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神戸高速線新開地駅徒歩5分兵庫警察署前竹内典之シェフGeorgesBlancHôtelBeau-RivageGenèveフィレンツェやプーリア州等で3軒リーガロイヤルホテル大阪を経て2017年5月15日オープンムール貝・小海老・帆立・トマトエスカルゴバターココット焼き真鯛の香草マリネ、シーザーサラダカリフラワームースパイ蛍烏賊・ベーコン・菜の花ペペロンチーノ→予約時スープへ変更可連子鯛、ベーコンと春キャベツケッパー・焦がしバターソース兵庫産牛フィレ肉、マデラソ
北朝第二代光明天皇は、室町時代が始まった時の天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。同母兄は北朝初代の光厳天皇(後醍醐天皇により在位を否定され、三種の神器をもって即位されたにもかかわらず御歴代の天皇としては数えられていません。)元亨元年(1321年)生。御名は豊仁(ゆたひと)。在位は建武元年(1336年)から貞和三年(1348年)。鎌倉時代末期、後醍醐天皇に従って幕府を攻めた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は光厳天皇を廃して天皇に返り咲きます。しかし、足利尊
名古屋のシンゾウです今週は、過去問題の看破を目指します。今朝は、少し早起き(3時頃)をし、3級問題から、100問を30分のスピードで、ノートに解答を書きながら、6回分をやりました。勿論、問題は選択式から記述式に修正してあります。正答率は100%としたいのですが、漢字が書けないし、イージーミスも沢山ありました。このイージーミス(早とちり)対策が、一番厄介です。(今回の漢字ミス→どこが間違ったか分かりますか)易経、大池(巨椋池)、四条麩屋町、花傘巡行、戌、大舎人座、柳箸、蹴鞠始め、六波
2022年6月23日この日は、近鉄『桃山御陵前駅』で下車した………何気に地図を眺めていると、ふと天皇陵の文字が目に入ってきたのだこれは行かなきゃranmarutenさんまたまた伏見にお邪魔していますちょっと迷ったけど、そこはJR『桃山駅』のすぐ近くだった。なんなら、線路沿いで車窓からも見える場所だった到着したのは…………【光明天皇大光明寺陵】【崇光天皇大光明寺陵】京都府京都市伏見区桃山町泰長老【光明天皇(こうみょうてんのう)】日本の北朝第2代天皇(在位:1336年〜
昭和祭に想う「尊氏と高氏」4月29日は昭和祭です昭和天皇の御誕生日です先の大戦をせざるを得なかったまた終戦の決断をし、その後国民の復活へ導いた昭和天皇に感謝申し上げます元弘3年(正慶2年=1333年)4月29日足利尊氏、挙兵鎌倉幕府の第14代執権「北条高時」から一字をもらい「高氏」を名乗ります後醍醐天皇を鎮圧のため幕府軍を率いて上洛長老らの情勢をみて幕府へ反旗を翻します(=挙兵)後醍醐天皇の諱(いみな=実名)
北朝第2代光明天皇大光明寺陵即位西暦1336年退位西暦1348年皇位年数12年北朝第3代崇光天皇即位西暦1348年退位西暦1351年皇位年数3年西暦1337年から1392年までの南北朝時代は、南朝と北朝、其々に帝が、つまり同時に二人の天皇が居た時代。南朝(吉野)と北朝(京都)のどちらが正統なのかの議論はさておき、明治時代に『南朝が正統』と決定され、北朝は天皇家第〇〇代にカウントはされない事になった。その関係か、御陵印は無し。でも当然、管
北朝2代光明天皇北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁。法名真常恵。後伏見天皇の第2皇子。母は広義門院寧子。光厳天皇の弟で、その猶子となった。建武中興崩壊ののち、足利氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光天皇に譲った。1351年(正平6・観応2)における南朝後村上天皇の天下一統に際して出家し、幽閉の身となり、光厳、崇光両上皇らとともに南朝根拠地の大和賀名生および河内天野の金剛寺に数年間を過ごした。のち京都郊外の伏見に帰還、同地の保安寺、金剛寿院また大光明寺に居住し、その後所々
7月26日が命日・忌日の有名人・著名人1380年(天授6年/康暦2年6月24日)58歳崩御(?)光明天皇陛下北朝第2代天皇1597年(慶長2年6月12日)65歳没(卒中)小早川隆景さん戦国武将毛利元就の3男1889年71歳没(?)木村安兵衛さん実業家、木村屋總本店創業者あんパンを開発1941年66歳没(?)アンリ・ルベーグさん数学者ルベーグ積分1944年66歳没(非ホジキンリンパ腫)レザー・シャーさんイラン・パフラヴィー朝初代国王1994年満70歳
尾上右近演じる孝明天皇が「慶喜よ」宮中の訛りを昭和の名優鶴田浩二の血をひく尾上右近は清元の家元であり持って生まれたDNAと修練された喉から忠実に再現するかのように感じるのは私だけかな宮中に知り合い居ないけどバラエティのけんけんとは違う尾上右近という歌舞伎役者に凄い風格感じてしまった御簾の向こうの帝の慶喜に対する信頼人払いさせて近くに寄らせ慶喜に声をかける帝帝に近づく装束に身を包んだ慶喜このいつも何を考えているのか分からない慶喜公が帝に素早く近づく様は二人の間だけ
太平記の群像46〜花園天皇と後醍醐天皇からの続きになります。元弘の乱で後醍醐天皇は隠岐に流され、持明院統の光厳天皇が即位します。皇太子には病死した大覚寺統の邦良親王(後醍醐の兄)の遺児・康仁親王が立てられ、光厳の父である後伏見上皇(花園の兄)が院政を始めます。1333年、後醍醐の綸旨に応じて足利尊氏が鎌倉幕府に叛き六波羅探題を攻めると、敗れた北条仲時らは後伏見・花園の両上皇、光厳天皇を奉じて東国に落ちようとします。しかし佐々木導誉の手の者に阻まれ、お三方は三種の神器と共に京に戻されま
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)2月に三連休で京都に行ってきました。三日目、竹田駅周辺の天皇陵、深草と呼ばれるエリアの天皇陵を巡りましたが・・・このまま天皇陵巡り続行です。深草から最寄り駅の京阪の藤森駅へ行き、電車を使用
<第97代後村上天皇>(北2)光明天皇。1338年足利尊氏・征夷大将軍。1339年北畠親房「神皇正統記」。観応擾乱尊氏VS直義〔毒殺〕
【平成31年3月2日(土)】【北朝御座所】正平9年(1354年)-正平12年(1357年)所在地:大阪府河内長野市天野町996金剛寺観蔵院北朝初代光厳天皇在位:元弘元年(1331)~元弘3年(1333)北朝第2代光明天皇在位:延元元年(1336)~正平3年(1348)北朝第3代崇光天皇在位:正平3年(1348)~正平6年(1351)こちら北朝御座所は拝観出来ました。杉苔が見事な枯山水庭園奥殿賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、正平9年(1
北朝1光厳(こうごん)天皇㉓在位期間1331年~1333年なお、「㉓」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系23代遡る」という意味です。量仁(かずひと)親王。北朝初代。持明院統。後伏見天皇㉔の第1皇子。母は1352年に「治天の君」となる広義門院(こうぎもんいん)。光明天皇の同母兄。崇光天皇㉒&後光厳天皇の父。1313年生まれ。後醍醐天皇が元弘の乱を起こしたため、鎌倉幕府の手で18歳(数え19歳)で即位。しかし、1333年、後醍醐天皇方の軍勢によって捕らえられ、鎌倉幕府は滅亡。19歳(数
続き明治天皇陵を南に下って🚶…(・・;)あれ?こっちじゃない少し迷って🚶💦とてもアップダウンな地形元々の地形を利用してるとは思うけど伏見桃山城🏯ってどんなんやったんやろ~と思いながら歩いてましたでもかなりの土木工事もしてたようなブラタモリでも言ってたな迷ったからこれ撮れましたぐる~っと回ってようやく着いた約700年程前に京都(北朝)と吉野(南朝)に天皇が並立してた時代の天皇さん北朝2代目光明(こうみょう)天皇と北朝3代目崇光(すこう)天皇後伏
北朝第二代光明天皇は、室町時代が始まった時の天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。同母兄は北朝初代の光厳天皇(後醍醐天皇により在位を否定され、三種の神器をもって即位されたにもかかわらず御歴代の天皇としては数えられていません。)御名は豊仁(ゆたひと)。在位は一三三六年から一三四八年。鎌倉時代末期、後醍醐天皇に従って幕府を攻めた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は光厳天皇を廃して天皇に返り咲きます。しかし、足利尊氏は鎌倉幕府を裏切って幕府を滅ぼしましたが、今度
天皇陛下ゆかりの旧南間ホテル益子町、運営事業者を公募へ下野新聞【益子】町は7~8月、天皇陛下にゆかりがあり平和を学ぶ場や宿泊施設として活用を予定する益子の旧南間ホテルについて、運営者を募集する。現在、施設改修を...大衆薬メーカーの業界団体で「会長が2人」の内輪揉めASCII.jp南北朝時代に例えれば、さしずめ柴田氏が京都の光明天皇(北朝)、三輪氏が吉野に遷幸した後醍醐天皇(南朝)といったところだろう。ある業界関係者は「協調...ロシア旅順要塞を攻略せよ悲劇の名将、
伏見にある大光明寺陵です。宇治川や巨椋池を見下ろす景勝地・指月丘にあります。指月丘には平安時代、橘俊綱(藤原頼通の次男)が別荘・伏見山荘を築きます。この地は白河上皇に献上されて皇室の別荘地となり、伏見殿が築かれました。鎌倉時代、伏見殿は伏見上皇、後伏見上皇ら持明院統の院御所となります。暦応2年(1339年)、広義門院(西園寺寧子/後伏見天皇女御)は伏見殿内に大光明寺を創建。伏見殿は北朝に伝えられ、光明天皇、崇光天皇、治仁王はこの寺に葬られました。伏見殿と大光明寺は伏見宮家に伝領されま
「日本人なら知っておきたい皇室のしくみ」(著/五味洋治ほか、宝島社)以下は掲題書(第七章「時代をつくった天皇」)からの一部抜粋。後醍醐天皇建武の新政足利尊氏の武士政権と対立して南朝を打ち立てる武家政権を倒すために、一生をかけた天皇が後醍醐天皇である。鎌倉時代半ば、持明院統と大覚寺統が皇位の継承をめぐって争っていた。その対立を解決するため、鎌倉幕府が、皇位は両党が交代で継承すると決めた。これに対し、後醍醐天皇は幕府による朝廷への介入と危機感を持つ。朝廷が引き起こした
【平成29年6月26日(月)参拝】引き続き、第3代崇光天皇崇光(すこう)天皇陵御陵名:山国陵陵形:円丘所在地:京都府京都市伏見区桃山町秦長老崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月
【平成29年6月26日(月)参拝】今日も梅雨の貴重な晴れ間を使って巡礼に行ってきました。最寄りは、JR「桃山」駅。駅からは南東徒歩3分。ホームからも見える美しい御陵です。光明(こうみょう)天皇陵御陵名:大光明寺陵陵形:円丘所在地:京都府京都市伏見区桃山町秦長老参道入口から約170mの長~い参道
*【東大教室】ブログ上公開演習➊-2(解説解答)の続きです。*問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)で確認してください。演習➊中世(総合)御成敗式目と建武式目解説②■設問B政治的意図この設問は、問題の限定にしたがって素直に考えてくれればよい。限定①「当時の政治情勢を前提に」建武式目が発せられた1336(建武3)年は、建武の新政が完全に挫折し、南北朝の対立が明確になった年である。具体的には、入京を果たした足利尊氏によって同年8月に光明天皇(持
皆さん、こんにちは。いつもありがとう。読者からの要望に応えて、“【東大教室】ブログ上公開演習”を開始します。ただし、次々に公開するほどの余裕はなく、残念ながら不定期です。申し訳ありません。この点だけあらかじめご了解ください。なお、これまでにも同様の試みをいくつか記事にしてきました。こちらも、ぜひ参考にしてください↓。東大教室(演習2にかかわる解説)東大教室(対等外交という発想①)東大教室(対等外交という発想②)東大教室(対等外交という発想③)東大教室(対等
武士の困窮をかえりみない鎌倉幕府幕府に見切りをつけ、後醍醐天皇の倒幕令に応じるも、後醍醐天皇も武士を軽んじる政治を行ったため、独断で武士の立場を守る行動を取り、天皇家が分裂する南北朝時代のキッカケを作る。朝敵の汚名に苦悩を重ねながらも、室町幕府を開いて京都を飛躍的に発展させた。足利尊氏(劇団Camelot)知的レトロで、地味をポップに、派手をシックにかなり簡略化し、玄人向けではないけれど深い、歴史や伝説などを表現するブログ朝敵になってまで武士の立場を守っ
元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が笠置山で討幕の兵を挙げると(元弘の乱)、鎌倉幕府は追討の兵を差し向けるとともに、9月には後醍醐天皇を廃して皇太子量仁親王を皇位に就けます(光厳天皇)。このとき、三種の神器は後醍醐天皇によって持ち出されていたため、光厳天皇は後鳥羽天皇の先例に従い神器のないまま践祚したのですが、後醍醐天皇が幕府に捕らえられると、10月に神器の引き渡しを受け、元弘2年(1332年)3月に即位式を行って正慶と改元しました。ところが、元弘3/正慶2年(1333年)5月、鎌倉幕