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二つでツイノコマイヌです。
..2025.5.2.(fri)皆神山リトリート行ってきました!初めて行った長野県初めましての方も多かったけど一泊二日の間に色んな話をしてまたお友達が増えました☺️✨✨今回の旅は、大本教の長老が耀腕で抹茶を🍵立ててくれると言う前代未聞の企画そして、講座は目からウロコの話ばっかりで山口先生の耀腕と安倍首相と昭恵さんの繋がりトランプ大統領が銃を撃たれた時に何故振り返って耳をかするだけで済んだのかの話潰瘍性大腸炎を患いながらも首相を続けた理由出口王仁三郎さんが、言葉で伝え
昨日、一昨日と、飯田さん主催の合宿に参加いたしまして、無事に帰宅🍀昨日の夕焼け🌆幻想的でとってもきれい✨前日は、うつらうつらでほとんど寝ていなかったので昨夜は爆睡😪💣💤でしたw寝不足なはずなのに體は元氣だという不思議。おもしろい😆この2日間は、本当に💥衝撃の事実💥の判明の連続でしてさらに、さらに、削ぎ落としが進み本来の自分が「ひょっこりはん」←伝わりますかwしたのでした✨まず1つ目。今回は、なんと‼️なんと‼️ようわんが、5個😆揃いまして、パワフルな王仁
おはようございます☀️合宿2日目。泊まった宿が富士山に近いからか王仁三郎氏のようわんのお水のパワーからか昨夜は、目が冴えてしまいうつらうつら💤😴早起きして温泉♨️に入りました🎵お部屋から見えた富士山🗻雲海が幻想的✨2日目の山口先生のお話も楽しみ🎵『【初☆高速バス】山中湖に向かっています☆』今朝の空。たくさんの龍神様🐉今日は、合宿に参加するため山中湖に向かっています。レンタカーで行くことも考えたのですが日々営業で車を運転しているのでお休みくらいは…ameblo.jp『恐る
個人的に、エネルギーを調整する時は胃腸で行います。(第3チャクラ)一昨日上がっていた記事を見てから王仁三郎氏のものすごいエネルギーを受けて胃腸が活性化しております😅『水瓶座時代の宗教』“正確にどの時点から水瓶座時代がスタートするのかは、研究者によって主張が分かれるところだが、21世紀の初頭という部分では大体、一致しているようだ。話をわか…ameblo.jp『耀盌(ようわん)〔みろくの世の御神体〕』・耀盌(ようわん)〔みろくの世の御神体〕“例えば、楽焼をするといわれて、
最近、氣になっていて探求したいなぁ行きたいなぁと思っていること、場所。ひとつめが、江戸。検索していたら、こちらの記事が目にとまりました。東京の歴史:江戸期江戸という地名は元々隅田川の河口付近のことで、平安時代末期には桓武平氏、秩父氏の支流の江戸氏が住んでいました。1180年、源頼朝の隅田川渡河のための舟橋作りに協力したのは、江戸重長でした。1457年、上杉家の家臣の太田道灌はこの地に江戸城をmybldgtokyo.comふたつ目が、『九鬼文書』。同時期に「宮下文書」や「竹内文
秋田市在住おなまえ鑑定士美雲智心みくもともみです私のプロフィールはこちらやったー引き寄せちゃったよーなんのこっちゃですよね昨日雄物川町で不思議な陶器を作成しているNEO縄文波動研究所きぬばあちゃんこと小野絹子さんより絹子さんのブログはこちら絹子さんの陶器はこちら昨年から頼んでいたお味噌が出来たとの連絡がありまして不登校の娘とともに
記事をシェアさせていただきました!細川さんから、このお話を聞きまして驚きました!開運!ひかりの写真(見るだけで幸せが舞い込む)Amazon(アマゾン)1〜4,455円耀盌(ようわん)という陶器に入れた水を飲むだけで誰もが自分の使命を思い出す会に参加しに富士山まで行って来ました。この耀椀(ようわん)は、二十世紀最大の預言者であり、大本教の教祖でもある出口王仁三郎が獄中で作ったもので、出口王仁三郎が『この耀碗で水を飲んだ者は、今生、生まれてきた使命に強
お友達の、月島に住むK様から、月島住吉神社にお参りに行こう、と何回も誘われていたのですが、今年は一回しか行っていませんでした。私の事で、他の用事がなくなってしまい突然Kさんと電話が繋がりかねてから約束していた月島住吉神社をお参りすることになりました。住吉神社の中にある、龍神社に先にお参りして龍神祝詞を挙げると黒っぽい青龍様が出られて「両手を広げろ」と言われました。両手を広げると私に金色の20センチの玉をくださいました。そして、そこの同じ場所に銀色の玉もくださ
霊界物語第一巻に【世を救う弥勒の神の標章は〇に十字の神定めなる】とあります。しかし、〇に十字だ言われても、どんな形なのかよく解りませんね。写真の左は、現在の大本が平成になって建立した神殿群にある標章です。出口王仁三郎聖師が亡き後、普通に考えればこの形でしょう。さて、右の〇十は解読したものです。総合して右の標章でないと解読に結びつかないのですが、決め手がありませんでした。大本神諭に、「薩張り(さっぱり)」で改めるとありまして、それが最終の決め手となりました。明治維新において、薩摩と
こんばんは!太脩です。今日も良い一日をお過ごしになりましたでしょうか?今日は肌寒く冬がそこまできているなぁなんて感じました。前回の村松原稲荷神社に引き続いて、https://ameblo.jp/taishu-17/entry-12639623406.html『村松原稲荷神社』こんばんは。太脩です。今日も良き一日をお過ごしになられたでしょうか?今日は前回の首塚稲荷様の続きと言っては、なんですが、『首塚稲荷神社』こんにちは!太脩です。…ameblo.jpすぐ近くに鎮座します、「月見里笠森稲
【Kohほぼ日刊】霊界物語。エナジーカウンセラーエナジーコーチKoh煌です。本日休業日のためメール、LINEへのかなり返信が遅れます。ご理解よろしくお願い申し上げます^^それでは、本日もリクエストにお応えします。本日のエナジーチャート(気流図)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人、肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」、『出口王仁三郎さん』です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5
『錦之宮』高麗宮が出来た仕組みを知りたい人は、大本時代からつながっていますので、歴史に興味のある人は、自力で調べると良いでしょう。何故高麗宮なのか?もともと高麗(コマ)というのは、純日本人の魂「高く麗しい」心を持つと示しています。その高麗は、出雲族にも深くつながっており、高麗宮の存在として、関東にあるのも深い神縁が有ります。ヤマトタケルノミコトは、関東全域をまわり、自分の体・印を置いてきた、遺跡が沢山有ります。古事記にも、そのように書かれています。大和武尊は、後の
・フリーエネルギー(無限動力)の予言(霊界が発明発見を援助する)梅田聖師は霊気を使う時代が来るといわれたそうですね。霊気とは、重力の利用の事と思いますが。木庭引力を自由に左右する機械が発明されるのも時間の問題でしょうね。これらを全部利用して、天地に充満した無限の動力を利用するのです。その段階に入れば、石炭とか石油とか、電気などを元とした火力文明の時代、いわば公害時代から脱皮することができると教えられています。三ツ野聖師は、人間の気持ちが神心に改まれば、霊界から発
そして、いよいよ出口王仁三郎聖師から預かった大本の御神体に納まり頂く日となりました。疏勒神仙と笹目師、そして二人の従者は、3羽の鶴仙に乗ってココリシ山中の高原に向かいました。そして、疏勒神仙は、ご神体について「あれは御神業が終わったので、玄境にお帰り願うのだ。すなわち大和言葉(やまとことば)でいう『あわぎはら』にお鎮めするのだ。本来ならチベットのヤールツァンプなのだが、すでにかの地は穢れている。そこで崑崙山脈のココリシ山中に御鎮まり願うことになる」と語られ、御鎮めされました
出口王仁三郎とご神体昭和10年(1935年)12月4日。笹目秀和師は、再び大陸に向かう直前に、何ものかに導かれるように、京都の綾部の大本の本部に出口王仁三郎聖師を訪ねました。そして、聖師と会うなり、次のような言葉を投げかけられます。「ご苦労さんやなあ、笹目さん、今度のご神事はわたしの代わりに行くんやさかえ、しっかり頼みまっせ」続いて、笹目師の活動を妨害している、「金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐」の凄まじい魔障と『霊界物語』との関連について、解説を受けたりしました。
「人々は皆、天帝の子、兄弟である。ここから北北西の衰運をたどっている遊牧狩猟の民、同じく目覚めるべき手段を知らぬ西南西の民、これらを救済する手段を講ずるがよい」「しかし、私はまだ学生の身分。それにそのような大事業をなすには、確固たる信念が欠けそうな気がしてなりませんが……」「いや、現在のあなたの知らない過去3千年の因縁によって、あなたの魂が自然とそれを求めてくる。あなたは、数千年前から形而下的学問(物質的基盤の上に成り立った学問)の方向へ進もうとしながら、いかんともしがたい他動
何故「からの世」が続いたのか<さらに、なぜ「からの世」になったのか、なぜ神はそれを見許していたかを大本の神典を示して解説され、そして立替え・立直しの宗教大本出現の根本義を明かされるのです。>しからば、親神が何故「から」より神的「にほん」の世に早く切り替えられないのかという疑問も生じてまいりますが、この事について天理筆先には次の如く示されております。月日にハどんなざねんがあるとてもいままでぢいとみゆるしていた十七ー64とある如く、一旦「から」の支配原理の下に
以上述べた開祖の合気が大東流の合気から見たらどうなのかということが大東流の佐川幸義宗範によって検証されていますので、それを加えて締め括りとしたいと思います。このことは、『透明な力不世出の武術家佐川幸義』、『孤塁の名人合気を極めた男・佐川幸義』、『大東流合気武術佐川幸義神業の合気―力を超える奇跡の技法“合気”への道標』などを読むと目に入ってきます。私は大東流を習ったことはありませんし、佐川宗範も存じ上げません。佐川宗範の技の動画は撮影されていないようですが、本に写真が
「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」とお尋ねになられている部分は身体の構造的な面からの解釈もあるでしょうが、言霊学では「成成不成合處一處在(成り成りて、成り合はざる処、一処あり)」を「鳴り鳴りて、鳴り合はざる声」とし、「成成而成餘處一處在(成り成りて、成り余れる処、一処あり)」を「鳴り鳴りて、鳴り余れる声」と解釈しています。それで、鳴り余れる声と鳴り合はざる声とを合わせて五十音、七十五声、無量無辺(万のものを表す)の音声を生むのが、島生み・神生みの業であるとい
古事記などにある那岐・那美二尊が天の浮橋の上に立って島生み、神生みの修理固成の業をなされたように、開祖は、合気道においても最初に天の浮橋に立たねばならないと教えられています。そこから生まれてくるものが武産合気(註ムスビによる武技で、それにより技がどんどん産み出される武道)になるからです。「この道は、天の浮橋に最初に立たなければならないのです。天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのであります」(『合気神髄』p.26)「この合気も、また天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生
次に「島々の生成」に移ります。「そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命・イザナミの命御二方に、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛をお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方の神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛をさしおろして下の世界をかき𢌞され、海水を音を立ててかき𢌞して引きあげられた時に、矛の先から滴(したた)る海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です」前段までは天地開闢(かいびゃく)とか天地剖判(ぼうはん)とかいわ
3月1日に八千代市青少年スポーツ指導者講習会(八千代市体育協会・八千代市小中学校体育連盟主催)が開かれ、順天堂大学女子バレーボール部の宮崎和一(かずいち)監督からお話を伺いました。テーマは「子どものやる気を育てるスポーツ指導」でした。その中で指導者が指導に当たって参考にしているもののトップが「自分のスポーツ経験」であるという統計が示されました。合気道などの武道の指導も「自分の経験」を拠り所にしていることが多いと思いますが、宮崎監督の発表された内容は、監督ご自身の経験だけでなく、よくここま
脳波で観測されるということは、これは脳の働きです。私たちは、それを心の働きと捉えています。有田教授は、「心は、どこにあるのでしょう。心は大脳辺縁系と大脳の前頭前野にあります。脳の研究者である私としては、そうこたえるしかありません。大脳辺縁系には原始的な感情を司る中枢があります。また、人間には原始的な感情をコントロールして高度な幸福を得る機能があります。それを司るのが前頭前野です」(『「セロトニン脳」健康法』)と説明しています。心は脳にあるので、心の動きが脳波に表れるのです。
前回(2014年07月15日)、開祖が惣角師に初めて会ったのは大正4年(1915)2月と述べましたが、公益財団法人合気会のホームページに「合気道の沿革」があり、そこには、「明治45年(1912年)遠軽の久田旅館で大東流柔術の武田惣角に会い、教えを請う。」と書かれています。合気会に問い合わせたところ、開祖から植芝家に伝わるのは明治45年に初会とのことで、大正5年(1916)に免状(秘伝目録)を受けているので、大正4年が初会だと目録を受けるまでの期間が短すぎて無理があると考えられているそうで
公益財団法人合気会のホームページを開くと、「歴代道主略歴」の開祖の年譜に『大正末年武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する』と書かれています。これは流名が「合気の道」となったのではなく、この武道の新境地のことを「合気」と称したことを示していると考えられます。開祖が「合気」と称するものは、次の文章から、当初、「神人合一」を意味していたことが分かります。この意味付けは出口王仁三郎聖師によるものであったと思われます。『道主(開祖)が北海道から綾部に移って来、武田惣角が綾部に来
開祖が、武田惣角師の話を聞き、吉田幸太郎氏の紹介で初めて惣角師に会ったのは大正4年(1915)2月のことで、遠軽の駅逓久田旅館でした。大東流の合気を知ったのもこの時が最初でした。後年、大東流から離れたことで、開祖のことを良くは思っていない佐川宗範の言葉では、「大正4年2月に吉田幸太郎が遠軽の久田旅館に植芝盛平を連れてきたとき、丁度、父親(子之吉)が教授代理として教えていた。既に柔術をやっていて自信を持っていた植芝は『何、この田舎武芸者が』という感じで偉そうにやって来たので、武田惣角に
大東流合気柔術が「門弟その他一般には植芝流合気柔術(原文は植芝流合気武術)の名で通った」ということは、大正9年(1920)に開祖が綾部移住を決意した時、出口王仁三郎聖師から「大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ」(『合気道開祖植芝盛平伝』p.116)と諭されたことと関係があります。大東流柔術は大東流合気柔術と改称されましたが、真の武を求めるために、それを植芝流の神人一如(合気)の武(柔術)-植芝流合気柔術-として区別し
「合気道とは大自然の絶対愛を基として…皆空の心と体を造り出す精妙なる道である」(『合気神髄』p.53)とおっしゃられている、合気道の基となる「絶対愛」の本源について述べられた部分だからです。そのことが分かるためには、平田篤胤の時に国学の中に(禁書であった漢訳聖書を入手したことにより)キリスト教の聖書の知識が入って来て、言霊学が聖書の「太初(はじめ)に言(ことば、註ヘボン訳では「言霊」)あり、言は神と偕(とも)にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在(あ)り、萬(よ
「盛平はそれまでに、起倒流柔術、柳生流柔術、大東流柔術の免許を受けているが、綾部に来てからは、彼の武道に対する観念もその技術も、一日一日と変化し、進歩したのである」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p.79)と書かれていますが、開祖が最初に与えた伝書は「大東流合気柔術」のものでした。それから「相生流柔術」「大日本総合武道旭流柔術」「天真流合気武道」「武産合気道」「合気道」などの伝書や昇段証を出しているので、どうしてそのように流名が変わったのか知りたいところです。平成11年刊『合気道開