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3月21日は弘法大師空海様の入定なされた日。いろいろなことがあります。よいこともそうでないこともしかし捉え方です。そしてその出来事が長い目で見たときどう変化してるのか。それは誰にもわからないし、だから、捉え方を考えながらポジティブに観ます。一呼吸ではものごとはわかりません。その深い呼吸を続けていってようやく身体や心は穏やかにかわるのです。お大師様は信仰する方の心に生きています。どう見るかはそれぞれです。その深い呼吸、瞑想を未だに続けています。簡単に諦めず長い目で自分の呼吸を
ご先祖様は我らとともにいますみなさん、おはようございます大気が不安定です我國の不安定を現わしているのでしょうか或いは雨と風で清めてくださっているのかお彼岸も後半しっかりとご先祖様の遺志を引き継ぎましょうアリガトウ「3月21日」の國史です「空海、入定」承和2年(835年)空海は弟子たちに3月21日の寅の刻(午前4時ころ)山へ帰るとします言葉通り入定(にゅうじょう)されました現在も修行を続けているとされます空海は平安時代の初期の僧唐に渡
徳川総家菩提寺・蓮花院(れんげいん)で優雅なひと時を過ごし、五年の一度しか御開帳しない家康公と秀忠公の神様に拝観させていただいた僕は、朝食を食べ終わると、蓮花院に名残を惜しみながら、朝の8時にチェックアウトしました。これからいよいよ、高野山の名所めぐりです。高野山は、総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)という名称で呼ばれていますが、これは単に「金剛峯寺」だけをさす言葉ではなく、高野山全体をさしている言葉……つまり、この高野山全体が、弘法大師・空海のお寺なんですね。道中、無
山形鶴岡にある瀧水寺大日坊に行きました。この寺は弘法大師空海が最初に開山し、そして最後に高野山を開山知らなかった!先月高野山にいったたばかりです。ご縁ですねぇ。この寺は即身仏で有名です。パンフレットから拝借この方は幼少のころから、お寺でおぼうさんになる修行をされ、20歳ころには即身仏になる修行を始めたそうです。はじめは五穀を経ち木の実や木の皮のみを食し、やがて漆を少しずつ飲み腐らない体をつくりました。92歳に土中に入り入滅。お弟子さんが掘り起こし、今も生きている方として
四国八十八ヶ所の51番札所の石手寺の裏山には巨大な弘法大師像があります。前々から、一度像の所まで行ってみたいと思っていたので、2月4日に軽い散歩のつもりで出かけました。石手寺裏山の弘法大師像風土記の丘のかんばん風土記の丘の道に入り、大山積神社の所で左に曲がります。大山積神社5分程歩くと弘法大師参拝道の看板があります。この細い道を行くと石手寺霊園に出ます。弘法大師参拝道の看板数分歩くと登山口の石碑が、そして横にお山四国八十八ヶ所登山口の看板もありました。多分、お山八十八ヶ所も全国にあ
向丘の寺町を巡ります。専西寺の門前にあった子育地蔵。随分と窮屈な立地になってます。新生児の生存率が著しく低かった頃には、「赤ちゃんが無事に育つ」ことへの願いは切実だったと思います。現在の乳児死亡率は、1,000人当たり1.9という世界最高水準の日本。しかし統計を取り始めた明治32年(1899)は153.8でした。なんと新生児の15%超が亡くなっていたのです。それ以前だと間引き等もあったので、推して知るべしですね。ちなみにスペイン風邪(インフルエンザ)が流行った大正8年(19
今日の一日一読は前回の続きで、第一章の「高野山にて生涯を閉じる」まででした。小見出しにあるように、空海の最期について書かれていましたが、本来的には死んだとは見なすべきではないのかもしれません。というのも「真言宗では、空海は金剛定に入定したのであり、今も高野山の奥の院に禅定に入ったまま生きておられると信じられている」(45ページ)からです。精神的な話にどうしてもなってしまいますが、肉体の死を持って生涯を閉じると見るのは、本当に正しいことなのかどうかは疑いたくなる気持ちがあります。見えているものだ
ぬこも逞しいけどにんげんも逞しいなー1週間前まではやつれた桂さんを見るのがつらくて泣けて泣けて仕方なかった火曜日の夜からいきなり始まった絶え間ない咆哮と徘徊にオロオロドキドキしてもう死んじゃうかもとごはんも喉を通らなかったのに馴れた❗️馴れてしまった‼️だって桂さん好き放題なんだもん鳴けば抱っこしてもらえるしヨタヨタフラフラ歩けば必ず下僕がついて回るしお水はシリンジだと飲めるしそこらの床にゴロンと横になると下僕がすぐシーツを敷いて差し上げる今日なんて自力で
こんにちは🌈3/21春分になりましたねー。彼岸の中日。3/21春分というと私にとってすぐ思い浮かぶのが弘法大師空海が入定された日。亡くなった日というより永遠の瞑想に入られた日。ブログを読んでくださっているみなさまの多くは「宇宙元旦」とか「宇宙新年」の日が今日!というイメージでしょうか。そうですよね、そうですそうです🌍今日からが、この時代の本番みたいなもんです。いろんな意味でエネルギーの強さが集中した日になっていますね。こ
承和2年(835年)3/21かつて“薬子の変”の時に、嵯峨天皇側に立って“必勝祈願”の祈祷をした“空海”が、高野山で禅定に入った。(入定※悟り・如来の境地を目指して、全てを廃し修行に邁進する。この令和の時代になっても、高野山奥の院の地下で修行が続けられている…死んではいない。)承和7年(840年)になると、淳和上皇が崩御。同年、藤原良房は中納言となる。朝議に参加できる最低限の官職・参議を一年、そして権中納言を一年を経ただけの、所謂、スピード出世と言えよう。(父親・藤原冬嗣の仕
本日、3/21は、弘法大師・空海様の“御入定(ごにゅうじょう)”の日。※お大師様は、今でも高野山・奥の院で修行中!というわけで、川崎大師・平間寺へ。“御影供まつり”の幟があちらこちらに。↓手水は…新型ウィルスを警戒して使用禁止に。五色の吹き流しが舞う本堂前。↓私の守護本尊・不動明王様にも御挨拶。
汝が天皇である!死ぬことを許しません!昭和20年8月24日、愛知県宝飯郡音羽町萩村上近久(現在の豊川市萩町)の寓居において、敗戦の責任を痛感し、切腹自裁せんとした三浦芳聖に、天照大御神様が御降臨になって直々に御神諭を賜った。御神諭の主旨は、「汝は、往昔、大宝天皇が祈念せし、五皇一体の再現・八幡大明神である。その八幡大明神として、この世に出現した使命を全うする迄は、勝手に死ぬことは許しません!」というものでした。今回は、三重県伊勢市宇治館町の皇大神宮内宮から愛知県豊川市萩町の三浦芳聖の寓居
「龍舞町」「入定」が御陵墓制定の決め手に!群馬県太田市に「龍舞町」という地名があります。国内唯一のユニークな地名です。この地名の串呂哲学的な解釈は「辰年生まれの方の昇天」です。龍は、辰年生まれに限定せず「天皇」と解釈することも可能ですが、この地名は、戊辰年生まれの興国天皇(守永)の御陵墓を制定する決め手となった重要地文のひとつでした。福島県いわき市遠野町の「入定」という地名も国内二ヶ所しかないユニークな地名です。「入定」には、「高僧・聖者が死ぬこと。入滅」という意味があり、この
⛤✨✨『空印寺』大永2年(1552)、若狭守護・武田元光が後瀬山築城の際に、城館(後の旧小浜城)を構築した敷地内にある、若狭小浜藩主・酒井家の菩提寺。若狭国を治めた京極氏が菩提寺「泰雲寺」を建立し、京極氏の松江転封後に若狭小浜藩藩主となった酒井氏により「建康寺」(のちに「建康山空印寺」に改められる)が建立され今日に到ります。敷地内には、人魚の肉を口にして800歳まで生きたという八百比丘尼が、その生涯を閉じたと伝わる洞窟があります。【住所】福井県小浜市男山2【拝観時
4月19日お大師様空海は835年に入定しました入定とは瞑想をして生きたまま仏になることです現在も弘法大師は御廟の中で生きているとされています生きているという事は食事が必要です1日2回6:00と10:30に毎日雨の日も雪の日も行われてます御供所からつくられた食事を毒味する出発の儀が嘗試地蔵の前で行われます味見の後は2人の僧が食事が入った白木の箱を担いで行きます先頭を歩くのは維那と呼ばれる仕侍僧御廟の中の弘法大師の姿を知っているのは唯一この維那だけと言われ
前項の地球の画像を見てから後に、不意に弘法大師、空海上人のことが気になりました。弘法大師が入定(にゅうだい)されたのが旧暦の3月21日(承和2年)(西暦835年4月22日)でお日にちが近いから気になったのだろうかと思いました。加えて個人が精神的に少し弱っていますからどうしても神佛により頼りたくなっていますから空海上人が気になったのでしょう。その入定ということも気になり、調べますとどうも死ぬこととは違い、「永遠の瞑想に入った修行」を指す言葉だそうです。ですから、空海上人は生きていらっしゃる
我们常说入定,今天介绍入定的方法。转自网络。入定,有的时间比较长,甚至超过千年,比如窥基和尚的前世,即“三车和尚”的前世。我们一般入定,大概都是一个小时左右。稍微长点的2,3个小时。也可以多次出入入定状态。每天都会练习,坚持。并不是一次就长时间入定就好。其实,入定很简单的,入定之后,呼吸特别细微,感觉身体都在呼吸,入定后,忘记了周围环境,忘记了时间,忘记近来的事情。最好是禅定双休,心理默念阿弥陀佛,同时在修入定。这样以免走偏。坚持就会体会到快乐。区分入定和入灭。入定和冥
昨日から何度か目の入定した事がある過去世の波動が降りてきました。💦仏教やってた時の物ですが、入定を知らない人がいるかもしれないのでご紹介しておきます。「入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。永遠の瞑想に入ることを言う。」「密教の教義において、僧は死なず、生死の境を超え弥勒出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入ると考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。日本で最初に入定したのは空海で、空海は死んでおらず現在も高野
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昨日はまさかの春分の日のでビックリでしたね宇宙の元旦…雪でスタートでしたそんな中、他の方のブログを読ませて頂いていると……3月21日は空海さんの命日と書かれていました。でも、これは旧暦で、西暦に直すと4月22日になるのだとか…ですが、毎月21日は月命日とされているようです。62歳で高野山の奥の院に入定されたと…まだそこで生きているという説もあれば、実は火葬されたという説もあるようで、謎に包まれているようです…このところ、いろいろなところで空海さんにつながり、(なんて言うのはおこがま
きょう21日はお大師さんの日水曜日やけど春分の日でお休みやから、歩いて数秒のお寺へ行って来ました今月は毎月のご縁日よりも大事な月。弘法大師さんがご入定された日なのでねまずお父さん…家内安全じゅんちゃん…身体健全やまとなでしこちゃん…心願成就甥っ子2人…学業成就護摩木を書きました護摩木を読み上げて、炎の中に組上げて行きはります最後は何回も繰り返して般若心経お供えのお下がりを頂いて帰りました来月も新暦では4月やから、3月4月は大事で、ラッキーなことに土曜日4月もお詣り出来
こんにちはあなたの心に寄り添う手作り革鞄職人の香です今日は、生まれてはじめて高野山へ行ってきました。乗ってたら連れて行ってもらえるバスツアーでね、行ってきましたの。わたし、イメージだけが先行しててあんまり高野山ってどんなところかはっきり知らなかったんですが、そのエリア全域が町なんですね。エリアの中には、100以上の寺院があって、端から端までは車で移動するほどの距離があって、ちょっとそれもオドロキでした。私が行きたかったのは奥
ALOHA!今日も晴れましたねちょっと初夏で、気持ちが良いですね今日も、みなさんが笑顔になれますように小淵山観音院円空仏祭に行ってきました涙がでるくらいに大感動でした!僕は、円空さんが大好きです円空さんは、江戸時代前期(1632年~1695年)の修行僧(修験道)で、生涯で、なんと12万体の仏像を彫ったと言われてます実際に現存するのは、五千体と言われています円空さんの仏像は中部地方(岐阜県、愛知県)や修行で歩いた蝦夷(東北地方や北海道)に多くが残っていて、関東にも残っています