ブログ記事205件
🍀2021年9月29日🍀監督ウィリアム・ワイラー「ビールの栓も抜ける」器用だねえ。「ピアノを習いに」笑いにくいわ!ペギー良い子だな・・・。切ない乙女心。一本指打法、木琴みたい。う~ん、先にパパに相談していれば結果は違ったかも知れない。💦馬鹿め、彼女の愛をみくびるな。🍀ホーマーの役者さんは、本当に手が無いらしい。この映画を、パラリンピックに合わせて放送したNHKに拍手!【中古】我等の生涯の最良の年/マーナ・ロイ楽天市場330円オリンピック・パラリンピッ
厚生労働省から封書が届いた。開けてみると遺族に対して特別弔慰金の配布と書いてました。祖父は大正生まれで存命なら110歳。満州に出兵し3〜4年程シベリアに抑留され捕虜として労働に課せられました。極度の栄養失調から体を壊し命からがらの帰国。1年以上の入院生活を送ったと聞いてます。また祖母がたぶん役所に出したであろう下書きの原本が箪笥から見つかりました。昭和25年頃のものです。祖父が戦争で病気になった経緯が書いてありました。祖父は傷痍軍人であり、祖母は100歳で他界するまで国から恩給を貰って生
こんにちはいつも読んでくれてありがとうございます。夕飯はホットケーキですませちゃったドン子です。予報より雨が長引き、(金欠時はありがたい元夫との)買い物が中止になったので、お米はもちろんだけど、明日のパンもなくて、(そうだ!)と思い出したのがホットケーキミックス。ホットケーキって、作るのは簡単だけど、待ってる時間がかかるから、息子が小さい頃は手作りで頑張ってたけど、今は市販品。買ってあるのを見て何度かリクエストされても、めんどくさくて作れなかった。
ご覧いただき、ありがとうございますコノミと申します。シニアの仲間入りを果たしましたが、好奇心の赴くまま、いろんなことにトライしていきます。お付き合いいただけると嬉しいですいいね!やフォローをしてくださると調子に乗ってがんばります。お喋り好きなので、コメントも大歓迎。どうぞよろしくお願いします久しぶりに思い出したひとつ前の記事を書いて、この本のことを思い出しました。『あまりに酷い話に胸が痛い』ご覧いただき、ありがとうございますコノミと申します。シニアの仲間入り
先の、9月21日(日)の朝日新聞の歌壇・俳壇から。まず、俳句。「もう誰も通らぬ畦(あぜ)の曼殊沙華」。「遠花火艦砲射撃と祖母の言ふ」。「子育ての緋鳥鴨(ひどりがも)家(け)に今朝の秋」。「西瓜(すいか)の皮鬼のパンツの縞(しま)模様」。「干からびし友を偲(しの)びて蚯蚓(みみず)鳴く」。行き倒れのミミズの句です。わたくしも気になって短歌にしています。わたくしの少し前の一首。「あちこちに新旧ミミズのゆきだおれなぜ出て来たかゆく当てあるか」。次に、短歌。
こんにちは昭和28年開業した実家の店は、七夕期間中もいつもと変わらず、8時過ぎ9時近くまで営業していた。毎月第三日曜日が定休日と決まったのは私が高学年になる頃だった.町内が皆そうだったので、それが当たり前。働き過ぎとか、考えることはなかった。早めに夕飯を食べて、浴衣を着てスタンバイOK。薄暗くなってきたし、「出かけましょう」と母が声をかけてくれるのを、今か、今かと待つ。しかしそういう時に限って、お客さんが途切れずやってきたりする
傷痍軍人だった父。散弾銃の破片が飛んで、父の足にはその破片がいくつも刺さったままだった。「どこへ戦争に行っていたのか、いつ怪我をしたのか?」そんな事を尋ねようと思うまで成長しないうちに、父は亡くなってしまった。(享年51才)この度の帰省で、上の兄に尋ねたら教えてくれました。(兄は、9才上です)この下にも記事は続いています。今年の8月15日に朝日新聞に掲載された記事です。この記事の「長谷川栄作さん」と同じ部隊にいたとの事。年齢もほぼ同じ。長谷川さんは、ガダルカナル島から帰還。長谷川さ
この時期になると祖父を思い出す彼は傷痍軍人だった無口でいつも怖い顔をしていた朝から晩まで焼酎のサイダー割りを飲み夜中に大声を出したり暴れたりすることもしばしば今にして思えばPTSDだったのだろう当時はそんな言葉などなく理由がわからない私はただただ怖かったなぜ日本は戦争反対原爆反対と主張しないのかなにもかも壊す戦争などあってはならない
戦後80年である。おそらくこのブログを見ている方の中には戦前を生きた人は少ないと思われます。わたしは戦後の時代に生まれましたが、その時の空気感はまだ戦中の、といいますかその余波である風景があちら、こちらに残っていました。まだ復興の途中で空き地が多くそこで戦争ごっこなどをした覚えもありますし、復興のため地下に埋める土管(陶管)、コンクリート製(ヒューム管)などもあちらこちらの空き地に積んでありまして、そんなところで遊んでおりました。日本が復興期になる映画『三丁目の夕日』が、わたし
80回目の終戦の日です。あの玉音放送がされた日から80年。「終戦記念日」とも言います。「記念」と言う言葉は、思い出と言う意味があります。もちろん思い出には、良い思い出と悪い思い出がありますが、思い出は、どちらかと言えば、良い思い出を連想します。なので「終戦記念日」と言う呼び方には、違和感を感じます。だから「終戦の日」の方がしっくりくるかと。「戦争を知らない子供たち」って、私より少しだけ上の人達です。戦後生まれは、みんな戦争を知らないのだから、戦争を知らない子供たちでしょ、と、思われる
noteをアップしました戦後80年終戦記念日の日に|ますこばぁば8月15日戦後80年の終戦記念日だ私は昭和31年生まれ当然、戦争を知らないし、戦後の混乱もおさまった高度経済成長時代に生まれている「戦争を知らない子供たち」という歌があったよねまさにその世代だそれでも、私の中にある戦争を思い出してみよう<1>すぐに思いだすのは白衣の傷痍軍人の物乞いだ祖父母のいるところへ国鉄に乗っていくその車内で、神社のお祭…note.com
子どもの頃に、コールタールの焼き付くにおいがする、地元の駅前に傷痍軍人がいた話。包帯巻いて、アコーディオン弾いて。ということを、同世代の友人に言うたところ、「幻覚や」「昔のオリンピックのあとやで」「ありえん」。ところが、朝のラジオで、「吹田の万博の時も、商店街に傷痍軍人さん、いましたよね。」ほらみろ。俺の記憶は間違っとらんかった。まだ敗戦をひきずってたんやから。
『戦争を知らない子どもたち』である昭和30年代生まれの私。しかし、子どもの頃戦争の傷跡は所々に残っていて、繁華街に行くと傷痍軍人の方たちがいて、所謂物乞いをしていたのを覚えている。片脚だけであったり、片腕がなかったりして白い着物のような物を纏い、アコーディオンを弾いていたり、ハーモニカを吹いていたりした。とても怖かった。その物悲しい姿と、戦争というのは人から命を奪うこともあれば、足や腕を奪ってしまうことがあるという現実が。それを目の前に突きつけられることが、子ども心にもたまらなく辛く
今年もまた、この季節がやってきました。世界から戦争がなくなり、核兵器がなくなり、平和が訪れることを願ってやみません。「戦争を知らない子どもたち」よりさらにひと世代後、高度経済成長期に生まれた私、おまけに名古屋に住んでいると原爆は歴史の教科書レベルの知識しかありません。それでも、まだ「あの辺りは焼けてないからねー」なんて、空襲の話を聞いた事は覚えています。白い衣の傷痍軍人さんが悲しい軍歌を歌いながら、寄付を募っていた姿も記憶にあります。子供にとってはそれはとても怖い光景でした。戦争があ
1.戦争のない日が80年を迎えます先のブログでご報告のとおり、52年にわたり足を運んだ「野球観戦回数」が、「2000試合」(推定)を突破しました。この数字に大きな意味はあませんが、戦後80年を迎えたこの「8月」の文字を、めくったカレンダーに見たときから、「平和」のことが頭を離れません。そして私には51年前の「8月18日」が、初めて「野球」を観戦した「記念日」でもあります。この間、「平和」であったこそ大好きなことが続けてこられた。哀しみも寂しさも、野球が、球場で出会った人が癒し、また楽
こんにちは。気が付いたらもう八月。今年も半分以上過ぎたことになります。ワケも無く焦るあたし・・・。先日、母と昔の話をしていて、ある昭和の風景が蘇って来ました。何度も書いていますが、我が実家は駅前中央商店街のど真ん中にありました。住居もその奥と二階。祖父亡き後は、祖母と母とお手伝いの方々で商いをし、女四人(祖母、母、私、妹)の母子家庭。心細さは否めないものの、大声で怒鳴る
歴史を思い返して思うことは?▼本日限定!ブログスタンプ日本に限らなく戦が好きな人が多いような。。。お墓とか、公園に行くと戦争で亡くなられたお墓がありますが、少尉,中尉さんになるとお墓も大きくなるようです。戦争で亡くなられた人のお写真(市内春日神社)慰霊碑市内春日神社むかし、秋まつりになると、こういう人がいた。自称、戦争でケガした人。。。寄付金集め(自称傷痍軍人)傷痍軍人(しょういぐんじん)寄付金集めの自称傷痍軍人(ニセモノ)が多いとか。
子供の頃に見たあの光景の背景には何があったのか。それを知りたくてある施設を訪問した。やはり、戦争なんて絶対にやってはいけない。旅の途中、東京でまとまった時間が取れた。どこかに立ち寄ろう。多くの文化施設がある首都東京。適当な施設がないか探ってみた。「そうだなぁ、昭和レトロでも見てみようかな」と、スマホで「昭和博物館」と入れてみたら、今いる場所からほど近い九段界隈に「しょうけい館」という、全く聞いたことがない施設がヒットした。平仮名で”しょうけい”と称されているので内容が想像できないが、「戦傷病
主婦マリーがしたこと1990年10月5日(金)公開ナチ占領下の北フランス、ノルマンディを舞台に、平凡な主婦のたどる過酷な運命を描く人間ドラマ。あらすじ第二次世界大戦、ドイツ軍占領下の北フランス、ノルマンディ。この街にもナチの脅威は迫っていた。ユダヤ人狩りによる親友のラシェルの連行を知り悲嘆にくれるマリーは、ある日隣に住むジネットの堕胎を手伝い、お礼に彼女から蓄音機をもらう。数日後、夫のポールが、傷痍軍人として復員してきた。しかし既にマリーの夫への愛情は、すっかり冷えきったものになっ
ランクBの上~Aの下終戦直後の田舎の素封家で戦争で寝たきりになった夫を心ならずも介護する若妻の葛藤とエロスを大胆に演出した意欲作です。岩松孝二監督「キャタピラー(2010年)」と同じテーマを、10年以上前に描いています。お金と時間をたっぷりかけることができていれば、「キャタピラー」以上に、良い作品になったと思います。惜しむらくは、低予算、短時間撮影を最優先する成人ピンク映画の宿命です。つまり、成人ピンク映画界は
「結核患者が療養した小さな小屋がある」と知って、清瀬にある病院通りのひとつ「東京病院」へ行ってみました。前身は「傷痍軍人東京療養所」でした。戦地で発病、負傷した兵士のために、昭和14年に結核療養専門療養所として設置されました。案内図がないので、雑木林の方へ歩いて行くと・・・小さな小屋がポツンと建っていました。「外気舎記念館」回復期の患者を2人1組にして、きれいな空気の中で、安静にし、栄養をとって体力を回復させるために使用した病室です。室内は狭く、木製ベッド2台とベッド下の物
ニュースでスマホ?でライブ配信中に男に●された女性って。どっちが悪いのか分からないわ。スマホやネットで配信中に投げ銭をもらって生活している人もいるらしい。投げ銭しない視聴者に罵声を浴びせたりする女もいるらしいね。配信の投げ銭方式って琵琶法師とか昭和の時代の傷痍軍人とか乞食とか思い浮かべてしまう。投げ銭ね。右や左の旦那様的な
今は全く見かけなくなりましたが、私がこどものころは、傷痍軍人の服を着た人が観光名所等にいて、道ゆく人からお金を恵んでもらっていました。自らも学徒兵として出征した亡き父は、そんな人を見て、たまに、「詐欺だな。傷痍軍人にしては若過ぎる。」と、怒りを込めて強く軽侮していたことを思い出します。戦争の悲惨さをより実体験しているだけに、ひとの善意を利用し、詐欺をする行為が、より許せなかったのでしょう。令和の今、乞食、物乞いという存在自体も我が国では見かけなくなりました。善意にすがる。そして、それに
ロシア軍が傷病兵らを治療中の病院から拘束して前線に連行している!
冬になると、いつもかすかに思い出すのが清荒神の傷痍軍人のことです。●清荒神(キヨシコージン)阪急宝塚線の清荒神駅近くにある荒神様です。●傷痍軍人(ショーイグンジン)最近では、見たことがない方も多くなったかもしれません。〜•••〜•••〜•••〜•••〜•••〜•••〜•••私は小学校1年から3年まで(昭和40年前後)、清荒神駅の真ん前のアパートに住んでいました。冬の寒風吹き荒ぶ中、母に手を引かれて荒神様にお参りに行くと、いつも必ず参道のあちこちに、欠損した手を或いは足を、白い包
三が日の混雑を避けて、初詣に行って来ました。まずは、白鳥神社。ヤマトタケルやスサノオが御祭神だったかと。こちらは誉田八幡宮。応神天皇陵をお守りしています。そして、道明寺天満宮。↑昔はこの石段の両側に、傷痍軍人さんが立ってらっしゃったものです。戦後も遠くなりにけり。ここまでは、自宅から遠足気分で歩きました。時間があるので次行ってみよ〜❤️
デパートでよく行く売り場は?▼本日限定!ブログスタンプ久しくデパートには行く用がなくなったあえて思い出せばデパートといえば大阪は近鉄あべの橋にある近鉄百貨店です今は有名なハルカスですね子供の頃はまず趣味の切手の店これにはよく行ったね(ビードロを吹く娘)(見返り美人)(月に雁)よく見に行ったよ当時は高価で眺めるだけだったけど半世紀たってもほとんど価格は上がってないらしい昔、流行った切手収集で集めた切手はそのまま押し入れにあるその次はペットショップ
お遍路さんで思い出したあの当時昭和30年代お遍路さんだけでなくお坊さんが托鉢に1軒1軒家をまわって来ていた家に近づいてくるとチリンチリンと鈴の音がするのでお坊さんが来た!とわかるまた来たよ〜と思うくらいよく来ていた記憶がある家の前に立って家人が出てきて鉢にお布施を入れるまで鈴を鳴らしながらお経を唱えた気のせいか出ていくのが遅いとだんだん鈴の音が大きくなっていった様な〜だから鈴の音が聞こえてきたら小銭を持って玄関で待っていたお互い合掌をして鉢に小銭
サイカチの実次回よりサイパンに戻るその前に、小笠原方面のエピソード二点に触れる。今年8月、九段の「しょうけい館」に参った。都心にある公的施設のうち、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はその名のとおり戦没者のためのもの。他方で、九段のしょうけい館は「戦傷病者とその家族の労苦を今に伝える」ものであり、新宿の平和祈念展示資料館は「帰還者たちの記憶ミュージアム」。傷痍軍人と家族そして引揚者の艱難辛苦を伝える施設である。しょうけい館戦傷病者史料館しょうけい館は、戦傷病者とそのご家族等が戦中・戦