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前回までに記した旧荒川の流路についての追加事項です。(荒川の瀬替え以前の時期に当たるので、ここでは当時の荒川本流を旧荒川と称します。)改めて国土地理院の治水地形分類図を観て、自然堤防の形状と蛇行跡から、前回③の流路の時期はあったものの、それ以降に今回記載のルートとなったと思われるので追記します。その流路と考えられる旧荒川の河路は、以下画像に記した赤線のルートとなります。基本的には従前から記している通り、現在の赤堀川が旧荒川の河路であった考え方には変わりなく、備前堤築造の理由となった直前の旧
昨日掲載した記事『【備前堤】元荒川・赤堀川・綾瀬川流路変更の疑問〜その②』此方の記事も憶測論100%となりますので予めご容赦願います。3月19日付け記事の続編になりますが、表題の疑問点を改めて記します。『【備前堤】元荒川、赤堀川、綾…ameblo.jpの裏付け追加事項として、、、圏央道の建設時における「地質柱状図」にて、備前堤付近の河川地質を確認します。■Aポイント〜元荒川から離れた台地部分この場所の柱状図を載せた目的は、大宮台地特有の「関東ローム層」の堆積状況を確認する為のものです。
此方の記事も推測論100%となりますので予めご容赦願います。3月19日付け記事の続編になりますが、表題の疑問点を改めて記します。『【備前堤】元荒川、赤堀川、綾瀬川の流路変更における疑問』荒川の「瀬替え」を調べていると「備前堤」についての述部書が目に付き、瀬替えと同時に「備前堤」を調べていくと、その目的に疑問点が生じました。更にネット上で調べて…ameblo.jp■疑問点『赤堀川の水源地を鑑みると、その流量では綾瀬川下流域で氾濫が生ずるとは考え難い為、綾瀬川の瀬替えだけで充分だったのでは?
昨日の記事において「綾瀬川が旧荒川(元荒川)筋であった事は、下流域の地歴を観ても賛同できます。」と記しましたが、此方ではその一部となる箇所について記したいと思います。但し、憶測論100%の内容となりますので、予めご容赦願います。昨日の記事(備前堤の疑問点)『【備前堤】元荒川、赤堀川、綾瀬川の流路変更における疑問』荒川の「瀬替え」を調べていると「備前堤」についての述部書が目に付き、瀬替えと同時に「備前堤」を調べていくと、その目的に疑問点が生じました。更にネット上で調べて…ameblo.jp
荒川の「瀬替え」を調べていると「備前堤」についての述部書が目に付き、瀬替えと同時に「備前堤」を調べていくと、その目的に疑問点が生じました。更にネット上で調べていくに連れて、備前堤の目的や築造時期など複数の個人見解が乱立しており、何が真実なのか掴み難くなってしまいました。A-疑問点①備前堤下流域の河路を綾瀬川筋から、現在の元荒川筋へ流路変更した経緯②赤堀川の流路変更の目的③上記①②による備前堤の築造時期B-ネット上での情報①綾瀬川下流域での治水・新田開発説、若しくは元荒川下流
『新編武蔵風土記稿』足立郡≪原市村≫の項に、≪沼村の東にあり、原市沼と呼ぶ。沼の向は丸山村の伊奈熊蔵が陣屋なり。沼の廣さ東西百間、南北の徑六百あり。其末綾瀬川に沃げり。≫とあることはすでに記した。伊奈熊蔵とは、徳川家康関東入国に際し、直轄領支配のために置かれた代官頭の一人で、天正18年(1591)、武蔵国足立郡小室村(北足立郡伊奈町小室)に屋敷を構えた伊奈備前守忠次のことである。『伊奈町史』には、忠次が代官頭となったころの小室村は
1月12日今日は、2019年最初の「ふるさといな学・町史を読む会」でした。伊奈町と町近隣に関連すること全般について幅広く自由に勉強会を行なっています。今日のテーマは、「備前渠の争い」「戦前〜戦後の農業・農家の変遷。農地解放の影響」等について先輩会員が講師となり説明し、その後様々な意見交換があちらこちらに脱線しながら最後の方は、「町の産業」や「外国人労働者」、「伊奈町に住む外国人の人口」などにまで展開。自由に和やかに意
記録的寒波の襲来に日本列島全体がブルブルといったところですが、みなさまは風邪などひかれていないでしょうか?さて、今回のテーマは、綾瀬川(あやせがわ)埼玉県と東京都にまたがって流れる延長約47kmの一級河川で、流域の市街化とともに生活・産業排水の流れ込みが増えて国内でも1、2を争う『汚れた川』として有名になってしまいましたが、近年は下水道の普及や、行政と地域住民の協同による清掃活動などによって、水質も少しずつ改善しているそうです。詳しくは、国土交通省・江戸川河川事務所の『綾瀬川清流ルネッサン