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前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享2年(1488年)の真夏…細川政元(ほそかわまさもと)は六角征伐を終わらせるべく意を決して甲賀攻めに乗り出たのだ。六角征伐は六角高頼(ろっかくたかより)が甲賀山中に逃げて戦線は膠着状態になってしまっていたんだ。政元「皆のもの、山中の六角勢を残すな!一人残らず一掃せよ!」政元に従うは上原賢家(うえはらかたいえ)、薬師寺元長(やくしじもとなが)、香西元長(こうざいもとなが)、
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享2年(1488年)夏、我は血を吐き倒れ、床に伏した。細川政元(ほそかわまさもと)は医師に我の病状を聞いたようだ。義尚「政元…我のこと、医師は何と言っておる?」政元「…今は安静にすることが大事です。」義尚「されど、六角高頼(ろっかくたかより)の兵がこの鈎の陣(まがりのじん)をかく乱しておる。放ってはおけない。」政元「御所様には大名を初めとする軍勢がおりまする。」義尚「大
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享元年(1487年)9月、我は2万2千もの大軍勢をもって近江国の六角高頼(ろっかくたかより)征伐に出陣した。高頼は自らの居城、観音寺城から甲賀に逃れた。観音寺城跡観音寺城は標高432mのきぬがさ山の山上にある山城なんだよ義尚「高頼め、逃げても無駄だ!甲賀まで追いつめて討つのだ!」我は軍勢に命じた。しかし、六角勢は小軍勢で奇襲、待ち伏せといった思いもよらぬ戦法で我が軍勢を
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享元年(1487年)9月、近江の寺社や公家の荘園は六角高頼(ろっかくたかより)が勝手に押領していた。我は細川政元(ほそかわまさもと)と謀り、六角を征伐するため出陣することにした。政元さんはあまり乗り気ではなかったんだ政元は我に出陣を思い留まるよう、何度か説得してきた。政元「御所様、今、六角に領地押領したことの詰問を書状にて行なっております。その返事から来てから征伐の判断をし
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡で日本を元気にする城跡で地域活性する歴史エンターティナークリエイターの原一六四です。今回も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」をお送りいたしましょう。現在は「永正の錯乱」について書いてます。前回の話を確認したい方は、こちらをクリックしてください。【足利義澄、死す】京都の船岡山で細川澄元方と細川高国方との戦いが繰り広げられているとき近江でも、ある動きがあった。以前より近江守護・六角高頼が足利義植を支持するなか、守護
JR草津線手原駅から北西へ1km程のお寺に来ました寺院名;鈎陣山永正寺宗派;真宗大谷派御本尊;阿弥陀如来所在地;滋賀県栗東市上鈎270TEL;077-552-0071室町幕府第9代将軍・足利義尚は応仁の乱(1467~77年)で諸国が乱れ、将軍の権威が失墜する中で勢力を盛り返すべく、長享元年(1487)近江の守護大名・六角高頼征伐のため直轄軍を率いて鈎の安養寺⇒鈎の真宝館に本陣を構えていたのですが長享3年(1489
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。さて、近江の六角攻めも、いよいよ大詰めとなります。果たして六角は滅ぼされるのか!?梁瀬河原の戦いで敗れた六角高頼は何とか巻き返しを図ろうと北近江の京極氏の被官たちの力を借りる事に・・・そして新たな戦いが始まるのである。【市野原の戦い】北近江の力を借りて幕府軍を返り討ちにしよ
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズです。前回の続きです。幕府の権威を取り戻すべく、近江で好き勝手にやっている六角を成敗するべく将軍自らが出陣した鈎の陣であったが、六角を攻略すら出来ず、将軍は陣没。幕府軍は何も出来ず京都へ引き上げる事に。その後、六角が好き勝手に奪った領土を返すという事で六角は許されることに、しかし、その約束を守ろうとし
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は新たな「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。先日、このシリーズで北陸の動向を書きましたが、その時に富樫政親が足利義尚の近江親征に参加して鈎の陣に参加していた事に触れましたら、その鈎の陣について教えてほしいというメッセージをいただきましたので、今回は足利義尚と義材の近江・六角攻めについて書いてみたいと思います。いつものように戦
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日の「歴史の裏側教えます!!」は、戦国時代の幕開けについて書いてみました。おそらく、これは人によって捉え方が違いますので、戦国時代の幕開けのキッカケの一つとなった出来事を書いてみたいと思います。戦国時代が始める前、応仁元年から11年間に渡って繰り広げられた「応仁の乱」。畠山家の家督争いに端を発し、各守護大名たちが、己の利権を含めて東西に別れて争
JR東海道線守山駅から北西へ500m程の神社に来ました神社名;勝部神社所在地;滋賀県守山市勝部1-8-8TEL;077-583-4085【主祭神】宇麻志摩遅命、物部經津主之神、火明命勝部神社の創祀は大化5年(649)領主の物部宿祢広国がその祖神、物部經津主之神を祀ったと伝えられ物部神社・勝部大明神とも称されていたそうです明応6年(1497)には六角高頼が本殿を造営元亀年間(1570~1573)には織田信長が起請文60通を奉納文禄3年(1
小津若宮神社から西へ1km程の神社に来ました神社名;小津神社所在地;滋賀県守山市杉江町495TEL;077-585-0855【主祭神】宇迦之御魂命小津神社の創建は允恭天皇30年(441)景行天皇の皇子、小津君の分霊を勧請したのが始まりだそうです欽明天皇の代(539~571)洪水により本殿が琵琶湖に流出し現在地まで引き寄せた故事から当社から赤野若宮神社まで長刀隊や笛、太鼓が往復する長刀踊という例祭の由来となっています応仁の乱(1467