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中国ドラマ『それでも家族』全46話https://youtu.be/Cxa9HfLjHBI【中国で社会現象となったドラマが遂に日本上陸】「それでも、家族~AllisWell~」10/27(木)~女性チャンネル♪LaLaTVで放送スタート!孤軍奮闘する女性主人公のリアルな生き様に共感と応援の嵐!笑って泣ける、感動のヒューマンドラマ<日本初放送>中国ドラマ「それでも、家族~AllisWell~」放送日時:10/27(木)スタート毎週(月)~(金)21:00~22:00出演:ヤオ・
毒親の子育てはとーーーっても無責任。自分の都合ばかりで子供のためにすることなんて何にも無い兄妹差別が激しくて兄、私、妹、弟の兄弟をとても可愛がってたよ私も妹も諦めて色々我慢したな。だから今私は妹しか救わない。兄も弟もどうでもよい。お金に困ろうが、子供がグレようが、私には関係ないのだわ。妹が楽しく生きれればわたしは幸せなんだよ。大器晩成バンザイ!あの時我慢した私が今度は自由に生きるんだ。毒親は私を生意気な子供だと友達に。いや、元友達に言っていたそう思ってて構わない。あなた
私は家族を捨てましたいくら血が繋がりがあってもいくら親子でもいくら兄妹姉妹でももう家族じゃなかった穏やかに過ごしていた日々の中でも修復できてない何かがあっただからいとも簡単に壊れてしまった今度は悲しくない私には家族はいなかったその生活がまた始まるだけ私は私の幸せを一人で生きていく
最近食べたケーキは?殆どの人がクリスマスケーキなのではないのか。私も職場の若い男性スタッフに当日スタッフへの差し入れと言ってケーキをいただいてしまって「おおお、おかーちゃんたちを虜にしてどうするつもり?!」とお礼を言ったところでした。ケーキ、魅惑の食べ物‥‥。子供の頃は誕生日かクリスマスでしか食べられなかったけど、誕生日でさえ食べられないことが多かったな。特に秋生まれのワタクシ、台風とぶつかることも多かった。小学校の頃もうすぐ誕生日だ~と思ってたら、父親がカレ
ある朝の様子。コロンとした手足も、そのうち細長くなる。という絵。座卓の下から兄にちょっかい出そうとしている妹子。ちなみにモリモリ黒黒と伸びた兄の髪は、一昨日に散髪に行ってきました。今はスッキリスポーツ刈り男子になってます。次の脳波まで1ヶ月切ったからね。下の人にもなにかあるのかなぁ…と不安になる要素として、ビックリするくらい兄妹似てる。ということにあります。書き出そうとしてもけっこう些細なことが多いので挙げたらきりがないのですが、例えば帽子を嫌がるとか(感覚過敏?)毎日過ごしていて
滋賀県守山市3分で1個心のブロック解除【心も体も整うマインドブロックバスター®︎】MIYUKIですセラピストMIYUKIが贈る4月お悩み解決体験会ブロック解除2個(10分)¥1,000⬇︎4/26•4/30お悩み解消心のブロック解除体験会色々な騒動を巻き起こした背景には姉と私への扱いの差☆☆☆その①「聞いてー」☆☆☆どうしても解せない。1個上の姉の方がなぜかいつも帰宅が早い!なぜだ!?今日こそは!とフルダッシュで帰ってもすでに帰宅している姉なので
帰宅したら…👹ナマハゲがでていて、(NHK)たいして小さくない4歳も泣いてるの。3歳も。大口開けて。乳幼児まででしょーー?入ってるの近所のおっつあんだともうわかる年だよね思いっきり!奥歯までみせて泣いていた子をみて「こんなふうに4歳以上で泣いて親にしがみついてよしよし大丈夫なんてなかったな~」子ども時代をちゃんとやっていなかったひとりだ。そういう人、ある日中年以降『我慢を溜め込んだ蓋』開きませんかーその正体!を解いていかないと生きづらいんだよね・
まず初めに私がいつも書いてる毒母って実母だよ最近急激にフォロワーさん増えたからなのか義母と勘違いされてる人もいるようで義母はいつも私の味方になって、旦那に説教してくれる優しい母です実母の毒過去のネタは色々ありますがこちらもご覧下さい兄を溺愛する毒母さて本題前回、お正月どうするの?って毒母から連絡来たんだけどお兄ちゃん来るし、あなた無理でしょって。お正月どうするの?と聞いておきながら遠回しに来るなと?なのでじゃ、帰るのやめるわでも、〇〇ちゃん(娘)可哀想じゃない?
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言って、お兄ちゃんばかり可愛いがってきたのだから困った時も「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、言っておくれ
母「お前は何もわかってない」唐突に母に言われる私は、心の中で「何が?」と思う母に聞いたところで返事が返ってくるはずがないそして私はしばらく何が分からないのか考え続ける答えは出ないそして私はお母さんの気持ちを分かってあげられないと自分を責める母「お兄ちゃんは、分かってる」この言葉がどれだけ私を傷つけてきたか母「お兄ちゃんは男だからやらなくていい」何で?何で男だからやらなくていいの?私が納得するように説明して
重いタイトルですが内容もちと重め。前にもちらっと書きましたが、ただいま絵に描いたようなイヤイヤ期の次女ちゃん。リアルに朝から晩まで「いやや〜」って言ってます。「おはよう!」って言ったら「いやや〜」って返ってきたりとか。この前も目が覚めた瞬間「いやや〜」って泣きながら起きてきたからね。なにがやねんもう。それにプラスまだまだ酷い後追い・・・赤ちゃん期みたいなややこしさ×イヤイヤ期のややこしさ=ヘットヘト・・・で、そんな中でトイトレ成功中の長女には、どうしても(まぁやる気を削がないように
実家の母が、入院した地元の病院の隣にある老健に入れて頂いてから1年半。鎌倉がいい、ここはみなさんよくしていくれるし、というので面会に通っていたけれど、片道2時間かかる。それでも差し入れのおやつとか雑誌とかを楽しみにしているので行ってたけれどせいぜい1週間に1度の面会。年明けからインフルエンザが出たりして施設から面会禁止期間が1ヶ月以上あり、解除になった時は3月で私は仕事の繁忙期でしばらく面会に行けなかった。そうしたら(差し入れも来ないので)寂しくなったらしく「あなたの近くに行
は、無い。バタコです。いや、あるんです。私と兄は兄妹で同じ親から生まれてて。同じ血が流れとります。変えられない、ねじ曲げられない絶対的なものです。兄を理解できるとは思っていません。そういう人なんだと、受け入れることはできるかなって思ったりもしたけど…キャパオーバーでーす(・∇・)あぁーそしてなんだろう。感謝を申し上げたいよ。あなたのぶっ飛んだ思考回路と性格のお陰です。反面教師万歳
私は感じた事を伝えたり文字にしたりすることがとっても下手くそだ。言い回し・・・語尾の使い方・・・本当はもっと良い言い方があったり書き方があるのに思い浮かばない。ボキャブラリーが足りない=私。それは私が今までの人生でしっかり勉強してこなかったせいでもある。これはとっても後悔している。。。昨日は心身ともに疲れていてやる気もおきず主人と食事に行った。一昨日の姉妹とのやりとりを主人はおそらく聞いていた。私が悔しくて泣いていたのも知っている。あえ
しばらく更新を怠ってしまった。更新をしない間に心境として1度だけ過去を思い出し腹がたったことがあったけどあとは平凡に暮らしていた。私は成人しているし大人だし自分で稼ぐ事もできるし食べていける。まだ小さかった頃は「自分で稼げるようになりたい!自分だけの家がほしい」本当に思っていた。どんな親でも頼れるのは親しかいない。どんな親でも愛してほしいし嫌われたくない。世の中にはもっともっともっともっと辛い目にあっている子たちが沢山いると知っ
産まれて初めて母の日に何もしなかった。連絡を絶ってるのでもちろんメールもしてないし電話もしていない。何度か頭の中に「親不孝者」という言葉が過ったが「これでよかったのだ」と言い聞かせて過ごした母の日だった。母はどういう気持だっただろう・・・私みたいな子どもを産んで可愛そうなのは母の方かもしれない・・・そういう事を考える事もあった。でも実際私が全て悪かったとしても現実私は苦しかった。。。その苦しみから逃れる為に母との連絡を絶ち家族を家族として見
5月13日は母の日。毎年母の日や誕生日などはお祝いをしてきた。昨年だったか母の日に高価なプレゼントではなく食事をごちそうした。食事だけでは可愛そうだと思いお花をプレゼントした。後に母より500円くらいのカーネーションしかもらえなかった・・・と言われた。(もちろん500円ではない)母は自慢することが生きがいのような人なので高価なプレゼントや旅行ではなかったことが嫌だったのだろう。その後の母の誕生日には何もしてあげなかった。。。もちろん
昨年、久々に母の家へ行ったときの出来事。当時母の姉妹が遊びに来ていて冷蔵庫を開けた時に賞味期限切れのものがありそれを指摘された母は「それは〇〇○(私の事)がしてるんよ!」と言った。以前母と暮らしていた時には確かに冷蔵庫の整理を私がしていた。だけど私が結婚して実家を出てもう数年以上経っている。これは覚えていることの1つだけれども母は何かにつけて誰かに何かを指摘されると「〇〇○(私の事)がやったこと」と言うのだ。壁の傷も枯れてしまった植木も
行ってらっしゃい末っ子カンナが可愛いすぎてチチに兄妹差別してると怒られる末っ子は可愛いもんネイルチェンジ短め~女性スタッフだけの便利屋便利屋BEATassistホームページ求人お問い合わせLINEIDbeat-proクリックするとLINEお友達へ
昨夜また1つ思い出した。小学生の頃だったと思う。1度だけ警察に電話した事があったのを思い出した。誰も居ない部屋の片隅から勇気をだして電話をしたのを覚えている。だけど数回コールして切ってしまった。そうしたらすぐに電話がかかってきて「先ほどお電話されましたか?」と尋ねられた。ここで全てを話してしまうと本当に母から捨てられてしまうかもしれない・・・。そう思うととても恐怖だった。なので私は「間違えて電話してしまいました」と言ったのを覚えている
いつも「平等に育ててきた」といろんな人に母が言ってるのを聞いてきて「1度も平等だと思ったことはない」と思ってきた私。私だと許されない私だと叱られる私だと・・・・そういう事ばっかりだった。だからずっと一人っ子が羨ましかった。母を母じゃないと思うことで比べられたり差別されたりする事の苦しみから解放された気がした。だけどできれば遠く離れた土地で暮らしたい。
小さい頃からピアノを習っていた。最初に習った先生はとっても怖くて上手く弾けなかったらつねったりする先生だった。その次の先生は本当に優しかった。ピアノ以外の相談もするようになって本当に先生には救われていた。ピアノの練習は母から叱られる原因の1つだったのですごく嫌だったけども先生が優しくて大好きだったので頑張って続けていた。というより「辞めたい」と言えなかった。ピアノを弾いていると母のスリッパの音が聞こえてくる。音から母の怒りが感じられる
毒母との連絡を経ち早4ヶ月ほどすぎた。正直寂しい気持ちはある。毒母と言えども優しかった事もあるし助けてもらった事もある。だけどそれ以上に”嫌な思いをした出来事”に心が占領されてしまった。絶縁後は嫌な事を言われる事がなくなったので泣いたり苦しんだりがなくなった。絶縁する1年ほど前から困った時や助けてほしい時に相談しても批判しかされなくなりそれが1番の絶縁への決意でもあったのだけど。上手く言葉にできないのだけど
最近心打たれた曲。自分と重ねて聞いてしまう部分がある。そして泣いてしまう。
初めて就職する時に言われた一言。まだまだ私の中では「母の言葉は絶対」だった。「会社での人間は友達でも家族でもない。会社の人間を信頼したり、深く付き合うべきではない。」と言われた。その言葉を真に受けて信じて生きていたので就職してしばらくは「会社の中の人間を信頼しない。友達にはならない。」と思っていた。就職先が研修も多く厳しい会社だったため自然に皆協力したり助け合ったりするようになり仲良くなった。今思うと私は自然に母の言葉を忘れ自分
幼い頃はずっと「生まれてきたことが苦しかった」。「なんで生まれたんだろう」「あと何年何十年生きていかないといけないのだろう」とずっと思っていた。日常生活では母に叱られる毎日。体も弱く病気に苦しむ日々。習い事も勉強も良い結果が出せない。恐らく高校生くらいまでは「人生早く死んでしまいたい」と望んでいたのを覚えている。生きるのが難しければ死ぬことも難しい。そう痛感した幼少期だった。学校を卒業し就職してからやっと自分の人生をスタートしたよう
胃潰瘍の記事を書いて1つ思い出した事がある。幼い頃は入退院を繰り返していてそれに付き添わなければならない母は大変だったとは思う。1度数週間入院しもうすぐ退院という時に再度検査をする事になった。髄液検査だったのだがその髄液検査の直後から嘔吐が止まらなくなり下半身が麻痺してしまった。私は歩けない動けない事よりも日に何度も嘔吐してしまう事が苦しくてたまらなかった。色んな先生に見てもらったが原因がわからずただ入院が長引く事になった。すると母は
小さい頃は本当に体が弱くて病院通いが日課だった。高校生になった時のある日学校帰りに「胃痙攣」になった。胃痙攣なったことがある方ならわかると思うけどものすごく苦しいのだ。胃を鷲掴みにされてるような痛みで息もできないぐらい痛いのだ。動くと更に痛みが増すのでとにかくピクリとも動けない。下校途中に急に胃痙攣に襲われその場でうずくまってしまい動くことができない。友人が近くまで運んでくれて・・・携帯など無い時代だったので激痛が去った後にや