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若狭京極家に文事応接役で仕えていた斎藤徳元は、連歌の師匠でもある里村昌琢のもとへ出入りするようになります。後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王の和歌の集まりにも加わります。智仁親王の妻が、主家の京極家の縁戚になる、京極高知の娘であったことによるもので、八条宮邸で徳元は、和歌を愛好する公家や僧侶などとの交友を行ないます。趣味というよりも仕事であり、徳元を召し抱えて文事応接役にした京極忠高の期待に添う活動でした。八条宮智仁親王の息子の智忠親王に読ませるために、徳元は「尤草子」という書物を書いてい
5月29日が命日・忌日の有名人・著名人1629年51歳薨去(腫物)八条宮智仁親王殿下皇族、歌人正親町天皇の孫誠仁親王の第六皇子1892年74歳没(?)バハーウッラーさんバハーイー教教祖1910年満73歳没(?)ミリイ・バラキレフさん作曲家「ロシア五人組」のまとめ役1935年満61歳没(?)ヨゼフ・スークさん作曲家・ヴァイオリニスト1942年満63歳没(脳梗塞)与謝野晶子さん作家、歌人、女性解放思想家、フェミニスト1942年満60歳没(肺炎)ジョン
と絶賛したのは何か?「桂離宮」である。八条宮家初代の智仁(トシヒト)親王が17世紀初頭に造営を始めた。池泉回遊式の庭園と3つの書院、4つ(かつては5つ)の茶屋などからなる山荘で、屈指の教養人だった智仁親王の繊細な美意識が隅々にまで脈打つ。昭和8年5月に桂離宮を訪れたブルーノ・タウトは、たちまちその美しさに魅せられ「清楚な竹垣、御殿の清純真率な建築。深く心を打つ小児の如き無邪。今日までの憧憬は余すところなく満たされた」「泣きたくなるほど美
子供のころの夏の朝を思い浮かべると、6時ぐらいに起きて、夏休みの宿題である朝顔の観察日記をつけて、6時半から始まるラジオ体操へ出かけたものでした。あの頃は、体操をしてカラダを動かしても、汗ばむこともなく過ごしたように思います。それが今や、毎朝その時間には30℃に達する勢いで、ぐんぐん上昇していきますね。かつてなら日中の最高気温だったでしょう囧rzそんなですから、気象予報士の奨めに従い、不要不急の外出を減らし、冷房を入れた部屋で過ごすようにしておりますwww一方で、これはこれで「暑冷
桂離宮は桂川のほとりにあり、平安時代には藤原道長の別荘である桂殿が営まれるなど観月の名所として知られていました。江戸時代初期に八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟、豊臣秀吉の猶子となった後に宮家を創設)によって草創され、二代智忠親王によって完成されました。智忠親王の正室は加賀藩主・前田利常の娘富子で、その経済的なバックアップも大きかったと思われます。創建以来、火災に遭うことなくほとんど完全に創建当時の姿が今日に伝えられている稀有な歴史遺産で、総面積は6.9万㎡にわたります。1964年に景観保持のた
最後に、知られざる月の館「桂離宮」で取り上げるのは、やはり月に関する事になるが、その前に御殿三棟の奇跡の成り立ちについても触れておきたい。桂離宮が造営された下桂は「源氏物語」松風帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったとされている。平安時代1018年、藤原道長の山荘「桂家」が営まれ、以後、この周辺は藤原氏長者が引き継ぐ。室町時代1535年、下桂庄は近衛家の所領になり、1573年、桂川西岸一帯は細川幽斎の支配に入る。安土・桃山時代1585年、古田織部、子・重嗣が支配するが、
八条宮家の別荘として造営された桂離宮は、『源氏物語』松風の巻の「桂殿」のモデルになったと伝わる、藤原道長の桂山荘の故地で、それを意識していると言われている。又、智仁親王は幼少から学才に優れ、早くから細川幽斎に歌道を学び、譲位の一件以後は、『万葉集』『古今集』『源氏物語』など古典文芸へ深く没頭する。『源氏物語』第21帖少女で登場する姫君を住まわせた六条院、春の町に紫の上、夏の町に花散里、秋の町を中宮、冬の町に明石の御方。庭園には草木が無数に植えられ高い築山と広大な池を有し、池は隣
いつまでこの暑さが続くのだろう。昨日の気温は37℃、今日も明日も、昨年までは服装や暑さ対策して昼間の撮影をしていたが、今年はともかく外に出ると熱気が凄く、全くそれらの対策では歯が立たない。一時間程撮影すると確実の茹でタコになってしまいそう、ウィリアム・バロウズ風に言えば茹でカバ(´艸`)。今回も先日覚えた灼熱地獄を快適に過ごす戦術、優れた機材、スタッフで京都の名所を捉えたNHKのDVD紹介、要するに「人の褌で相撲を取る」事にする(´艸`)。発行は2010.1、知られざる月
「泣きたくなるほど美しい」桂離宮に行ってきました。おすすめします!
「泣きたくなるほど美しい」桂離宮に行ってきました。続きです。
「泣きたくなるほど美しい」桂離宮に行ってきました。
【食育クイズ:Vol.1299】「京都府」の「八条宮家」おさらいクイズ!江戸時代初期、八条宮家の初代、二代目親子で造営した山荘名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,029円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,10
戦国時代に、当代随一といわれた文化人細川幽斎その幽斎が伝承にかかわった「古今伝授」にまつわる物語を紐解き当時、命を懸けて戦をしていた武将たちがその戦の勝ち負けを超えて大切にしたものについてお話したいと思います♪ご視聴いただけたら嬉しいです♪【日本史】細川幽齋に学ぶ「武士の誇りより大切なもの」https://youtu.be/eUbSFVHfTrk
…桂離宮の造営に着手した八条宮家の初代親王は?ブルーノ・タウト松琴亭月破楼月見台桂棚八条宮初代親王は、智仁(トシヒト)親王で桂離宮の創始者である。智仁親王は和歌に精通し、細川幽斎より古今伝授を受けた。ブルーノ・タウトはドイツの近代建築家。当時、高まりを見せていた表現主義運動の中で文筆を通して意欲的に活動し、昭和8年に日本に招かれた。タウトは、桂離宮や伊勢神宮をはじめ日本の古典建築の美を再発見したとされ、昭和14
昨日は「端午の節句」の「こどもの日」だったし、ちょうど二十四節気の「立夏」でもあった。我が家も現在は、息子が幼いころに飾っていた〝兜〟が玄関に置かれている。今日の午前中は、主催している京都新聞の販売所から招待券を頂けたので、相国寺承天閣美術館で開催中の「王朝文化への憧れー雅の系譜」展に出掛けていた。数多くの今回の展示物と、金閣寺(鹿苑寺)の茶室「夕佳亭」の実寸大の展示などの常設展示をゆっくりと見て回ったら、知らぬ間に1時間半ほどが経っていた。テーマが王朝文化だか
いつも拝見している関東方面の方のブログで、すでに蠟梅が綻びだしたとの記事を目にして、京都御苑の蠟梅を確認しに行ってきた。御苑の蠟梅は殆どが若いので、開花したとしてもそんなにも目立たない。最も早い宗像神社北の蠟梅は、近づいてみなければ確認できない。まだ綻び出したばかりなので、蕾も花も小さい。この近くの出水の小川にも数本あるので。。。出水の糸桜は開花した時は大きく華麗な姿を見せるが、この時期は隣の百日紅の方が迫力ある。僅かに蕾は確認出来るが、葉が残っている時はまだまだで、
【訳アリ映画伝説】映画『ノストラダムスの大予言』封印事件エキサイトニュース2020年7月21日、ルポライターの五島勉(ごとうべん)氏が6月16日に誤嚥性肺炎で死去したことが報じられた。五島氏と言えば、16世紀に実在した...李登輝氏、14日に火葬産経ニュース【台北=矢板明夫】台湾の総統府によると、7月30日に死去した李登輝元総統が今月14日に火葬される。PR.生前に通った台北市内の教会で、牧師...安次富長昭さん(90歳)死去戦後沖縄美術界をけん引47NEWS
京都検定3級合格に伴い、2級、更には1級合格に向けて勉強すべく、家事の合間を縫って出来る限り自ら出向き、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚をもって学びたいという思いから、京都プチ1人旅を始めましたちなみに過去の合格率は(その年によって違いますが)3級合格率50~60%前後2級合格率30~40%前後1級合格率3~10%前後です!1級はかなりの難関ですね😱2020.6.14今日は、桂離宮に行って来ました❗️今回も、1人旅ではなく4人旅♪コロナ禍で公開中止にな
京都文化の建造物を代表するひとつである桂離宮。嵐山から流れの名前が変わる大坂方面の、桂川沿いにたたずむ。この建物はいわゆる別荘。初めて造ったのは江戸時代初期の後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王。その奥さんが丹後宮津の城主京極高知の娘さん。天橋立の松の景色を庭に取り入れている。右端にイラストが見えますね。現物の写真はこれです。少しわかりつらいですが。敷き詰めた、石の先端に灯篭を据え灯台に見立て海を演出。その先に中島と石橋をつ
毎年ついつい観てしまうのが箱根駅伝。苦しみながらもいろんな想いを胸に頑張って走る姿をビールを飲みながら・・・考えてみれば不謹慎な話ですね(汗)まぁでもスポンサーがビール会社ですしねぇ。さて、昨日の問題ですが、やっぱりすぐに解答が出て来ちゃいますね。皆様さすがです。風姿花伝さん、菊蔵さん、YUMさん、新宮有貴さん、コメントありがとうございました。長岡天満宮でした。この一枚の写真は八条が池の畔に建つ錦水亭です。昔は時代劇の撮影で、江戸の上野池畔のお茶屋という設定で良
皆様こんにちはまごころ庵です昨日は初めて行ったところですがとても落ち着く良いところを見つけましたので紹介します熊本県水前寺にある成趣園(ジョウジュエン)とてもよかったんです水も綺麗で長寿の水として有名だそうです私が周りたかったところは古今伝授の間香梅出水神社でしたので初めに出水神社に行きました細川家の代々の当主をおまつりする出水神社は、商売繁盛、無病息災、縁結び・良縁のご利益があり、周りには綺麗な湧き水があるという事で、自然のパワーを頂けるパワースポットでもあります
皆さま、こんにちは。全然、記事を更新できないでいるにもかかわらず、お読み(お立ち寄り)いただき、ありがとうございます。先週の続きです。今日のテーマは、《誠信の交わり》(by*雨森芳洲)です。──が、その前に。京の冬の旅(非公開文化財特別公開)では、対象の寺院に拝観する度にスタンプをいただけます。そして、スタンプが3つ集まる毎に、最寄りの喫茶店やお菓子屋さんで「ちょっと一服」のサービスを受けることができます。先週、2箇所拝観させていただきました。折角なので──。ならば、もう1箇
相国寺慈照院■臨済宗相国寺派■御本尊:十一面観世音菩薩■京都市上京区相国寺門前町703今出川通烏丸東入ル北側1405年に相国寺の在中中淹によって創建され、当初は大徳院と称していましたが後に足利義政の墓所(香華所)となり義政の戒名に因んで慈照院に改められました。江戸時代初期に八条宮智仁親王(桂宮初代、一時期豊臣秀吉の猶子となる、細川幽斎に和歌を学び古今伝授を受けた)と関係が深まり、桂宮家の御学問所が建てられ後に書院として下賜されました。*******************
先日あみぐるみ教室の前に長岡天満宮にお詣りしてきました〜朝早かったこともあり人も少なくゆっくりお詣りです菅原道真公は生前によく在原業平ら貴族たちと一緒に詩歌や管弦を楽しまれた縁のある場所道真公が太宰府へ左遷された時に、この地に立ち寄った際、「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残りを惜しまれたと言われています。その由縁もあって、後に道真公の自作の木像をお祀りしたのが由来とされています。1638年(寛永15)には八条宮智仁親王によっ
14時50分、桂散策を終え、桂離宮へ戻ってきました。ここで桂離宮について簡単に説明します。八条宮家初代の智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王二代に渡って、約五十年の間に三次に及ぶ造営によって完成した江戸初期の代表的な離宮。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが「日本建築の世界的奇蹟」と絶賛したのは有名。桂川から水を引いた池を配した回遊式庭園、書院、茶室、御殿からなる。今回は簡単すぎましたな。一応京都検定一級の小論文の問題の一つが桂離宮についてだったので、書こうと思えばけっこ
こんばんは。毎年たけのこを買いに行く時期にお参りする長岡天満宮にやってきました。参道に咲くキリシマツツジが見ごろでした。江戸時代の初め、正親町天皇の孫・八条宮家初代・八条宮智仁親王により、灌漑用に造られた池ということで、この池は「八条ヶ池」と呼ばれています。桂離宮の造営でも知られていますね。菅原道真公が大宰府へ左遷される途中に立ち寄り、名残惜しんだとされるところです。神社・仏閣と花との組み合わせの正誤の問題としてよく出題されている印象です。《過
4月21日(土)、長岡天満宮のキリシマツツジを見に行きました。参道のツツジは樹齢約100~150年。写真の女性よりもはるかに高く、2mぐらいありそうです。満開のツツジは真っ赤に燃え盛り、強いパワーが伝わってきました。キリシマツツジは九州に自生する、ヤマツツジと深山(ミヤマ)ツツジの交配種で、江戸時代の寛永年間(1624-1644)に薩摩で作出されたそうです。祭神は菅原道真。大宰府へ左遷される前、長岡に立ち寄って自作の木像を祀ったのが、長岡天満宮創建の始まりです。
平成29年(2017年)11月19日(日)、岡山城の見学を終えた私たちは、後楽園へと向かったのですが、今回は、前回の宇喜多直家のお話に続き、その子の宇喜多秀家のお話をさせていただきます。(岡山城/天守)◇宇喜多秀家前回お話ししたように、宇喜多直家が亡くなった後、宇喜多秀家は織田信長から本領を安堵され、家督を継ぎました。その後、信長の命で、宇喜多勢は羽柴秀吉の傘下となり、備中高松城攻めに参戦します。そのとき、宇喜多秀家はまだ10歳と幼かったため、叔父(直家の弟)の宇喜多忠家が
おはようございますaromaderenatiです✨熊本の事を少しでも体感したくてお誘いに乗って訪れて前準備では見えなかった事に最初から驚きの連続でした✨古今伝授の間古今伝授の間についての詳細はこちらです「古今伝授之間」は、元々、約400年前に京都御苑の八条宮家(のちの桂宮家)の中に建てられ、幼少の八条宮智仁(としひと)親王(桂宮)の御学問所として使用されていました。独特の形が目を引く「火燈窓」の前が親王の学習机となっていたようです。慶長5年(1600)に、細川家初代・幽斎公(細
桂離宮は、後陽成天皇の弟、八条宮智仁親王によって別荘として建てられたのがはじめです。智仁親王の没後荒廃していたのを智仁親王の息子智忠親王の時に復興、増築し完成。ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが桂離宮の古書院月見台などについて「泣きたいほどに美しい印象」と言って、「永遠なるもの桂離宮」と称賛した美しい離宮です。ちなみに、智仁親王は一回豊臣秀吉の養子になって、鶴松が生まれたときに養子縁組解消されて、秀吉の支援を受け八条宮家を創設、初代となったという経歴。朝、整理券をゲットしたとき