ブログ記事16件
今日はフルタイムでタイミーでした。なかなか資格?が捨てられませんw就職活動すると目が充血したりしてジャマが入るし、、、いや〜どうしましょ😂そして昨日こんなブログをUPしました。『浅間山公園に坪宮の御祭神のお墓があるのかを確かめる』今日はお友達と待ち合わせて浅間山公園に行ってきました。『坪宮〜やっぱりキタ!神の遣い』昨日の午後はお友達が大國魂神社まで来てくれて、おデートしてきました✨️…ameblo.jpブログにはなぜか書いていませんでしたが最近何度も小野神社に行っています✨️お正月仕
昨日の午後はお友達が大國魂神社まで来てくれて、おデートしてきました✨️話したいことがたくさんあったのでお茶してから少し歩いて坪宮まで行きました。で、今日の本題😃友達と神社巡りしているとよく知らない人に声をかけられるんですよ。なんとなくですが私たちに必要な情報を言わされている?ように感じたりして(妄想です)。なので神の遣いだと思っています。昨日もちょうどこの写真↑を撮っていたら男性に声をかけられまして、坪宮についての興味深い考察をお話ししてくれました。坪宮に祀られていらっしゃるのは兄多毛
さて今回から藤岡市を流れる鮎川をさかのぼって山中の神社を参拝します。■鷲神社・・・群馬県藤岡市下日野696藤岡の平地部から山中に入ったあたり谷筋の集落周辺の状況鷲(わし)宮小さな神社です。鷲(わし)本殿を覗き見てみました。どうも大陸系装飾のようです。屋根にシャチホコ、海人族の痕跡かもしれません。シャチホコのある神社は関東では珍しいです。名もなき祠群「新全国神社検索」によれば、ここ鷲神社の祭神は武夷鳥
8世紀以降、多摩川流域は後発移民グループ(壬生吉志など)を利用し近畿政権の草刈り場となったようです。で、これまで見てきた神社・博物館から類推できる武蔵国の時代の流れを年表にまとめてみました。これまでのブログで都度触れてきたことの一覧になります。(長いな…)①まず関東における弥生土器の変遷は#117セルフアーカイブ埼玉県立歴史と民俗の博物館2にまとめておきました。縄文土器から弥生土器への移行がグラデーションになっていて面白いです。移行が終わった弥生土器は実用一点張りの貯蔵用土器
前回の伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社は相当ヘビーでした。ま、しかし、様々な情報を演繹するのが大変なだけであって、全く情報がないよりもはるかにマシです。さて今回の神社はどうでしょうか?■鬼鎮神社・・・埼玉県比企郡嵐山町川島1898前回の伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社から山一つ南に越えてすぐ、町の中です。古い街道の辻にある、感じですね。鬼を鎮める、とはすごいネーミングですね。拝殿正面鬼瓦、鳳凰、鬼の絵なぜに三五の桐
前回は規模が小さい割にとても興味深い祭神のある一ツ木荒神社を見たわけですが、今回は一ツ木荒神社から西へ移動し荒川を見下ろす山の上へ登ります。■髙負彦根(たかおいひこね)神社・・・埼玉県比企郡吉見町田甲1945少々山を登るとたどり着きますが、険しい山ではなく周囲には人家も多くて住宅地のような感じです。鳥居をくぐるとすぐに拝殿です。神額拝殿正面の屋根崇神の神紋、そして「高負」本殿覆屋延喜式内社で、かつては玉鉾氷川明神といった。祭神
ではまた前回の横見神社からわずかに移動して伊波比神社です。この名前を見たら来るでしょ!というのも「いずもいわい」と名のつく神社をこれまで2か所訪問しています。1つは出雲祝神社(埼玉県入間市宮寺1)ここは出雲族の関東進出を考察するうえで超重要なきっかけとなった神社です。かいつまんで申しますと、関東の氷川神社は初代武蔵国造・兄多毛比が開いたというニュアンスになっていますが、肝心の「兄多毛比が誰なのか」について誰も解析できていませんでした。確かに故・百嶋由一郎氏が既に神代系譜の中で指摘して
さて前回の大宮住吉神社が意外な大物だったわけですが、その大宮住吉神社の宮司一族が勝呂氏な訳です。■勝呂(すぐろ)神社・・・埼玉県坂戸市石井226すぐ南にある大宮住吉神社と川を挟んでの立地です。勝呂神社は円墳の上に立っています。白山姫神社が祀られている。ここ石井の地は縄文期から人が住み、古墳期から中世にかけて入間郡の中心だった。崇神期の四道将軍・建淳河別が葬られているとされています。武蔵七党の村山党・須黒氏が本拠地とした。東を東山道武蔵道が通っていた。
前回までは砂川河口から新河岸川をさかのぼり川越氷川神社に到達しました。その間に見た神社は氷川の看板を掲げていてもどうも氷川っぽくない神社でした。原初の氷川なら奇稲田姫もいていいはずだし、千木・鰹木もあっていいと思いますが、ないのです。その理由として想像したのは次のようなことでした。兄多毛比(えたけひ)が氷川族※1を引き連れて関東に設立したという氷川神社群、それは九州勢力による関東開発の初期の大きな動きだったと思います。彼らは荒川を中心に水運を支配したと思われます。その後武蔵大國魂神社
前回までは不老川沿岸の神社を辿っていたわけですが、不老川の河口まで戻って古荒川湾沿岸を北上します。不老川河口のすぐ北にある仙波氷川神社を訪れました。■仙波氷川神社・・・埼玉県川越市仙波町4丁目19−1江戸期に家康が大土木工事をやり、現在よりも北方を流れていた荒川(元荒川)を現在のような流路にしました。それ以前は入間川が荒川の源流でした。(ま、そうはいっても沖積平野の広がりを見ればそんなに意味あることでもないですが)土地利用の遅れている個所がかつての古荒川湾だったと考え
今回の堀口天満天神社で柳瀬川の遡上は終わりです。次回からはこの柳瀬川の支流を遡るシリーズを始めますのでご期待ください!■堀口天満天神社・・・埼玉県所沢市上山口436左に見える湖は戦前に作られた人造湖・狭山湖です。かつては歴史の古い小さな村々がありましたが、今では湖の底です。かつては人々の住んでいた安全な谷間の出口に当たるのがここで、それを見下ろすかのような要衝に建っているのが堀口天満天神社です。細い谷間を畑にしています。その谷間のどんづまりに堀口天満天神
埼玉県立歴史と民俗の博物館シリーズ(①、②、③、④、⑤、⑥)で埼玉県域の地理的歴史、それを根拠にした古代の歴史を演繹しました。簡単におさらいすると…関東の中心は古代から荒川流域であり、そこを支配したのは氷川神社勢力であることは誰の目から見ても明らかだと思います。その根拠は「大宮台地と武蔵野台地に挟まれたかつての古荒川湾は縄文時代から人口密集地帯で、そこを丸ごと抑えるように分布しているのが氷川神社群だから」です。また、その氷川神社群を創設したとされる兄多毛比(えたけひ)命が出雲族を率いてここ
前回の鷲宮神社の2駅上流にある玉敷神社に行ってきました。■玉敷神社・・・埼玉県加須市騎西552−1こうやってGoogleMapでみると水田と町(微高地)がはっきり分かって、本来の地形が分かりやすいのですが、実際に来てみると微高地は全く分からず、ただ田んぼが広がってる沖積平野に過ぎません。これも実際に来てみないとわかりませんでした。玉敷神社に隣接して藤棚がありました。樹齢400年だそうです。結構広いです。玉敷神社敷地の外周の渠。水量豊かに流れています。
前回の出雲祝神社のレポでちょっと面白い展開となりましたので、予告通り鷲宮神社へ行ってきましたよ。■鷲宮神社・・・埼玉県久喜市鷲宮1丁目6−1関東平野を流れる大河・利根川の少し南だだっ広い大地に鷲宮神社はあります。この周辺はほぼ高低差がありません。上図を見ると市街地は高くて、農地は低い、と想像していたのですが、はっきりいって高低差はほぼないです。果てしなく平らな沖積平野が広がっている、といった感じですね。だので、この鷲宮神社も上図で見ると孤立した丘のように見えますが、丘と
前回の謎の神社訪問で「出雲問題」が噴出しましたので、私も近所の出雲神社へ行ってきましたよ。■出雲祝神社・・・埼玉県入間市宮寺1埼玉県武蔵野台地の中央部・狭山丘陵の北側地割を見ただけでこの地域がかなり古い時代に開発されたとわかります。埼玉をあまりご存じない方のために言いますと、武蔵野台地は灌漑に利用できる川があまりなくて古代から畑作中心でした。しかも狭山丘陵の南側に至っては、江戸時代以前はほぼ雑木林のままでした。(生産に不向き)そんな武蔵野台地の中でもここではある程
さて、武蔵国造の乱の考察を前回やってみたのですが、それに関連して无邪志国造(むざしこくぞう?)、胸刺国造(むさしこくぞう?)の2つの言葉について考察してみましょう。无邪志国造、胸刺国造とは武蔵国を支配したとされる国造でこの2国造は同一のものであるとする説と別であるとする説があります。明確な結論はなさそうです。では基本的な理解のためにWikipediaの記事を簡略に以下に抜粋します。无邪志国造(Wikipedia)…1.无邪志国造の祖先天之菩卑能命の子建比良鳥命が无邪志国造の祖。