ブログ記事26件
【問題】キリシタン武将・内藤如安の諱(実名)は、次のうちどれか?【選択肢】嗣治成幸慶興忠俊【正解】忠俊【解説】足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安は、諱を忠俊といった。キリスト教に傾倒し、永禄8(1565)に京で洗礼を受けた後は、ジョアン(如安)と称した。
【Q21121】著書に『日本のスイッチを入れる』『大和魂に火をつけよう』『子供たちに伝えたい「本当の日本」』などがある、若狭高校時代の1993年に第13回高校生クイズに福井県代表で出場し、関西大学卒業後、吹田市議などを経て2020年に「参政党」を結党し代表を務めているのは誰?【神谷宗幣(そうへい)】【Q21122】彼が縁で京都府八木町(現・南丹市)とフィリピンのマニラは姉妹都市となっている、丹波・八木城の城主だったがキリシタンとなり小西行長に仕え、伴天連追放令で高山右近らと共にマニラに追放さ
【問題】【日本城郭検定1級】小西行長の家臣で、キリシタンであった内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城として有名な丹波の山城はどれか?【選択肢】本郷城西福城八木城植生城【正解】八木城【解説】内藤ジョアン(如安)は、八木城に生まれ、永禄7年(1564)頃、都の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイスより洗礼を受けた。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。天正13年(1585)頃に小西行長に仕えた後浪人し、慶長18年(1613)、徳永家康のキリシタン追放令により、翌年、
天海(54)【秀次切腹】沈惟敬は宋応昌と共謀して、部下を勅使に偽装し、日本に派遣することにした。一方、行長は、この勅使は「侘び言」を伝える者だと秀吉に報告したのである。5月1日、秀吉はこの戦役で失態のあった大友義統・島津忠辰・波多親を改易処分にした。5月8日、行長は三奉行とともに勅使を連れて日本へ出発した。そして、5月15日には、名護屋城で秀吉と会見したのである。明が降伏したと聞いていた秀吉は、上機嫌で次の7つの条件を提示した。①明の皇女
前日の雨で心配していた天候は、11/11(土)は雨が上がり少し寒い日となりましたが、在阪の城友と一緒にお城廻りに出かけました。行き先は、「八木城」「園部陣屋」です。「大阪駅」で8時に待ち合わせ、「京都駅」までは座って行こうということで「快速」に乗車し、「京都駅」からは「嵯峨野線」に乗り換えました。「嵯峨野線」の電車は7両連結でしたが超満員で発車し、途中「嵯峨野駅」では大量のお客さんが降車しましたので、秋の嵐山と嵯峨野を楽しむ人なのかなと思いました。私達は、「八木駅」で下車して「八木城
南丹にあるジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地顕彰碑です。最後の八木城主・内藤如安の顕彰碑。内藤如安(1550?~1626)は戦国時代のキリシタン大名。松永頼長(内藤宗勝/松永久秀弟)の次男。母は内藤国貞女。諱は忠俊。洗礼名、如安(ジョアン)。天文22年(1553年)、外祖父の八木城主内藤国貞、及びその嫡男永貞が討死。兄千勝が内藤家家督を継ぐも幼少のため、父松永頼長が後見。永禄元年(1558年)頃、千勝は元服して貞勝となるも、永禄5年、早世。如安幼少のため、父頼長が内藤家家督を継ぎ内藤宗
南丹にある八木城です。室町時代、丹波守護は足利一門の細川京兆家が任じられていましたが、三管領の一家として将軍を補佐する立場にあり通常都に住んでおり、現地に守護代を派遣していました。永享3年(1431年)、丹後守護代香西元資が罷免されると、細川氏被官の内藤信承が丹波守護代となって八木城を築城。管領細川政元は生涯妻妾を持たず、暗殺後は養子の細川高国と細川晴元が家督をめぐって争います。丹波守護代内藤国貞は高国を支持。高国が晴元派の三好元長、八上城主波多野元晴らに攻められ自害すると国貞は出家す
夏季休暇初日、地元のフォロワーさんに京都府内の山城を案内していただきました。京都の城跡巡りの記録を見てたら、福知山城以外は平城しか行ってなかったのもあります。園部の道の駅『京都新光悦村』で待ち合わせて最初に訪れたのが丹波八木城。この時点で但馬の八木城と勘違いしてて、後に丹波三大山城だということを体をもって思い知らされることに(笑)登城口は下の写真の所で案内表示が設置され、きれいに整備もされています。登城口に車を停めた後に向かったのが内藤如安(ジョアン)の説明板がある石碑へ。キ
1枚の写真で綴るDeepな京都森の京都・竹の里乙訓南丹市とマニラ、姉妹都市のきっかけは戦国武将だった旧八木町(現・南丹市)が、フィリピンのマニラと姉妹提携をしたのは、昭和60年のことです。そのきっかけは、なんと戦国時代まで遡ります現・南丹市八木町に城を構え、丹波一円に勢力を誇った内藤家。そこに生まれた一人の青年は、少年時代にキリスト教の洗礼を受け、ジョアン内藤と名乗りました。ジョアンは、秀吉の朝鮮出兵で
訪問日:2022/5/28【場所】京都府南丹市【築城年】室町時代(1335年頃)【築城者・改修者】内藤入道【城郭様式】山城【主な城主】内藤氏、松永長頼(内藤宗勝)、内藤如安(ジョアン)【見所】①石垣②曲輪【廃城年】不明【御城印の有無・販売場所】料亭八光館【アクセス】JR嵯峨野線「八木駅」下車登山口まで徒歩15分、登山口から山頂まで60分【駐車場情報】春日神社、西山墓地下駐車場【周辺観光施設】園部城標高344mの城山に築かれた山城です。黒井城、八上城と共に丹波三
※YouTube「細川ガラシャの信仰に学ぶ」阪神壮年の集い2021.9.26午後4時-YouTube※「キリシタンから現代を生きるあなたへ」キリシタンから現代を生きるあなたへ|久保田典彦,井草晋一,PiyoBibleMinistries,PiyoePubCommunications|本|通販|Amazon【オペラ「内藤ジョアン」】|高山右近研究室のブログ(ameblo.jp)
『鬼滅の刃』正直者・炭治郎のありえない衝撃シーン5選ナナメ上の破壊力!-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース※この記事では、まだアニメ化されていないシーンの記載があります。原作マンガを未読の方はご注意ください。○「遊郭編」に登場!正直すぎる炭治郎の衝撃の変...米中枢同時テロから20年…自ら防衛する「当たり前」のことが大事大原浩氏が緊急寄稿-ZAKZAKZAKZAK要するにバイデン氏はタリバンから完全になめられたのである。「本能寺の変」の後、羽柴秀吉が中国地
作成日:2021.6.7(2021-No.45)*********バイク乗り初夏の風受けいざ山城へ!「バイクでハイク」No.2と書いてるけれど、No.1はあった?・・・・・それはこれ↓『鬼が架けた石の橋と明智の金山城址を訪ねる!』作成日:2021.5.16(2021-No.38)いよいよ中国・四国地方も梅雨入り。梅雨明けも早まって、酷暑が長く続くのかと、少し不安になってきます。…ameblo.jp今回は、明智光秀が丹波制定に向けて苦労をしな
以前、ブログを書いている際に資料を探していた際に『たいしょー』様のブログを見つけ、その際に彼女のロマンチックな名前(妓名かな?)があり、私も書いてみようと思いググっていたら、あの見覚えある画像が見つかりWikipedia他に朝鮮新報の記事に彼女に関する記事もあり、これを参考に記事を書いています。たいしょーの朝鮮王朝史ケウォリャン/桂月香/계월향|たいしょーの朝鮮王朝史amp.amebaownd.comをお借りして引用、参考にさせて頂きました。日本が朝鮮出兵(壬辰倭乱)した際に朝
「生」文字ライトアップ、阪神・淡路大震災からの再生を願い武庫川中洲神戸新聞阪神・淡路大震災からの再生を願い、兵庫県宝塚市の武庫川中州に石を積んで「生」の文字をかたどったオブジェが16日夕、ライトアップされ、...発生26年の朝阪神・淡路大震災追悼の火ともる神戸新聞6434人が亡くなり、3人が行方不明となった阪神・淡路大震災は17日、発生から26年を迎えた。追悼行事が催される神戸・三宮の東遊園地...「鬼」射抜き無病息災願う名張・正八幡宮YOUホーム·ニュ
【11月8日(日)】北の曲輪群から馬場経由で本丸(内藤備前)へ戻り、再び金之間より下って内藤土佐へ。烏嶽支城群以外の曲輪群は踏破できたので下山して内藤如安の顕彰碑を撮影。烏嶽支城群は次回追試です^_^;所在京都府南丹市八木町八木①本丸(内藤備前曲輪)※備前守は丹波守護代内藤家の当主が代々名乗る官職。②金の間曲輪の先端からロープを使って下ります。③細尾根を通り...④その先に内藤土佐曲輪が...⑤内藤土佐曲輪⑥引き返して細尾根を反対から。⑦こんなとこを登って帰ります。
【11月8日(日)】二の丸へ戻り北側の曲輪群へ内藤五郎曲輪~並河重朗曲輪所在京都府南丹市八木町八木①まずは二の丸から内藤五郎曲輪群へ下っていきます。②内藤五郎曲輪③内藤五郎曲輪④内藤五郎曲輪群と並河重朗曲輪群との間の堀切⑤↑の堀切にある姫の洞窟。明智光秀の丹波攻めの際、内藤一族の姫がこの洞窟から逃げたとの伝承があるそうです。⑥並河重朗曲輪⑦並河重朗曲輪⑧並河重朗曲輪※八木城配置図
【11月8日(日)】特別展「八木城と内藤氏」を鑑賞したなら、やはり現地確認したくなります(笑)と言うわけで、八木城に登城してきました。所在京都府南丹市八木町八木まずは登城口~対面曲輪~本丸(内藤備前)~金之間曲輪①登城口②対面曲輪・堀切③本丸(内藤備前曲輪)・虎口より④本丸(内藤備前曲輪)・土塁⑤本丸(内藤備前曲輪)北東下腰曲輪先端からの眺望⑥本丸(内藤備前曲輪)から金の間曲輪へ⑦金の間曲輪本丸(内藤備前曲輪)にあった縄張配置図です。
今回は城巡りアーカイブスからの更新になります。丹後シリーズは終了し、ちょっとだけ南下。京都府南丹市・亀岡市にまたがる八木城跡です。このお城は内藤ジョアン由縁の城として知られているように思えます。しかし、実際に行ってみればわかる通り、丹波守護代として細川氏を支えた内藤氏の本拠として、後年は松永久秀の弟・長頼の居城として、その勢威を誇った当時としては有数の規模を持つ山城です。山城の周辺開発と整備という難しいバランスがギリギリ取れているのも良いところだと思いました。登城からすでに1
【5月6日(月)】大型連休最終日は、JRふれあいハイキング「明智光秀丹波平定の道・八木城跡探索ツアー」に参加。JR八木駅集合、春日神社⇒内藤ジョアン碑⇒八木城登城(主郭で昼食)⇒龍興寺庭園⇒東雲寺(内藤氏山麓居館跡)にて郷土史家八木幸雄氏解説⇒八木駅解散と言う約8kmのコースでした。八木城は京都府南丹市八木町の城山(標高約330m/比高約220m)に築かれた山城で、兵庫県丹波市春日町の黒井城、同篠山市八上の八上城と並ぶ丹波三大山城のひとつに数えられます。築城年代は不明ですが、八木城を拠点と
加賀百万石の城下町・金沢。この金沢には、加賀藩を治めた前田家の居城である金沢城がある。天守閣はないものの、櫓などが再建されており、見所の多いスポットだ。この金沢城には、一般人の立ち入りが禁止されている甚右衛門坂という坂がある。「甚右衛門坂」金沢城のうち武蔵ヶ辻・近江町市場に近い方面にある坂道である。近江町市場から尾崎神社に行き、そこから尾山神社方向に向かうと道中にある。丸の内園地の隣だ。金沢城は江戸時代には前田家の居城であったが、それより前の戦国時代には本願寺方の勢力が拠り、尾山御坊
〖新生活応援キャンペーン実施中!〗⚫今日から3月の始まりですね♪⚫まだまだ朝晩は寒いですが3月と聞くと、いよいよ「春」っ感じを強く感じます(*^^*)今日からいよいよ当ブログも「新生活応援キャンペーン」と題した装いへと更新しましたので是非「紋次郎SHOP」へとな足を運んで見て下さい(*^^*あ、昨日の更新は仕事が忙しくて、未更新だった事を日が変わる2分前まで気付きませんでした( ̄▽ ̄;)当然自分自身も解答出来てません・・・国盗りは前日へと振り返えれるけど城めぐは飛
戦国キリシタン大名ジョアン内藤の足跡翌年、前田利家のもとに身を寄せている高山右近を頼り加賀へ移り住み、右近と共に布教に励んだ。3年後に金沢の南蛮寺が完成されている。その7年後に家康がキリシタン禁制を表明し信者として摘発した旗本らを改易追放する。2年後に伴天連追放令が発され冬の真っ只中に右近と共に長崎へ送られることになる。そこでジョアンは妹のジュリアと再会する。そこからフィリピンのマニラへたどり着き、マニラの総督ジルバの熱い歓迎を受けるがまもなく右
戦国キリシタン大名ジョアン内藤の足跡ジョアンはこの戦いを終わらせるため、明国の条件を受け入れ秀吉に報告することを約束した。しかし秀吉には秀吉の条件が認められたと報告し、わずかの兵を残し日本軍は引き揚げ帰国した。その後大阪城に到着した明国大使に行長とジョアンは明国の国書を訳する者に取り計らうように指示するがそのまま訳されてしまう。怒った秀吉は、徳川家康、石田光成出国を命じ14万の兵士の最高指揮官として朝鮮へ出発するが途中病死してしまう。諸軍
戦国キリシタン大名ジョアン内藤の足跡(NO.1)ジョアン内藤の記念碑がJR八木駅から徒歩で15分のところにある。日本の歴史上から抹殺されていたジョアンの歴史が宣教師たちの文書により甦り、八木町とマニラ市の姉妹都市の架け橋となった。ジョアンはザビエルが日本に上陸した次の年の頃に生まれたと推測される。丹波地方の八木城で生まれ育った、幼名を五郎丸といい十代の時に、山口から逃げてきたキリシタン、カタリナという婦人に導かれ京都の南蛮寺まで通うようになる。世
9/24丹波城巡り続き亀岡市から南丹市に入り次は八木城京都府南丹市八木町八木八上城、黒井城と並ぶ丹波三大山城の一つ。丹波守護細川氏の守護代を務めた内藤氏の居城。松永久秀の弟松永長頼が内藤国貞の娘を娶り内藤宗勝と名乗り波多野方に奪われた八木城主を奪還。しかし内藤宗勝も永禄8年(1565)黒井城攻めで討死、息子はキリシタンで後に有名な内藤如安です。宗勝が亡くなった後は内藤国貞の息子内藤貞勝が城主となり甥の如安は執政の立場になる。内藤貞勝は明智光秀の丹波攻略戦で天正7年(1579
北のミサイルが飛んできて大変でしたね。朝ニュースつけてて、洗面台で歯磨いて居間に帰ってきたらテレビの画面が変な感じになってって(Jアラートの画面?)オヨ?!って感じでした。ミサイルなんて予告されても覚悟を決める意外に何もできないですね。。さて、まだ、5月の日記ですwたぶん、この日はいろいろ行ったけど、今日は↓この、常照皇寺だけで終わりそう(書き始めが11時なんで(;´∀`))この日は、朝、ブロ友さんと八木駅で待ち合わせ。八木駅・・・。初めて来ました。。
彦星降臨⁉︎(本蓮寺住職紹介)七夕からずいぶん経ってしまいましたが、七夕の続きのお話。夏の着物を織姫に見立てて、床の間に飾ったのは、京都でこういう風習があるとの事。「七夕のおはなし」本蓮寺にてでも本当は、彦星に見立てた男物の着物も飾らなければなりません。当日に友代香先生にそう教えていただきましたが、「相応しい男物の着物」など急には思いつきません。
実は先週、滝ヶ峯城に行ったあと、麓まで行ったとですよ。今日はそのリヴェンジとなりました。いやー、とってもいい城!ただ、6時間掛けて、全体の半分ほどしか摂図できませんでした(T_T)
おはようございますあ〜なんか忙しい。・゜・(ノД`)・゜・。土曜日にプラっと丹波八木城へ行きました。またマイナーなお城高さ344m(比高220m)の山城である。でも丹波三大山城ではある。【丹波八木城】築城1335年内藤顕勝?廃城1582年?城郭複合式梯郭式山城天守閣不明丹波八木城は細川氏の家臣の内藤氏が丹波守護代として権威を振るったお城である。1482年〜1494年に一時細川政元の家臣の上原元秀が丹波守護代として権力を握っていたが、1494年以降再