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「「諸子百家」浅野裕一著講談社学術文庫」儒家、道家、法家、墨家、兵家などについて書かれた本。しかし、著者の好みが、はっきり出ていて面白い。著者は、孔子についての点が辛いです。例えば、「一介の匹夫にすぎぬ孔子が、卿や大夫といった高級貴族と肩を並べ、魯の朝廷で政務を執るなどということは、いくら身分制が崩れかけていた春秋末であっても、どだい無理な相談であった。(p.112)」「要するに孔子の礼学は、彼がかき集めた一知半解の断片的知識を、自分の想像力でつなぎ合わせただけの、空想の産物
2021年3月17日棚機神社より林道を登ります。舗装が途切れ地道になり通り過ぎたようです。民家(おそらく一軒のみ)からご夫婦が山仕事に出られるところで尋ねるとやはり通り過ぎていました。こちらの岩橋山山中の春日神社が元宮で下の集落の春日神社は分祀されたそうです。石段は崩落しています。
金刀比羅宮(金比羅神社、葛城市兵家)大和国葛下郡奈良県葛城市兵家(詳細住所不明)(P無し、春日神社より10分足らずの登拝、アクセスは下部写真にて)■祭神金山毘古神「岩橋山」の東麓、「兵家(ひょうげ)」集落西側の丘陵頂に鎮座する社。登拝道は春日神社の境内脇より、関連する社かもしれません。◎創建由緒等は伝わっていないようです。讃岐国の琴平神社から勧請したとされていますが、大物主神ではなく鍛冶神である金山毘古神を祀ります。つまり当地で鍛冶が行われていたのではないかと。◎葛下郡は葛城
春日神社(葛城市兵家)大和国葛下郡奈良県葛城市兵家627(アクセス、駐車は下部写真参照)■祭神天児屋根命「岩橋山」の東麓、「兵家(ひょうげ)」集落を東に見下ろす丘陵上に鎮座する社。◎天児屋根命を祀るご本殿の左(向かって右)に末社の春日若宮神社、さらにその左に末社の菅原神社が鎮座する構成。ご本殿と菅原神社の両社への割拝殿となっています。これは大正時代の改装時にこのようにされたとのこと。◎創建由緒等は伝わっていないようです。石灯籠の中に「天満宮明和二酉乙歳九月吉日」とあり、これ
さて風邪にてふらふらになりつつ台風の惨禍に増税に政治家のどたばたと、不安を感じながら年末に突入しようという霜月の夜更けに御座りまするが如何御過ごしに御座りましょう。大型台風接近中職務を後回しにして自宅へ戻ったり、多額の公金を使った花見に地元の支持者を大勢集めたりと、人々の上に立つ権力者とは色々大変ですなぁ(笑)と云う訳で今回は、多くの人々を率いる指導者の御手本の様な人物を歴史書「史記司馬穰苴列伝」から御紹介致したく存じます。例によって、約文にて失礼つかまつります(汗)時は二千年以上昔の
「歴史の父」90「歴書」2前回我々は、「歴書」第一段落によって、天命を受けて、新たに王朝を開く者の第一の務めが、「暦」を制作して、諸侯に頒布することであることを知った。今回は、「歴書」第三・第四段落の天の歴数について。時代が下って、暦数、序を失ふ「暦数」、すなわち、「星暦の法則」が乱れ、堯が登場して、乱れた「暦数」を正す。以下、引用してみよう。堯は暦数を担当する官を立て歳時を明らかにし律度を正したその結果
「歴史の父」85「律書」20前回我々は、呉子と商君が、共に「兵家」であり、「法家」であることを知った。特に、呉子はこれまで、「兵家」としてのみ知られ、彼の本当の姿、貴族の圧政を排除し実力主義の、人民の時代を切り開いた、「変法」の開祖であることは、ほとんど知られていなかった。さて、「律書」第3段落は孫子登場の意義を、次のように述べる。世の儒家はいたずらに、「徳知」のみを主張して「兵」は用いるべきではないと言うがその結果
「歴史の父」84「律書」19前回我々は、これまで孫子と並んで「兵家」とされてきた「呉子」が、社会を貴族の世から庶民の世へと、根本的に変革する「変法」の創始者であり、「法家」の開祖であるという、意外な事実を発見した。今回は、ちょうど呉子とは逆に、これまで「法家」と目されている「商君」が、「兵家」の代表でもあった、という意外な一面をのぞいてみよう。商君が、「法家」に属することは、世の常識であるが、『荀子』議兵篇では、「兵家」として、名を称せられている。秦の衛鞅(
「歴史の父」83「律書」18前回我々は、孫子と併称される「呉子」が、孔子の孫弟子であり、「信」、すなわち「信賞必罰」を政治の要諦とするのを見た。ところで、我々は、「法家」とか、「信賞必罰」とか聞くと、「信賞」よりも、「必罰」の方が念頭に浮かぶ。しかし、前回見たように、呉子は、「信賞」を施政の中核に据えたのである。孔子も、食(経済)、兵(軍事)、信(教育)のうち、「信」を政治の中心に置いたのである。思想史は、普通、「呉子」を「兵家」に分類するが、史記「孫子呉起列伝」によると