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羽黒神社は玉島旧市街地の真中にある羽黒山に鎮座している。羽黒山は、瀬戸内海に浮かぶ小さな島だった。万治元年(1658)備中松山藩主・水谷勝隆が玉島地方の新田開発の際、出羽・羽黒山の出羽神社を勧請し、建立した。その後、商港として繁栄した玉島湊周辺の住人や湊に出入りした北前船の商人などの信仰を集め、2代目藩主・水谷勝宗により寛文5年(1665)に社殿が改築された。現在の本殿は嘉永3年(1845)、拝殿は安政4年(1852)に再建されたものである。第二次世界大戦時に掘られた防空壕処理のため羽黒神
今年は没後150年目。備中松山藩を救った英傑。岡山に、素晴らしい方がいたものです。名前が駅になっていること自体、スゴイ事ですね。”至誠惻恒”これです。
続・備中松山城。今回は天守内部へ。まずは地階(附櫓)現在はこの附櫓が出入口になっていますが、往時は八の平櫓が出入口で、昭和15年の大修理の際に荒廃が酷く、修復が困難と判断され切り離されてしまったそうです。独立式以外の天守は附櫓、渡櫓、多門櫓などから出入りする構造の城が非常に多い。(昨日の伊予松山城は天守へ直接出入りだったが本来の出入は多門櫓から)現在は複合式ですが、元々は八の平櫓から渡櫓と天守を繋いだ連立式天守だったのでしょう。古図が不明瞭なので何とも言えないが後ろの二重櫓と
いささか間延びした感はありますが、本記事は備中松山城からホテルに戻ってからのお話になります。チェックアウトを済ませた直後、「お城ビュースポット」なる可愛らしいイラストポスターがあることに気がついて。え?この辺りからお城が見えるの?どこから?と、ホテル前の路上に出てお城のある方向を見てみたんですが、残念ながら確認できず💧その後、少し散策しようと思って武家屋敷が並ぶ方向へ進むこと5分弱。ふと見上げると。おぉ〜!あれに見ゆるは備中松山城ではありませんか!標高430mという高い
雨上がりの朝、車を運転していると、歩道と車道の段差の境に淡い色の花びらの吹き溜まりがあった。風が運んできた無数の桜の花びらの行列が浮き上がって見えるように感じた「あっという間に、桜の季節が終わったね」隣の席の娘が呟く。「桜の蕾が膨らんだ」と言っては眺め、三分咲き、五分咲き……少しずつ変化していく様子を、こんなに気にしている樹木はないだろう満開の頃には、桜の写真が行き交う有名な桜の名所や身近な処、少し遠出した場所……今年も結構な数の写メを送りあった梅の香に春を待ち焦がれ
泣いたぁ!時代にほんろうされながらも、信念を貫く人々に鼻の奥がつんつんして来て泣きました。今の岡山県の一部、備中松山藩。莫大な借財を蓄財に替えたのは、学者だった山田方谷。自分の学問を民の暮らしに役立てたいと私塾を開き、若き藩主に認められて士分に取り立てられ、力を発揮しました。方谷が軸になっていますが、各章では彼を暗殺しようとした藩士、女子ながら方谷の塾で学んだ娘、方谷の養子、落ちこぼれの藩士などを描いています。参勤交代時に「貧乏板倉家」と庶民に陰口をたたかれていた備中松山藩は
幕末の備中松山藩を山田方谷に係る人をめぐり描いていく。儒学者だが、幕末の備中松山藩で政治顧問、外部重役のような立場に就き赤字だった「貧乏板倉」というありがたく無い異名を頂戴していたのを再建、軍制改革を展開するなどの人物だった。その方谷を主役にすることなく、周辺の人物に焦点を当てる。人はどうあっても生きなければならないのだが、一個人の存在の軽さをまざまざと思い知らされた人々に一筋の光明を見出そうとする山田方谷や板倉家中の人々や庶民たち。維新の動乱に心ならずも巻き込まれてしまい、死を選
今年の玉島村芝居『熊田恰:ラストサムライ』の出演依頼がLINEで届いた。私は昨年通りの三島中州役なんだろか。****************************************************おつかれさまですー。寒いねぇ〜打ち合わせ終わりました!今年は、本番11月16日日曜日です。なので、前日は準備とリハーサルです。時間は去年通り〜たぶん。柚木先生、新しい場面を増やしていくそうな〜本来でしたら、お一人お一人に出演依頼をするところではございますが…このグルー
藩政改革描く、幕末の動乱…市井の視点で(読売新聞オンライン)-Yahoo!ニュース備中松山藩(岡山県中西部)の知られざる一大プロジェクトを活写した長編歴史小説が刊行された。(編集委員西田朋子)直木賞作家・澤田瞳子さん(47)の『孤城春たり』(徳間書店)で、財政難だった備中news.yahoo.co.jpこの記事見て衝動買い。江戸時代後期の備中松山藩の話らしい。山田方谷は前々から興味あったので、これを逃してはならんと思いました。幕末まで描くそうなので面白そうだなと思
6.民政刷新改革蔵屋敷の廃止は、単にその経費を削減しただけでなく、預けていた米を持ち帰ることでもありました。持ち帰った米は、投機機会をうかがうため備蓄をしておかなければならず、藩内に米倉が必要になりました。(1)凶作に備え領内40カ所に貯倉設置大阪商人から担保として押さえられていた蔵屋敷の米を取り戻したことにより、その置き場が必要であったため、各村に郷倉を設けて米を備蓄しました。この米は平時には、米相場の動きにより大きな利益を得るために使われ、天災が起き、凶作になったときは領民に配給
幕末、備中松山藩に熊田恰というサムライがいた。備中藩の160人の藩士の命を救う為に、玉島西爽亭で切腹した。11月24日、熊田恰の事を語り継ぐ村芝居に松山藩士、中島中州役で出演した。舞台は西爽亭中庭。
先日、高梁に行った時に、旧武家屋敷見学をしました。その時の受付にいた人から興味深い話を聞きました。高梁は江戸時代、備中松山藩でした。幕末、諸藩とも藩政が困難となり、藩政改革を行っています。この改革に、藩主板倉勝静は山田方谷(幕末〜明治初期)を抜擢しました。松山藩は当時10万両(約300億円)の借金がありました。これを山田方谷は7年間で10万両の黒字に変えたのです。どんなことをしたのか、調べてみました。備中ぐわ、たばこ、茶、和紙などの専売制をしき、しかも支配者が儲けるのではなく、生
入場券売り場には備中高梁城の城主の猫の「さんじゅーろー」がいました。猫城主さんじゅーろーとも呼ばれるさんじゅーろーは、岡山県高梁市内山下にある日本の城備中松山城にいるオス猫です。さんじゅーろーは2018年、平成30年7月豪雨の直後に備中松山城、三の丸付近で保護されたオス猫で、備中松山藩の藩士で新選組の七番組組長の谷三十郎にちなみ、さんじゅーろーと名付けられたそうです。その後行方不明騒動などがありましたが2018年12月16日、城
二の丸からは五の平櫓が見えます。二の丸から望む高梁市街です。二の丸には雪隠跡があります。昔のトイレ跡です。糞尿は籠城戦の際に石落としなどから投げつける武器にもなりますからね。本丸へと続く長い階段です。この階段の先の左側に入場券売り場がありここで入場料を払います。入場料は大人500円です。
曾祖父の名は間野凸渓備中松山藩の風流人の血は3月24日は68回目の誕生日。そんなタイミングで体の中に流れる血についての話を思いついた。このブログのプロフィールに書いてあるように、私は岡山県出身。もう少し細かく書くと上房郡北房町(現真庭市)という県中西部の山村で生まれ育った。その北房町の南側に接するのが、備中松山城や映画「男はつらいよ」シリーズの「寅次郎恋歌」(1971年)、「口笛を吹く寅次郎」(1983年)の舞台としても知られる高梁市である。父母の生家はともにこの高梁市に
結局、10月に東海信州ツーリングから帰ってきてから乗ってない!紅葉ツーリングに行こうと思っていたら風邪を引いてしまった😱まあコロナやインフルではなかったが、咳が凄く出て横隔膜が痛くてやばかった😭でも車では、また大阪に行ったり、実家に帰ったり、してるうちにどんどん寒くなり、年取ると中々寒い中バイクに乗ろうという気にならない😅もう今年は乗らずに終わるかと思っていたが…山陽新聞で、幕末松山藩の財政を建て直した山田方谷の物語が掲載されていたが、つい先日終了した最後に松山藩の為に、玉島で熊田
みのごさく著『義の人西郷隆盛誠の人山田方谷』(幻冬舎、2017年)で紹介されている、幕末に備中松山藩の財政再建をなしとげた山田方谷の哲学・生き方を、政治家に送ることに。自分の利益や損得をかえりみずに、専ら領民のため、藩のため、公共のための政策に徹していた。方谷自身、元締役の俸禄を一部返上して下級武士なみの俸禄に甘んじた。自らの家計を公表し、賄賂や不当な利益を一切うけとっていない。しかし、届かないだろうなあ。腹立たしい限り
<頼久禅寺にて>備中松山藩で数多くの藩政改革を行った山田方谷彼がすすめた教育改革はあとで書くとして、ここでは「これって、江戸時代のアンテナショップだ!」と資料を読みながら思わず声を漏らしてしまったことについて紹介。山田方谷記念館のHPにその概要が紹介されているのでここに引用藩政改革-高梁市公式ホームページwww.city.takahashi.lg.jp「嘉永5年(1852)、「撫育方」を新設し、藩内で生産された年貢米以外の生産物を集中管理し、江戸に
上:先始めの十月桜下:満開に向かいつつある頃以前、2回ほど書いたことのあるこのテーマ。一般的には「留学」は外国に在留して学ぶことで、「遊学」は故郷を離れて他所の地域や国(いわゆる古代の国名で語られる)で学ぶこと」と理解されている。したがって、遣唐使時代に唐にわたって学んだ多くの若者は「留学生」であった。鎖国時代の日本で外国に行くことはあり得ないので、国内で故郷を離れて京都や江戸に行くのは「遊学」となる。しかし、なぜ「遊」なんだろうか?漢字の語源を調べると「遊」に
2022.12.26.備中松山城の城主で、備中松山藩最後に藩主となったのが板倉家でした。安正寺は、延享元(1744)年3月、7代勝澄公が藩主となった時、現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿としました。京都所司代に任じられた初代勝重、二代重宗を始め、最期の老中板倉勝静までの霊を祀っています。戊辰戦争の際には朝敵の立場をとなった備中松山藩と、朝廷側についた岡山藩との交渉が安正寺にて行われました。戊辰戦争の時、備中松山藩は1869年に降伏、藩主の板倉勝静は禁固刑
2022.12.26.備中松山藩を救った「熊田恰矩芳」(くまたあたかのりよし)のお墓がある「道源寺』へ通称・熊田恰は、藩校の有終館で学問を学び、藩の剣術師範、年寄役を務めていました。また藩主の板倉勝静の親衛隊長を務めた人物時は幕末✋慶応4年(1868年)1月。戊辰戦争勃発💥幕府軍は鳥羽伏見の戦いに敗れ🔥徳川慶喜と藩主の板倉勝静は江戸に引き上げる!が、勝静のより、熊田は藩士150名を率いて藩に戻る様に命を受けた。この
放浪日2019年4月28日久しぶりに“商店街歩き”がしたくなりましたこの頃のあもんは、ちょい鬱状態から脱却していました普段のあもんに戻ったとたん、『商店街を歩きて~』となったわけですwこの日のターゲットは“岡山県倉敷市玉島”です江戸時代に港町として繁栄した地域で昭和の高度成長期を残すレトロな町として注目が集まっていますあの映画“ALWAYS三丁目の夕日”のロケが行われたみたいですちょっと元気のない【留川排水機場】に『これからも、頑張れよな~』と告げて、次へ向かいます
知人の研究者から「遣唐使時代の『留学』の呼び分けについて」という論文コピーをもらった。かねてより、「留学」と「遊学」の違いをどう理解したらいいのか分からなかったからである。あれは5,6年前のことになるかなあ。新潟県の長岡にいった際、「河井継之助記念館」を訪れた。同記念館の詳細はこのサイト:河井継之助記念館|幕末の越後長岡の風雲児(tsuginosuke.net)同館では彼の年譜が詳しく紹介されていた。その中にこんな記述があった。■1852年江戸遊歴■1858~1
NPO法人「福岡城市民の会」が福岡の歴史学ぶ市民大学を開講読売新聞福岡市のNPO法人「福岡城市民の会」(石井幸孝理事長)は2日、福岡の歴史や文化を学ぶ講座「福岡歴史観光市民大学」を開講した。九州国立博物館副館長や...伊勢崎で発見古代の八角形倉庫市役所でミニチュア復元展示上毛新聞ニュース古代の役所跡である群馬県の国指定史跡「上野国佐位郡正倉跡」(伊勢崎市上植木本町)で見つかった八角形倉庫の模型が2日、市役所東館1階市民ホールに...泉藩と湯長谷藩の戊辰戦争解説いわき
兵庫県西宮市の越木岩神社の御神体甑岩(こしきいわ)岩社岩の前に岩社があります御祭神甑岩神(こしきいわしん)市寸島比売命(いちきひめのみこと)別名「女岩」と言われます『安産の神・子授けの神』として昔から崇敬されているらしい周りにしめ縄があります本当に大きな花崗岩(御影石)の岩です高さ10mで周囲40mもあります甑岩北側そして霊石甑岩の奇跡の事件があります豊臣秀吉が大阪城築城の時にある大名の石工たちが切り出そうとすると
幕末期奮闘した備中松山藩士紹介高梁市歴史美術館で大政奉還展山陽新聞特別展は「板倉勝静(かつきよ)」「幕末の備中松山藩」「藩士を育てた『有終館』」「そして『高梁へ』」の4章でほぼ時系列に沿って構成。最後の老中首座となり戊辰(...タイトー、寺山修司のゆかりの地を巡る周遊型謎とき物語「書を捨てよ紐を解こう」を青森県三沢市で11月...SocialGameInfoプレイヤーはゲームパンフレットとスマートフォンを手に、市内にある寺山修司ゆかりの地や寺山修司記念館などを巡りながら、A
由利本荘市には四百年もの歴史を持つお祭りがあります!お勧め4選ご紹介!skyticket.jp菖蒲カーニバルはまるでライブをやってるぐらいの活気あふれるカーニバル!そして歴史のあるお祭りや、神社への神様がお出かけする行事、宵宮や山車!由利.わくわく歴史体験文化財調査入門「拓本体験」春日市わくわく歴史体験文化財調査入門「拓本体験」(無料).最終更新日平成29年6月30日.石碑や器物に刻まれた文字や画像を紙に写し取る伝統技術「拓本」の体験右京子ども歴史体験~右京の歴史
昨日のつづきになります。備中松山藩、ばらまいていた旧札を新札(信用裏付けのある)を作って交換する。そういう風にして悪循環を断ち切ったのでした。次にあげることは、収入を上げる。山田方谷さんは、知恵を絞ります。先ずは何をしたのか?収入を上げるために藩のとしての強みを生かす。ことを考えました。では…具体的にどうすれば良いのか?まず、手をつけたのは『米』です。当時は、大阪商人に委託していたんです。大阪蔵屋敷に持っていくと、委託商人が売るということなのです。それ
備中松山藩、山田方谷さんの財政再建のつづきになります。藩にインフレが起こるすると信用がなくなる。だから、これを一切止めましょう!今まで持っている藩財政の施設を担保に全部売り払って元の金額を作ってしまったのです。財源通りに、それに相応する新藩札を作ってしまうのです。一方、旧藩札を全部回収。こんなに潤沢にバラまいているお金なんて信用がないからそれをみんなが見ている川原で焼くんです。そうしたら、必ずこの新札に関しては、信用保証があるからこっちを使いましょう!というこ
続きです。つまりは、備中松山藩は利益では利息すら払えないということ。「赤字」が8千両に。すると、その8千両をまた、商人から借りるという悪循環のサイクルに〜では、山田方谷さんは何をしたのかと言いますと正直に財政は、これだけ「赤字」なんですと債権者に報告に…債権者というのは大阪の商人のことです。真っ先に、大阪に行って財政の現状と借金の返済計画に同意を求めなければならなかったのです。当時としては、考えられないことだった。みんな「隠しているのです」隠し持って、