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冬木弘道(サムソン冬木)さん冬木弘道(ふゆきこうどう)本名:冬木弘道(ふゆきひろみち)リングネーム:冬木弘道(ふゆきこうどう)冬木弘道(ふゆきひろみち)サムソン冬木1960年5月11日生まれ、2003年3月19日、満42歳没。東京都江東区生まれ、神奈川県横浜市育ちの元プロレスラー。1979年、国際プロレスに入門。1980年5月4日、デビュー戦。1981年8月9日、国際プロレスが解散。その後、全日本プロレスに移籍。天龍源一郎
お気に入りの音楽は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようロック系が好きですね…いろんなアーチストがいますが…「SharpDressdMan」大好きな曲です…♫ニッケルバック・ヴァージョンも凄くカッコよかったです…ここ1年くらいは「ZZTOP」をよく聴いてます…最近、車の中でよく聴いているのは…「バイクMADマン島🇮🇲TTレース」元ネタは安藤まさひろ(元T-スクウェア)さんの「ムーン・オブ・ザ・キャッスル」…この曲をよく聴いています…♫元ネタはゲームの
おはようございますさっき知ったのですが...今日は、冬木弘道という人の亡くなった日だそうですよ(・ω・)ノそして、偶然にもこのような画像を発見初代タイガーマスクと握手する大仁田厚...を見る冬木弘道その後ろにターザンおまけこの画像だと、二人とも笑ってるのがわかりますよ(・ω・)ノもう一つ、おまけ...同じ日に、こんな写真も撮られていたのですよ(・ω・)ノ1983年1月4日の東京プリンスホテルでの出来事ですよ(・ω・)ノこんな感じで終わるでは、では...
3月19日が命日・忌日の有名人・著名人1255年(建長7年2月10日)54歳没(?)雅成親王殿下鎌倉時代の皇族後鳥羽天皇の皇子1406年73歳没(病)イブン・ハルドゥーンさん歴史家、思想家、政治家イスラーム世界最大の学者1819年76歳没(?)フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービさん思想家、著作家、スピノザ研究者1943年75歳没(脳溢血)藤島武二さん洋画家、最初の文化勲章受章者『天平の面影』1950年74歳没(心臓病)エドガー・ライス・バローズさ
月末恒例の見た夢を一ヶ月分まとめて記憶のあるものを書き貯めてご紹介する企画です。全国の夢好きな皆さん、お待たせしました。今月は11日13本、有名人出たり旅したり誘惑されたり色々あった80ヶ月目でした。1月2日生まれ故郷のJR大宮駅に東海道新幹線も乗り入れてて、ホームがごった返す中で優香と東北に行くことになっていて『私、東北行くなら後ろ寄りの車両が良い』と言われて、後ろ寄りの車両で並ぶ。1月3日佐久間宣行のラジオを久々に聞いた夢。出していた企画の予算を有田哲平にパソコンのパスワードを盗まれ
冬木弘道(ひろみち)というプロレスラーがいました。国際→全日→SWS→WARと渡り歩いてきたベテランレスラーは、インディー団体中心に活躍していたタッグチーム、邪道・外道と合体し、名前を冬木弘道(こうどう)と改め、弘道・邪道・外道の冬木軍を結成します。そして当時若手外国人レスラーだったライオン・ハート(後にアメリカWWEで大ブレイクするクリス・ジェリコ)がライオン道と名乗ってこれに加入し、冬木軍は拡大していったわけですが、そこにさらに加わったのがカップヌードルシーフード改めシーフー道です。冬
国際プロレスから全日本プロレスへ。不安だったろうなあ。米村さんは会津若松のお店があったから結局、会津大会にスポット参戦のみ…。井上さんはジュニアとアジアタッグを。冬木さんは…フットルースを経てSWSへ。菅原さんは…パイオニア戦士に北尾のコーチに新日本、SWSと活躍の場を移して行ったけど…。馬場さん、もう少し菅原さんを活かせなかったのかなあ😮💨邪道、外道らTPGのコーチもやっていたし、コーチとしてだって全日にもっと貢献出来た…と思う。《ちゃんこやぐら太鼓》インスタ。
ジャスト日本です。有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。今回のゲストは、ホラー作家の佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんです。(画像は本人提供です)佐野和哉(ダイナマイト・キッド)1986年7月18日生まれ。170センチ100キロ。本名の佐野和哉名義での活動のほかTBSラジオ「伊集院光
なにやってんの?元プロレスラー・金村キンタロー容疑者逮捕仲間からも悲痛な声、親友レスラー「かばえない」-スポニチSponichiAnnex格闘技千葉北署は14日、自転車との接触事故を起こし逃走したなどとして、自動車運転処罰法違法(過失傷害)と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで、千葉市中央区の韓国籍で元プロレスラーのイ・ヒョンホ容疑者(53)を逮捕した。2016年まで「金村キンタロー」のリングネームで活動。容疑を認めている。www.sponichi.co.jp轢き逃げした
こんなカードもあったんやね〜WARの映像って、どこから出て来るん?DVD?BamBamBigelow,HiromichiFuyuki&YojiAnjoxMasahitoKakihara,NobuhikoTakada&YuhiSano.Agoodold-fashionedavant-gardeWARstylistictornadotag!(10.11.1996)🔥🔥pic.twitter.com/E8J369A40s—Vinta
これはアレだな!遺骨を抱きしめて電流爆破のリングに上がって涙を誘ったは良いけど、ちゃっかり嫁も抱いてましたってのが、橋本らしいっちゃ橋本らしいよな?って言う…(´-ι_-`)橋本対金村pic.twitter.com/IqhhLtpKs4—ヤギシン(@yagisingh)2023年7月19日
引退試合のパンフレットを掲載した記事を書いて、観戦記を書いていたことを思い出しました。本日は4月14日。引退記念日に、21年ぶりの再掲です。普段のNOAHの興行とは全く違っていた。開場を待つ人々の顔ぶれもさることながら、何より雰囲気が。あちこちに人の輪があり、それぞれに笑顔だったりはするのだけれど、やっぱり一人のレスラーが引退するという寂寥感が漂っているような気がする。入り口にはレスラー、関係者からの多くの花束が。このほかに、藤波や越中の名前も見えた。中に入る。売店に行くと、きち
2002年4月14日、ディファ有明で行われた冬木弘道引退興行のパンフレットです。会場に行く前、観戦仲間と落ち合って黄色の紙テープを巻きました。これが人生初の自分で巻いた紙テープでした。紙テープって最初から巻かれてるんじゃないの?と思われる方も多いかと思いますが、元の状態では真ん中に芯が入っていて、そのまま投げると危ないのです。なのでまず芯を外し、竹串などを使って内側から巻き直していきます。元々1個の紙テープから2個作ります。人生初の紙テープ巻き、よく分からずに外側から巻いてしまい、友達
おはようござる(。-人-。)会社のボクの席の右隣ずっと空いてましたが、いま一時期間ですがボクより少し年輩のレディが座っております昨日の朝、いつも寄るジュース屋さんへジュースを買いに行くと、ボクと目が合ったちいかわちゃんCCレモンちいかわコラボ商品ズルいわ買うやん\(๑•́₃•̀๑)裏向けると、ちぃちぃレモン‹‹۹(˃́ꇴ˂̀๑)››‹‹‹(๑˃́ꇴ˂̀)۶››隣のおばさまに自慢したんすよミー「○○さん!ほら!(^ー^)」つってパッケージ見せたら、○○さん「
「なぜNOAHが冬木の引退試合をやるのか?」誰もがそう思ったプロレスラー・冬木弘道の引退試合。それはファンの人たちだけではない。主催した側の選手、スタッフもほとんどの人が初めはそう思っていたに違いない。だが、その答えは試合後の冬木のこのコメントがすべてだった。「俺、ずーっとプロレスやってて、頼る人間もいなくなったよ、全くね。それでツラいとき、もうダメかなぁ、どうしようもないなぁ、っていうときでも、最後は三沢に頼めばいいや、何とかなるだろう。使ってくれるだろう。食わしてくれるだろう。そう
試合前に、三沢は日本テレビのインタビューにこう答えていた。「(がんの)場所が場所だけに、レスラーとしては無理なんだろうなぁっていう。ま、ホント年齢も2つしか変わらないし、これから5月5日、(WEWの)旗揚げで頑張ろうとしていたのを聞いていたんで。ショックはショックですけどね。やっぱり、そうなったからにはそれを踏まえてね、今後どうしようかということを考えないといけないんで、ま、力になれることは力になります、って感じで、俺のなかで決めました」三沢は団体の垣根を越えて、盟友・冬木弘道の人生のパ
やがて三沢が出社。会場ではなく、まずは社長室に入るのがディファ大会時の通例なので、私もすぐにその後を追う。というのも、他の社員に先を越されて扉を閉め、他者入室禁止的な空気を醸し出されてしまうと、その人の用事が終わって出てくるまでこちらは手も足も出せず。なので外部の人間を待たせているなど緊急性を要するときはとにかく我先にと入室し、サッサと自分の用事を済ましてしまわなければならない。入室するや、挨拶と同時に当日のカード表と演出進行表を提出し、変更事項がないか最終確認をするや、早速、例の
当時の私は大会演出の進行責任者。リング設営が終わると社長がやってくるのを待って、当日のカードの最終確認(出場選手や試合順に変更がないか)を行い、その結果を受けて業者との確認作業から最終テクリハ(選手入退場時の照明、音響、特効などの本番同様のリハーサル)に入り、その後、本番時の指揮をとるのが私の仕事であった。このときはまだ社長が到着していなかったので、ディファ内にあるNOAH事務所で何か別の仕事をしていたのだが、そこへあるスタッフが慌ててディファの会場の方から私の元へやってきた。「鈴木さん
2002年4月9日、東京・後楽園ホール。冬木軍興行の試合後に、冬木自身が大腸がんを患っていることを告白し、現役引退を発表した。理不尽大王のキャラクターになってからは、リング上でムチャクチャなことを次々とやっていた冬木だけに、最初はこれも話題作りのひとつなのではないかと取材していた報道陣も、ほとんど真に受けていなかったようだ。が、その日の大会にはまったく関係のない三沢がその場に立ち会っていたことで、ようやく事実なのだと認識。その5日後、NOAH主催での引退興行がディファ有明で開催される
中に入ると、三沢社長は苛立ちを隠せず、発表をした社員と共に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。「誰も納得していませんよ」私が言葉を発すると、社長は明らかに不機嫌そうな顔で吐き捨てるようにこう言った。「何で分からないんだよ」てっきり事の成り行きを話してくれるのかと思いきや、この一言を発しただけで他には何の説明もしてくれず。だがその異様なまでの深刻な表情が、何やら相当重大なことが裏では起こっているようだと、自然とこちらにも伝わってきた。「どうしてもやらなければいけないことなんですか?
それは余りにも突然の発表であった。有明コロシアム大会の翌日だったか、翌々日だったか、正確な日にちは忘れてしまったが、三沢がNOAH事務所にやってきて足早に社長室に籠ると、しばらく社長と話し込んでいた某社員から、いきなりこんな発表がなされた。「冬木さんが急遽引退することになりました。でもWEWではまだ興行を行えません。そこで、冬木さんの引退興行をウチで行います。その興行は関連業者への経費だけを差し引いて、残ったすべてを冬木さんに贈ります」「ハ!?」“鳩が豆鉄砲を食らう”とは、まさにこの
三沢と冬木のシングルマッチ、その舞台となったのは2002年4月7日、有明コロシアム。同年2月にそれまで冬木が所属していたFMWが経営破綻し、3月に自らが主宰する形でWEWを設立。5月に川崎球場で旗揚げ興行を行うことを発表することで、積極的に多方面に話題を振り撒いていた時期だ。三沢とのシングルマッチは、全日本の若手時代に実現して以来での18年ぶり。片や三沢は王道・全日本で正統プロレスの道を邁進し、誰もが認める三冠王者として名実共に日本のトップに君臨していた。一方の冬木はWARで傍若無
次に三沢の口から冬木の名を聞いたのは、馬場さんが亡くなられたと分かった後だった。本来なら全日本プロレス二度目の東京ドーム大会となる1999年5月2日の大会に、全日本を辞めて他団体に移った選手で初の復帰参戦をさせるべく、秘密裏に話を進めていた。そう、三沢自身がマッチメーカーとして初めて迎える東京ドーム大会の秘策として、冬木に白羽の矢を立てたのだ。だが、その話を馬場から了承を得る前に御大は還らぬ人となってしまい、結局、この話は立ち消えに…。「馬場さんがやっていた通りの団体運営以外は認めな
「冬木さんとは、昔から馬があったんだよな」まだ三沢が全日本プロレスに属していた頃、飲みの席でそんな話を突然聞いたことがあった。当時は馬場さんもまだ健在で、全日本を辞めていった選手との遭遇や交遊が御法度とされていた時代。もちろん、選手たち自身はプライベートな交遊などで元・全日本選手との接触は人によってはそれぞれあったようだが、それをどこでどう面白おかしく掻き立てられるかも分からないので、余程のことがない限り、外部の人間にそのような事実を漏らすことはなかった。当然、当時の私は週刊ゴングの
今回は名言ではなくてフレーズになります。天龍源一郎が率いたSWSではない方のWARに関してです。この投稿をInstagramで見る島田ラブサイケデリ彦(@shimadasick)がシェアした投稿振り返るとWARは豪華な団体でした。天龍源一郎を筆頭に阿修羅原、グレート・カブキ、冬木弘道と邪道&外道、ウルティモ・ドラゴンとかが一堂に会して、クリス・ジェリコがライオン道として上がっていた事もあると今思えばとんでもないパーティーで、それが「WrestleAndRomance」の略だと知ったのは
ターザン後藤死去全日本プロレス、FMWで活躍されたターザン後藤さんがガンのため亡くなったとのことまだ58歳です驚きました自分は同じ歳なんですぼくは世界最強タッグ頃から全日本プロレスを見はじめまして、会場にもよく行っていましたインディー団体が出始めると、見に行くようになりまして、特に、初期の「何でもあり」のころのFMWをよく見に行きましただから、ターザン後藤さんはなじみがあるのですよ後藤政二のころから見ていましたFMWに加入すると「鬼神」の異名をとり大暴れしていました
【写真特集】ターザン後藤さん死去「鬼神」の異名、デスマッチファイターとして人気-バトル:日刊スポーツFMWやIWAジャパンなどさまざまな団体で活躍したプロレスラーのターザン後藤さん(本名後藤政二)が、58歳で死亡していたことが関係者の話で31日までに分かった…-日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com)www.nikkansports.comhttps://news.yahoo.co.jp/articles/115d504d
1993年3月23日東京体育館で行われた新日本対WARの対抗戦45分1本勝負。橋本真也VS冬木弘道。橋本がローキック!冬木がタックルするが橋本が切って上になり、レッグロックからフェイスロック。冬木が髪をつかむ。橋本がスライディングして脚をかけるが冬木が上になり、アームロック。橋本が上になるが冬木がすぐに転がってロープブレイク。離れ際、橋本がキック連打!怒った冬木が張り手!橋本も怒り張り返し張り手合戦。喧嘩だ!橋本が冬木のボディに膝蹴り、膝膝膝膝膝蹴り連打
1993年2月16日、両国国技館のメインは新日本対WARの5対5マッチ時間無制限3本勝負。藤波辰爾、長州力、木戸修、馳浩、飯塚孝之VS天龍源一郎、阿修羅原、石川敬士、冬木弘道、北原光騎。何と橋本真也が乱入してリングイン。これはいけない。橋本が天龍を指差し何か言っている。セコンドの山本広吉、石沢常光、中西学がなだめて橋本を退場させた。波乱含み。荒れる予感しかしない10人タッグマッチ。1本目、いきなり長州と天龍から始まり大歓声がわく。しかし新日本のタッチワークが早
誕生日新藤力也(1974/48歳)木村響子(1977/45歳)タイチ(1980/42歳)マット・サイダル(1983/39歳)テイラー・アダムス(1993/29歳)忌日冬木弘道(2003/42歳)出来事2021ファイヤー勝巳、SEKIYAがデビュー<後楽園ホール(JTO)>2015安生洋二が引退<後楽園ホール(Y.AISDEAD)>2011成宮真希がデビュー<アイスリボン(アイスリボン道場)>みちのく<矢巾町民総合