ブログ記事13件
先週、記事にしなきゃいけなかったんですけどねちょっと昨日の続きをいわゆる「特攻作戦」というのは飛行機での体当たりだけではなくて戦車を用いた作戦、特攻艇による体当たり、果ては潜水服を着て海に潜り機雷を敵艦の船底で爆発させるなんて作戦もあり「特攻死」として認定された日本兵は6,000名を超えます昨日の記事で「あんなバカな作戦」というくだりを書きましたけれどそのバカな作戦の極みとも言えるのがあの日の出来事です沖縄・読谷村読谷村役場の裏手81年前の
義烈空挺隊攻撃計畫(一)戦闘指導要領1X日Y時を期し主力八機を以て中飛行場に強行着陸し重点を在地敵飛行機竝に軍需品の破壊焼却に置き併せて揚陸場附近の物資集積所を攻撃し一挙に敵飛行基地を攻撃滅す5中飛行場攻撃隊は強行着陸に膚接し重点を在地飛行の破壊に置き併せて同地周辺地区の物資集積所を攻撃し爾後海岸方向に戦果を擴張せしむ80年前の今日、昭和20年5月24日夕刻迫る18:40一機に操縦士と戦闘部隊の計14名、12機の大編成で総勢168名が沖縄を目指し熊本
5月22日現在、敵はすでに首里の手前まで侵攻しており、第32軍司令部は決戦に出るか南部に後退しもう一戦交えるかの選択に迫られていました。八原大佐は軍参謀を召集し、今後の方針を協議。結果未だ50000名の将兵がいると推定され、喜屋武半島への撤退が決定されました。軍主力は29日に後退。5月24日に開始された菊水七号作戦では、この第32軍の決定を受け作戦が開始されたものです。そしてこの特攻作戦を成功させるために北・中飛行場の制
[義烈空挺隊、昭和20年5月24日18時10分出撃‼️】〜ベテラン操縦士でも難しい夜間低空洋上飛行を敢行‼️〜沖縄を守るため、陸軍は本土決戦に備えて温存していた精鋭部隊である落下傘部隊員で編成された義烈空挺隊の沖縄出撃を決定しました。制海権、制空権をアメリカ軍に奪われた日本が、沖縄に辿り着くには、夜間飛行、またレーダーに捕捉されないため、低空飛行で行くしかなかったのです。ベテラン操縦士でも困難な任務を、諏訪部飛行隊長は引き受けたのです。洋上30mの低さで航行するのは昼間でも難
【義烈空挺隊の真実‼️】〜義烈空挺隊の168人隊員の中には10人の中野学校出身者が含まれていた‼️〜義烈空挺隊の人員構成は、落下傘部隊の隊員136名と操縦士等32名でした。沖縄戦は「捨て石」と言われていますが、決して「捨て石」ではありません。陸軍の一番の精鋭部隊は落下傘部隊とされており、大東亜戦争の終盤において、陸軍ね首脳陣たちは、精鋭の落下傘部隊をどこで投入するかを迷っていたのです。サイパン島、硫黄島に投入する案もありましたが、本土決戦要員として温存する方向にあったようです。し
何となく故郷が懐かしくなり、昭和40年頃の熊本市東部の地図と現在の航空写真に重ねてみました。現在は建物などで埋め尽くされてますが、当時は移転前の飛行場こそあったものの、白川左岸の高台で水に乏しかった為、回りは一面畑だけでした。
おはようございます。九州は晴れて、気温は18.1℃。今日は天皇陛下の「即位の礼」とやらで、休日になっていますが、パレードは先日の台風の被害者のために後日に延期とやら。東京は天気が悪いらしいので、それはそれでよかったのですが、延期された日に行事を予定していたところは大変でしょうね。ここで人間ドックを受けておりますが、無事検査終了して昼食タイム。朝から食べていないと、何でもおいしく食べられます。窓側の一人席から見ると、隣の県立大学(昔は県立女子大)が見えます。今でも
【「闇夜の特攻隊」(義烈空挺隊)の特別公演】ゴロ画伯、松村宏さん東京十条で熱演‼️昨日、都内のJR十条駅前商店街のマレーシア料理店(肉骨茶)で、松村宏さんの特別ライブがあり、参加してきました。(「空の神兵」顕彰会関係の会員7人参加戴きました。今回は単独ライブであり、出し物は三本。三本とも多くの日本人が知らない凄い史実ばかり、聴衆は感動と涙の連続でした。メイン演目は「義烈空挺隊の真実」を伝えるために構成された「闇夜の空挺隊」‼️松村さんは、岡本喜八監督の映画「沖縄決戦」で義烈
【義烈空挺隊の功績を知らない沖縄の人たち‼️】沖縄で【義烈空挺隊の真実】と題した初の講演を実施します。終戦間際の昭和20年5月24日、奥山道郎隊長以下168名の義烈空挺隊は夕闇迫る熊本県の健軍飛行場から沖縄の読谷・嘉手納両飛行場に向けて出撃しました。目的はアメリカ軍に奪われた両飛行場に壊滅的被害を与えることでした。出撃した飛行機は12機、無事に沖縄付近に到達したのは8機。アメリカ軍の猛烈な弾幕射撃の中、1機だけが、読谷飛行場に強行着陸‼️10数名の勇敢な将兵により、アメリカ軍の飛行機3
昨日は、二年ぶりの人間ドックのため熊本市健軍の日赤に行きました。ここは昔(40年前ぐらいでしょうか)、熊本空港があった場所です。その前は、日本陸軍の健軍飛行場のあった場所です。隣に三菱重工の工場もあったそうです。私の子供の頃は、滑走路が1200mしかなく、YS11などが飛び立っていました。その跡地に、今は日赤やら県立大学などがあります。(空港は、移転しています。2500Mの滑走路となり、ジェット機が飛び立ちます)遠い昔に戦場に飛び立った若者の跡地に、今は女子大生が登校しています。(
久しぶりの長物記事。五年くらい前にオクで落札した、タナカの100式機関短銃です。日本軍が正式に配備した唯一の国産サブマシンガンです。おそらく初期のロットでしょう。ストックに当たり傷が多少ありましたが、コンディションは良い方だと思います。開発から数年経て大東亜戦争中に生産されましたが、その総数は他国に比べて少なく、8000〜10000丁ぐらいだとか…。拳銃弾とはいえど、大量の弾薬を消費するサブマシンガンの配備は物量の貧弱な日本軍には難しい問題でした。海上輸送途中の損失も多かったと思い
○出撃直前、奥山・諏訪部両隊長の握手。「お互い頑張りましょう」、そう声を掛け合った。この場面には後日談がありまして、撮影者の小柳氏が当初は撮り逃してしまったので再度お願いして撮影したという証言がありました。○機上にて最後の別れをする、奥山・諏訪部両隊長。○出撃直前の爆撃機内部。隊員らが重装備の為、中腰の状態だった。○「そして、みんな行ってしまった・・・」残存の兵士達に見送られて熊本健軍基地を飛び立つ義烈空挺隊の爆撃機。昭和二十年五月二十三日夕方○熊本健軍基
○参謀から直々にお声を掛けて頂く。○まだあどけない表情の隊員。○引き締まった表情の隊員。○真ん中の長身の隊員は沖縄出身で義烈空挺隊最年長の山城金栄准尉(享年31歳)。この日、新聞記者にこう語っています。「私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが、別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です」。山城准尉の最後の言葉でした。○最終打ち合わせ
○「行って参ります!」明るく力強い笑顔を見せてくれた。97式重爆へ搭乗前、今生の別れの盃をあげる宮越春雄准尉。一昨年、テレビの終戦特集番組で義烈空挺隊出撃時の模様がカラー化されて放送されました。○「ワシはもう使わんからお前にやるけん、大事にせえよ・・・」と言い、整備兵に渡す光景。○梅雨時だというのに、熊本、健軍の地は快晴である。○人生最期の乾杯○ささやかな宴が終わり、参謀による巡検(各隊員の装備品点検、
○出撃前日、陸軍参謀に対する作戦説明○出撃前の食事の模様○出撃当日、身支度を整える隊員達○出撃前の盃を交わす諏訪部忠一大尉(神奈川出身)○出撃前の盃を交わす奥山道郎大尉(三重出身)○戦争末期の物不足の中でかき集められた酒と肴で盃は交わされた。○各隊員も盃を交わす。○人生最期の煙草を目一杯吹かす隊員達。追記2017/10/5ハッシュタグ編集
大日本帝国陸軍義烈空挺隊搭乗機別隊員名簿断片的な情報を元に制作した第3独立飛行隊を含む義烈空挺隊隊員の名簿です。辞世の句はサイパン島攻撃計画時のものと混同している可能性があります。●1番機搭乗員(機体番号:4484)作戦結果:地上墜落又は海上墜落川守田啓司少尉正操縦士陸士57期。青森県出身。遺書「任」諏訪部忠一大尉副操縦士第3独立飛行隊隊長。陸士54期。神奈川県出身。26歳没。小林真吾少尉航法士陸士57期。1924年生まれ。新潟県出身。「今敦盛」の愛