ブログ記事71件
昨日は西日本から、京都に入る重要拠点の兵庫県の山の中にある丹波篠山市においちゃんに、連れて行ってもらいました。徳川家康が、1608年に西国大名に、西国大名のおさえ拠点として作らせた丹波篠山城です。あまりに石垣が立派に出来すぎて徳川家康がびっくりして、天守をつくらせませんでした。🛖かわりに、書院が立っていますおしろあとは、ひろばになっていました。天守台予定だった場所からは、兵隊がやってきても、すぐに見渡せます。次は、篠山城の近所にある八上城の近所へ織田信長の命を受けた
明智秀満⑥「福知山市史」『太田牛一の『信長公記』によると、黒井城陥落にあたって信長は光秀に感状を与え、「永々丹波に在国して粉骨をつくし、度々の高名名誉まことに比類がない。」といい、牛一自身も「都鄙の面目これに過ぐべからず」と激賞している。光秀は九月二十二日国領城を攻略し、十月二十四日安土に至り、縮羅百端を献じて信長に丹波・丹後平定を報告している。ここに天正3年以来約五年を費やして丹波攻略を完了したのである。』黒井城陥落の後、光秀は丹波掃討戦を実施していた。
明智秀満④「信長公記」『八月九日赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸け、推し詰め候ところ、人数をだし候。則ち、同噇と付け入るに、外くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出。維任、右の趣、一々注進申上げられ、永々、丹波に在国候て、粉骨の度々の高名、名誉も比類なき旨、悉く御感状くだしなされ、都鄙の面目、これに過ぎず。』さて、分かりにくいので、赤井氏・萩野氏について整理してみよう。赤井家の頭領は高井城の赤井家清であった。家清の弟・直正は黒井城の
明智秀満③「信長公記」『さる程に、丹波国、波多野館、去年より、維任日向守押し詰め、取り巻き、三里四方に堀をほらせ、塀・柵を丈夫に、幾重も申し付け、攻められ候。籠城の者、既に餓死に及び、初めは、草木の葉を食とし、後には、牛馬を食とし、了簡尽き果てて、無体に罷り出で候を、波多野兄弟三人の者、調略を以て召し取る。六月四日、安土城身上、則ち、慈恩寺町末に、三人の者、張付けにかけさせられ、さすが、思い切り候て、前後神妙の由に候。』天正7年(1579年)、秀満は伝五の
明智秀満②「史料綜覧」『天正七年正月三日、筒井順慶、播磨ヨリ軍ヲ班ス(多門院日記)五日、信長ノ水軍九鬼嘉隆、和泉ヨリ安土ニ到リ、歳首を賀ス(原本信長記)天正七年二月十八日、信長安土ヨリ上洛ス(兼見卿記他)廿八日、信長ノ将惟任光秀、丹波亀山ニ出陣ス(兼見卿記)是月、羽柴秀吉、別所長治ノ属城摂津丹生山城ヲ攻メテ、之ヲ取ル(別所長治記他)天正七年三月四日、織田信忠等、上洛シテ信長ニ謁ス(兼見卿記)五
三宅弥平次(92)天正7年(1579年)1月、八上城の包囲は厳重になり、危機感を抱いた波多野氏は小畠永明が守る籠山の陣を襲撃した。この戦いで永明は戦死してしまうのである。光秀は永明の死を悼み、明智姓を与えた。嫡男・伊勢千代丸にも明智姓を与え、13歳になったら必ず家督を継承するよう厳命した。弥平次は坂本城から二千の兵を率いて有岡城方面に進んだ。在陣が長くなった藤田伝五の部隊と交代する爲である。伝五の部隊は一度、坂本に戻り補給と休養を取る。如何に包囲戦とはいえ、長期間の
三宅弥平次(89)「信長公記」『維任日向は、直ちに丹波へ相働き、波多野が館取巻き、四方三里がまはりを、維任、一身の手勢を以て取り巻き、堀をほり、塀・柵、幾れも付けさせ、透間もなく、塀際に諸卒、町屋作りに小屋を懸けさせ、廻番を丈夫に警固を申し付け、誠に獣の通いもなく、在陣候なり。』有岡城の包囲が完成すると光秀は庄兵衛と伝五を残し、丹波へ向かった。八上城攻めでは丹波国衆の小畠永明が黒井城との分断のために砦を築き守っていた。永明は光秀が信頼する国衆で、後年「明智
三宅弥平次(79)天正元年(1573年)7月、村井貞勝は京都所司代となった。しかし当時はまだ、明智光秀を始め松井友閑や武井夕庵、塙直政等の信長側近の官僚が行政に深く関わっていた。特に光秀は武官でもあったので、治安も担当していたのである。しかし京都での信長の治世が続き官僚組織が整うと、貞勝が行政の中心となり、光秀は軍人としての働きが大きくなっていった。そのため庄兵衛は次第に京都の明智屋敷から離れ、光秀の側近として行動を共にすることが多くなる。京都で行政に長年、携わった庄兵
全国お城の「石・石垣シリーズ」もいよいよ最終コーナーとなってきました。『「石」の使われ方』において只今は、「石積み(石塁・石列)」が見られるお城をご紹介しています。本日は、「近畿(兵庫①)」(兵庫は⑤まであります)をお届けします。「石積み(石塁・石列)」は、「石垣」とは区別して分類していますが、この区別は見た目ではなかなか難しいと思っています。というのも、「石垣」は石を積み上げていきますが、その際に石の裏側に「裏込石(栗石)」や「土」を入れて排水を良くする等の技法を用いて、近世
みなさま、こんにちは☺️今日のオズメイツは『ASAJI~篠山戦国ものがたり~』の舞台となる高城山へ登山して参りました⛰️🌳かつて波多野秀治の八上城があり、朝路姫が身を投げたと伝わる朝路池がある高城山を、ご縁あって、麓にある十念寺さんのご住職さまに案内して頂きながら、登って参りました🚶♀️神聖な山の空気。城の石垣の名残。一帯を見渡せる眺望。静かに佇む池。現地でしか感じられない空気は、本当に貴重です。今日感じた様々な思いを、作品に還元していかねば…!さてOZmateTVでは、どん
2023.5.2.丹波三大山城の一つで、波多野氏の居城『八上城』へ八上城が在るのは、丹波富士とも呼ばれる高城山です丹波攻めの明智光秀と、波多野氏との間で熾烈な攻城戦があった城八上城は、5か所の登り口があります。今回は🅿駐車場も整備されている「右衛門コース」を行きます以前の大河ドラマ「麒麟がくる」では名前くらいしか登場しなかったが!丹波の城は有名になり黒井城や八上城などの整備が進んだ様です今回、特に見ておきたかったのが黄色で囲ってる所です石見の人ともされる波多
丹波篠山にある八上城です。室町時代、石見国人とされる波多野清秀が、多紀郡代に任じられて築城。天文2年(1533年)、丹波守護代の八木城主・内藤国貞が丹後守護の細川晴国から離反独立。八上城主・波多野秀忠も自ら一族を郡代に任じ独立します。天文4年、晴国と対立する細川晴元が摂津守護・三好長慶の支援で優勢となると、天文9年、秀忠は長慶に娘を嫁がせます。天文17年、秀忠の子元秀が家督継承。同年、長慶は正室波多野氏を離縁、遊佐長教女を継室としたため、姉妹を離縁された元秀は長慶と対立。内藤国貞とそ
ミュージカルASAJI〜篠山戦国ものがたり〜チケット情報解禁です!劇団HPでは、5/6(土)9:00-発売開始です!
令和5年2月23日に家族で兵庫県丹波篠山市の八上城に行きました。波多野聖さんの「ダブルエージェント明智光秀」を読んで一度訪れたいと思っていたところです。麓の春日神社近くの駐車場に車を停めて登りました。この神社もなかなか歴史がある感じがします。今回は右衛門丸ルートで登ることにしました。1キロメートル45分の道のりです。主膳屋敷跡鴻の巣下の茶屋丸次男はなんやかんや言いながら楽しく登っています。上の茶屋丸右衛門丸跡三の丸跡二の丸跡雪がまだ残っ
丹波八上城A4サイズの完成#八上城#お城#ジオラマ#イベント#明智光秀#山城#鍬匠甲冑屋
八上城跡兵庫県丹波篠山市八上上字高城山2022年10月6日登城八上城跡は、兵庫県の中央東端部に位置し、史跡篠山城跡の南東約3.5kmの丘陵に占地する奥丹波地方最大の中世山城跡である。丹波地方を代表する有力国人の波多野氏の本拠地で、織田信長旗下の明智光秀による丹波攻略の際に、最大の攻防戦が行われた城郭として著名である。(HP参照)登山口縄張り図鴻の巣跡西から敵に備えた番所下の丸茶屋跡西からの敵に備えた陣地下の丸茶屋からの眺望上の茶屋丸跡西からの敵に備えた陣地右衛門丸跡
おはようございます昨日夜中に目が覚めてから朝方まで眠れず寝不足ぎみなお母ちゃんです。昨日ガッツリお昼寝しちゃったからねーあははは自業自得だ吊るし柿とシーツ、お天気がいいと気持ちよく乾きますお庭のフェンス際にクレマチスを5株植えました❣️お父ちゃんが草刈り機で刈らないように目印に紅白の紐結んでみましたワゴンの上のパソコンのコードについてるタグを噛むのでダメ‼️って毛布かけたら、あたちここで寝るって新型コロナの4回目のワクチン接種券がきました。気が重いな〜もう打ちたくないな〜たまった楽天
お蕎麦を食べた後八上城跡の看板を見つけてしまい登っちゃいました🎵後々よく考えたら熱中症になりそうな炎天下山に登るなんて危険過ぎますね山は貸し切りでした笑神社の脇から登山ですよく整備されてました‼️眺めは最高でした後一つ行きたかった場所天正3(1575)年、光秀は信長の命によって丹波国の攻略をスタートします。彼の前に敵として立ちはだかったのは、「丹波の赤鬼」という異名で恐れられた猛者・赤井直正らの軍勢。しかしながら、光秀は首尾よく攻略を進め、隣国の武将が「完全に城を包囲しているの
公共交通機関のみで巡る!日本100名城巡りの旅日本100名城巡り~丹波・但馬・若狭編~兵庫県と福井県にある5城を2泊3日で巡る旅。今回は2020年12月8日(火)の初日、丹波編をお届けします。初日は黒井城、篠山城の2城を中心に巡ります。行きは夜行バスを利用し、まずは京都駅へ向かいます。今回利用したバスはナイトライナーNT1001便。前日の12月7日、バスタ新宿21:30発、京都駅八条口に翌朝5:40に到着。京都タワー京都駅からは鉄道で
訪問日:2022/6/4【場所】兵庫県篠山市【築城年】1508年【築城者・改修者】波多野元清【城郭様式】山城【主な城主】波多野氏、前田茂勝【見所】①石垣②曲輪③土塁④堀切【廃城年】1609年【御城印の有無・販売場所】篠山市城大書院【アクセス】舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口IC」下車【駐車場情報】春日神社口登山道前に無料駐車場有り【周辺観光施設】篠山城、金山城「丹波富士」と呼ばれる標高462mの高城山に築かれた山城です。黒井城、八木城と共に丹波三大山城の一つで、代々波
【問題】八上城(兵庫県丹波篠山市)は、次のうちどの城が築かれたことに伴い廃城となったか?【選択肢】竹田城福知山城柏原陣屋篠山城【正解】篠山城【解説】八上城は波多野氏によって築かれ、以後、同氏が滅亡するまでその居城として発展した。慶長14(1609)、近隣に篠山城が築かれた際、城下町ごと移転し廃城となった。
先日になりますが、「織田信長」の命を受けた「明智光秀」が、丹波攻略関連で落城させた或いはその為に築城した丹波地方にある「山城」に登城し、本日は「丹波金山(きんざん)城」(兵庫県丹波篠山市追入)をお届けします。「岩尾城」の麓の「和田小学校」からは、約15km東へ国道175線と国道176号線を走ります。時間にして35分弱位ですが、途中JR福知山線「柏原(かいばら)駅」に併設の「レストラン山の駅」で昼食を取りました。JR福知山線「柏原駅」と「レストラン山の駅」ご当地グルメでありますボ
母の死を乗り越えてついに34万石の大大名となった惟任光秀(明智光秀)織田軍はさらに本願寺・武田家を滅ぼすことに成功する。気分を良くした信長はパレードを企画、その総指揮に光秀を任命するのであった。が、しかし…現代語訳信長公記(新人物文庫)[太田牛一]楽天市場1,047円信長公記ー戦国覇者の一級史料(中公新書)[和田裕弘]楽天市場990円バンダイスピリッツSDWHEROES信長ガンダムエピオンSDWH02ノブナガGエピオン[SDWH02ノブナガGエピ
1578年(天正6年)は荒木村重や別所長治による謀反があるなど第三次の信長包囲網が築かれるなかで、時代の大きな転換期に向かいます。図中01578年2月別所長治羽柴秀吉に反旗三木城に立て籠り毛利輝元に通じる。東播磨も追随した。丹波の八上城の波多野秀治(長治の舅)も立て籠った。(光秀が応戦)図中1〜3同年10月石山城の本願寺を囲んでいた荒木村重が有岡城に籠って信長に反旗を翻した。これに茨木城の中川清秀(村重の従弟)、高槻城の高山右近も呼応した。村重は毛利、本願寺に人質と誓紙を差し
篠山盆地に有る山城跡波多野氏の居城だった八上城。明智光秀に攻め滅ぼされて城主は信長に安土で切られた。その欲望は今の世にも残り「麒麟がくる」で脚光を浴び押し寄せる観光客を見越して駐車場を整備した!🅿️の看板には麒麟がくるで放映!!とあったがTVではかすっただけだった💦それでも数台の車が止まっており山城登山をされる方もいた。ワテクシはお弁当を食べました😋うちの城跡はかすりもしんかったけど・・…
八上城の支城であった波々伯部氏(ほほかべ/ほうかべ)の城丹波・淀山城(後編)城域北端の美しき堀切から再出陣。現在地より侵入し、二つの井戸郭を経て腰郭(実際は腰郭東側の斜面)、二の郭東側を通り北にある堀切まで侵攻して来ました。これより城域西側切岸下を進軍し南端の主郭への登城道(赤色)に出て二の郭を侵略してから主郭部へ乱入します。大堀切から西側へ向うとモッコリ土塁です。土塁の横には美麗な竪堀がボブスレーのコースの如く西斜面に落ちる。切岸下の横堀状通路(
小和田哲男先生が「落城悲話に惹かれる山城」について寄稿しておられます。10位までのランキングが示されています。合戦舞台の山城を巡っている私は、全部訪城済に違いないな、知らない城があってもうれしいな、と思いながら拝読しました。1位鳥取城2位小谷城3位岩村城4位八王子城5位高天神城6位七尾城7位岐阜城8位月山富田城9位八上城10位岩屋城全部登ってました。
いざ、丹波国八上城へ!丹波国は、戦国時代から波多野氏や赤井直正などが割拠する地域でした。京都にも近く、(現在は八上地区、篠山市なども兵庫県)盆地で多くの山々は城作りに適した形!八上周辺にも多くあったようですね!そんな中での八上城。登城路とされてる道周辺は急斜面!ところどころに削平地が隠されており、中腹までに敵の侵入を止める作戦が垣間見えます。気をつけポイント麓の駐車場は無料で、ゆったりしたスペースがありますが、登城路を登り右衛門コース、帰りを別ルートにしたい場合、道が崩れて通れ
昨年の大河「麒麟が来る」芸能界やNHKに嫌気がさして後半見なくなってしまいましたが丹波篠山は明智光秀ゆかりの土地でもあったのです明智光秀は信長軍に抵抗した八上城主の波多野氏を攻撃波多野氏が包囲され降伏したさいに、光秀は信長に謝罪するよう促しました波多野秀治と秀尚は安土へ。しかし信長は許すことはなく兄弟を殺しましたそのため、人質として八上城にいた光秀の母が殺されてしまうのです本能寺の変の謎は、丹波篠山にあり!大河ドラマ「麒麟がくる」と丹波篠山市の
まん延防止が出ているのを知りつつ…車でお買い物だけなら大丈夫かも?って思いまん延防止が出ていない丹波篠山にお買い物に行ってきました(^^;;今日はお天気もイマイチでして少々小雨も降ってましたがそれなりにお買い物の方もおられましたいつもの黒豆のシリーズに焼き栗その他は、やはり地酒屋さん^^こちらも数回来ていましたがやはり旨い酒はおいしいです^^前の記事にも書いていましたがこちらのお店も「おとな旅」で紹介されてました^^なかなかの外観ですよね〜!前回と違ったのを買