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今回のテーマはあの内海桂子である。東京女流漫才界の長である。内海桂子(1922-2020)1922両親の駆け落ち先の千葉県銚子市で生まれ浅草で育つ。1923関東大震災。千葉県まで歩いて疎開。しかし働かない父親に愛想をつかし再び東京へ。父は行方不明。1930神田の蕎麦屋の更科へ子守奉公へ出される。1932頃奉公が終わる。1935坂東小三寿から三味線や踊りを習い舞台から声がかかる。1938ドサ回りで出会った高砂家と志松.〆子の〆子が産休に入り、代役で漫才初舞台。1941
こんにちは。兵庫県三田市の広島のお好み焼きこのみのママです。前回借りてきた本の中から・・「人生は七転び八起き」内海桂子大正11年(1922年)に生まれ、令和2年(2020年)に永眠。彼女は亡くなるまで、仕事(漫才)をし、舞台に出続けた真の芸人。この本は亡くなる前に出された本です。私、最近は小説より人生の大先輩方の生き方、考え方などが書かれたエッセイとか自伝みたいなものに興味があって、そんな本をよく借りてる気がします。高齢で
内海桂子さん内海桂子(うつみけいこ)本名:安藤良子(あんどうよしこ)1922年9月12日(戸籍上は1923年1月12日)生まれ、2020年8月22日、97歳没。千葉県銚子市生まれ、東京市浅草育ちの芸人、漫才師、女優。漫才協会名誉会長。マセキ芸能社所属。弟子:ナイツ内海好江と約半世紀に渡って音曲漫才コンビ内海桂子・好江(1950年~1997年)を組んで人気となった。1950年、林家染団治の紹介で、夫婦漫才荒川小芳・林家染寿の娘で、当時14歳の内海好江を弟子に
8月22日が命日・忌日の有名人・著名人1155年(久寿2年7月23日)16歳崩御(?)近衛天皇陛下日本の第76代天皇鳥羽天皇の第九皇子1485年満32歳没(戦死)リチャード3世さんイングランド王父:ヨーク公リチャード・プランタジネット1806年74歳没(アイス?)ジャン・オノレ・フラゴナールさんロココ画家『読書する娘』フラゴナール小惑星⇒『ジャン・オノレ・フラゴナール(1732年4月5日生~1806年8月22日没、画家)』1940年89歳没(?
「安定の座に居座るは衰退の一歩なり」安定は、安定ではないのです。進まないということは、後退していることになっちゃいます。人生は七転び八起きAmazon(アマゾン)1日1篇「人生を成功に導く」365人の言葉Amazon(アマゾン)
バスツアーで山梨県甲府市の昇仙峡に行きました昇仙峡にある「影絵の森美術館」を見学しました「光と影の造形詩人藤城清治」「日本のゴッホ・放浪の画家山下清」「漫才師・女優・絵師内海桂子」などの作品が展示されていました撮影可の絵をスマホで一部写してきました藤城清治藤城清治藤城清治藤城清治藤城清治山下清仲見世山下清川崎大師山下清三保の富士山下清橋のある風景内海桂子内海桂子内海桂子☆ご覧いただきありがとうございました
皆さん、こんばんは。かんまです。ブログを書くのが後回しになっておりました。お久しぶりです。今回は「東京方言・江戸ことば」について書いていこうと思います。きっかけ(個人的なこと)これを書く理由は…東京の方言に興味があるからです!私は摂津弁話者(阪神間で話されている方言)でありますが、関東の方が関西弁に憧れを持つ方がいらっしゃるように私は江戸っ子・東京っ子の方言が今、大好きなのです。時代劇「暴れん坊将軍」を視聴している影響でしょうか…(本作
急遽東洋館へ。トリはナイツ。ヒザは小梅太夫。その前にロケット団がでる!!仕事が早く終わったので、ギリギリ間に合うか?間に合ってロケット団の漫才を見る事が出来た。心配していたのが三浦君の喉。声が飛んで寄席を休んでいる。昨年は倉本君が喉を痛め、寄席を休んでいる。舞台を見る限り、大丈夫そうで安心した。懐かしい擽りと、最近のネタの融合した流れ。場内は大爆笑。三浦君のボケの狂気、倉本君のツッコミの切れ味。やはり当代随一の漫才師だ。ナイツの漫才も面白かった。塙君の狂気も
偉大なる大芸人、内海桂子師匠。昨夜、京都のホテルに泊まりロケット団の漫才を聴きながら休んだ。漫才とい演芸は私の最も好む芸だが、その基本となっているのは過去の名人。生まれて初めて見た漫才師は獅子てんや•瀬戸わんや師。小学生だった私にとって衝撃だった。こんなに面白いおじさんがいるのか!!夢路いとし・喜味こいし師の至芸に酔い、やすきよ漫才に笑った。当然、内海桂子•好江師の漫才も楽しく見ていた。中でも桂子師匠には直接何度もお会いして、その人物に触れる機会があった。桂子師匠が日本
みんなの回答を見る一昨年書いた内容。今年も購入したが、大瀬うたじ師匠の載る最後のカレンダーだと思うと感慨深い。内海桂子師匠が亡くなった時にも思ったが、良く知る師匠が欠けていくのは寂しいものだ。仕方ない事だけど…。大切に飾ろうと思う。
昨年こんな内容で書いていた。来年の漫才協会カレンダー、うたじ師匠が微笑んでいる。思い出したが、うたじ師匠と食事の約束をしていた際に腰痛で休まれた事があった。その次の回で、元気に舞台に立つ姿を見て嬉しく思ったものだ。急用が出来たのでそのまま帰ります、とLINEをくれて帰った師匠。一緒に、と誘った若手と二人でステーキを食べたっけ。うたじ師匠は仲良くしてくれていたので、今もよく思い出す。涼しくなったので、お墓にお参りしよう。内海桂子師匠のお墓にもしばらくお参りしていない。
Alsich2015imBettlagundNacktbildervonGroßmütternausÜberseebetrachtete,dieichaufmeinemiPadgespeicherthatte,fragtemichmeineMutter,diezudemZeitpunkt,alssiezumWäscheaufhängenkam,76Jahrealtwar,warumichsiegesehenh
浅草を歩いていると内海桂子師匠を思い出す。漫才協会と関わりが出来るきっかけは亡き内海桂子師匠だった。大芸人というのに相応しい人物だった。浅草の店で食事していると、よく漫才協会の師匠と出会ったものだ。昭和こいる師匠やビックボーイズなべ師匠。おぼん師匠もこぼん師匠。春風ふくた師匠が若手を連れているのにも一緒になった。内海桂子師匠とは、何度かやっ古で遭遇したの懐かしい。浅草には漫才協会の芸人達の息吹を感じる場所が随所にある。今、漫才協会の知古朋友と食事に行く度に思い出す。
漫才協会も、ここ数年で多くの方が亡くなった。享年97歳の内海桂子師匠から40歳のえざお君(彼が一番若かったと思う)という幅広い年齢層で。直近では大瀬うたじ師匠が亡くなった。個人的にも仲良くさせて頂いていたので、衝撃が大きかった。新山ひでや師匠。内海桂子師匠。青空たのし師匠。このお三方は、話す機会が多かったので悲しかったのを覚えている。東京丸師匠。勘太郎師匠。こちらはとても仲の良いコンビだったので、相方の京平師匠、たにし師匠からお話を聞く機会もある。先日もたにし師匠と
今日はラジオ高崎「アンドレディオ」生放送、お付き合いどうもありがとう!「金谷さん、ぜひ一緒に高崎のフィリピンパブに行きましょう!」と誘ってくる、通称「フィリピンパブおじさん」。今日も差し入れ頂きました!ありがとう!フィリピンパブおじさん!金谷プレゼンツのコーナーでは先日亡くなった園まりさんを偲び、映画「道しるべ」で共演した時の思い出話を。この前浜畑賢吉さんと亮王さんの追悼番組に出演した時「園まりさんにもお会いしたいなー」って言ったばっかりなのに。めっちゃくちゃ可愛
内海桂子師匠が亡くなってだいぶ経つ。コロナ禍真っ只中で、かつご主人の成田さんも体調不良。よって、葬儀も家族葬。お別れの会なども大きくは開催されていない。不思議なもので、今だに浅草を歩くとひょっこり現れそうな気がする。「あら、お兄ちゃん!」という桂子師匠の声をまた聞きたい。内海桂子師匠追悼の会は小規模開催された。主催は亡き大瀬うたじ師匠と桂会、場所は東洋館。宣伝もろくにしなかったので、ナイツが出る会でありながら空席も多かった。ただ、皆で笑って桂子師匠を偲ぶのは大芸人追悼に相応
ほんの少し時間が取れた。東洋館に向かう。顔馴染みのテケツのお兄さんに声をかけて入場。支配人にも挨拶して席を確保。二列目下手側、いつも座る付近に陣取る。突然だったので、2組目に出るパラダイムシフトをギョッとさせようとほくそ笑む。が、開演前に向こうから挨拶に来てくれた。上から見ていて気づいたらしい。常連仲間と挨拶を交わし、席に着くと隣席が常連(問題児?)で閉口する。この方、よく舞台に話しかけるのだ。多少なら生の舞台のあるあるなのだが、大声で延々とやられるとキツい。中入りで避難し
さらに2年。大瀬うたじ師匠も亡くなった。時が過ぎるのは早い、と思う。漫才協会も大分変わってきている。より良い方向に進んで欲しいと思う。
私は漫才という演芸が好きだ。夢路いとし喜味こいしの漫才はどれほど見たか。獅子てんや瀬戸わんや、内海桂子好江の漫才も大好きだった。現役の漫才師にも、素晴らしい芸を持つ人も多い。中でも個人的に一番好きなのがロケット団の漫才だ。これは私の感性にぴったりハマっている事はあると思う。ただ、それ以上に彼らのネタの構成と表現力が卓越しているからであろう。加えて後味の軽さがいい。抱腹絶倒の面白さで、腹が痛くなる程笑って、なお後に残らないのは凄い。ロケット団の漫才は押し付けない漫才。客
このところ、漫才大行進でロケット団と当たらない。それが非常に残念。いける機会も限られるので、仕方がないが。東洋館でロケット団を観たい欲求が凄い。漫才協会には他にも笑組、ホンキートンク、宮田陽昇ら好きな漫才師が複数いる。いちもくさんや新宿カウボーイ、オキシジェンらも非常に良い。中堅どころだとおせつときょうたとなにわプラッチックを高く評価している。若手もだいぶ増えている。いずれがあやめ、杜若、今後に期待する。
昨年書いたブログだが、やはりロケット団の漫才は素晴らしい。山形での山形では、は凄まじかった。日本一の漫才師だと思うロケット団。定例集会が待ち遠しい。
うたじ師匠にお別れするためにお通夜に伺った。奥様に挨拶し、参列させて頂いた。漫才協会、落語協会から多くの参列者が見えており、うたじ師匠を偲んでいた。あまりにも突然だったので信じられない思いもあったが、焼香し、心の中でお別れを告げた事で気持ちが落ち着いた。葬儀や通夜は、やはり大切な節目なのだと実感した。参列者の皆さんに挨拶し、ご遺族方が出て来られるのを待って挨拶し早目に退出させて頂いた。この辺りは地域によって習慣が違うのだが、御容赦頂けたと思う。帰路は幸い知人と一緒になれ
大瀬うたじ師匠。もちろん大瀬ゆめじうたじの頃から知っていた。ただ、個人的にお話する様になったのは解散後。内海桂子師匠と話す際に、挨拶する様になったのがきっかけだった。穏やかな人だな、と思った。時々声をかけてくれる様になり、漫才について色々教えて貰った。私の息子と3人で、蛇骨湯に浸かった事もある。内海桂子師顕彰、シーラカンス杯。漫才協会物故者追悼漫才会。これらを取り仕切っていた義理堅い人だった。師匠、早過ぎますよ。「謝楽祭に来い、説明してあげるから。」そう言ってた
大瀬うたじ師匠が亡くなった。正直、喪失感が大きくて…。ただただ悲しい。個人的にも仲良くして頂いた師匠だった。5月に開催された「長野県人会、大瀬うたじ・橘家圓十郎」に誘っていただいたのが最後になってしまった。先月、東洋館に行った際にも所用で挨拶もせず失礼、という内容のメールを頂いた。律儀な人だったのを思い出す。きたる9月の内海桂子師顕彰・シーラカンス杯でも審査員に来なさいと誘っていただいた。今回は特別賞で、ささやかながら私も賞を出す予定だった。漫才史に関しては、うたじ
みなさんこんにちは浅草の演芸場、東洋館は、かつてフランス座として名を馳せ、渥美清、萩本欽一、エレベーターボーイから、今や世界の北野ことビートたけし等々、多数の偉大な芸人を生んだ、伝説の劇場として有名です。そこは、一般社団法人・漫才協会の聖地であり、現在第7代会長として、お笑いコンビ、ナイツの塙宣之が、日夜奮闘しています。その塙が初の映画監督を務めた作品「万歳協会THEMOVIE~舞台の上の懲りない面々~」です。ナレーションを、小泉今日子、ナイツの土屋伸之(ナビゲーターも)が
だうも!うたじ師匠主催「シーラカンス杯」遊びに来てくれてありが東洋館!!優勝できず準優勝!!さぁ!次回はあるのか!?どうなるのか!?うわさでは9月あたり!!お楽しみに!!ばさらっ!!
今回は14組、3時間弱。内2組は浅草リトルシアターからの参加。参加基準が益々不明wびーランチやいちもくさん、おせつときょうたにパラダイムシフト。ピー介プー子、バジトウフー、2世代ターボもいる。ただ、全組が伸びやかに楽しそうに頑張っていたのが伝わってきた。開場して、うたじ師匠と成田さんにご挨拶し、内海桂子師匠の御仏前にお供物をお渡しする。うたじ師匠はいつも通り丁寧に挨拶を返してくれる。プー子ちゃんが受付で、弦ちゃんがお客さんを笑顔で出迎えていた。休憩無しで14組。間に伝
今年も3/16に東洋館で開催されるシーラカンス杯。敬愛する故内海桂子師匠を偲び、多くの若手の漫才を見る機会として楽しみにしている。大瀬うたじ師匠が主催され、この日ばかりはご主人の安藤常也氏も登壇される。安藤氏の事は今でもつい成田さん、と旧姓で呼んでしまう。ありがたい事に今回も早いうちからうたじ師匠に日程を教えて頂いていたので、スケジュールも押さえられた。ロケット団の定例集会と並んで、必ず参加したい大切な会だ。今回はいちもくさん、おせつときょうた、ビーランチ、もりあきのりら実力派。
だうも!第二回もやるみたいです!!お時間ある方チラシにある番号にショートメールしてチケット予約してください!電話するとうたじ師匠が出ますのでお気をつけください!!もちろん!このブログにコメントいただければチケット取り置きもできます!!お楽しみに!!ばさらっ!!