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"秦氏=ユダヤ!?平安京を作り消えた1.8万の渡来人と聖書の7つの一致【眠れる歴史】"-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.beだとすると、アマテラスより啓示を受けた三人のうちの一人は秦氏<現代への転生名は秦氏=織部氏>!出がけに強風にあってしまい、足元に小さなちょうちょが軽い体であおられてしまってブロックの塀に押し付けられるようにして強風に
■熊日(20260501)に「元寇沈没船に墨書きの木板」という記事が登場しています。この記事でよくわからなかったのが、次の点です。その木板には、元の年号である「至元十二年」(もしくは十三年)という表記が明らかになったとして、西暦では1274年(第一次)の翌年に当たるということらしいのですが、これって変ですよね。沈没したのは、元寇のあった74年でしょうから、75年の表記では、翌年沈没したということになりませんか。記者は、この記事を書くにあたって、疑問は浮かばなかった
元寇とは、日本の鎌倉時代中期にモンゴル高原と中国大陸を中心に東アジアと北アジアを支配していた「蒙古」と呼ばれる「モンゴル帝国」(元朝・モンゴル・中国)と、その属国である「高麗」(朝鮮)によって2度行われた対日本侵攻の呼称。モンゴル・中国・朝鮮はこの日本侵略で残虐非道の殺戮を行なった。1274年の第1次侵攻「元寇文永の役」と1281年の第2次侵攻「元寇弘安の役」で元(モンゴル・中国)と高麗(朝鮮)が日本へ侵攻し、殺戮・残虐行為を行った。この「元寇」のせいで没落した日本の御家人が海賊となり
歴史探索蒙古襲来絵詞の元軍拠点(麁原山)前回は元寇(文永の役)の有名な絵はどこでの戦だったのかでしたが、今回は敵方である元軍は上陸後どこを拠点にしていたかとなります⬆︎こちらの絵は絵詞の一部ですが、元軍が陣地にて銅鑼や早鐘を打ち鳴らして陣営を鼓舞している様子らしいです陣営が設置された場所は麁原山西新を南北に通る早良街道沿いの、祖原(麁原)にある少し盛り上がったところで、高い建物がない昔なら見通しが良くて現在は小高い公園となっていますこちらは早良街道から坂を登ったところの祖原公園の
松浦市埋蔵文化財センター海底遺跡:鷹島神崎遺跡の研究の最前線❗水中考古学ってなんだろう?初めてふれる気がします。展示の内容は元寇に関わるものと水中考古学に関することがメインみたいめざせ水中考古学の拠点基地!めだまの展示はイカリかな?材質が石の「碇」木の「いかり」鉄の「錨」いろいろあるみたいです。木材の部分がのこっているのはとっても珍しいみたいです写真で見るよりおっきなイカリ。保存処理の過程を見れて水中考古学を志す人にとってはテンションすご~くあがる
宮地嶽史跡公園元寇記念之碑海を眺めていまはあおあおみどりの公園広場は何となく厳かです。今よりもずっと海のむこうが遠かったころ水平線を越えて表れる異邦人はどんなふうにみえたんだろう訪問日2023.5.16↓つぎのページ『海に眠る勇気を』松浦市埋蔵文化財センター海底遺跡:鷹島神崎遺跡の研究の最前線❗水中考古学ってなんだろう?初めてふれる気がします。展示の内容は元寇に関わるものと水中考古学に…ameblo.jp↓まえのページ『モンゴルの風海を越えて駆けて
鷹島モンゴル村🇲🇳物販コーナーインフォメーションセンター天然温泉にビアガーデン動物とのふれあい施設村というにはよりどりみどりだけど今は休止中それでも芝生はとてもきれいで海風さっそう駆けぬけてカーテンみたいにみどりゆらゆら泊まれたゲルも今はふたつが見学用で活動中ほかは景色になっちゃった足湯のフネに落ち葉がおどるスロープカーも夢の中時計をぐるぐるもどせたら元寇船が見えるのかな?訪問日2023.5.16↓よりみちのページ『このど
九州自動車道が山麓をかすめる位置に竹崎城があります。県道沿いに竹崎城跡の案内看板が、年代感のある解説板とともに設置されていますので、そこから県道を逸れて東に入り、九州自動車道を跨いだ先へと車を進めれば、主郭の直下まで車で行くことができるようになっています。主郭は公園化され、主郭切岸の下には比較的新しい解説板もあります。主郭には「竹崎季長城跡」と刻まれた大きな城址碑が立っていたようですが、今は倒れています。碑が立っていた写真も見たことがあるので、碑が倒れたのは恐らく熊本地震の時なのでしょ
歴史探索蒙古襲来絵詞の松(塩屋の松)教科書など、元寇を調べれば出てくる騎馬武者と元軍の交戦の様子を描いたもの「蒙古襲来絵詞」という肥後の御家人・竹崎季長が描かせた巻き物の一部分として有名ですねこの矢やてつはうが飛び交う戦いは"鳥飼潟の戦い"というもので、2回にわたって襲来した元軍との戦いのうち、1回目の"文永の役"にて、赤坂山(現在の福岡城)を中心とした"赤坂の戦い"で敗走した元軍は麁原山へと撤退立て直しを図り、陣地にて銅鑼や早鐘を打ち鳴らして陣営を鼓舞、そして鳥飼潟という干潟へ進行
鎌倉五山第四位の浄智寺(じょうちじ)に行って来ました。臨済宗円覚寺派で山号は金宝山(きんぽうざん)。山門の手前に鎌倉十井(かまくらじっせい)のうちの一つ「甘露(かんろ)の井」があります。鎌倉は水質が悪く、美味な水が湧く井戸は貴重で江戸時代に十の名水井戸が選定されたそうです。ここは鎌倉幕府第五代執権、北条時頼の三男、北条宗政(むねまさ)が二十九歳で没後に供養のため宗政夫人と幼少の師時(もろとき)(後の十代執権)により創建されました。苔むした階段が時代を感じさせます。北条宗政は五代執権、北
小茂田濱神社長崎県対馬市厳原町小茂田742対馬の厳原に鎮座する小茂田濱神社主祭神は元寇の1回目(文永の役)の緒戦の対馬侵攻において、旧暦1274年10月6日に戦死した対馬国の地頭代(守護代)の宗助国(宗資国)であり、元寇で戦死した将士の霊も祀っている。▼当社650年祭周年記念の碑(大正13年)▼元寇700年記念の碑(昭和49年)本殿の前に砲弾が3個、置かれている▼本殿。向かって右にある2つの砲弾日露戦争の戦利品長い砲弾:長さ80cm超、径約20cm、詳細不明
いろんな遺跡探訪今回の元寇防塁跡は跡ではありません資料では石築地の東の端は香椎とあるのですが、ここは地形が変わりすぎて元の海岸線が分からないくらいに変化しており、元寇防塁もどこに築かれたか正確には不明ですただ、石築地と思われるものが発掘されたという記録はあるようですなので今回は当時石築地が築かれたと思われる場所を辿ろうと思いますまず最初に香椎駅なのですが、ここからなだらかに下り坂となっているので、おそらくその辺りは砂浜で先は海だったのではないかと思いますこちらが香椎駅香椎宮のお
木片に文字!1)朝日新聞(20260411)「元寇裏付け木板に元号」■今、長崎の鷹島沖で、海底遺跡の発掘が盛んに行われているのですが、そんな中、貴重な品物が出てきたというのです。それはというと、見出しの如く、「元軍沈没船の木板に、漢字で当時の元号などが書かれていた」というのです。結論から言うと、日本史の時間帯と一致しているということでした。2)朝日新聞(20260410)「紫電改海から引き揚げ」■こちらは、戦時中の戦闘機が引き揚げられ
森羅記二揺籃の塵(集英社文芸単行本)Amazon(アマゾン)2巻目は、元寇以前のモンゴルと日本それぞれの動きが描かれています。元寇はまだまだのようですが、両国のの国内事情がやがて元寇への伏線となっていくのでしょう。・南宋への親征を企てるモンゴル皇帝・モンケ・不穏な気配を察し大型船の建造を命じる鎌倉の執権・北条時頼・商人、船乗り、武士と様々な顔を持つ陸奥の安東(木作)重安・モンゴル、日本に双方に利する働きをするタケルそして祖父チンギス・カンの行動力と思考力
つちふるやふわりとかるい風のおとバイパスに渋滞続く鐘霞む青信号三つ先まで続く春星朧ついてくるのはねこのこえ午後は雨春の一条戻橋●約落としに/わたなべじゅんこ(神戸市)「ついてない」のか「憑いているのか」。楽しみにしていた旅が先方の都合でキャンセルになって、その代わりにたくさんの〆切が襲ってきた。「元寇だ!元寇だ!」と叫びながら書き上げたと思ったらこんどはパソコンが何度目かのクラッシュ。またまた復帰に手間取っている。今回は無理かも。ほんと厄落としに行かなくちゃ。
いろんな遺跡探訪元寇防塁跡の史跡指定地もいよいよ最後、箱崎・地蔵松原のものです現在箱崎のものは地蔵松原公園に直線状に並んだ岩が石築地であるとされますが、埋蔵文化財状態でほとんど分かりませんしかし、箱崎は長年九州大学の本拠地でもある箱崎キャンパスがあり、こちらが老朽化して糸島キャンパスへ機能が移動、そして箱崎キャンパス跡地を再開発中ですそして以前から言われていましたが、この再開発での調査の際に石築地が発掘されており、元寇防塁跡として開発後の施設に展示予定だとネットニュースで見ました大
いろんな遺跡探訪今回の元寇防塁跡は昔から貿易と商業の街として知られた博多に築かれていたとされるものですこちらは小学校の校内にあり、場所も呉服町という駅が近くて博多駅からは少し離れていますこれは本来博多の街は現在の場所ではなく、もう少し北西の祇園が古くは博多だったためですその昔は博多小学校より先は海であり、住吉神社も海に面して鎮座しており、湾になっていたようですこの石築地は1998年に博多の4つの小学校が統合、新校舎の建設のため発掘調査をした際に発見されたものですただ防塁と推測はさ
日本の秘境100選の旅69ヶ所目は鷹島海底遺跡ですよぉビミョ~な選出っぷりに毎度ガッカリ感の高い秘境百選巡りそんな秘境巡りも69ヶ所目にして遂に海中へ行けっていうね( ̄▽ ̄)あいにくドラえもんいねぇし海底まで行く術ございませんので知的欲求だけ満たそうぢゃないかと長崎県なのに佐賀県経由必須の鷹島へ目指すは埋蔵文化財センター海底遺跡っつっても建物跡が海底から発見的な話ぢゃなく元寇の遺産が数多く眠る場所らしい元寇。。。懐かしい響きねぇ( ̄▽ ̄)
NHKの朝のニュースで、長崎市の一部地区に残る伝統行事、『モットモ』が特集された。お面を被ったモットモ爺が、家々を巡り子供たちに悪さをしない様にとたしなめるために、恐ろしい声を上げながら子供に迫る。まるで「悪い子はいねが」と言いながら家々を廻るナマハゲの様である。以前にも鬼面や奇面を被ったり蓑(みの)のようなものを羽織ったりして練り歩いたり人々を威嚇して歩いたりする全国各地の奇面祭について書かせてもらった。https://ameblo.jp/tahbou-note/entry-12884
福岡市に鎮座する筥崎宮は、歴史ある神社で、日本三大八幡宮の一つに数えられます。勝負運の神様という事で、以前ソフトバンクホークスの監督、選手が必勝祈願しているのをニュースで見て、一度行ってみたいと思っていました。まず一ノ鳥居。一ノ鳥居も黒田長政が建立したとのこと、歴史があります。狛犬さんもやはり大きめ。境内へ進みます。元寇で蒙古軍が使用した碇や触れると運が湧き出る!?、パワースポットの湧出石も境内に。しっかり触っておきました。立派な楼門!こちらから本殿を拝んでお詣りしました。本殿の
勝本から芦辺方面に向かう県道沿いに「新城神社」の案内標識が出ています。いかにも城があった感のあるネーミングの神社ですが、新城といっても全然新しくなく、樋詰城には鎌倉時代の記録しかないようです。ここは元寇の舞台の一つでした。文永の役の際、対馬の宗一族を殲滅させた元軍は、次の狙いを壱岐に定めました。守護の武藤(少弐)氏に代わり、平景隆が壱岐を守っていましたが、元の大軍を前に一日持ちこたえ、翌日に樋詰城を攻め落とされて自刃して果てたと伝わります。対馬に続いて壱岐も殲滅され、元軍は博多を目指して進
2026年3月10日(火)鷹島元寇終焉の島モンゴル村ナンカナンカ『2026年3月10日(火)鷹島元寇終焉の島モンゴル村ナンカナンカ』2026年3月10日(火)鷹島元寇終焉の島モンゴル村ナンカナンカameblo.jp
2026年3月10日(火)鷹島元寇終焉の島モンゴル村ナンカナンカ
元寇(げんこう)は作品を書く時に調べましたがすみずみまでこまかくというわけにはいきません。このたび鷹島がモンゴル軍との戦場、島全体が戦場となった島と知りました。モンゴル帝国、元寇が日本侵攻にきましたが台風が来てモンゴル軍が絶滅したのです。神風が起きたと当時は言われました。元寇終焉の島の石碑が立っています。今ようこそ「モンゴル村」へと観光地へと力を入れているようです。国指定の海底遺跡だそうです。地元へ行かないと知らない情報でした。また歴史を知りました。
筑前・岩門城のアルバム。動画。岩門城。福岡県那珂川市にある山城。築城についてはハッキリとしないが、安徳天皇がこの土地に来たときに警護の者たちがこの山に詰所を設けたという話がある。その後、元寇に対しての警備を行うためにこの山城を再整備したそうです。そんな山城。登山口に少弐景資の像。元寇では弓で元軍の副大将を射ち落としたなんていう話もあります。だから、弓を持っている。岩門城は岩門合戦の舞台でもあります。岩門合戦とは、少弐氏の3代目を景資と経資の兄弟で争った戦い。この像の景資はこの山城
「チンギス・ハーンの孫に生まれ、モンゴル帝国の第五代ハーンとなり、日本を攻め、「神風」に敗れたが、南宋を滅ぼし、中華世界を統一し。モンゴル王朝、「元」の創始者」人徳:85/統率力:94/決断力:99/政治力:94/行政力:99/軍事能力:95/武勇:92/知略:97/学識:90/天運:88=合計:933点日本人であれば、モンゴルによる、日本の侵略、「元寇」を知らぬ者はいないであろう。1247年、1281年の二度に渡り、当時の世界最大規模の艦
いろんな遺跡探訪今回の元寇防塁跡は福岡ドームや福岡の藩祖神社である光雲神社がある西公園に近い、地行ですここ地行は発掘調査がされておらず、ただ指定地に昭和前期頃は石築地の盛り上がりが確認されたそうですしかし現在は住宅地の狭い道の中にフェンスに囲まれた空き地がポツンとあるような状態で、知らない・興味がなければ確実にスルーされるような作りの状態です明らかに観光にはならないので、歴史好きで相当なマニアックでないとわざわざ訪れない場所ですこちらが地行の石築地があった場所です別角度だとコチラ
卑弥呼と会津<4>遠藤君が参照している「混一疆理歴代国都之図」なのですが、これは彼が述べるように、一四〇八年に描かれたものであるとするなら、どうしても腑に落ちない疑問が持ち上がってきます。この地図が描かれる百年以上前には、日本の鎌倉時代に「元寇の役」が起こっていたことです。一二七四年の<文永の役>と一二八一年の<弘安の役>の二度に渡る元(蒙古)と高麗(朝鮮)とによる日本侵略事件(戦争)があったことが、全く反映されていない地図としか見えません。もし、地図を正しく描けば、元軍が対馬に
異形宿星2回目次に尊治が成長した頃の日本の状況はどのようであったか。文永十一年(1274)に文永の役、弘安四年(1281)に弘安の役という二度の蒙古襲来を経験した。その結果、鎌倉幕府北条家の支配力は強化された。しかし元寇で戦った御家人たちの負担は大きく、恩賞が少なかったので、御家人たちの不満は北条氏へと向かった。世の中に反幕府の気運が高まっていた。公家たちの目には社会の危機と映った。この大きな変革期を乗り越えるに、公家たちは強い権限と指導力を持った賢主の出現を待ち望んだ
3月10日、火曜日、晴れ時々曇り☀️昨夜は道の駅「鷹ら島」で静かに眠れた🤩7時に起きてFFヒーターをONにして7時半にトイレに行き、車を移動して布団を整頓して朝ご飯は「厚揚げと玉子のおじや」を食べて食後は「ココアカステラとミルクコーヒー」🥰そうしたら、続々お客さんが入ってきてみんなレジ袋に何やらいっぱい買ってるので、娘に何を買ってるのか見てもらいに行ったら、ビニール袋に5匹程入った鯖が400円ほどとかを買ってた😯今日の予定は「松浦市埋蔵文化財センター」と「名護屋城博物館」