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5/3(金)に近江の「六角氏」関連の近江三城に出かけ登城路が立入禁止だった「長光寺城」を断念して「布施山城」にまずは登城してから、「箕作山(みのつくりやま)城」(滋賀県東近江市)へ向かいました。最寄り駅は「近江鉄道本線」の「河辺の森駅」です。駅を降りてお城がある「箕作山」が西方向に見えるのですが、線路を渡る踏切は一旦反対側(東側)へ進む道を歩き右折してからもだいぶ遠回りをしないと線路を渡れないのです。踏切を渡り暫く南下して右折すると車道に出て「建部神社」の碑を右に真直ぐ進むと登
速報で投稿しましたように、5/3(金)に近江の「六角氏」関連の近江三城に出かける計画を立てて、「長光寺城」「箕作山城」「布施山城」(いずれも、滋賀県東近江市)を目指しました。この中で最も登城したかったのが「長光寺城」です。というのも、「織田信長」が「浅井長政」「朝倉義景」に挟まれ「金ケ崎の退口」で辛うじて「京」へ戻るも、本拠地であった「岐阜」に戻る為には「近江」を通らなければならず、南下してくる「長政」に「六角承禎」が呼応して、籠城して応戦したのが「柴田勝家」だったからです。これには
<速報>本日(5/3)、近江の「六角氏」関連の山城巡りを計画して近江三城に出かけました。登城を計画していた城は三箇所、「長光寺城」「箕作山城」「布施山城」(いずれも、滋賀県東近江市)です。JRで「近江八幡駅」へ、「近江鉄道」に乗換えて「平田駅」で下車して「長光寺城」の登城口へ向かいました。琵琶湖周辺は平野が広がり、今は一面に珍しい麦畑が青々と広がり、久々に聞くヒバリのピーチクパーチク鳴く声にのどかな田園風景がありました。「平田駅」から「長光寺城」を目指す途中に一面「麦畑」が↓
令和5年11月11日に10年ぶりに観音寺城を訪れました。以前は3歳くらいの息子とでしたが、今回は息子の同級生のパパ友と歴史の話でいきがあい一緒に行くことになりました。10年前に書いた文書を新たに撮った写真も追加してリニューアルしたので再掲載します。今回は、五箇荘観光センターに車を停めて、結神社から登りました。なかなかしんどいルートでした。下から行くなら日吉神社あたり停めるルートが1番いいと思います。平成25年5月8日息子と2人でJRとタクシーを使って行ってきました。JR安土駅からタクシーに
7/21(金)は、「青春18きっぷ」を使用して滋賀県のお城巡りに出かけました。1城目は「佐生日吉城」に上り、2城目の「和田山城」(滋賀県東近江市神郷町他)へ向かいました。レンタサイクルで2.1km、約15分の距離でしたが、川沿いに走ったことからドンドン目的地から離れていき道が分らなくなり、スマホのナビを使ってようやく登城口がある「和田神社」に辿り着きました。おかげで25分もかかってしまいました。「和田山城」の遠景↓「和田山城」の歴史と城主について触れておきますと、「佐生日吉城」
三宅弥平次⑯「信長公記」『片邊の小城どもをば、物の数ともし給わずして、同じく十二日、佐々木左京の大夫入道、抜闕斎承禎が居城観音寺、幷に箕作山の城へ押し寄せんとて、手分けを定めて、其朝先ず信長卿、箕作山の様體見渡さるべしとて、森三左衛門の尉、坂井右近の将監、其外小姓馬廻五百騎計にて、打出でらるる所に、敵よりも足軽少々出しけるに、森坂井手勢引分け、馬を駈入れ、東西南北に、駈破り追散らし、城中へ追込み、敵八十餘討捕り、鬨を咄と上げたりけり。』永禄11年(1568
山上に逃げこんだ浅井・朝倉勢の糧道を断とうとした信長ですが、比叡山延暦寺が彼らをを庇護したのです。さらには、甲賀に逃れていた仇敵の六角義賢(南近江の観音寺城主だった武将)までが兵を挙げました。大津の信長の周囲はいわば敵だらけ。こうして信長は窮地に陥りました。そこで彼は各勢力を個別撃破しようと考えたのです。そのため、最大勢力といえる朝倉・浅井勢を支援する比叡山に対して、横領した山門領(延暦寺の荘園)をすべて還付すると、まずは“飴”で誘い、次いでこの申し出を断ったら
昨日(6/12)、友人と一緒に山城2城(「観音寺城」「安土城」)を登城してきました。前日の夜まで雨が降っていましたが、当日は朝から終日快晴、気温もひんやりとした風が絶えず吹いていて少し肌寒いような天候で、山城登城には絶好の日和でした。JR「大阪駅」で合流した友人は、以前SNS関係で色々お世話になった若者で、最近お城巡りに嵌っていて、まずは「日本100名城」「続日本100名城」の登城を目指しています。私は、昨年末積雪の中、難儀しながら「観音寺城」へ登城したものの見れていない見所や
「手力の火祭」復活の炎手筒花火3年ぶり奉納|岐阜新聞Web岐阜新聞Web勇壮な火の祭典で知られる「手力の火祭」(岐阜県重要無形民俗文化財)が9日、岐阜市蔵前の手力雄神社で営まれた。コロナ禍で神事の縮小が続く中、3年ぶり...2.2kmの「桜のトンネル」12年ぶり“開通”原発事故の規制緩和(毎日新聞)-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN関連記事·がんばっぺ福島、3年ぶりに開催リモート配信·震災で被災の文化財「三菱館」、11年
12月21日(火)、「青春18きっぷ」で「観音寺城」(滋賀県近江八幡市)を目指しました。「青春18きっぷ」2回目まずは「観音寺城」の歴史と城主に触れますと、当城は近江守護職「佐佐木六角氏」の本城で、築城は長い年月をかけて1468年に完成し、その後1523年には家臣団の屋敷を城内に築き、1555年~58年にかけては鉄砲に備えるべく石塁の改修を行いました。1568年に「織田信長」と対立した「六角義賢・義治父子」は無血開城したので、「信長」が入城し「佐佐木氏」に守らせましたが、「信長
先月の新聞記事からですがひさびさに戦国ネタを。美濃守護土岐頼芸については、令和2年大河ドラマ『麒麟がくる』で尾美としのりさんが演じられていた武将。といった方がわかる人も多いかと思います。この美濃守護土岐頼芸の名前“頼芸“のよみについてなのですが、これまで「よりあき」「よりなり」「よりよし」「らいげい」など長年テキトーに呼ばれてしていました。ところがこのたび江戸時代のものではありますが、書状に「芸(藝)」に「のり」とルビがあるものが見つかりました。そこで根拠のある呼び名として今後はたいて
【問題】永禄11年、六角義賢父子は支城の陥落を知って、居城・観音寺城を捨て逃走したが、その支城とは次のうちどれか?【選択肢】箕作城青地城土山城鎌刃城【正解】箕作城【解説】永禄11年(1568)、織田信長は上洛を妨げる六角義賢父子を攻撃した。六角勢は本城の観音寺城の他、各支城に兵を入れ迎撃したが、箕作城が落ち和田山城が自落したことを知ると、観音寺城を捨てて逃亡した。
草津宿の西の出入り口である黒門が右岸にある現在の草津川を矢倉橋(35.011336,135.956274)で渡って、大津宿へと向かいます。「現在の」としたのは、元々の草津川を既に草津宿直前で渡るというより横断してきたからなのですが、もとの草津川は江戸時代中期の頃までは天井川になっておらず、江戸後期において、多量の土砂流出と川底の浚渫による堤防の積み上げにより短い期間で天井川と化したと考えられています。その頃から度々洪水を繰り返した草津川は、戦後周囲が市街地化されると放置するわけに行かず、川
戦国の世に「日野の頑愚どの」と仇名された男がいた。頑固で愚直は、生馬の目を抜く戦乱の時代には致命的な欠陥である。しかし、この男は見事に生き残った。近江の日野城主、蒲生賢秀(かたひで)。近江国守護・六角義賢に仕えている。大河ドラマ「麒麟がくる」では、足利義昭を将軍にすべく織田信長が兵を率いて進撃し京を目指すシーンがあったが、その途上・近江国を領する六角義賢はあっけなく蹴散らされてしまった。実態をいうと、1568(永禄11)年、信長が近江東部の城ひとつを落すと、そ
前編では、貝吹山古墳を見た後、久米田池、久米田寺を散策。つづいて久米田寺の奥にある光明塚古墳へ。↓光明塚古墳光明皇后の遺髪が埋葬されたとの伝承がある。↓無名塚古墳行基の墓の場所がわからなかったので、久米田寺を離れ、貝吹山古墳の南に隣接する久米田公園へ。ここにも小ぶりながら古墳があった。こちらは円墳の形状。無名塚という名の通り、長い間古墳の名称がなかったのだろうか。↓久米田古墳群_地図公園内にある案内によると、ここらは久米田古墳群といわれる古墳の密
今回は忍者絡みのステージです。たまたま伊賀に絡んで六角さんがボスになっただけです。でも、忍術が出るわけでもないので、このメンバーでも十分でした。今回は割といい武将が入りました。特に原田さんは騎馬適性Aなのでハードモードでスターティングメンバ―としてもいけそうです。
令和2年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』はもっくんの斎藤道三怪演もあって話題ですね確かにカッコ良い。その道三の息子である斎藤高政はイケメンの伊藤英明さんが演じております。十兵衛(明智光秀)と竹馬の友って設定になっていて、「ともに美濃を麒麟がくる国に」と語って身分を超えて友好深めてますが・・・その先の歴史を知ってるだけに展開をどうするのかチョー気になっておりますさて、その斎藤家の主君土岐頼芸(ときよりのり)を尾美としのりさんが演じてますが、(よくありがちな)凡庸で絵が好きな貴族趣味
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六角義賢(1521-1598)近江の名族・佐々木氏の末裔。法名は承禎。南近江や伊賀を治めていたが、浅井長政や織田信長に攻められた。支配国戦国の動乱(義賢)伊賀飛躍の時(義治)伊賀信長包囲網×覇王の後継者×群雄集結(義賢)伊賀夢幻大転封×天下布武(義賢)伊賀手取川合戦×本能寺の変×信玄上洛×戦術混乱・弓構・矢雨難易度☆☆☆☆☆攻略法北に浅井家、西に足利将軍家、東に北畠家。うまいこと倒しても、強い敵に当たるので、自滅の危険性
【六角義賢】六角忍者強盗団【ハード】7日以内に、先に他の部隊を撃破してから、六角義賢を撃破せよ!※六角義賢を先に撃破した場合、目標失敗になる。※7日間味方総大将が生き残っても勝利となる。・攻略ステージ:伊賀越え(野戦)・攻略レベル:☆☆☆☆・攻撃(敵軍)/守備(自軍)・自軍兵数21000/敵軍兵数29000・自軍兵糧2000/敵軍兵糧2000・自軍訓練70/敵軍訓練90・自軍士気50/敵軍士気60☆自軍武将4000足軽/☆六角義賢450
【六角義賢】六角忍者強盗団【ノーマル】7日以内に、先に他の部隊を撃破してから、六角義賢を撃破せよ!※六角義賢を先に撃破した場合、目標失敗になる※7日間味方総大将が生き残っても勝利となる・攻略ステージ:伊賀越え(野戦)・攻略レベル:☆☆・攻撃(敵軍)/守備(自軍)・自軍兵数22500/敵軍兵数16500・自軍兵糧2000/敵軍兵糧2000・自軍訓練70/敵軍訓練55・自軍士気60/敵軍士気50☆自軍武将4500足軽/☆六角義賢3000足
-本能寺の変とはなんだったのか10/?-2021/10/29今回は、織田信長が美濃攻略の達成になったも同然になっていた1568年に、足利将軍家や中央関係者らの要請に応じる形で織田氏が中央進出を果たし、永らく荒れ果て続けた中央の復興事業がついに果たされた頃の様子から、触れていきたい。公正な旗本吏僚体制・奉行所体制が織田氏には既に作られていたことが立証される形で、織田信長のおかげで1571年には、かつての経済都市としての京の姿の活気も、ついに取り戻されることになった。室町将軍
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。その前に、このブログのイベント「歴史トリビア」大募集ですが、何人か方が「歴史トリビア」を投稿してくださいました。また、報告させていただきます。まだ、ブログイベント「歴史トリビア」大募集を確認してないって方は今すぐ確認してくださいね。まだまだ、絶賛、募集中ですので是非、お待ちして
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズの続きをお送りしてまいります。と、その前に先日、告知させていただきましたブログイベント「歴史トリビア」大募集ですが、何人かの方がトリビアをお寄せいただいたのですが、まだまだ絶賛募集中でございます!!きっと、あなたも知っている「歴史トリビア」あるんじゃないですか!?是非、この機会に紹介してください!!参加方法
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りしていきます。と、その前に「歴史の裏側教えます!!」動画版、最新版です!!今回は「織田信長が行った楽市楽座の狙い」についてわかりやすく動画にしてます。皆さんは織田信長が行なった楽市楽座って何だか分かりますか?その狙いって知っていますか?ズバット動画で確認してね。実は、あれって織田信長が最初じゃないんで
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」で「日本マイナー歴史研究専門家の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。と、その前に「歴史の裏側教えます!!」動画版、昨日「徳川家康が改名した訳」をアップしましたが、皆さん、見てくれましたか?まだーという方は是非、見てくださいね。「歴史の裏側教えます!!」動画版、「徳川家康が改名した訳」を見たい方はこちらをクリック。では本日の本題です。六角定
戦友の皆さまお疲れさまですのぶニャがの野望ですが、合戦が終了しました伊達家vs最上家:摺上原(米沢城付近)東の合戦は、伊達家が辛勝尼子家vs長宗我部家:厳島(吉田郡山城付近)西の合戦は、尼子家が辛勝訓王隊は、奥義尼子十旗GETのため尼子家に参戦しました合戦報告書はこちら合戦手柄60708戦績1133戦1028勝勝率91%戦功順位6位報酬6匹&〔珍〕奉納巫女2匹GETすることができました本陣戦ですが、やってしまいましたちな
【問題】六角義賢が入道後に名乗った名として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】承禎勘斎鵜柳仏起【正解】承禎【解説】六角義賢は南近江を拠点として、北近江の浅井氏としのぎを削った。永禄2年(1559)、息子義治に家督を譲って入道し、承禎(じょうてい)と号した。
皆の者達者であるか?大ふへん者前田慶次じゃ!我が日記帳開き大義。野分けは台風が日ノ本に近付く今。各地で天と風が吹き起こる。皆外出する際油断するでないぞ!本日も戦国の今日は何の日参る。最後まで読めよ。題目一五七〇年七月四日六角義賢、織田信長に背き京へ入京。六角義賢(ろっかくよしかた)六角氏と申せば近江国は滋賀県の守護大名として天下の政を行う将軍を支える一族であった。大国の領主なれど時代の移ろいにて将軍は弱りそこに突き入る各地の権力者。六角も浅井に攻められ近江国の一
■所在地滋賀県近江八幡市安土町石寺■遺構石垣・郭・堀■城のタイプ山城■築城者佐々木氏佐々木氏嫡流の近江守護、六角氏の居城だった観音寺城は、室町時代後半から使用されて、段階的に改修され六角義賢の代には、本丸周辺を石垣で囲まれた堅固な大城郭へと変貌しました。永禄11年(1568)の織田信長の足利義昭を奉じての上洛の際に、六角義賢は、観音寺城に籠もり抵抗しましたが、城を捨て逃亡して、廃城となりました。(1)平井丸の石垣、(2)遠景、(3)本丸大手道、(4)本丸食い違い虎口、(5)