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もうじき、端午の節句ということで男の子のいるご家庭では、健やかな成長を願い、五月人形を飾り、武者幟、鯉のぼりを立てているかと思います。ということで、今回は意外にも多い島倉千代子さんが唄う武士、戦を題材にした曲を年代が古い順にご紹介します。まずは、八幡太郎を題材にした「あゝ八幡太郎」八幡太郎とは本名を源義家(1039-1106)といい、平安時代中期から後期の武将で、後に室町幕府を開く足利尊氏、鎌倉幕府を開く源頼朝の祖先です。八幡太郎は文武両道の武将として知られ武者幟にもよく描かれます。こ
以前からチェックしていた飯野町、二本松付近の巨石を。過去にもいろいろ巨石探訪していましたが、久しぶりに行ってきました。桜に寄り添う巨石が良いです。桜が咲く里の風景。この森の中に大きな岩があります。阿武隈山系の山は巨岩がとても多いのですが、日常の風景の中にも巨石がたくさんあります。公園もあるのですが、今回は、里に映える巨石を。赤岩の伝説(看板より)「その昔、八幡太郎義家が木幡山(東和町)から石を投げて落ちたところがここ赤岩山だそ
連日の暑さで桜も葉桜になりつつあります。先週、やっとみられた駒桜へ。まだ今、ぎりぎり見られるかな~。かねてから行ってみたかった「巨石探訪」。桜ではなく、巨石がメインでしたが、久しぶりに飯野町~二本松をうろうろ。公園とかじゃない山里に映える巨石を探訪してきました。駒桜は最後にみてきたのですが、先に桜を。何度か春に登っている小手姫の女神山帰る時にいつも「駒ザクラ」の小さい看板はみかけていましたが、スル―してました・・・きっと、ただ、大きい・・だけの桜・・・なんでしょう。
おばんです😃🌃今日も1日お疲れ様でした🍀😌🍀母を皮膚科へ連れて行こうとした日訳のわからないことをブツブツ言って👵行かない、行きたくない意味不明な母と午前中いっぱいいて気持ちが⤵️暗〜くなってた私を相方がドライブに連れて行ってくれたうとうと(-_-)zzz寝てたら🚙着いたのは相馬の涼ヶ岡八幡神社去年も連れて来てくれたけど桜が終わった時期だったので今年は咲き始めの良い季節に🌸朱塗りの橋が風情ある立派な錦鯉もいっぱいいた満開ではないけどそれがまた佳き🌸前九年の役だか何
娘が今沼にどっぷりハマっている「剣詩舞」(わっかるかなぁ❓)で入門している一同と某所のコミュニティセンター祭りに出場したので見物がてら応援に行きました😊演目は・信長出陣桶狭間への出陣の直前に信長が一差し舞ったという幸若舞“敦盛”(♪人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり)が流れる中で踊る。・勿来関(なこそのせき:奥州と坂東の境)かの八幡太郎義家(源義家)が後三年の役の帰りに勿来関で詠んだという有名な短歌、「吹く風を勿来関と思えども路も狭に散る山桜かな」に合わせて踊る。・
2月15日の歴史応神天皇ご命日15代天皇応神天皇(誉田別尊)310年(応神天皇41年)2月15日お亡くなりになりました数え年で111歳まで生きられたとか!!応神天皇は源氏の氏神様であり武神として八幡大明神八幡大菩薩と信仰された神様京都源氏ゆかりの八幡様岩清水八幡宮源義家(八幡太郎義家)が7歳の頃石清水の社の前で元服義家は武士で初めて昇殿した人物若宮八幡宮旧鎮座地に残る社六条醒ヶ井六条は源氏の堀川館や屋敷が多くあった地
主人が昨年の11月末頃に参拝へいったら、紅葉がきれいですごい神社を見つけたと言ってました。それから1年。またその八幡神社へ行きたいとなり、参拝へ行きましたら、とても広い境内で、あまり東北にはないほどで、八幡神の中では、かなり良かったんです。それもそのはず、奥州征伐で安倍一族を倒した源頼義、義家の父子が創建したと言われ、「前九年の役」を父:頼義とともに平定した源氏。本気だった!源氏の氏神を祀る八幡様でした。川越にいったばかりで、この流れ。坂東武士ですよ~。しか
10分でわかる奥州安達原上はこちら▶︎これまでの登場人物そこへ平直方の上の娘、袖萩が訪ねて来ました。妹の敷妙と違い、ぼろぼろの身なりです。袖萩はどこの人とも知れない男と駆け落ちしたため、勘当の身となっていたのでした。さらに、彼女はその夫にも捨てられ、泣きあかしてホームレス同然の生活を送っているうちに目が見えなくなってしまいました。袖萩は十一歳になる娘のお君に助けられながら暮らしていました。
10分でわかる奥州安達原その昔、安倍頼時は源氏に戦いを挑み、敗北しました。戦で命を奪われた安倍頼時。彼の二人の息子「安倍貞任」「安倍宗任」はその仇を返そうと復讐を企てています。さて、天皇家の環の宮が何者かに誘拐され、環の宮の護衛の平傔仗直方は妻と共に環の宮のいない御殿を守っていました。宮を誘拐され、未だに宮の行方を突き止められない直方は責任を問われ、期限までに環の宮を見つけ出すことができ
風と雅の帝[荒山徹]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}南北朝時代、鎌倉幕府末期の持明院統、光巌天皇の物語です。大覚寺統は後醍醐天皇。天皇親政を取り戻すべく暗躍する後醍醐天皇の陰で、両統迭立の約束事を盾に正当性を主張する北朝側のやるせなさが伝わってきます祭祀王としての天皇。よって自らの手を汚すことなく祈ることで政を行おうとし、汚れ仕事は武人に任せることをよしとする風潮。武家を下に見つつも、天皇家から別れて武家になった源氏にはシンパシーを感じる(
10月23日の歴史源義家が武士としては初めて昇殿を許可される源義家(八幡太郎義家)後三年の役から10年後正四位下に昇進し10月23日には院昇殿を許された武士として初この10年間色々とあったみたいですがこの昇殿は結果は後三年合戦(内紛)をおさめたからやねんけど10年は長いですね義家60歳になってしまってます院昇殿を許されましたが役職=前陸奥守ままで昇進することはなかったそうです奥州での戦い義家の孫の孫である義経は奥州に援助されてる頼朝は欧州を攻め
宮城県仙台市にあります。御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)。神功皇后(じんぐうこうごう)。武内宿禰(たけのうちのすくね)です。村田町境に近い場所にあります。仙台市街からでも混み具合ですが、車で20〜30分かかります。仙台市で一番古い八幡神社とされています。仙台市には大崎八幡宮という大きな八幡神社がありますが、こちらは御朱印が素敵で参拝者が多い神社です。自分も定期的に参拝させて頂いています。さてこちらの神社は少し高台にあります。車で近くまで行けますが、下から
”NHK大河ドラマ武田信玄”セリフでの”武田は源氏”がきっかけとなり武田氏のご先祖を遡り”新羅三郎義光”まで行き長兄の”八幡太郎義家”から源氏の祖、”源経基”まで遡った。そこから時代を下り暇があれば古本屋、図書館で歴史書を読み漁った。父系の祖が”大江匡房”らしいのに源朝臣を戴けたのは謎である。前九年後三年の役あたりで頼義、義家親子と何か関りがあったのか。カートさん、そんなに年は変わらないけど大分老けましたね。
(昨日の続きで)大阪くらしの今昔館を見学中。江戸時代の地図です。ちょっとしたセミナーもあります。では、8階で、モダン大阪パノラマ遊覧を拝見します。明治17年の、西洋館が建ち並ぶ、川口居留地。昔は、堺筋がメインストリート。昭和7年の、北船場の様子です。からくり錦絵がたのしい。見ていると、日本橋がどんどん賑やかになっていきます。天神祭のミニチュアは、見ていて飽きません。昭和2年の心斎橋筋商店街が、どこか懐かしい。明治45年の新世界。通天閣とルナ
9月は堅破山(たつわれさん)と黒前神社を巡ります❣️暑い8月皆さんはいかがお過ごしでしょうか?9月のさとやま会は花園花貫自然公園内に位置する堅破山(たつわれさん)標高658mに登ります。登山道には数々の畳石、太刀割石等の巨石群が点在し、頂上直下には黒坂命(くろさかのみこと)を祭神とする黒前(くろさき)神社が祀られています。今回は、道の駅ひたちおおたに8時40分までに集合し、分乗乗合せで堅破山登山口駐車場まで向かいます、約50分の行程です登山マップ・催行日時9月
八幡総本宮、なのがこちら宇佐神宮です。八幡神社は国内最多。この稿ではお詣りの記録をとりあえずまとめます。本当の玄関口を外してしまいました。昔の門前へ進入しました。中国、呉の人が作ったので呉橋・・さっそく和気清麻呂さんの歌登場ですね。こちらの神託を知らせて道鏡の皇位継承を阻止したことで知られます。(奈良時代)空がとっても青いから・・左右一対鉄鳥居の礎石。有難いんでしょう
大阪くらしの今昔館で、天神祭の御迎え人形が5体も展示されているということで、さっそく行きました大阪くらしの今昔館企画展天神祭と都市の彩り写真OKでうれしい~入って正面に御迎え人形の羽柴秀吉なかなかの男前この羽柴秀吉は、歴史上の人物ではなく、芝居に登場する人物を模したものだそう。江戸後期~大正時代の人形だそうです豪華絢爛な着物金糸の刺繍がすごくて、見ていて飽きません次は、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)平安時代後
こんにちはドラゴンチャネラーTSUNAGUです。今朝久しぶりに実家近くの穴八幡宮参拝しました。⛩️🙏穴八幡宮と言えば一陽来復で有名ですね。🤔創建は約1000年前で、かの八幡太郎義家が祀ったのが起源と言われています🤔以降、徳川三代将軍家光公の庇護のもと江戸屈指の大社として、現在に至っています🤔あと江戸城に通じているとの伝説の抜け穴、穴八幡の名前の由来となった神穴でも、よく知られている名所です⛩️🙏ドラゴンチャネラーTSUNAGUでした!🐉🙏
『八幡太郎』一、こまのひづめもにおうまでみちもせにちるやまざくらかなしばしながめてふくかぜをなこそのせきとおもえどもかいなきなやとほほえみてゆるくうたせしやさしさよニ、おちゆくてきをよびとめてころものたてはほころびにけりてきはみかえりとしをへしいとのみだれのくるしさにつけたることのめでたきにめでてゆるししやさしさよ【尋常小学唱歌】◇八幡太郎は源義家の通称。(石清水八幡宮で元服したことから。)前九年の役では父頼義を助け安倍氏を
2日目2023.5.28けやき平キャンプ場→堅破山→大菅温泉にて昼食と日帰り温泉でまったりしてからバスと電車乗り継ぎ、帰宅のスケジュールでした鳥の囀りで4時40分には起床アルコールストーブでお湯沸かしして朝食深夜0時過ぎまでフェスの音やいびき、非常識に使い終わった荷物運搬で車のドア開け閉めする等、安眠妨害で寝不足我がシェルター内中央から脚部にかけては、ジッパーを開けて換気しても結露有り朝食後ぐだぐだしてから撤収、6時出発藪を抜けて
都内をうろついていると時折源氏縁の跡と出会うことがあります。源義家(八幡太郎義家)の旧跡が多いように感じます。あっちこっちで歓迎されたのですね。こんな様子などで関東が源氏の地になっていったのでしょうか!今回は東京都府中市にある平塚神社です。この平塚神社は源義家が東北の戦の帰りここによったとかあります。その鎧をここで埋めたので平塚と呼ばれたとか!そのほかにも言い伝えがあるようですね。なおアルバムや映像等は【平塚神社東京都府中市】を参照願います。大崎バックグランドメニュー歴史
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡埼玉県本庄市にある「東石清水八幡神社」へ行って来ました。八幡太郎義家公ゆかりです。手水舎建物と鳥居は江戸時代のモノ。青銅の鳥居は初めて見たかも。拝殿本殿社務所。人が常駐してます。にしてもは義家公は随分あちこち行ってますね。関東のそこら中にゆかりの寺社仏閣があります。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
さてさて……………【山の原ゴルフクラブ】を出発したココロが、到着したのは……………【多田神社(ただじんじゃ)】兵庫県川西市多田院多田所町1−1美しい青空【六孫王神社(京都府京都市南区)】、【壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)】とともに、「源氏三神社」のひとつだという『京勉会東寺エリア編③〜六孫王神社〜』さてさて…………【観智院】を出発したココロは、てくてく歩き次の目的地を目指した…………おお〜〜〜〜っ来た〜〜〜〜っ到着したのは……………【六孫王神社(ろくそん…ameblo.jpココロの【
【7/18①】この日は、『東京のへそ』を訪問。ん?東京のへそってなんだ?って方。「東京のへそ」と呼ばれる古代以来の聖地・大宮八幡宮の巡り方日本の神社と神様を巡る旅(第1回)|JBpressautograph井の頭線の永福駅から徒歩10分ほど。「ここが都内とはとても信じられない」と思うほど緑濃い森の中に、わたしが東京で一番好きな神社、《大宮八幡宮》がある。帰還して応神天皇を出産されたという伝承から、この神社は、安産、子育てにご利益があるとされる。jbpress.isme
八幡太郎義家公グラッチェ
第8話『一向一揆』では、松平元康が家康と改名します。改名にあたり、家康のセリフ「三河をひとつの『家』としたい。」は、完全なフィクションです。家康は源氏のカリスマ八幡太郎義家にあやかったと思われます。実母於大の方が再嫁した久松長家から、『家』を取ったとも言われています。継父から、偏諱を受けたとしたのかもしれません。後に家康の異父弟は久松松平と呼ばれます。一方で、この時代、柴田勝家、前田利家、吉川広家など、『家』は、流行りの一字だと言う人もいます。家康の名前に関するテーマで2018年
ああもうあれから一ヶ月。1月4日の足柄峠行きのお話は気になっていたのにアップできていませんでした。画像の整理もしたいので、いよいよ、こちらの続きとなります。『『足柄峠』へ!』(足柄山という山は無い?)0104』今朝は特に寒かった!最低気温マイナス5°Cと表示されていたけどわたしの体感では、10°Cは行っていた感覚。連日そのような朝を迎えるので、休みの日は暖かいところ…ameblo.jp『いざ、鎌倉!』へ各国の御家人が駆けつける『鎌倉道』は縦横無尽に作られていたけと、それら
下野國一社八幡宮宝性寺を後にしましてだんだんと足利市内に向かって行きますこれまた道路沿いの目立つ場所にありますキョロキョロして事故らないようにさっさと駐車場へ銅造鳥居足利市指定文化財の「クロマツ」源姓足利氏発祥の地社伝によると八幡太郎の名で有名な源義家が陸奥の豪族、安部頼時父子を討伐するため(前九年の役)当社付近の大将陣に宿営し、戦勝を祈願して現在地に小祠を創建し、山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請したといいます
おはようございます帰省6日目の12/28(水)茨城県・日立市からスタートして向かったのは勿来(なこそ)の関八幡太郎義家のゆかりの地一度訪れてみたいと思っていた歌枕です吹く風を勿来の関と思へども路も狭(せ)に散る山桜かな『千載和歌集』現在の勿来の関は遠くに潮騒が聴こえる山の上に有りました貸切状態で文学館も入念に見学凄く楽しくて大満足妄想族にはたまらん場所です〜実際に訪れてみて〜◎『千載集』の詞書に、「陸奥にまかり(伺っ・参っ・参上し)ける時・・・」とある◎貞任との和
新田義重の墓上野国の武将新田義重は、八幡太郎義家の孫。源頼朝が挙兵した時は、頼朝に対抗して軍兵を集めるなど鎌倉幕府創設に非協力的だったようです。そのため、新田氏は幕府での要職に就けなかったのだといわれているようです。ただ、八幡太郎に一番近い者として尊敬され、義重が亡くなって間もない時に蹴鞠をする源頼家を北条政子は「源氏の長老が亡くなって二十日も経っていないのに蹴鞠とは・・・」と叱責したのだとか。そして・・・徳川家康は義重を祖と称したのだといいます。