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皆さんにとっては見ることが難しい一コマであるが某、実はこの数分を楽しみにしています石垣の守所を下りて集合場所へ向かう間も「今日は誰が何処にいるかな?」とオラわくわくしてっぞ!そこでなにかが起きる!皆さんワクワクしてると思いますwwwこちらもどう構えるか?どう動きを変えるか?考えています終了5分前の対峙をお楽しみに!毎回かどうかわかりませんが、この時間帯チェックです(笑)この日は書写の剛の名を欲しいままにしておる悪童が潜む場所を見つけた弓をつがえておるので近づくのはきびしい…
さてさて…昨日、ホワイトデーは白馬の王子様や白馬の騎士からとったのか?…ということを書きましたが…お菓子をつくる時に使う砂糖は白いから…というのがどうやら本当みたいだね…最近、角砂糖ってあんまり見ない…ところで…ヨーロッパの騎士は多くが修道士から構成されていたので…日本でいうと僧兵と同じようなものなのかな…ところでところで…信州の諏訪氏は諏訪大社の神官から戦国大名を経て江戸幕府政権下でも大名として存続したけれど…僧兵から大名になったのは「洞ヶ峠を決め込む」の筒井順慶
この写真は令和5年10/16現在の状況です。最終日(結願)、やっと青空となりました。この日は舞楽奉納があり、9:30〜南都楽所の皆さんと、緋傘を掲げられた多くの僧侶方が行列され、初日とはまた異なる華やかさ。コースは初日同様、天皇殿を出発し、南大門脇を通過、南大門をくぐり抜け、参道を大仏殿へと向かいます。
この写真は令和5年10/14現在の状況です。いよいよ3日間にわたる盛儀“東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要”が始まりました。初日(開白)、最終日(結願)に参列させて頂きました。こんな機会がまたあるかも分からないし、こんなに頑張って写真を撮る自信もないので、ぼく自身の記録として7回に分けてご紹介します(4回目)。12:45〜本日の法要が終了して、式衆が退堂します。13:00〜行列は天皇殿へと無事に戻りました。コンビニ寄って部屋に戻ると、雨がパラツキ始め、法要最中に雨が降らず本当に良か
この写真は令和5年10/14現在の状況です。いよいよ3日間にわたる盛儀“東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要”が始まりました。初日(開白)、最終日(結願)に参列させて頂きました。こんな機会がまたあるかも分からないし、こんなに頑張って写真を撮る自信もないので、ぼく自身の記録として7回に分けてご紹介します。↓行列参加の皆さん、集合です。朝9:30〜、天皇殿から出仕の行列が出発します。この日は舞楽奉納があるため、雅楽の南都楽所の皆さん、華やかな舞楽衣装に身を包んだ皆さん、可愛らしい衣装のお
この写真は令和5年10/13現在の状況です。東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要、いよいよ前日となりました。“蜂起之儀”は夕刻17:00〜大湯屋を出発して、僧兵の格好にて東大寺境内をグルっと周り、45分ほどで大湯屋に戻る行程。今回は一緒に巡った70枚の写真を、3回に分けてご紹介します(最終回)。↑西塔脇を抜け、真言院前を通過。↓17:32、大仏殿中門前を通過。↑↓東塔跡脇、手向山八幡宮前を通過。↑↓法華堂前、四月堂前を通過。↓17:40、二月堂前を通過。↑↓二月堂裏参
寺や神社に、筋肉自慢の「仁王像」が置いてあるけど、これって筋トレ用のモデル・フィギュアだったのでは?って時々思うの。こんな風に、ここの筋肉を大きくして、ここを絞るとカッコいいよ、イケてる身体になるよ……って感じの「筋肉見本」。ダイエットする時、なりたい身体の写真を見たりするよね?令和時代のお腹はシックスパックが理想だけど、昔々は太鼓腹スタイル。古代ローマのグラディエーターも、ケガによるダメージを少なくするために太鼓腹スタイルにしていたらしいわ。プロレスラーのジャイアント馬場さんも「腹筋
この写真は令和5年10/13現在の状況です。東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要、いよいよ前日となりました。“蜂起之儀”は夕刻17:00〜大湯屋を出発して、僧兵の格好にて東大寺境内をグルっと周り、45分ほどで大湯屋に戻る行程。今回は一緒に巡った70枚の写真を、3回に分けてご紹介します。↓17:05、猫段を下る。↓長池脇(大仏殿材木の貯木場とも)。↓17:14、正倉院観覧車入口脇を通過。↓子安社、良弁僧正が母を祀り子孫繁栄を願う。↓指図堂(現在は庫裏が新しい写経場に)。↓
この写真は令和5年10/13現在の状況です。東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要、いよいよ前日となりました。“蜂起之儀”は夕刻17:00〜大湯屋を出発して、僧兵の格好にて東大寺境内をグルっと周り、45分ほどで大湯屋に戻る行程。今回は一緒に巡った70枚の写真を、3回に分けてご紹介します。↑16:42、東大寺本坊出発。↓16:53、大湯屋到着。↓16:57、大湯屋出発。↓鐘楼の丘を経て、辛国社へ。↓辛国行者と、東大寺寺地を巡り法力合戦。↓17:03、辛国社。
武士と僧兵の激突!!僧兵って。清水寺とかを打ち壊したり。やることがえげつないんだよな。都の貴族が僧兵に頭を悩ませて武士に命じて征伐してた。1000年前の話だな。貴族は武士を使いこなしてるつもりだったけど。武士はだんだんと台頭してくる。平氏や源氏が出てくるわけだな。武士と僧兵でなく武士と貴族との争いになっていくのが興味深い。僧兵のタチの悪さには呆れるわ~
興福寺や延暦寺と同じようなメカニズムで平安時代にかけて各地で僧兵が誕生しました。園城寺(おんじょうじ=滋賀県大津市)や多武峯寺(とうのみねでら=奈良県桜井市)、金峯山寺(きんぷせんじ=同吉野町)、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)などが有名です。しかも、これら武力を持った寺どうしの抗争が絶えませんでした。中世(鎌倉・室町・戦国)を通じて栄えた僧兵ですが、織田信長をはじめ、統一権力が出現しますと、一気に衰退していきます。信長は元亀2年(1571)8月に比叡山延暦寺
力を蓄えていった興福寺の僧兵らはやがて、寺の財産を守るという本来の役割以上の動きを示しはじめます。それが強訴(徒党を組んで訴えること)です。一般的に僧兵の強訴の初めは、平安時代の半ば、寛治7年(1093)のことだとされています。春日大社の社領(近江国)で国司が神人に乱暴を働いたことが原因となり、興福寺の僧兵らが春日大社の神木を担ぎ出し、大挙して入洛。そうして国司の罷免を訴えたのです。結果、朝廷は僧兵らの要求をいれ、国司は任を解かれ、土佐へ流罪となりました
当時の都だった奈良(平城京)には東大寺・興福寺・大安寺・法華寺などの大きな寺があり、諸寺に「墾田一千町」(『続日本紀』)ほかの土地が与えられていました。それが寺の経済的基盤でした。しかし、「墾田」とあるように土地を耕すに人手がいり、諸寺はそれを「奴」らにやらせたのです。しかも、当時は盗賊などが横行していた時代です。土地を拓(ひら)いてコメや農作物を作り、それらの財を守るには「奴」たちも武装する必要があり、こうして僧兵が誕生するのです。つまり、僧兵の起源は
じつをいいますと、『山家要記浅略(さんげようきせんりゃく)』は室町時代の史料でその内容の真偽が疑われています。それどころか、その史料で「僧兵の生みの親」とされる良源は逆に「寡頭(かとう)の者(僧兵のこと)」を禁じる法令を出し、武器を持って僧房に出入りすることなどを禁じています。そこからは、良源が当時すでに力を持ちはじめていた僧兵たちをコントロールしようとしていた事実が窺われ、実際に僧兵たちはその意に服したとみられます。このため、後世、良源が僧兵の創始者と誤解されるよう
白い袈裟頭巾をまとい、黒の僧衣に葛袴。高下駄を履いて腹巻(鎧の一種)を身につけ、手に薙刀を持つ――ご存じ、武蔵坊弁慶で知られる僧兵の出で立ちです。僧兵はその名のとおり、武装した僧侶のこと。平安時代の末に白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵のこと)、これぞ朕(法皇)が心に随(したが)わぬ者」と嘆いた話は有名です。白河法皇の時代、しばし氾濫した賀茂川やどの目が出るかわからない双六と同じく、制御できない存在だったのです。その僧兵はどうやって誕生
こんにちは。暑中お見舞い申し上げます。和歌山県紀の川市、粉河(こかわ)寺に参拝しました。写真は本堂です。江戸時代に再建されたそうです。(1720年)元の本堂は、秀吉の紀州征伐の時に、焼失してしまったそうです。(1585年)創建は770年、ご本尊は、千手観音菩薩像(秘仏)だそうです。戦国時代、和歌山(紀伊)には、およそ5つの大きな勢力があり・・それは、有名な雑賀(さいが)衆、そして高野山、有名な根来(ねごろ)寺、そして粉河(こかわ)衆、そして熊野三山この5つは、
火縄銃の普及には,紀州根来寺の僧兵が大きな役割を果たしたのは間違いない。根来寺の僧兵に鉄砲の名人が多かったのも,事実である。ポルトガルから種子島へ伝来した二丁の鉄砲の内一丁は,種子島家から紀州根来の坊主が譲り受けた。その翌年,根来寺では,この鉄砲を基に,本州で初めて火縄銃の国産化をなしとげている。永禄5年(1562年)、根来衆が,四国の猛将三好実休を鉄砲で撃ち倒している。目を関東に転じれば,関東に鉄砲を広めたのは,根来の坊さん達だと北条五代記は記している。永禄12年(1569年)筑波山
奈良市内から和歌山県の紀の川市までは一部区間が未完成のため和歌山市までは無料の高速道路「京奈和自動車道」で2時間程です。行く時、山間部を走る道すがら綺麗なピンクの花が咲く木がたくさんあり"ニセアカシア"は花が白いしもうない筈•••帰路で調べてみたら「ねむの木」でした!山野に野生化したようで✨すご~く綺麗でしたよ~⤴️たくさん"ねむの木"があり楽しめました対面通行のまだ無料な京奈和自動車道HPだと👇こんな花です。帰路に向かう前に「めっけもん広場」に寄って🍑桃を孫に送っ
滋賀でお庭に半夏生が咲くお家🏠守山市の大庄屋諏訪家屋敷✨✨おおじょうや、は読んで字の如く。「諏訪」姓は、やはり1500年台に長野県から移って来られた人だった。敷地をしばらく進むとこの門がある。おくどさん天井部分右上の一画が2階に続く部分。2階へは横たわっているハシゴで登っていたとのこと。入母屋造の母屋茅葺き屋根。表と裏明治天皇ゆかりのお茶室明治時代に「三井寺円満院」から移築されたもの。上の2枚の金網部分が、昔の舟入跡?舟が行き交っていたということは水量ももっと
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、武蔵坊弁慶などのイメージの浮かぶ僧兵の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は6月26日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
ゆうべも家に帰ってからテレビのチャンネルをかえながら見ているとNHKBSプレミアムでは「英雄たちの選択」白河上皇の話だった興福寺や延暦寺などの僧兵の強訴に対して武士を使って撃退したという朝廷の力による問題解決のはじまりとかそれでおさまることはなくてむしろ暴力の連鎖連鎖のちの保元の乱へと結びついたというそして源平合戦を経て武士の世の中
9日(火)8時半に「つるや」をチェックアウトし、福井市内の知人にちょっと挨拶した後は、夫が行きたがった「白山平泉寺」へ白山平泉寺快晴の平泉寺の空10時35分国史跡「白山平泉寺」は、白山信仰の越前(福井県嶺北地方)での拠点として、養老元年(717年)に仏教僧・泰澄によって開山。「霊応山平泉寺」は、戦国時代には僧兵8000人を抱える一大宗教勢力となり、越前国主・朝倉氏と肩を並べるほどだった。木曽義仲が戦勝祈願したり、義経と弁慶一行が奥州へ逃れる途中に立ち寄ったとの伝説もあ
奈良興福寺の僧多聞院英俊の書いた元亀元年(1570)3月19日付の日記に「僧衆(学僧や僧兵たち)は大旨、(麓の)坂本に下りて」とあります。英俊自身、比叡山や麓の坂本を巡り、見分しているから確かな情報といえます。ここで彼は、比叡山の僧らの多くは山上におらず、麓に下って暮らしていると書いているのです。一方、公卿の山科言継の日記から織田勢が3月12日に比叡山の麓の上坂本の集落から焼き討ちを始めたことがわかります。上坂本には比叡山の僧たちが住んでいましたから、信長は彼ら(特に僧
これは戸隠山付近の忍者村で撮影したものです2010年5月3日のGW中ですねオーブはホコリや小さなゴミかなとも思います岩手県、座敷童が出る旅館緑風荘に飾ってあった写真にはえげつないほどのオーブが写っていましたもし、あれをオーブ、霊の魂というなら見た感じ同じなのでこれらの写真もそうかなと思います実家に帰ったらもろにお婆さんの顔が写っている写真もありますお婆さんは笑って子どもの頃の私を見ています戸隠神社は紀元前210年に創建とあるので223
【食育クイズ:Vol.1060】「京都府」の「平安時代の院政」おさらいクイズ!「院政」を敷いた「白河上皇」を悩ませた3つの事とは?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1059】(「京都府」の「瓢亭と寺院」おさらいクイズ!「朝粥」で有名な「瓢亭」のある寺院名とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「南禅寺(なんぜんじ)」は、「京都、左京区、南禅寺福地町
鎮座800年記念御朱印を頒布いなべ・金井神社アジサイデザイン-中日新聞Web中日新聞Webいなべ市員弁町北金井の金井神社が、昨年で鎮座八百年を迎えた記念の御朱印の頒布を始めた。この時期らしくアジサイのデザインで仕立てた切り絵...NHK内で大波紋!大河『鎌倉殿の13人』主演・小栗旬を晒す「ガーシーショック」を期待する声も...日刊大衆大河『鎌倉殿の13人』主演・小栗旬.16歳の少女にみだらな行為をしたとして、警視庁少年育成課は6月22日、東京都青少年健全育成条例違反の
令和4年6月11日土曜日、晴れ。夕べは夜中から急に気温が上がり目が覚めた。「うぉぉ今年初の熱帯夜か!?」とはいえエアコンつけるも嫌だし何も掛けずにそのまま寝ました。やっぱ今年は暑いんだろーなぁ…さて。キリストが怪しい存在だったのは遥か昔から。そして釈迦にしても聖徳太子にしても、みーんな出生に秘密がある。蘇りし我は馬やとの子、ウヤマト王子、大和王朝。五十鈴とはイエスのことだし稲荷は初期キリスト教、アマテラスとはアブラハムだし、どう転んでも大和魂ってのはキリスト教徒の支配する
スピリチュアルは幽霊の世界です。のめり込み、足を踏み入れるほど本当の自分と人生を失い振り回されます。憑依され幽霊のための人生を生きたいですか?いいねやフォローされているスピリチュアルの方。何度もアクションするなら理由をコメントにと書いても、素知らぬ顔で痕跡を残して行かれますね。なぜなのでしょう。わざわざ痕跡を残して行くのは誰なのでしょうね。アクションするなら理由をコメント欄に書いて下さい。前回のお話。『【お祓い終了】私たちが名古屋に行った意味見抜いていたもくじきびとさん』こ
過去の話だけつまみに飲んでるダサいベテランにはなりたくないから戻って来た。