしろ厳しい。江戸と領地の双方に屋敷と藩邸を構え、参勤交代の義務も免れない。人件費・資材費は膨大で、いったん赤字に転じれば歯止めがきかない。いわば「貧乏旗本」と呼ばれた家々よりも、一桁も二桁も深刻な財政状況だった。1.山ひだの村と「米の取りにくい領」桜町から北へ三里。小貝川を渡り、さらに東へ進むと、地形はやがてなだらかな山あいに変わる。こ
今日の一読は第3章の最後までで、「5小田原追放、時代の波にもまれた晩年」でした。今回の内容は金次郎の晩年までのストーリーに関して、小田原藩を軸に書かれていて、すごく新鮮でした。今まで、大久保公亡きあと、小田原から金次郎が追放になっていたことは知っていましたが、詳細についてじっくりと読めたのはよかったです。金次郎の実践は、荒廃した村々を再興するやり方として、当時、比類ないものになっていましたが、金次郎を生んだ小田原藩が、金次郎を出禁にして、藩内で金次郎の話をすることさえもタブーにした理由を今回知
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…二宮尊徳は天明七年に生まれ、七十歳で生を終えた。それは幕末の国家的動乱期で、内憂外患(ないゆうがいかん)の時代であった。その時期に尊徳は貧困にあえぐ農民救済に焦点を定め、国事を一切論じず、一滴の血も流さず、一発の銃弾も撃たず、荒廃した全国六百余村を復興し、疲弊した藩の財政を再建した。その根本は四つの教えに尽きる。「至誠を本とし、勤労を主とし、分度(ぶんど)を体とし、推譲(すいじょう)を用とす」まごころを根本に置
夜更かしうたた寝し、朝寝坊した。パワーヴォキャブラリーと少林寺気功した。久しぶりに、南足柄市広町地区に行き、セールスレター=チラシ投函した!写真の早崎郁之先生(ユダヤ流成功チャンネル、宝地図の望月俊孝先生や本田健さんなどの友達、アンソニー・ロビンスの弟子)早崎郁之早崎郁之さんはFacebookを利用しています。Facebookに登録して、早崎郁之さんや他の知り合いと交流しましょう。Facebookは、人々が簡単に情報をシェアできる、オープンでつながりのある世界の構築をお手伝いします
東京出張を終えて1日延泊し、小田原に行ってきました。小田原にある二宮神社は、一宮、二宮の二宮じゃなく二宮金次郎を祀る神社。その名も報徳二宮神社!小田原駅周辺は街だけれど風情があり私のイメージする地方都市とも城下町とも温泉街とも違った、なんだか心地のいいところでした。駅から少し歩いて、到着。境内の入口近くには、大人の二宮尊徳像。大人になった二宮金次郎さんは身長180センチ以上もあったそう。そして、像の前にはこ
先週の街頭演説の写真ですが、現在も、もちろんまだ半袖です!!表題の勉強会、まだまだ空席がございます。是非ともメールやSNSなど通して、お申し込みください!この勉強会にかける想いを書いた前回のblogもあわせてお読みください。『〜小竹めぐみの話〜10月29日・ラスカ小田原。ユメテラス15時〜是非とも事前にお申し込み下さい!』出会ったのはインド。ジャイサルメール。音のない世界。砂漠の街。確か私が数週間におよぶラクダとの遊牧生活を終えてたどり着いた街。確か18年前。季…am
【備忘録】二宮尊徳(金次郎)研修ツアーなどから帰宅してちょいと仮眠。今週も東大阪市広報番組🌈からスタートしました✨この4日間たくさん写真を撮ったので忘れないうちにアップしてゆきます♪『人のために何ができるか』を常に考え、学び、行動しつづけた二宮尊徳。きれいごと過ぎて本当?って思ったけど尊徳に触れるたびに真っ直ぐな至誠の持ち主でしびれました。尊徳について初めて学んでみてたくさん得た言葉があったのだけどその中から3つ「自分の身の丈に合った暮らしをし余ったお金や力は社会
昨日から小田原での研修会に参加しています。二宮尊徳(二宮金次郎)の生家や記念館などを巡り銅像でおなじみの「勤勉少年」「勤労の人」だけではない尊徳の農業を通した再建能力・ビジネスセンスなどにも触れています。前から尊徳ファンだったかの如く銅像を見るたびに尊徳さん💗の手を握るなおちゃんと私(笑)
昨日の夜こちらの講座を受けてみた。企業としてではなく、自分を別のフレームで見てみると、いうことで。https://companypurpose01.peatix.com/view?fbclid=IwAR2e6mZhsxe4fwsP4KenEK-oTKNIb1Ul-M5_cYcGKgnjEVwFfbhqEJyJQ-w自社の役割を再定義する;リフレイミング・ワークショップ企業にはその企業の目的があり、その目的に沿って事業が展開されています。しかしながら、事業を営んでいると徐々にサービス内容が変
浜松の産業集積ひつまぶしや餃子を求めて浜松市を走っていると、のびやかな風景の中に浜松ホトニクスの研究所やエンシュウやうなぎパイの工場など、数多くの開発・生産施設が点在しているのに気づく。新東名高速の開通を機に、その近傍に拠点を設けたのだろう。これだけの開発・生産施設と技術者、熟練工が集積している地域というのも見事だ。改めて浜松発祥の世界的企業を調べると、ヤマハ、スズキ、ホンダ、河合楽器、ローランド、浜松ホトニクスなどが挙げられている。さらにエンシュウ、富士機工、エフ・シー・シー、ユタカ技
今日から「第九篇治国の要道」に入ります。今日の一日一読は「〔197〕衰村復興は上役の徳行から」でした。「村里の衰廃を興すには、金を投じなければ人がついてこない。金を投ずるのに道があって、受ける者がその恩に感じなければ益がないのだ。」(260ページ)このことの重要性は次の文章を読むとより一層感じられると思います。「広い天下のことゆえ、金を出す善人も少くない。それでいて、堕落した風俗は洗い流し、すたれた村を興すところまで行かないのは、みんなその道が当を得ないためだ。」(同上)なるほど、世の
今日の一日一読は「〔180〕藩政改革は民政改革から」でした。今回は藩の財政をどうしたら良いかという相談を受けた尊徳がどう応答したかという点が注目すべきポイントだったと思いました。尊徳は藩というものを木で例えます。百姓は木の根にあたり、藩主・藩臣は幹と枝葉のようなものだと言います。ここで大事なのは領民すべてが一つの木となっているという点です。しかし、制度的には分けて考えることができます。だからこそ、尊徳は木を例えに使いました。尊徳の問いは、なぜ藩の財政だけを改革したいとしか考えないなのかという
8月12日の一日一読は「〔165〕宥坐の器と分度と推譲」でした。今回は孔子の「宥坐の器」を題材に、尊徳の分度・推譲の基本が押さえられる内容になっていました。尊徳は山内董正という方が持っていた「宥坐の器」の図と説明を読んで、次のようなことを言います。「この図もこの説明もおもしろいけれども、「満」の字の説明がはっきりしない。また「満を持する」という説明も十分でない。論語や中庸の語気とは少し懸隔を感ずるが、何の本にあるのだろう、といわれた。」(218ページ)尊徳の感じた違和感は、おそらく普通で
今日から「第7篇幸福を永遠にする推譲の法則」に入ります。前回までは分度に関する夜話が中心でしたが、その中でも推譲の話が少し出ていました。それほど分度と推譲は結びつきが強いものだと言えます。それはそうです。分度がしっかりできるから推譲ができるわけであって、両者を切り離して考えることは不自然です。もっと言えば、至誠・勤労・分度・推譲という一連の流れが尊徳における永続的発展の基礎です。今日の一日一読は「〔163〕四海困窮せば天禄永く終る」でした。この小見出しは夜話の後半の儒学の話を念頭においたもの
今日の一日一読は「〔156〕家産を維持する推譲の道」でした。今回も分度の話ですが、その中で推譲がしっかり位置付けられている点が見過ごせないところです。尊徳は冒頭で樹木を例にこんなことを言います。「樹木も老木となると、枝葉も美しくなく、萎縮して衰えるものだ。このときに大いに枝葉を切りすかせば、来春は枝葉がみずみずしく、美しく出るものだ。」(205ページ)この話は人間にも当てはまるという尊徳ですが、一人の人間ではなく、その子孫が視野に入っている点が興味深いです。尊徳は独り身で分度をすることは
今日の一日一読は「〔150〕分度が富国の基本になる」でした。前回は分度を最初に立てることの大事さが語られていました。今回は分度を軽んじるべきではないという尊徳の想いが伝わる内容でした。尊徳が分度に関して力説するのも無理もないと思います。分度はそれ自体に価値を見出すのがなかなか難しいからです。ただ分限内に生活を止めることしかしていないといえば、それまでです。分度をすることの大事さは頭では分かりますが、心の底からそれがしたいかと言われれば、できないと言ってしまうと思います。今回の話では、なんとか
昨日は一日バタバタしてて、投稿ができませんでした。昨日の一日一読は「〔149〕分度の確立を本とする」でした。尊徳の仕法は「至誠・勤労・分度・推譲」というものに集約できますが、その中の分度について深く考える機会になりました。尊徳は冒頭で「何事でも、成しとげようとするならば、最初から、終りにどうなるかを見定めておかねばならない」(同上)と言った上で、自分自身がそれをどう実践してきたかを語っています。尊徳が村を再生にするにあたって、まず調査をとことんするということは知っていたのですが、それがどういう
浜松には、やらまいか(やってみよう)という気風があるという。浜松ホトニクスやアルモニクスといったユニークは企業も多く、ヤマハ、ホンダ、スズキといった世界的企業も輩出している。二宮尊徳その気風はどこから来たのか、と探ると、村の自助を促した二宮尊徳に行きつく。二宮尊徳というと、薪を背負って漢文を勉強する銅像にイメージがあるが、あれは皇民教育の創作で、実際は敏腕農業技術者・思想家だったそうだ。田んぼが荒廃した要因を、年貢負担が重すぎて、農民が村を出て行ったことを定量的に分析し、100年先を
今日の一日一読は、「〔八〕わが道は開びゃくの大道」でした。この話の冒頭では、ある人が尊徳に向かって、弘法大師の法力によって、石油を見つけたことの凄さに感嘆していることを伝えたところから始まります。それを聞いた尊徳は、「それは奇特は奇特だが、ただその一箇所だけのことで、尊ぶに足らない」(44ページ)とはっきりいます。そして、むしろ自分の道の方が奇特だと言います。弘法大師の法力を上回る力があることを言うと思いきや、「どこの国だろうと、荒地を起して菜種をまいて、そのみのりをとって油屋に送れば、種
前回は、童門氏が金次郎の思想における至誠に注目できていないことを指摘した。今回は、その証拠になることから取り上げてみたい。童門氏は、二宮金次郎の報徳仕法を3つの柱で成り立つという。「・分度を立てる、・勤労する、・推譲する」(17-18ページ)これを見たときに私は2つの点で落胆した。まず一つ目は、至誠が入っていないことである。これは以前、今市にある報徳二宮神社で買った張り紙で確認できる。もう一つは順番である。童門氏は分度から始めて、勤労と推譲につながると考えている。確かに、分度
榛村氏の本から問題意識の教材化をするのは、今回でラストにしようと思っている。全体的に、当初期待していたことがあまりなかったからである。金原明善について深めようと思って、何冊か見てみたが、榛村氏以上の深さがあるとは思えなかったので、他の題材を考えたいと思っている。今回取り上げたいのは、榛村氏が二宮金次郎(尊徳)をどう捉えていたかである。結論から言えば、金次郎に対する一般的な理解を超えるものではなかった。あえて言えば、金次郎に相対的に近かった榛村氏でもそうだったのかという気づきが私にはあった。
2018年6月21日木曜日晴れNo.741今日はいいお天気でした。週末は雨の予報ですね。【二宮尊徳について】10日ほど前に参加した「潤身読書会」で、二宮尊徳の話題になり、それ以来、尊徳に関する書籍を読み返していました。二宮尊徳は、江戸末期の貧しい農家の家に生まれ育った人物です。当時、多くの藩では財政危機に陥っていた中で、火山の噴火や天候異変による凶作が頻発し、多くの餓死者を出すような状態でした。こうした中で尊徳は、財政の改革や村々の復興を指導し、再生した村の数は600を超えて
掛川城隣の大日本報徳社の建物を見学しました。報徳思想、つまり二宮尊徳翁の思想の普及を目指した団体だそうです。この団体の創始者は尊徳翁晩年のお弟子さんらしく、この掛川で日本最古の信用金庫も創設したそうです。事業において実践して成功も収めた訳ですね。報徳思想は全国的な運動として展開され、農村救済の枠を越えて明治時代には数多くの起業家にも影響を与えたそうですね。この掛川の塾で学んだ青年達の中からは政治家として活躍した方もいたそうです。「至誠」「勤労」「分度」
にほんブログ村人間は身の丈に合った暮らしをするべきであると、日頃から思っている。小さいころ明治生まれの祖父母の暮らし振りをみて教えられた。最近、分度という言葉を目にした。「分限度合」の意味で、二宮尊徳の創始した仕法上の用語である。尊徳はこの言葉で、身の丈に合った生活をするよう指導した。この分度は個人の生活だけではなく、人間の文明に関しても警鐘を鳴らす言葉であろう。夏目漱石は「草枕」で、「汽車」を明治文明の象徴として取りあげている。「汽車の猛烈に、見境な
小学校で薪を背負って、本を読んでる銅像でおなじみの二宮金次郎生家と捨苗栽培地跡二宮尊徳飯泉観音にて金次郎が母親の病回復を願う像太平洋戦争中には、砲弾になるため軍に銅像とられたようですが、いまは小学校の父兄が歩きながら本を読んだら車に轢かれるから危ないと言って銅像撤去が進みあまりみられなくなったはずです。例え話も分からない子どもなのか?あなたたちの子どもは!モンスターペエレスツ