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22/師走18本日で、鎌倉殿十三人スペシャルでお仕舞い、来年は卯年大河ドラマどうする家康駄作だとしか云いようがない、数十万余兵で敵を取り囲み大将北条が苦悩している間に敵が苦悩して自殺してくれる、みーんないい人にする為の妙なドラマであり、戦中に敵と子供マンガみたいに喋りまくる御味方衆乖離した、“示しのつかぬ“物と見てる、代理方方は実際に行われた印象操作と、棄て置き残った、天皇(上皇法王)が、陣だてを呼びかけて命令指揮を取ったと“考えるのは“、陛下の御こころからすれば
源頼朝が鎌倉を本拠としたかですが、その父義朝が坂東支配の拠点にしていました。源頼朝の父義朝が平治の乱に破れ、鎌倉に逃亡する一行の中に上総広常はいました。上総広常は8男でしたので、介八郎広常と呼ばれています。頼朝の父義朝に付き従う武将でした。頼朝は平家の将軍大場景親と石橋山の戦いに破れ、上総下総のに向かい、上総広常は家臣となります。二万の大軍を率いる広常に対して、頼朝は遅参したことを咎めます。広常は頼朝に対して武威を示すつもりがあり、自らの主君として見合わなければ、首を
一首坂?ちょっと変わったような恐ろしいような旧跡ですが、平安時代中期の前9年の役合戦で源義家と阿部貞任が合戦のさなか歌を詠み合った坂といわれています。まさにここにも八幡太郎伝説ですねなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【一首坂八幡太郎(源義家)と阿部貞任の和歌競演奥州市衣川村】を参照願います。
新宿山ノ手七福神の厳島神辨社・辨財天ですあれ?抜弁天どういうこと?あぁ、通称が「抜弁天」様なんですね。厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)は、東京都新宿区余丁町にある神社である。祭神は市杵島姫命だが、これが仏教の弁才天と習合したため、新宿山ノ手七福神の弁財天を祀る神社として知られる。通称抜弁天(ぬけべんてん)。応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営した。この地はこの地域で最
古殿町の八幡神社は、康平(こうへい)5(1062)年鎮守府将軍源頼義・義家親子が東夷(とうい)追討の際、逆徒強大にして官軍一たび利を失い、この地にあった時、京都男山八幡に祈誓した甲斐があって賊を退治することが出来たことがあり、その後、康平7(1064)年社を建立したと伝えられています。現在でも、八幡神社の神事として、流鏑馬が行われます。鳥居の前には、見事な狛犬が鎮座しています。名工小松寅吉の弟子で小林和平の作です。躍動感あふれる飛翔狛犬が大イチョウをバックに出迎えてくれます。色づ
「後三年の役」八幡太郎義家は石清水八幡宮で元服したみなさん、おはようございます昨日の天気予報は雨の予想でしたが午後の1時間だけ雨が上がりました風の神様、シナツヒコ様に感謝です新しい1週間の始まりですさあ、今日「11月14日」の國史を学びましょう「後三年の役、終了」寛治元年(1087)平安時代の後期前九年の役の後奥羽地方(陸奥・出羽)を支配していた清原氏の内紛を陸奥守の八幡太郎義家(源義家)が清衡を助け平定しました源義家は石清水八幡宮で元服
額取山は、安積山とも言われ、『安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心を思はなくに』と、万葉集にも詠まれた山で、山の名は、八幡太郎義家が元服の儀で額髪を剃ったことに由来するといわれている。郡山から湖南へと抜ける道路の最高点、御霊櫃峠から大将旗山(1,056m)を経由する尾根歩きルートが一般的で約1時間30分かかる。峠の駐車場から、西側には、猪苗代湖が見える。反対側には郡山方面が見える。すぐそばに見える第1のピーク、広い登山道が見える。第1のピークまで登ると、視点が上がり、猪苗代湖の
またまた間に記事挟んでしまい、放ったらかしの茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮の続きです御神木の大銀杏🌳樹齢1000年以上で神奈川県指定天然記念物八幡太郎義家のお手植えと言われています厄落としのかわらけ投げ淡嶋神社祭神淡嶋神少彦名命淡嶋神社の由緒書と癌封じ石拝殿鶴嶺八幡宮は、長元3年(1030年)に源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して、懐島八幡宮を創建したことが始まりとされています寛治3年(1089年)源頼義の長男義家が現在の浜之郷に社領を寄進し
9月4日早朝から鎌倉殿の13人のゆかりの地巡りをしています体力もそろそろ限界😵と思いつつ、歩ける距離に鶴嶺八幡宮が有ったので頑張って歩きます🏃🏃🏃茅ヶ崎鶴嶺八幡宮の一の鳥居かなり大きいですそして、ここからが大変でした😵参道が長い長い…歩けども歩けども拝殿近くに辿り着けません😱どうも参道の長さは1キロ有るようです参道は車道にもなっているので、写メは出来ませんでしたが、参道脇の松並木が見事でした🌳途中には馬頭観音の石仏🐴約15分いや、20分は掛かったかなぁ〜社号標まで辿り着き
源義家がわかりやすいのかそれとも八幡太郎義家がわかりやすいのか?福島県いわき市の勿来の関におわす象です。これだけのネームバリュウがありながら大崎で像をまだ見ていません。(関西地方には多いのかな??)いやそれともこちら源氏の頭領といったほうがわかりやすいのでしょうか??歴史的には良く出てくるのですが映画やドラマではちょっと少ないのかな?だいぶ前になりますがNHKの大河ドラマ(炎立つ?)の一部には登場していましたね。源氏といえばやはり今流の頼朝でしょうか?大崎では義家が花渕山を駆け上ってやだ
和田塚から由比若宮に移動です。徒歩15分ほどでしょうか?源義家手植えの松義家は八幡太郎です。頼朝・義経の先祖です。境内由比若宮由緒由比若宮は、1063年に源頼朝の祖先・源頼義が創建した神社。頼義が「前九年の役」で安倍氏討伐のために東北へ赴く際、京都にある石清水八幡宮に勝利を祈願した。戦に勝利した頼義は、感謝の意を込めて祭神を鎌倉へと勧請するために由比若宮を建て、これを源氏の守り神とした。その後、1180年に源頼朝によって、由比若宮の祭神を現在の鶴岡八幡宮へと移したため、由比若
今日は羽曳野市にある壺井八幡宮に行ったお話を書きます。壺井八幡宮の鳥居を車でくぐります。すぐ右側に駐車場ありました。清泉壺井車で道を上がっていくと駐車場があります。ここからだと階段上らずにお参りできます。せっかくなので下の駐車場に車をとめて階段を上ってみました。階段の途中で黒い小さなカエルと遭遇しました。上った階段右側に大きな木がありました。楠です。とても大きくて包まれるような不思議な感じの木でした。壺井八幡宮です。左側横の道から隣へお寺っぽいですが
やれやれ、猛暑の中送り盆だ。迎え盆には台風で、送り盆には酷暑。仏様もご自分の生きていた時代との違いにビックリコだよね!お帰りに際しては①茄子と洗ったお米のお土産②棚瓜③簑と笠とお団子④パタパタセット(茄子のあられに萩の葉)⑤お米とお茶(実家では塩も)⑥金花をお持ちになる。無縁さんにも同じ物をご用意。金花だけは家の仏様だけ。お盆中飾っていた花を石塔に上げる様に準備して(花の元を井戸端で洗って丈を詰める)お水と線香を持って送り出し。お墓に送って行ってる間に仏間の全ての飾りを片付け
東京都足立区のまちなかにある白旗塚古墳です。ちょっと珍しいのでないでしょうか。名前の白幡は平安時代に源氏の頭領と言われていた八幡太郎義家がここで源氏の旗を立てたとの言い伝えで白幡の名前があるようでです。まさに東国の源氏ですね。ここは下記地図によると隣はすぐ埼玉県のようです。埼玉県は東国においては古墳の宝庫と言われています。なおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【白旗塚古墳東京都足立区】を参照願います。
武蔵七党の騎西党も崇拝した越谷・久伊豆神社創建は不詳だが平安時代の中期には武蔵七党の一つで元荒川沿いに勢力をふるった私市(騎西)党の崇拝を受けて庇護され、江戸時代には徳川将軍家から崇拝されて鷹狩りの際に立ち寄られたとの記録がある様で、葵の紋が入った金具がついていました何度か参拝していますが参拝が初めてと云う山仲間を誘って行きました---------------------------------------------------------------
鎮守の森に囲まれた八雲神社へ来ました。木々に囲まれた境内は、いつ来ても落ち着きます。スサノオノミコトを祭神とする八雲神社は、河内源氏・源八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が京都祇園社(八坂神社)の祭神を勧請し祀ったのが始まりと伝えられています。河内源氏といえば武家の棟梁で、八幡太郎義家は源頼朝の4代前の祖先です。宝物庫には神輿が。御神木御朱印をいただきました。
源氏の身内争いが戦国時代を招いた?|千世(ちせ)|noteご先祖を辿られるなかで、どうしても史実と重なる部分もあり、その時に触れられる歴史が、簡潔で秀逸な筆致でまとめられています。ご自分のご先祖が岡山県の八幡神社の氏子である事から、源氏の血筋が後に「室町幕府」を創建した足利氏に繋がるという事を、わかりやすく知る事ができます。私もずっと以前に、何かの本で知った時、「へぇ~!」と感心した記憶はあり、その時はあ…note.com
日本の食卓ではお馴染みの糸引き納豆は偶然の産物である。源頼朝や源義経の先祖にあたる源義家(みなもとのよしいえ:通称八幡太郎義家)が前九年の役や後三年の役などで度々奥州征伐に赴いた際、軍馬の飼料として煮た大豆を藁で編んだ俵に詰めて馬の背に載せて運んでいたがある日煮豆が腐って糸を引いてしまったという。その糸を引いた煮豆を兵士たちが試しに食べてみたところ意外といけるということで八幡太郎義家に献上され、以後糸引き納豆が兵糧になったと云われている。藁で包んだ煮豆と馬の体温が納豆の発酵にちょうど良かっ
徳川家康は、元服してからは松平元康と名乗りました。主君今川義元から、『元』の字をもらいました。桶狭間の戦いで、今川義元が討ち死にした後は、独立しと徳川『家康』と名乗ります。一説によると、源氏のカリスマ八幡太郎義家から、『家』を取ったと言われます。徳川家康の家臣で、関ケ原の戦い勃発時に伏見城で大軍を食い止めた鳥居元忠も今川義元から偏諱をもらっていますが、こちらは改名せず、終生『元忠』のままです。徳川家康の息子秀忠は、豊臣秀吉から『秀』をもらいますが、二代将軍を継承後
=ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、5月16日の記事の続編で東京都文京区白山の『白山神社=境内社』です。最寄駅は都営地下鉄三田線『白山』。参道は3本ありますが今回は駅から一番近い東参道から参詣します。A3出入口から徒歩2分石造りの大きな明神鳥居が現れます。鳥居をくぐると境内に続く階段と
壺井八幡宮河内国古市郡大阪府羽曳野市壺井605-2(一の鳥居脇にP有り)■延喜式神名帳飛鳥戸神社名神大月次新嘗の論社大祁於賀美神社の論社■祭神誉田別尊仲哀天皇神功皇后[配祀]玉織姫武内宿禰[摂社壺井権現社]源頼信・頼義・義家・義綱・義光河内源氏の本貫地に建つ社。南方すぐに源頼信・頼義・義家・義綱・義光の墓があり、社家も八幡太郎義家の六男、義時の子孫。武家らしくとても勇壮な造りに。◎前九年の役にて戦勝した源頼義が凱旋、私邸の横に社殿を設けたのが始まりとのこ
川柳のことその4前回五七五と詠んで七七と答えるパターンは紹介しました✌️今回はその逆バージョン七七と詠んで五七五と答えるパターンです😮~♪😮~♪このパターンも珍しいけど、大昔からあったと思います🤔ただこのパターンの方が難しいのは確かです😅先に答えを出して、この問題を考えろ!と言ってるような案件ですから😓一種の大喜利に近いです😂で例として、多分記録に残ってるのでは比較的古くて、しかも有名な合作の和歌を紹介します┏○ペコッそれは平安時
茅ヶ崎にある鶴嶺八幡宮応徳2年(1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進し、懐島郷の隣の浜之郷に鶴嶺八幡宮を創建した。この時期に元八幡の旧社であることから懐島八幡宮は本社宮と改称したという。鶴嶺八幡宮限定御朱印1⃣御朱印その2️⃣龍神様が描かれています。座敷わらしの御朱印もありました👘今度は、ゆっくり行ってみたいです。
4月9日(土)③こんにちはコバルトアユです。前回の続きです。引き続きよろしくお願いします。(写真:地元の人々が『下大倉(しもおおくら)の桜』とも呼ぶ外大野のしだれ桜=9日大子町外大野)11:30ラン再開。次は、山桜の群生地を見に行く。11:32「沓掛峠の山桜」への分岐点本日のヤマ場ここから険しい山道1km登った。11:41峠に到着。場所大子町大生瀬地区種類ヤマザクラ見頃4月中旬駐車場あり、50台トイレあり(簡易トイレ)沓掛?「くつかけ」と
とかく日本では源平でいうと圧倒的に源氏の人気が高い。源義経の人気なのか、平安時代末期の平家の横暴?(風聞だが)「平家にあらずんば人にあらず」なのか。私は以前より平氏贔屓です。育った伊勢は平維衡を祖とし平忠盛、清盛親子につらなる伊勢平氏の基盤。清盛の父忠盛は近所で生まれ忠盛の胞衣塚や産湯を使ったという産湯池などあるがNHK大河で「平清盛」放映中も誰も観光に来てなかった不人気を目の当たりに。大河の中でも不人気の視聴率7%※今の「鎌倉殿の13人」は視聴率14%程度。
神話カタリストたけみつです!神話カタリストとは?神話を伝える活動を始めてから、10年!”神話で在り方を整える”という本を出していただくことになりました。友人が素敵な紹介&販売サイトを作ってくれました。是非、一度、覗いてみてください!神話で在り方を整える紹介&販売サイト出版元と打ち合わせに京都にでかけました『神話で在り方を整える』イベントの話などしている途中から本の話そっちのけで大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の話になり、鎌倉の鶴岡八幡宮の話に八幡宮が
お花を見ながら春を感じて一つ一つのお花がみんなキレイ、みんなでキレイ。週末の世田谷散歩白鷺青空と白い花鎌倉殿の祖先八幡太郎義家ゆかり良い気持ちです。
八幡太郎義家が奥州征伐の折、戦勝を祈願して、風光明媚なこの地の岩塊に矢を納めたのが矢祭という名前の縁起といわれる。永承6年(1051年)あるいは天喜2年(1054年)に義家が安倍一族を討伐して凱旋する途中にここに立ち寄った。義家はその美しさに感嘆して背負った弓矢を岩窟に納めて、戦勝の報告と、武運長久を祈った。この弓矢を祀ったのが矢祭神社だといわれる。(新ふくしま百名山より)駅前の駐車場に車を停めて、土産物店の間から階段を抜けて、登山道へと向かう。鮮やかな朱塗りの橋を抜け、探鳥路として整備さ