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第五十代桓武(かんむ)天皇は、平安遷都を行った天皇です。平安京は現在の京都府京都市、京都市街は当時の街路をほぼそのままに現存している都市といいます。つまり、京都は桓武天皇により生まれた都です。天平九年(737年)生。御名は山部(やまべ)、日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)。御父は光仁天皇、御母は高野新笠。在位、天応元年(781年)から延歴二十五年(806年)。第四十九代光仁天皇の皇太子は、他戸(おさべ)親王でしたが、母である井上(いのえ)皇后が、他戸親王を皇
先日の日曜日は「NHK文化センター青山教室」の日✨関裕二先生の講座を受講いたしました♪『第1回平安時代の光と闇』〜長岡京遷都の意味〜F氏が独裁を目指した理由中尊寺の仏像はなぜ素晴らしいのか平安時代の出発点とは秦氏と源氏と平氏巨椋池と紫香楽宮の持つ地政学的な意味なぜ平安京に遷都したのかなどなど♪天皇が権力を握った2度のタイミングのお話があったのですが(なぁるほど)と、とても分かりやすかったです。また関先生の視点での、中尊寺の仏像のお話がとても心に響き、今度は展示会ではなく
奈良時代から平安時代初期にかけて、藤原氏の系譜を辿ってきたが、ここで視点を皇族へ振ってみたい。本来であれば、起点を合わせたいが、天武系の第48代称徳天皇から天智系の第49代光仁天皇へ至るには系譜の揺り戻しがきついため、平安時代成立をもって、即ち第50代桓武天皇を起点に始めることにする。白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子(山部王)で生母は百済系渡来人氏族の出身・高野新笠。山部王は皇族としてではなく、官僚としての出世が望まれ、大学頭や侍従に任じられたが、称徳天皇の崩御により父白壁
藤原南家とは、不比等長男・武智麻呂(ムチマロ)に始まる藤原氏の一流。南家の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前(フササキ)の邸宅に対し南に位置したことに由来し、逆に房前側を藤原北家と称す。武智麻呂は、長兄として廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、天然痘により病没した。臨終の床で正一位左大臣の官位を授けられる。橘諸兄政権では、武智麻呂長男・豊成(トヨナリ)が、順調に昇進を重ね右大臣に任ぜられ、橘諸兄とともに左右の大臣として太政官を主導した。その後、孝謙天皇が即位すると、弟仲麻呂が、
三寒四温やら、花冷えやら、、、まだ寒のぶり返しはあろうが、春本番到来だ。白木蓮が咲けばまずそう思うし、、、志貴皇子(シキノミコ)天智天皇の子弟。兄弟には、持統帝、弘文帝、、、壬申の乱の敗北により政権は天武帝、その皇后の持統帝と、天武系が牛耳ることとなるが、まだ幼く政治と距離を置き詩文の世界に逃避する事で身の安全を守り、最後の最後に子である白壁王(光仁天皇)に皇位は転がり込み今に至る。万葉歌人として優秀と言われるが、残された作品が少なすぎる。今の天皇家の遠祖だからだろうか、教科書収録和
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第47回蝦夷との戦い桓武天皇の業績として平安遷都と並んであげられるのが蝦夷の征討です。蝦夷はアイヌ人とも言われていましたが、それではなく、帰化人の政権とも言うべき朝廷に従わない、半島系の人たちと混血していない、縄文以来の原住民で、朝廷が設置した陸奥国府に年貢を納めない人たちと考えると考えるべきでしょう。蝦夷征討となると軍事行動ですから、膨大な経費がかかります。征討したあとで現地からあがる年貢と征討費用を考えると、奥州で金の大量採取が
高野新笠高野新笠-Wikipediaja.wikipedia.org和氏和氏-Wikipediaja.m.wikipedia.org高野新笠高野新笠chibasi.net天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)-宮内庁www.kunaicho.go.jp光仁天皇光仁天皇-Wikipediaja.m.wikipedia.orgの宮人であり、桓武天皇の生母という事ですが、真相はわからないようです。眉唾もののお話なんでしょ
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第45回遷都聖武天皇、孝謙称徳天皇の無責任極まりない政治によって疲弊した国家を立て直すには、天武天皇→持統天皇→草壁皇子→文武天皇→聖武天皇→孝謙称徳天皇と続いた、独裁と無責任の血筋を排除する必要があるという合意のもとに、壬申の乱で負けて日の当らない皇族になっていた天智系から立った光仁天皇のあと、井上内親王と他戸親王を生贄するかたちで、帰化人の母を持つ桓武天皇が即位します。桓武天皇は河内の交野で郊祀を二度行っています。郊祀とは中国で
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第44回桓武天皇井上内親王と他戸親王の冤罪から殺害に関して光仁天皇が同意していたかどうかですが、いくらなんでも妻と息子の殺害に同意することはないでしょう。同意も拒否も出来ない状態で、擁立した藤原永手らにやられてしまったといった感じではなかったかと思われます。光仁天皇が能力の乏しい人だったこともありますが、虚弱体質で鬱病気味の聖武天皇でもやりたいことを好きなようにやっています、ここで大事になってくるのは、天皇個人の能力ではなく権力があ
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第43回白壁王孝謙、称徳天皇は、弓削道鏡を天皇にすることに失敗すると不貞腐れたように、後継者を決定することをせずに死んでしまいます。天皇家の相続は、天皇が急死しても困らないように、皇太子を立てておくものですが、孝謙、称徳天皇は皇太子も立てず、後継指名も行わないで死んでしまいます。聖武天皇には子どもが5人いました。男子の基王、安積親王は早死にして、不破内親王は藤原仲麻呂の乱に加わった塩焼王に嫁いでいたので、まずそこで相続権を失い、その後
24.01/28.12:53-13:4214:25-15:15京阪三室戸駅から東にJR線路、府道7号線を渡って車道が右にカーブの二股分岐まっすぐ東に、駐車場から左折して三室戸寺山門石段を上って、本堂本尊千手観世音菩薩に納経右となりに、四十八願寺堂親鸞聖人の父「日野有範卿」墓、御廟右となりに奥、浮舟之古蹟碑石碑前に、鐘楼東奥に、三重塔戻って、狛蛇ともいえる「宇賀神」財運・金運の蛇神に見送られ石段を下って、山門を出る入山料払所の前に、新羅大明神明星山三室戸
一月二十三日、奈良市内の大安寺で光仁天皇の御忌法要光仁会が営まれた。境内は参拝の方々であふれている。御祈祷のため、本堂前で並ぶひとたち。本堂内では加持祈祷がおこなわれるが、入り口で錫杖を手にした僧によるお祓いがひとり、ひとり行われる。酒の入った孟宗竹は焚火(右端)の傍に立てかけられて、温められる。孟宗竹の中で温めら
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。和銅二年(709年)生。御名は白壁(しらかべ)。御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。『すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇とは』天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られた天皇が何人もいることがわかります。それは追尊天皇、不即位太上天…ameblo.jp在位、宝亀元年(770年
上皇陛下が卒寿(90歳)を迎えられた。心からお慶びを申し上げます。若いころの私は昭和天皇のお姿を拝見すると何故か胸が熱くなったものだが、その倅の皇太子(「皇太子」という役柄がぴったんこの印象だった)には全く関心がわかなかった。無関心以上になんだかニヤけた印象の皇太子はあまり好きなキャラとはいえず、「万世一系を誇る皇室の歴史も彼が天皇になったらどうなってしまうのだろうか」と危惧していたこともあったほど。(私の中ではこの3人は瓜三つ)ところが天皇になられてからと
23.12/26sun.10:00-16:40近鉄奈良駅から東大寺南大門大仏殿、二月堂、般若寺大山守那羅山墓、ウワナベ古墳、コナベ古墳平城宮跡歴史公園の西端、北に佐紀陵山古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵)前方後円墳墳丘長207m築造4世紀後半西隣に道一筋を境に佐紀石塚山古墳(成務天皇狭城盾列池後陵)前方後円墳墳丘長218m築造4世紀後半拝所に向く背、南側には佐紀高塚古墳西に石段を下って、南東に拝所佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇高野陵
天武天皇八年(679年)、天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(天智天皇の皇女で後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子とともに、皇位継承の争いを起こさないよう結束を誓う吉野の盟約が行われました。その諸皇子とは、草壁皇子(天武天皇と鵜野讃良皇女の皇子で天武天皇の第二皇子)、大津皇子(天武天皇と天智天皇の皇女大田皇女との皇子で天武天皇の第三子)、高市皇子(天武天皇の第一皇子)、川島皇子(天智天皇の第二皇子)、忍壁皇子(天武天皇の皇子)、そして天智天皇の第7皇子の施基親王(志貴皇子)
11月3日に奈良観光協会主催のツアーに参加しました。ガイドは奈良まほろばソムリエの会の友松さん。お~正倉院展の講師をされてる。<正倉院展講座>Nara観光コンシェルジュおすすめの奈良2023奈良まほろばソムリエの会/Nara観光コンシェルジュ友松洋之子さん「第75回正倉院展」(10月28日~11月13日、奈良国立博物館)を前に開催された「正倉院展講座in東京」(主催・読売新聞社、協力・奈良国立博物館)を動画でお届けします。専門家による出展宝物の見どころや文書の解説のほか、正倉院展にあわ
御霊神社本宮大和国宇智郡奈良県五條市霊安寺町2206(P有)■旧社格県社■祭神[本殿]井上内親王(イガミナイシンノウ)[南脇社殿]他戸親王(オサベシンノウ)[北脇社殿]早良親王(サハラシンノウ)大和国宇智郡に数多く鎮座する御霊神社の「本宮」。現在確認されている郡内22社(本来は23社、うち1社は不明)は、すべて当社から勧請されています。◎ご祭神は井上内親王、第49代光仁天皇の后。その光仁天皇を呪詛したとして廃后、また難波内親王(光仁天皇の同母姉)も呪詛し殺害したとし
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》620題知らず中納言家持鵲(かささぎ)の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜(よ)ぞ更けにける☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず中納言家持天の川に鵲がかけた橋に置いた霜の白々としているのを見ると、もはや夜も更けたことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎《和歌コー
2019/02/03配信<第49代光仁天皇>白壁王(皇后)高野新笠(皇子)山部〔桓武天皇〕(皇子)早良〔崇道天皇・贈号〕廃太子(皇子)他戸・廃太子(左大臣)藤原永手実権は藤原百川が持つ(右大臣)吉備真備(大納言)白壁王、弓削清人、大中臣清麿(参議)文室大市、文室清三、藤原奈麿(良継)
明日の9月20日(水)より秋のお彼岸に入ります🪷お彼岸はお墓参り・ご先祖供養・六波羅蜜の実践などなど、極楽浄土に想いを馳せる期間。お盆、そして春と秋のお彼岸。一般的には仏事と思われていますが、実は仏教にはない日本固有の習俗で、どちらかといえば神道的な行事なんです。その根源にあるのは、仏教渡来以前からの日本古来の「祖霊信仰(祖先崇拝)」日本での祖先崇拝は、仏教が伝来した6世紀半ばよりかなり以前から行われており、縄文時代においては環状列石による祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼が行われてい
*9月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは奈良時代です。本日は、天平の黄昏のおはなし。🍞あんみつ「先生、称徳女帝の神護景雲元年(767)十月、道鏡に太政大臣禅師から法王の称号が授けられました。法王宮職が置かれ、道鏡は鸞輿(らんよ=玉座)に着き女帝と同じ衣食です。令制にない官名ではありますけど、事実上皇族の地位と待遇ですね」ぜんざい「実弟の弓削浄人ら一族
交野天神社・・・延暦6年(787年)、桓武天皇(第50代)が長岡京の南にあるこの地に郊祀壇を設けて、父である光仁天皇(第49代)を祀ったのが起源とされる。これは支那の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇を設けて、天帝を祀る例にならったものといわれる。ここの本殿は一間社流造で、鎌倉時代の嘉禎4年(1238年)と、室町時代の応永8年(1401年)に修復されたものである。本殿とその隣に位置する末社の八幡神社は、いずれも国の重要文化財に指定されている。境内には、継体天皇(第26代)が置いた樟葉宮跡とも
ちとせならのツアーの続きです。新薬師寺の隣にある不空院(通常非公開)は山号の春日山(しゅんじつざん)が示す藤原氏ゆかりの寺。唐から招へいされた鑑真和上の到着後の最初の滞在先であったと伝わります。平安時代、住坊跡に空海が八角堂を立て、それが興福寺南円堂のひな型になったと伝わります。藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)とは?意味や使い方-コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ)-藤原冬嗣の用語解説-平安初期の政治家。右大臣内麻呂(うちまろ)の二男。後の嵯峨(さが)天皇が皇太弟となった
最期の小野小町が福井県越前市に生まれた事で生誕地と終焉地の関係が一通り説明が出来る様になりましたが、今回、福井県立図書館に問い合わせた結果の中に面白い事を書かれていました。勿論、問い合わせたのは越前市の小野小町の伝承と、「小町」の名がつく地名についてですが、伝承は概ね同じような内容らしく、小町の付く地名はなかったとの回答でした。地名は采女、「小町」に必須な条件だったのは平安時代の話なので、鎌倉末期は500年後の世界なので、後宮での仮称は廃止されていた可能性は高いと思います、代わ
【食育クイズ:Vol.1288】「京都府」の「宇治、三室戸寺」おさらいクイズ!「西国三十三所観音霊場」の一つ「三室戸寺」は何番目の巡礼地?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,035円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,1
天智天皇の第7皇子で光仁天皇の父ともなる春日宮天皇(田原天皇)田原西陵を拝陵しました。田原天皇は志貴皇子としてよく知られています。志貴皇子-Wikipedia
有名な深大寺そばを雀のお宿さんでいただいて雨で冷えた体をほっこり温めた私と夫は参道を歩き始めました。細い参道にはお蕎麦屋さんやお団子がいただける茶店がずらりと並んでいて、まるで江戸時代にタイムスリップしたような素敵な雰囲気でした。東京はどこもかしこも何かというと新しい建物や近代的な高いビルをどんどん建ててしまうので、江戸の風情を残す雰囲気はかえってとても価値があると感じました。ずっとこのまま残っていてほしい町並みです参道を歩いていると深大寺様の本坊が見
6鵲(かささぎ)の渡(わた)せる橋に置く霜(しも)の白きを見れば夜(よ)ぞ更けにける中納言家持(ちゅうなごんやかもち)【出典】『新古今和歌集』巻六・冬歌・620題知らず・中納言家持。++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++かささぎが翼を連ねて天の川に渡している橋、そこに置く霜が真っ白なのを見ると、夜もすっかり更けたのだな。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み