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日本書記における「国譲り」の項に登場する、「柱は高く太し、板は広く厚くせむ・・天日隅宮」とは、出雲大社が建設される前段の建築物であろうと私は考えている。國學院大學の学術リポジトリ-『天日隅宮考』と出雲大社』にどのように紹介されているのか、是をぜひ読みたいと思ってアクセスしたら、なんと「現在メンテナンスのためリポジトリをご利用いただけません。停止期間:2026年4月23日14:00-2026年4月27日17:00」とコメントされた。天照大神は二男・天穂日命(天
「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【4】2日ほど空きましたが再開します。◎【1】『◆【1】三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系』「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【1】新しい企画物ではなく、「大美和」第150号の寄稿をピックアップしたものです。あまりに深い内容であるため…ameblo.jp◎【2】『◆【2】三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系』「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【2】イレギュラーな記事が入り1日飛びましたが…【
「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【3】3回で収め込むプレッシャーから解放されたからというわけでもないのですが…せっかくなので細部まで詰めていこうと思います。退屈な記事となりますがご容赦下さいませ。これでスピリチュアルなどと言う低俗な輩の撃退を図ります。◎【1】『◆【1】三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系』「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【1】新しい企画物ではなく、「大美和」第150号の寄稿をピックアップしたものです。あまりに深い内
「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【2】イレギュラーな記事が入り1日飛びましたが…【1】からの続きです。『◆【1】三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系』「三輪山」◆三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系【1】新しい企画物ではなく、「大美和」第150号の寄稿をピックアップしたものです。あまりに深い内容であるため…ameblo.jpちなみに…3回程度で記事を終えるとしておりましたが、到底ムリそうな感じ。【前編】としていたのを【1】へとこっそりと変えております
こんにちは!本日はお立ち寄りくださりありがとうございます。伝統文化研究家発酵ふしき通販部運営ふしきさなえです^^************【美しさ】とは、心のあり方や経験によっても変化していくものなのだと感じた時間でした。この日は出雲の神々に『かおり』と『舞い』をご献上する尊い席に参加させていただきました。美とは大きな羊から生まれてきたと聞いたことがございます。古来、羊は御神事の献上品であり、神様に献上される動物だからこそ完璧なのだという概
クマの子はヒトに見付からないようにヒトのすることを見ては「にんげんっていいな・・・・・・・」と呟いたものですが、近頃は親が教えない所為でしょうか、ヒトにじゃれ付こうとしたり、在ろうことが親がヒトの家に連れていったり、ヒトを驚かせてばかりです。-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。www.youtube.com今週、京都府舞鶴市に住む男性が、庭の木から下りて来たク
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは出雲大社に3回訪れています。最初の訪問は、1890年9月で島根の尋常中学校に英語教師として赴任してから、わずか1カ月後のことです。ハーンは1890年4月に来日を果たしますが、来日前から日本に大変興味を持っていました。最初のきっかけは、1884年に開催されたニューオーリンズ万博で日本館を取材したことでした。その後、1889年には帝大教授チェンバレンが記した古事記の英訳本に出会い出雲神話にも接していました。ハーンは、ニューヨークのハーパー
神迎の道の四つ角を南に曲がると松林寺がある。宗派は、真言宗醍醐派影向山醍醐報恩院末。本尊は大日如来である。「寺院明細帳」に、延宝年間(1673~81)古書が焼失したので、創立年代不明となっている。弘法大師開創という寺伝もあるが後述のものだろう。出雲大社の別当寺であったと伝えられている。寛文の造営の際、出雲大社の仏教施設や仏具を払い下げてもらっていること、寺の西隣に国造家の墓地があるなどを考え合わせると、当寺は古くから出雲大社や国造家と特別な関係にあったのだろう。「杵築古事記」によ
[出雲国]神魂神社■表記*紀…天穂日命*記…天之菩卑能命、天菩比神、天菩比命*「先代旧事本紀」…天穂日命・神狭日神(カムサヒノカミ)*「新撰姓氏録」…天穂日命*「出雲国風土記」…天乃夫比命*「出雲国造神賀詞」…天穂比命*野城大神(ノギノオオカミ、能義神)と同神とする説がある■概要◎天照大神とスサノオ神との誓約(うけひ)により生まれたとされる五男三女神(八王子神)の一柱。五男(紀の一書第三は全六男)のうちの第二子(ただし紀の一書第二は第二子としてい
出雲大社様での参拝を終えた後、実は私はちょっとトイレに寄りたかったのです🚽「トイレはどこにありますか」とたまたま通りかかった出雲大社様の職員らしき方にお尋ねすると、その方は「ここをまっすぐ行くと、会所の横にあります。」と答えて下さいました。初めて出雲大社様に来て境内に不案内な私は、「そうですか。会所へはここからあとどのくらい歩きますか」とさらにお尋ねしました私の戸惑っている様子に気づいたその方は、「すぐそこの宝物殿にもトイレはありますよ。」と指で示して
足立美術館で地図をいただいた事から八雲立つ風土記の丘を知った私達は、かつて意宇平野が古代出雲の中心地だったと知る事が出来ました。お陰様で額田部の臣だったという岡田山古墳の石室に夫と入らせていただき、祈りを捧げる事が出来ました🎵私は今度こそ出雲大社様に行きたいと内心では思ったのですが、夫が「この近くにかもす神社という所があるみたいだから、そこに行ってみよう。」と言ったのです。私は「醸す…お酒の神社かな」と、聞いた事がない名前を夫から急に言われて思いました
火曜日から今日まで、出雲市にいますお仕事なのです🥹出雲大社北島国造館様と一緒に出雲市大社町の保育園幼稚園の皆にカミサマ紙芝居をさせてもらっています今日を含め計6ヶ所。それぞれ個性があって面白いです昨日までで4園カミサマ紙芝居してきましたまた報告しますね出雲のカミサマ、出雲大社北島国造館の皆様、北島出雲国造様、ご縁を頂き、ありがとうございます
ホツマツタヱの研究同人誌・『検証ほつまつたゑよみがえる縄文叙事詩』にはホツマツタヱゆかりの神社や聖地をざっくりと見開き2ページでご紹介する「NAVI旅~ホツマツタヱの聖地めぐり~」も掲載しています。134号では、出雲にある熊野大社(くまのたいしゃ)についてもまとめました。↓詳しくはこちらからお願いいたします。NAVI旅10熊野大社ホツマツタヱの聖地をめぐる旅案内です。熊野大社はソサノヲとイナタヒメが暮らした宮跡と考えられます。古代出雲の中心地でもあ
ヒカリあれ。わたしは藤原氏と南蛮人の子孫オモイカネ、よろしく。この記事は【陰の秘密】とセットです。『【陰の秘密】キリストはイザナミのお陰で黄泉返った』悪女は正義!(あいさつ)わたしは藤原氏と南蛮人の子孫オモイカネ。よろしく。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の…ameblo.jp陽。結論から。日本の「陽」はうわべだけ。漢字の【陽】は「偽り」「うわべ」を意味します。「陽言」は偽りを言いふらすこと、「陽尊」はうわべだけ尊ぶこと。「日(su
悪女は正義!(あいさつ)わたしは藤原氏と南蛮人の子孫オモイカネ。よろしく。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。━━『マタイの福音書』27章50-53節お陰さま。結論から。イザナミは上天のエルサレムです。イザナギの黄泉下りが、ギリシャのオル
オオクニヌシと関連する動物たち前回はシロウサギとネズミを紹介しました。それぞれ古事記に登場しましたが今回は出雲国風土記でのお話です。登場するのは、イヌとイノシシです。風土記は和銅6年(713年)に元明天皇の詔により各律令国の国庁が編纂した地誌です。出雲国風土記のほか、播磨(はりま)国風土記、肥前(ひぜん)国風土記常陸(ひたち)国風土記、豊後(ぶんご)国風土記の写本が現存していますが、完本に近いものは出雲国風土記のみです。当時の出雲国造、第25代果安(はたやす)が編纂に
島根県古代文化センターが昨年11月4日に開催した古代出雲文化シンポジウムをYouTubeでみました出雲は文字通り古代の厚い雲がかかっていますが文献の丁寧な検証でひとつひとつ雲間がみえる・・備忘録です◎古代出雲と律令国家佐藤信(東京大学)古事記(712)日本書記(720)風土記選進の詔(和銅6年713)「畿内七道諸国の郡郷の名は好き字を著けよ。其の郡内に生ずる所の銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目を録せよ。及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老
無事帰還しました。それでは第三次雲州乃旅路の続きと行きましょうか。今回は雲南市から松江市へ戻りまして出雲國一之宮熊野大社一年前の古墳巡りの最中に熊野大社の近くを走ってまして予定には組み込んでいなかったため立ち寄らなかったんですが帰ってからやはり行っておくべきだったという事で、今回は満を持しての参拝となりました。祭神は熊野大神櫛御気野命スサノオの別名だそうです。フルネームで「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)=イザ
出雲国の一の宮「熊野大社(くまのたいしゃ)」です。石造りの大鳥居の前に広い駐車場があります。鳥居の横には自然石の社号標がありました。熊野というと紀州(紀伊国)が浮かぶ人も多いと思いますが、こちらは出雲国です。お祀りされている神様は・神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬみこと)です。あまり耳にしないお名前の神様ですが、これは素戔嗚命(すさのおのみこと)の尊称だそうです。大鳥居をくぐり橋を渡ると木製の鳥居があり、その奥の左手に手水舎が
隠岐の島2日目はお天気に恵まれました『隠岐の島の旅③水若酢神社(隠岐国一之宮)』隠岐の島の旅②岩倉神社(乳房杉)とかぶら杉からの続きです✨『隠岐の島の旅②岩倉神社(乳房杉)とかぶら杉』隠岐の島の旅①からの続きです✨『隠岐の島の旅①…ameblo.jp前回の記事は👆からご覧ください^^2泊3日のうち2泊を隠岐シーサイド岬さんでお世話になりました✨お部屋から日本海が見えるアットホームで静かなホテルでした^^さかなクンも泊ったことがあるみたい(´艸`*)朝早くから
久々の神社紹介ですが、当時の出雲と大和の関係が垣間見える不思議な神社です。松江市宍道町のきまち湯治村の裏にひっそりと鎮座する来待神社は来訪者が少ないせいか石段が苔に覆われていてしっとりとした美しい神社です。御祭神は、真ん中の本殿にオオモノヌシクシミカタマ向かって右側の左殿にコトシロヌシ左側の右殿にイタケルが祀られています。第10代崇神(すじん)天皇の代に大和の三輪より勧請したと伝えられ大和から御祭神が「来る」のを人々が「待った」ことから来待となったとされていま
天気良し!急に思いついたのが昔よく訪ねた中国勝山。DriveNaviで調べてみると一本の道は岡山県境谷田峠を越えて、林道ラリーで・・千屋ダムからいつもの<まんさく園>抜けて県道32号線をゆく1時間10分。もう一つは日野街道根雨から四十曲峠を越えて新庄村から国道181号線を北から攻める1時間9分の道。ワタシが選んだのは遠回りのように見えますが、日野街道を根雨まで下ってから金持神社を右に放ったらかし、ひたすら四十曲を越えて行く道。古代、出雲国造が神賀詞を奏上するため越えた出雲街道の難所の峠。後に
こんばんは。美穂です。ここ数日、眠くて眠くて、今日(日曜日)なんかは、早く寝たのに起きたらお昼12時過ぎてた😱こんなに寝たのは久しぶりです。さて、出雲大社に戻りまーす11月7日のこと、まだ続けます😅北島國造館出雲大社のお隣です。出雲大社教と出雲教とがあるらしいけど、教義まで深掘りはせずにおこう。教えを知るより、今は神さまを感じることを大切にしたい。四脚門しきゃくもん門をくぐると、ひろーーい芝生。なにか始まるみたい?それにしても素晴らしい景色。拝殿はスッキリと明る
読者の諸君、おはよーだがね!!ガガなのだ!!本日は旧暦の10月10日だ。さよう。いよいよ出雲国に神々が集まる「神迎祭」が斎行される。出雲大社には年間72回もの祭事があり、そしてそのすべてで出雲国造がご奉仕している。これはアマテラスに国を譲った時の約束でな。アマテラスが自分の御子である(というか、オオクニヌシに心酔して戻ってこなかった)アメノホヒに、代々仕えるように命じたことが始まりだった。※アメノホヒについては、龍神の教え手帳もご参考ください!
『日本国記』「風土記」とは限りなく真実に近いアナザーストーリー【25A】ひじかたすいげつ出雲国風土記:地図・写本編Amazon(アマゾン)8,800〜17,600円「風土記」の完本は733年完成の「出雲国風土記」しかない。しかし、「常陸国風土記」、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「豊後国風土記」も完全ではないが残っている。その他の国の風土記は残ってはおらず、「逸文」としてしかその内容はわからない。
江戸貞享2年(1685)島根古記録「出雲国造の出雲直治/出雲兼孝の書状」2点/仁多郡三沢の岩台大明神/古書古文書/手書きです。37.5cm×52cm程度。手書き。出雲国仁多郡三沢の岩台大明神陶山大和宛。『データ』【書名】出雲国造の出雲直治/出雲兼孝の書状【巻冊】2点【著者】出雲国造の出雲直治/兼孝【成立】貞享2年(1685)
前回、神楽殿前で解散したパーフェクトガイドですが、もう少し時間がある方に提案です。神楽殿前から荒垣に沿って東へ向かい、銅鳥居の前を過ぎてさらに東へ進むと吉野川を渡る橋に差し掛かります。ここが最初のエモスポットです。こんな感じの写真が撮れるはずです。一つ川上の橋を渡って北島国造館へと向かいます。■出雲国造家出雲国造家は南北朝時代(1340年頃)に千家家と北島家に分裂します。幕末までは、出雲大社の祭祀を分担していましたが明治以降、出雲大社の宮司は千家家が担っていま
出雲国一之宮は、出雲大社ではなくこちらの熊野大社(出雲大社と共に両方一之宮と言う記載も見た)。紀伊の熊野は、大元はこちらだとも。大国主が八十神から逃げた先が紀伊だから、何かしら大きな繋がりがあるだろう。出雲国造の本来の奉斎社はこちらで、後に杵築大社に移ったとか。古代史の学説は百花繚乱。立派な注連縄本殿鑽火殿。ここで起こした火が、出雲大社の神事に使われる。次の旅は熊野か。