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『将軍地蔵』(そうめん地蔵)栃木県さくら市宇都宮氏の祖先宗円(天台座主)八幡太郎義家(1039〜1106)※源義家1062年(康平5年)安倍貞任宗任の乱;康平6年(1063年)、従五位下出羽守に叙任延久2年(1070年)、下野守※陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえた【『扶桑略記』8月1日条】;永保3年(1083年)、陸奥守※清原氏の内紛に介入、後三年の役が勃発寛治2年(1088年)、陸奥守を罷免(私戦に国兵を用い、官物の貢納を滞らせた為);承徳2年
鎌倉は、武家の都として、都市計画されたので、日本都市史に必ず登場します。平城京(奈良の都)や平安京(京の都)は、朱雀大路を中心に地図の左側が右京で、右側が左京です。朱雀大路の突き当たりが宮城です。鎌倉は、帝が住むわけじゃないので、朱雀大路に代わるのが、若宮大路です。その突き当たりに鶴岡八幡宮があります。鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を勧請しました。頼義の長男が、石清水八幡宮で元服した八幡太郎義家です。義家➡︎義親➡︎為義➡︎義朝➡︎頼朝になります。頼朝の長男が頼家、次男が実朝です。小学
免疫力アップに役立つ食品のひとつ『納豆』納豆の誕生話のひとつに平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)の戦い『後三年の役』で、八幡太郎義家が、阿部貞任、宗任を征伐すべく平泉付近に陣をしいて時に近所から集めた大豆を煮ている時に敵の奇襲を受けました。義家はせっかく煮た大豆を捨てるのはもったいないと、わら俵につめて馬の鞍背に乗せました。戦が終わり、大豆を取り出してみると納豆になっていたという話があります。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はじまりましたね真田丸以来のワクワクが止まらない菅田将暉の義経も楽しみすぎる源頼朝が奥州藤原氏を攻める以前にも、河内源氏と呼ばれる武家の祖、源頼義、義家親子が奥州の豪族へ侵略戦争を仕掛けておりました武士のカリスマ八幡太郎義家なんて呼ばれてますけど、ね、歴史上で賊軍なんて呼ばれた人々こそ、実は道理と仁義を重んじる本物の武士だったのかもしれません奥州藤原氏の前身奥州『安部一族』について、知ってもらいたいです続きはこちら奥州
こんにちは。【1日5組限定浜松市肩こり腰痛女性専用】おざき均整院長“オザミー”こと尾崎正文です。ブログにお越しいただけてありがとうございます。ごゆっくりお読みください。ご予約お問い合わせ方法は本記事の下にございます。最後までお付き合いいただくかスクロールして飛ばしてください。【ただいま自分メンテナンス月間中】『忙しい12月だからこそ❗️自分メンテナンスはお忘れなく‼️』こんにちは。【1日5組限定浜松市肩こり腰痛女性専用】おざき均整
三重県津市で六角形のエステティックサロンを経営しつつ、歴史をこよなく愛する香月ですみなさまこんにちは奈良も平安も戦国も幕末も明治以降も…どの時代も好きやし、なんなら最近ではその延長で中国の歴史にどっぷり足を踏み入れているくらいですが、そんな私が苦手な時代は源平の頃登場人物が複雑に交差して、しかも名前がほぼ一緒源にしても平らにしても、まーーーよく似た名前をつけるのは、親や近親者から一文字もらったりするから仕方がないのかもしれないけども、戦国のブリっとした一人一人の名前と違ってね(軽
趣味で能面を打って20年。今は近鉄文化サロン阿倍野能面打|講座の検索結果|近鉄文化サロン阿倍野大阪・奈良で健康づくりやお稽古ごとにチャレンジできるカルチャースクール。総合カルチャーセンター近鉄文化サロン|教室(講座)に関するお問い合わせは各近鉄文化サロンまで。www.d-kintetsu.co.jpで教えています能面パパです。見学のお問い合わせ、ご質問はサロンまでお気軽にお問い合わせください。ブログの文章は不肖、あるいは負債の娘が書いています。能面「若男」は、現在、目が開
10月24日飛山城を後にして帰る途中で、俺というやつはまた寄り道しちゃうのさ。栃木県真岡市「中村八幡宮」真っ直ぐに長い参道が延びる。例大祭ではここで流鏑馬(やぶさめ)が行われるそうな。その横には薬師堂。解説版にある「仏像は見るものでなく拝むもの」という言い伝えがいいですね。お堂の由来や地域との関連など、詳しいことは只今調査中とのこと。再び参道へ。やっと鳥居が見えてきた。中村八幡宮は白鳳四年(676年)に勅令で民衆安寧祈願のため諸国に造られた神社の
金龍寺から500m大光院の吉祥門義重山新田寺大光院は、徳川家康により、彼が先祖と仰ぐ八幡太郎義家の孫新田義重(新田氏の祖)を追善するため創建された寺院です。本堂です。弁財天の祠もあります。初代住職の呑龍上人は、芝増上寺観智國師四哲の一人で、寺領を割き、貧民の子を弟子の名目で養育したことから「子育て呑竜」と呼ばれ、現在でも厚い信仰が寄せられています。足元に第1位\(^o^)/さざえ堂から金山城、新田神社、金龍寺、大光院と巡ってきました。お腹も空きました万徳さん
甘縄神明神社は710年(和銅3年)の創建。鎌倉最古の神社と言われ、源氏ゆかりの社。1036年(長元9年)に相模守に任じられた河内源氏二代棟梁の源頼義は、その在任中に鎌倉を本拠としていた平直方の娘を妻とし、直方から鎌倉の地を譲り受けます。この時から鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となりました。八幡太郎義家氏神頼義の嫡男・義家は、甘縄神明神社に祈願して授かったのだと伝えられています。義家の誕生年は諸説あるようですが、1039年(長暦3年)が有力のようです。京都の石清水八幡宮で元服したこと
旦那さんが今日は休みで、子どもたちもコロナのためリモート授業で家にいました。私の仕事が終わったあとにちょっとドライブがてらに行きたかったところへ。「生鳥居」です。茨城県桜川市加茂部というところにある、「鴨大神御子神主玉神社(かもおおかみこかみぬしたまじんじゃ)」の一の鳥居。写真で見て素敵だったのでずっと行きたかった場所です。国道50号から細い田んぼ道を行くと・・・ありました!ヤバイ!思ったより良い!木が大きいです。のどかな田舎道。きっとずっと昔から変わりないんでしょうね地域
9月9日(木)17:10雨が降ったり曇ったり曳山の人形「北部丁内若者」で外題『後三年の役金沢(かねざわ)の柵』今の秋田県横手市、旧仙南村人物は「八幡太郎義家」&「鳥海弥三郎保則(とりのうみやさぶろうやすのり)」前九年の役(この頃は役ではなく、合戦と言っているようです)の後1083年ころ起こった一連の合戦清原一族の内紛に義家が介入。義家・清衡連合対家衡の構図。安倍貞任の家臣、鳥海弥三郎(貞任の弟?かも)は、16歳で参戦していた義家の先鋒、鎌倉権五郎景正(
源氏の本流「多田源氏」は「源頼光」以降に衰退します。代わって源氏の主流となるのが「河内の国」に進出した頼光の弟「頼信」の系統です。彼は河内の壷井(羽曳野市)を拠点としますが、当時関東を支配していた平氏の一族「平忠常の乱」に際して「追討使」となり、関東へ赴きます。頼信の子「源頼義」や孫の「義家」は「前九年の役」「後三年の役」で大活躍し「河内源氏」は、関東に根を張って行きます。壷井に来ました。最初は、源頼義が河内源氏の氏神として「石清水八幡宮」を分祀した「壷井八幡宮」です。頼義は、更
旧古河庭園からすぐ。街道沿いに緑の空間が見えてきます。そこには源氏の棟梁を祀る神社があります。◆平塚神社◆時は平安時代。朝廷は東北制圧に源氏を派遣します。そして、源氏と東北の豪族、安倍氏・清原氏と長年に渡る戦いが繰り広げられます。これが"前九年の役"と"後三年の役"です。参道の右側は月極駐車場、左側は町内の神輿蔵になっています。"後三年の役"の帰路に源義家・義綱・義光の三兄弟がこの地に逗留し、領主の豊島氏に厚いもてなしを受け、そのお礼
渋沢栄一の故郷は「血洗村」という、ちょっと凄まじい地名ですけど。平安時代、八幡太郎義家の奥州遠征のとき、腕を負傷した武将がここで血を洗ったから、とかいう、もっともらしい説話も伝わっていますが。こういう有名人が出てくる由来話は、たいてい後からこじつけた創作です。八幡太郎は弘法大師やヤマトタケルと並んで、神様ですから。どこの土地も「ウチはあの有名人に所縁のあるんだ」って自慢したがるものです。利根川が毎年のように氾濫するので「地荒れ島」と呼ばれていた所に、もっともらしい(カッコいい?)文字をあてた
令和3年4月27日参拝ここ飯坂温泉郷の中心部らしいのですがうそかえから流れてくる人もいなくて静か〜。いろんな意味でホッとします。「感覚をあけて」手水にも貼り紙。久しぶりに柄杓が置かれてるの見ましたが条件つきですお達しの通りに口はゆすがず、左手→右手→柄の部分、と使いました。さて、こちらどんな八幡さまかというと、天喜4年(1056)後三年の役で奥州へ出陣した八幡太郎義家が源氏の守護神八幡大神を勧請したことに始まります。現在の御祭神は誉田別命(第15代応神天皇)、相殿に息長足
23区にある数少ない、JRで降りたことがない駅「上中里」今回初めて降りてみた京浜東北線横は、湘南新宿ラインになります。よく運転していましたゲーム(電車でGO!)での話です今は息子が、まだまだ現役古いゲーム機にて運転しています駅舎改札口は、台地と下町の境界(際)にあります駅前の道を少しのぼり西ヶ原方面へ脇階段から「平塚神社」境内へそこはもう拝殿横へ平塚神社ご祀神は八幡太郎源義家命(はちまんたろうみなもとのよしいえのみこと)賀茂次郎源義綱命
坂東子供大人(の掃除)子供達に「レインボーブリッジやろう」と言われ出来てないぞ…。春日部子供チビッ子が多いと言うのもありますが、毎年この時期は何となく落ち着きがないですね。えー、少々口調も厳しくなってしまいます。大人うーん、女性率が高い。サムライの国に生まれた青年男子達よ!益々、女性達が強ってしまうぞ!加藤清正やら本田忠勝らが草葉の陰で泣いてますね。ふと、越後の名将上杉謙信の逸話を思い出しました。昔、京の町に「鵺(ぬえ)」という化け物が出没、町の人達は大変困って
三井寺と武田信玄さんの武田家は、ちょっとご縁があります武田信玄さんの19代くらい前のご先祖様・神羅三郎義光さんという人がいます。この人が甲斐守になった事から武田家が始まります。本名は源義光さん兄弟には、八幡太郎義家さん賀茂次郎義綱さんがいます。源義光さんは三井寺の神羅善神堂の前で元服をしたので「神羅三郎義光」と称しました。この神羅善神堂の前で元服しました。神羅善神堂の神羅明神は智証大師ゆかりで、三井寺の守護神として祀られています写真を見ていたらあったので、アップしてみました
平塚神社は、JR京浜東北線の上中里駅から、徒歩3分位の所にあります。平塚神社の御祭神は、八幡太郎源義家命です。平塚神社は平安時代、八幡太郎源義家公が奥州征伐の帰りにこの地を訪れて、領主の豊島太郎近義に鎧を下賜されたそうです。豊島は鎧を清浄な地に埋め塚を築いて、城の鎮守としたそうです。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれたそうです。そして、平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願っていたそうです。誕生日月だったので、「誕生日おめでとう」の印を押していただけました。北区の赤羽
前回はこちら「盆梅と刀剣展」の入口の梅の花です。「盆梅と刀剣展」の入口の梅の盆栽です。「盆梅と刀剣展」の入口です。入口の鶯宿です。大和野梅です。天下百間斬の等身大パネルです。左が加州清光で、右が天光丸です。八幡太郎義家です。八重唐梅です。二色接梅です。八重野梅です。鶯宿です。青軸野梅と黒松です。野梅です。野梅の隣の鶯宿です。続きはこちら
秋田県の横手の隣に後三年という駅があります。八幡宮の祭神で源氏の軍神である八幡太郎義家が活躍した千年前の戦い後三年の役にちなんでつけられた名前だそうです。その時、食料で集めた大豆が軍馬の上で発酵してできたのが納豆なんだとか。いずれにせよ、戦いの常おびただしい血が🩸流されたのでした。横手市には仕事の関係で何度か伺ったのですが、何故か行くたびに平泉、平泉、平泉に行けと言われているように感じるのでした。<続く>
【第3類医薬品】キヨーレオピンW240mL(60mL×4本入)[湧永製薬][ワクナガ][KYOLEOPIN]楽天市場6,949円河内(かわち)音頭大阪府民謡ここ大阪府にも「河内音頭」「堺住吉」「淀川三十石舟唄」「幡(はた)上げ音頭」「浪速の四季」「堀江の盆唄」「天満(てんま)の市」「高槻(たかつき)の水替え歌」「高槻音頭」「信太山(しのだやま)盆唄」「淀の川瀬」「天神子供囃子」「茶摘み唄」「ふる葉入れよと」「茶摘み唄」「焙炉師(ばいろし)の歌」「茶より唄」「四条畷(しじょう
(5時半の東京はもう炎天下)暑い日が続いている。東京都では8月16日、熱中症搬送者数が215人に達した。同日のコロナ感染者数が260人だから、高齢者にとっては熱中症の方がより身近な危険である。これまでほとんどエアコンを使っていなかった杉並の我が家でも私の寝室(そらの寝室でもあり私の書斎でもある)は24時間つけっぱなし、リビングは深夜の何時間かを除いてやはりつけっぱなし。涼しい八ヶ岳南麓の環境に慣れたせいで、東京の暑さが余計身にこたえるようだ。8月のアメダスデータ比較(
佐竹氏とは何かを考えていた。家紋の五本骨扇月丸から、女性を重要視していることは以前から推測はしていたし、竹を佐(たす)く、からコノハナサクヤヒメに関係する気配はしていた。五本骨は手を表す。そして月も扇も女性の象徴だからだ。参照https://ameblo.jp/nanohanacr/entry-12615758810.html『第二章龍族女王様を表す隠語、その他の隠語』通説の歴史は全て男が王様になっています。唯一女王様として認知されているのは卑弥呼だけです。しかし邪馬台国がどこで
7/24赤城久伊豆神社➡️龍泉寺と参拝し同じ町内にある三ケ尻八幡神社宮司さんが偶々居たので御朱印頂けました一の鳥居と社号碑二の鳥居三の鳥居三ケ尻八幡神社は、源頼義・義家親子が鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所として天喜4年(1056)に創建したとも、鶴岡八幡宮の社領となった寿永2年(1183)に創建したともいいます。江戸時代には三ヶ尻村の鎮守となっており、明治5年村社に列格、明治41年字八幡鎮座の神明神社と字中鎮座の天神社(いずれも村社)を合祀、以後村内の多くの社を合祀したといいます。手水舎
「男山」なんて男前な神社かと思えば、ここも安産の神様でした。子授け、安産、子育ての神、戌年・亥年生まれの守護神。文徳天皇仁壽二年(851年)従五位下藤原朝臣興世(鷺内稲荷に登場してた人)(ふじわらのあそんおきよ(後に真野の長者と呼ばれる)が、陸奥守となって奥州(現在の岩手県北上市・花巻付近)に赴任の折、冬暖かにして夏涼しく周りからはたくさんの清水が湧き、すばらしい土地があるものだと感嘆し、後にこの地に定住し山城の国より地域の発展を祈り、男山八幡宮を移し奉られたと伝えられ
雨の合間を縫って、今日はなんとかウォーキングが出来ました。昨日までの大雨の影響を避けるために、山越えコースは避けて、街中を歩く、「河内飛鳥コース」のその2にしました。これも、近鉄あみまクラブのてくてくマップのコース。まあ、主に街中を歩くので、旧な雨でも雨やどり出来るのでは?とも思いました。スタートは、前回のゴールの近鉄南大阪線の上ノ太子駅。北口からスタートです。北口は、ちょっと寂れた感じ。でも、北口にはこんな石碑が。ここも竹内街道のようです。そのうち、大阪から奈良までの竹内街
皆さん、こんにちは。「神がかりツアープロデューサー」の神所公一(かんじょきみかず)です。さて、前回はダークヒーロー「源頼義」について書きました。今日は、その息子の「源義家」について書いていきます。「源義家」は、京都の石清水八幡宮で元服したことから、「八幡太郎義家」とも言われています。義家は、元服後、若い時期から、父頼義と共に、陸奥の国へ下向しています。そして、前九年の役にも参加し、多くの経験を積んでいきます。頼義・義家親子は、「安倍氏」を滅ぼすために、縁者である「