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今日は備陽史探訪の会の踏査会にお邪魔することになっております。美作経由で備中新見へ勝山の高田城へチョイ寄り石垣造りの虎口が発掘されたようです。その後新見へ楪(ゆずりは)城は新見市の北にある山城で備中兵乱における三村氏・毛利氏の重要な城であったといいます。備陽史探訪の会では幾度かに分けて備中兵乱に関連した城を踏査していたらしく、今回もその一環であったようです。講師は岡山のたかまるサン。因みに楪城の名は城域に楪(譲り葉)↑が多くあったためで、史料等の呼称は新見要害というのが正しいよ
徳田要害山城なう凄い!天文年間の神辺合戦の陣城といわれています。年代的にそれが合っているのかどうかを言ってしまうとややこしくなるでしょう。それほど興味深いです。そののち、古代山城・茨城(うばらのき)へ。コチラも面白かったですね~。古代山城は全くわからんのですが、興味は湧きました。
今日は備陽史探訪の会と城飲み諸説あり合同企画ということで、広島県福山市に来ております。連続堀切と畝状空堀群で有名な一条山城まさかこんな立派な石積みに出会えるとゎずっとまあまあな雨でモノを失くしたりタイヘンでしたが行きたかった城が想像に違わぬ良い城でよかったです。この後山手銀山城へ。ボクが備陽史探訪の会と出逢った城、あれから9年経ちましたこの城の評価も変わって来ています。
福山城の目の前のホテルを前日に取り、食事の後に夜の福山城を散策しました。翌日の朝5時半前から福山城内を散歩、いい汗(かなり汗だく)かいたのでシャワーを浴びて出ると、フォロワーさんからDMが入ってました。「もし今日、山手銀山城に行かれるようでしたら、ご案内しますよ。ほむほむさんが、よければですが。」前日、青い彗星に拉致されてなければ昨日行ってたはずの山手銀山城。まさか一日遅れた事で案内して頂けるとはこんなサプライズ、逃すわけないわけないじゃないですか。すぐに返事をして麓のセブン
大門の海軍史跡を歩く備陽史探訪の会福山市福山海軍航空隊とは、広島県深安郡大津野村(現在の福山市大門町津之下)にあった日本海軍の水上機専用の航空機基地。昭和十八年(1943)から昭和二十年(1945)までの短い間、海軍の基地でした。進駐軍が駐屯したり、保安隊(のちの陸上自衛隊)の福山駐屯地ともなり昭和四十一年(1996)日本鋼管福山製鉄所(JFEスチール)が進出、現在に至る。1943年逓信省により民間水上機の搭乗員教育所として開設。1944年6月1日瀬戸内海を挟ん
湯伝(ゆでん)稲荷神社低丘の上に建つ神社。丘自体が古墳だったとみられ、弥生土器、土師器、須恵器、土師質土器、青磁、石鏃、石包丁なとが出土しています。湯殿遺跡と呼ばれています。狛犬は尾道玉乗り銘が全く見えませんが天保くらいの親方級の石工の作だと思います。大きな巻き毛吽はねじねじ尻尾阿はとんがり尻尾境内社石仏境内社王子神社拝殿本殿
福山城中世山城模型展/備陽史探訪の会この日は福山城リニューアル一周年で入館料無料天守閣最上段まで上がる東方南方駅方面伏見櫓筋鉄(すじかね)御門鐘櫓これら全て内部に入ったことがあります。西方白黒黒は鉄板張り北面のみ黒西側北面鉄板張り福寿会館内の中世城模型展示山手銀山城利鎌(とがま)山城神辺城全部登城しています。備中高松城水攻めの城周囲の山々や川がよく分かります。福寿会館から見る福山城
さて、福山城わざわざ出掛けたのは、ずっと不思議に思っていたことが検討される可能性があったこと。「福山城は、高石垣・連続枡形・横矢懸りなど正面〜側面の厳重な造りに比べ、北側は頗る甘い」というもの。実際に幕末、攻勢に転じた長州軍が襲来したときもこちらから軍を進めたようです。北側には内堀はおろか外濠もなく、北側の外濠の代用になると思われる吉津川には「川はば廿八間かち渡」と正保図に描かれています。また天神山や小丸山といった丘も放置したに近い状態。正保絵図*右が北ぼくは8月に行ったと
引き続き14日(日)に行ってきた福山城シンポジウム『福山城の謎に迫る』が開催されました。内容は九州大学木島孝之准教授「福山城にみる近世城郭の縄張の成立と展開」備陽史探訪の会野毛幸司氏「櫓の名称について」同・田中伸治氏「謎の神辺櫓」福山市社会教育課山岡渉氏「福山城北辺周辺について―主に切岸を中心に」木島先生は私の尊敬する研究者で、そのことは後述するとして…このシンポジウムの主催団体である備陽史探訪の会のお二方のお話もとても興味深いものでした。
たもんです。久々に参加しました!福山市の歴史会、備陽史探訪の会にです。一応、私も会員ではあるけれども…お仕事の関係で中々参加できずにいます。絶対、ここは外せない行事はやっぱり行きたいので参加してきました。だって今回お城だもん~福山城~♪今回は待ち合わせ場所が急きょ変更になりましたが特に問題なかったみたいですが定員を超えて申込があったらしく資料が足りなくなるという…70名参加ってすごい。この画面におさまりきれませんでしたそれぐらい福山城の破壊された遺構に関心がある
6月11日(日)、備陽史探訪の会主催の「街道を歩き憩亭を訪ねる」という企画に参加してきました。マスコミ報道はコチラそもそも「憩亭」とは、イコイテイと読み、本来の機能は名前に表された通り、街道を通る旅人や周辺の住人が束の間の休息を取るところだったのでしょう。この憩亭について、備陽史探訪の会の会長の奥様の書かれた本が、市内の本屋で絶賛販売中です。これがその本です。神辺出身の菅茶山が、『福山志料』において、「憩亭は微小のものなれども、この国のみ多くありて、他国に稀なれば・・・」と言っ
昨日アップした記事に関連して。その記事はこちらをタップしてください。中国新聞のデジタル版に記事が出ていました。写真付きです。そして、その写真の中になんとな、な、なんと、私の姿が入っておりました。矢印の先の帽子&iPadの人物が私です。
5月6日(土)は、備陽史探訪の会のぶら探訪福山古墳ロードスタンプラリーAコースに参加してまいりました。前日5日は謡の稽古会で朝に神戸に行き、21時近くに帰ってきて少々疲れてはいましたが元気を出して早朝から電車?に乗り集合場所にまいりました。集合場所の駅は無人駅です。受付でスタンプブックをもらいました。表紙をめくるとまず略図が出ております。今回は、赤い線のAコースです。駅前には、備陽史探訪の会が設置した大きな案内板がありました。初めの遺跡は「最明寺跡」。説明の方によるお話によると、