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岡山県の高梁商工会議所主催の「DXのためのリスキリング講座」に講師として2023年9月6日に登壇いたしました。参加者は青年部員を中心に17名。皆さん熱心な姿勢で参加し、講座後の質疑応答も活発でした。交流も図れて講師としても刺激が得られました。とても良い登壇ツアーとなりました。ツアーの一部始終です。▼▼▼この日は全国的に雨模様で交通の状態が危ぶまれましたが、新幹線は平常通りでした。新幹線沿線の地域に雨模様で焦ります…岐阜の付近を通過
かなりお久しぶりの「備中」さん相方さんはせいろ私はぶっかけどちらも二八のお蕎麦です。(田舎も選べます)かなり久しぶりにぶっかけをいただきましたが…めちゃくちゃ美味しいーーやはりこちらのお蕎麦は旭川で1番美味しい、と改めて思いました◆ネイチャーメイドスーパーマルチビタミン&ミネラル120粒楽天市場◆大塚製薬ネイチャーメイドビタミンC200粒楽天市場
行く時は忘れていたのですが、岡山への帰りに思い出し、大阪の小町塚にも寄って来ました!行ってみると私道と思われる道の奥にありました。看板には『蘆分船』に書いてある事が書かれていますが、信仰の為として否定的な事が書かれていました。横の石碑には道路改修工事に際してこの地に移した事が書かれていて、西北方向に百に在ったと書かれています。大阪の小町塚の真性の小町塚とする傍証が謡曲の中にあることを書かれていて、「卒塔婆小町」の舞台が摂津国としている事を「能楽と郷土を知る会」の方が突き止め
観光しました☺️神秘的で綺麗だった😊❤️
小野吉子に始まる備中小町小野家ですが、1336年に一端は廃絶した事が分かりましたので、恐らく我が家も再興小町小野家又は美作にあった分家になるのだと思います。最初は美作に分家があったと思っていたのですが、1336年の時の様子を考えると、小野浄智房は備中・美作を、小周防の大貮房は小周防を、七条の辨房は京都の七条の家を管理していたのだと思うのです。(家としては「小町小野家」のまま分家せず、新家扱いで領地を管理していたのだと思います。)つまり分家したのは1336年以降の事であり、本家か
かなりお久しぶりの「備中」さんタイミングよく伺えて良かった〜相方さんは温かい天ぷらそば1450円私は冷たい天ぷらそば1350円そばは両方二八です相変わらず美しいおそばとっても美味しかったですこの辺りは大好きなおそば屋さんばかりですぽこぽこしていて可愛かったです【お得なクーポン有♪1/161:59まで】ポップコーンポーチポコポコ小物入れ可愛い化粧ポーチトラベルポーチペンケース筆箱大きめおしゃれ収納整理ポケット学生シンプル韓国バッグインバッグ楽
今シーズン沢オフ期の岩トレ企画は、関西を飛び出し岡山備中へ。場所は、長屋坂。メンバーは、ノブリン、アサラト妖精、シブ&コージ4名。昔、二人で2005年〜2007年の冬に備中によく通った。備中では、12b(女王様)が最高グレードだった。心の中で今回は、将軍様(12d)をトライしてみようと思っていたが……はたして。朝一、プラナンとスプリング登るが、また例の如く指先冷た過ぎでスプリングで保持感なくなり撃沈してしまった。そのままシブから指令で、「黒島の交差点」へヌンチャクかけ。アップの積り
井原鉄道のカレンダー、今年もいただいてしまいました。2018年に初めて訪問して以来、僕のような何もない奴にも優しくしてくださり、感謝しかありません。うーん、カッコいい。伺うところによると、写真は社員さんなどが撮っているとのことです。温もりが伝わってくるようで、僕はこちらのほうが好みです…というのは、えこひいきかもしれませんね。初めて訪ねたときのことは、ホームページにまとめてあります(文字化けが…)。豪雨被害から復旧を遂げたとき、列車に付けるヘッドマークのデザインを、採用し
こんばんは吉備津神社の駅から一駅乗ったところに吉備津彦神社があります駅から比較的直ぐの場所にありましたこちらも吉備津神社同様桃太郎伝説の原型になったとされています吉備津神社と吉備津彦神社の大きな違いはもともとあった吉備国(きびのくに)が分かれ備中の国にあるか備前の国にあるか・・・のようです両社ともに、主祭神は大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)又は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)ですどちらの神社もとても立派な神社ですがこの時はまだ観光クーポンがない時でしたので
こんにちは、日本あんこ協会会長のにしいです!いよいよ10月1日から「備中あんたび」がスタートしますね!まだ知らないという方!あんこファンならぜひ押さえておきたいところなので、ちょっと解説しましょう!日本の三大小豆産地ってご存じですか?北海道、丹波、そして備中なんですね。備中って、そう、岡山県ですね!これはあんこファンなら絶対言えないとですね☆そして、「備中あんたび」とは、そんな小豆の名産地であり、あんこの母なる大地である岡山県備中エリアにおいて、
どもっ!オイラです。7/22(金)~7/24(日)2泊3日四国界隈怒M弾丸ツー最終日…備中走りと帰路移動ステージ…の巻をアップです。最終回…コレのつづきです。↓『橋梁(四国界隈怒M弾丸ツー2日目後編・瀬戸大橋と鷲羽山と倉敷の夜…の巻)』どもっ!オイラです。7/22(金)~7/24(日)2泊3日四国界隈怒M弾丸ツー2日目後編…瀬戸大橋と鷲羽山と倉敷の夜…の巻をアッ…ameblo.jp5:27
では、引き続き備中の小野小町の伝承を『備中集成志』に考察を加えます。次の一文には、「末孫トテ小野氏ノ名主庄官等今ニ当国に数多有リ。」とあります。この末孫とは小野氏の末孫という意味に使われているようで、小野小町の末孫という意味ではないと思われます。理由としては讃岐好古小野家から朝廷(天皇)に問い合わせた手紙の返事と思われる内容が、小野小町の末裔は何処にあるかというものだったと思われ、その返事として「日間という所に城郭を構え、智行は1800石ほどである。」と返事されている事
備中国一宮吉備津神社2022/07ようやく参拝してきました備中国一宮、吉備津彦命を祀る吉備津神社です。1425年再建で国宝指定の本殿と拝殿は日本で現存する唯一の吉備津造(比翼入母屋造)。桃太郎伝説の元と言われる吉備津彦命の温羅(鬼)退治の神話/伝説が残っています。<使用機材>NikonD7500w/TamronSP10-24DiIIorPENTAXKPw/DA16-85mm↓TamronSP10-24DiII神社仏閣の撮影には広角レンズが欠かせませんが、
昨日は1日郵趣三昧、ついでに懇親会に飛び入り参加の上、二次会でも飲みました。今日は、高校時代の同級生とゴルフ。十分ほどの通り雨を除けば曇天プレーで良かったです。スコアは相変わらずでしたが、10ヤード以上のパットが3回も入って驚きでした。さて、本日のテーマは、全日本切手展2022の受章結果。詳しくは、こちらをご覧ください。→http://ajse.narumi-stamp.jp/outline9.html小生のところは、ワンフレーム(郵便史),開函証印,1,千葉県,22,2
今日は倉敷市の歴史資料整備室の方と話す機会があり、面白い話が聞けた、「倉敷」の名称由来の解釈が以前の、「倉敷地」に由来するものではなく、物資の集積地に由来するという説らしい。「らしい」というのが、教えてくれた人が歯切れが悪く曖昧に答えたせいだが、併せて倉敷地に由来は今はしていないとの解釈も聞いた。私はそもそも「倉敷」とは小野小町の城郭である「倉子城(くらしき)」に由来していると聞いている人間ですから、まあどっちでも構わないのですが、倉敷市に質問する機会があるのでついでに聞いてみようと思
ご訪問ありがとうございます。さて風の道を行っている今日この頃ですが、ここまで来れば引くに引けなくなって参りました。今回は阿津駅をスタートします。次の備前赤崎駅までは0.6kmということで、平坦だしすぐだろうと思っていたところ・・・。広い道にぶち当たり『道路横断禁止!』の標識が出ていまして、近くの交差点を迂回するコースとなります。交通ルールは守りましょう!ですね。再び本コースに戻ると好物の鉄柱がお出迎えで、これから!というところで・・・。
先ほど、『備中誌』という本を読んでいて気付いたのですが、「阿知」の項に載せられている和歌が「小野」の誰かが詠んだものたと気付いたのでご紹介します。先に説明すると今の倉敷の街辺りは、古代に「阿知の海」と呼ばれていて、一面の海でした。この頃の備中の表現に「吉備の穴海」という言葉があるのてすが、再現すると下の様な感じだったと思います。掲載されている和歌を引用すると、鱸つりまつりあへはや阿知の里野坡とあります。阿知の海で鱸(すずき)釣りをしていてオマツリ(隣の竿の糸ともつれ
備中国の一之宮は吉備津神社です。しかし、神社のパンフレットや御朱印には「三備一宮」とあります。大化の改新の頃、吉備の国は備前、備中、備後の三つに分割されましたが、分割される前の吉備国の一之宮として吉備津神社が存在したようです。備前の一之宮は吉備津彦神社で、広島県福山市にある備後の一之宮も吉備津神社です。とにかく、吉備の国は大吉備彦命と切っても切れない関係があったことを物語っています。それは拝殿の扁額にある「平賊安民」に良く表れていて、大吉備津彦命が鬼を退治し、吉備の国に安寧をもたらしたこ
先週の備中・美作遠征の続き(二日目)になります。今日は水攻めで有名な「備中高松城」です。この時攻めた城と寺社(毎回お世話になっています、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)津山城が遠いけどその気になれば岡山五城は一日で攻めることが出来る?「備中高松城」内にある地形図、なぜ全体がわかる写真がない城内ある「公園資料館」このとき午前8時、先に城内を攻めます城内に池が広がります二の丸付近城内の池に生える「宗治蓮」、蓮の季節はま
出雲と並ぶ勢力を誇った吉備。律令制の下で、備前・備中・備後・美作に分割されました。吉備津神社の次に向かったのは、神体山・吉備の中山の西の麓に鎮座する大社。◆備中国一の宮吉備津神社◆ニの鳥居風情を残す松並木の参道を進みます。数分で社頭に到着。鳥居ではなく注連柱がそびえています。北随神門(国指定重要文化財)天文12年(1543)建立です。絵馬殿随神門からは急勾配の石段が続きます。その先には長屋門の様な絵馬殿。そして、石
ここらで岡山県の小野さんを紹介したいと思います。私としてはまず最初にご先祖の「吉子」さんのことを挙げないと怒られてしまいます。吉子というのは通称ですから本名である、諱(いみな)は私も知りません!もしかしたら天皇家には残っている(諱で呼んで良いのは、天皇と両親だけ)可能性があるので、天皇家に残されている記録が開示される事を期待しています。後宮では「小野小町」と名乗り、和歌をはじめ残されている記録の殆どは「小野小町」となっています。(私は直接的に吉子さんと聞いていますが、一般には吉子さ
今回は備中高丸城と云う事ですが備中杉山城の出丸と言われてますが山を縦走して別の頂に行くので別の城としました🐈先ずは備中杉山城の主郭の少し手前に分岐点があり北尾根.高丸コースを選びそれに従って突き進みます🐕展望台的な場所この展望台的な場所の下に道があります🐴が天然石を使った石塁の上を歩くコースと石塁の横を歩くコースがあります🐈石塁を越えると大堀切があります🐕恐らくココまでが備中杉山城ではないかと思われます🐈立派な豆腐岩😍❗4つ割り岩十文字に割れています🐈この辺りに看板があり
これまでの中間報告という事で小野氏系図を公開しようと思います。これで完成という訳ではないのですが、研究成果を独占することよりも、同じく小野を名乗る人達への助けになればいいかなと思っています。ですので、なるべく多くの「小野」さんに見て貰える事を希望しています。m(__)mアメブロでは詳細画像が公開できないので下記リンクよりfirestorageというサイトから画像を落として貰えたらと思います。firestorage|小野氏系図firestorage.jp
東京都のコロナ患者は14,000人を越えました。どこまで行くのでしょうか?さて、本日のテーマは、モヤモヤした赤茶色の丸一型日付印。まずは現物をご覧下さい。データは、国名局名とも不明・明治29年12月26日ハ便引受は備中/玉島宛先は備中国川上郡吹屋村なので、配達印は備中/吹屋だと思いますが、読めそうで読めません。どなたか、似たような事例をお持ちではありませんか?情報をお待ちします。吹屋に関するブログ→準鉱山局の備中/吹屋のKG印別件ですが、3/4-6に開
倉敷は岡山から近いのでササっと一番の観光地に行ってきた備中手打ちうどんおおにし美観地区の川沿いにある、手打ちうどんのお店🍜山たぬきうどん山芋と分厚い油揚げがのっていて、これぞ西日本の出汁と硬くも柔らかくもないちょうど良いうどんが良い具合で美味しい店前の美観地区の風景はこんな感じで観光スポットだうどんは岡山でも名物なんだね(・ω・)ノ
長州藩のクーデター(=禁門の変)が失敗に終わって以降、暫しの間、京都の政情も、表向きには幾分落ち着きを取り戻し、それに応じて、一橋家も、国内諸藩の周旋役からの饗応が弾み、平岡の跡を継いだ黒川何某とか云う用人も、毎夜の如く、京の花街に呼ばれるから、それに追従して、澁澤青年も酒食饗応に肖ったようだが、この宴席の或る夜、黒川の計らいで、澁澤青年は、一人の夜伽を宛がわれる訳だが、これに立腹した澁澤翁は、『両三年の間は、心に誓ったことがありますから・・・!』と云って、この気遣いを振り払い、すたすたと
邪馬台国吉備説で思い出しましたが、倉敷市玉島の「穂井田」という地域は天穂日命の養田だったことに由来する事を何処かで読んだか聞いたかした覚えがあります。穂井田は備中高松城の戦いに於いて毛利元清が穂井田元清として猿掛城で迎え撃ったことでも知られていますが、行政区分もコロコロ変わったりして何かと曰くのある地域だった様に思います。また真備町の「妹(せ)」も宗像三女神の一人に由来する伝説があった様な…、吉備が邪馬台国かどうかは別としてもヤマトとの関わり方の研究はあまり聞かない気がします。考古
三連休ですね。皆様いかがお過ごしでしょうか。JAPEXへの出品と津田沼徒然草NEXT第4号の準備をしています。さて、本日のテーマは、2号と18号開函証印の謎。これを見たときちょっと驚いて、二度見してしまいました。開函証印が2つも押されているので・・・。どんな風に取り扱われれば、開函証印が2つ押されるのでしょうか?ポストから出した時に、2号を押したが、押したのを忘れて18号を再度押してしまった???引受の備中/玉島郵便局の丸一型日付印がニ便なので、2号でおかしくないのですが、18号が
小野小町の墓がある黒田の里にも平安時代初期に小野小町が来ている名残が地名として残っています。里にあるものは後から建てられた供養塔である事は書きましたが、本当の墓の可能性がある山を「野山(おのやま)」というのですが、これは平安初期に唐風(からふう)な名称を使う事が流行っていた事に由来するからです。特に小野吉子の父である篁は嵯峨天皇に見出され目をかけられていたのですが、この嵯峨天皇が平安京を唐風に変えていった人物なのです。中国の唐は名字を漢字一文字で表していたので同じ事を皆
岡山県総社市黒田には小野小町の墓とされる供養塔がありますが、本当の墓とされているのは小町谷上にある野山(小野山の意味)と呼ばれる山の上にあります。写真にある供養塔も室町時代の頃のものとされていますが、平安時代には供養塔を建てる習慣がなかったので仕方ありません、後の時代に子孫の誰かが作ったと思われます。平安期は一般的に風葬とされるのが普通ですが、小野吉子は仁明天皇妃ですし小野一族は空海との縁も深く、父の小野篁の墓も京都に残っていることから鑑みて、小町のお墓が残っていても不思議