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もうすぐ、公立高校の入学試験ですか。社会日本史について全体の復讐に役立てば幸いです。「語呂合わせ」と「歌」で覚えるって、最強の覚え方だと思いませんか?年号語呂合わせシリーズ①57年こんな金印を光武帝が倭の奴国の王に239年文くださいと卑弥呼が魏に使者を送った478年指南は大事と倭王武中国南朝宋に使い送る538年ご参拝に行こう百済からの仏教伝来593年国民人気の聖徳太子が推古天皇の摂政に603年老齢見やすい冠位十二階60
あけましておめでとうございます。稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が雄略天皇だというのは、いまや鉄板の定説といってよいでしょう。しかし、雄略天皇の治世がいつからいつまでだったかという話はほとんど耳にすることがありません。定説化の過程を想像すると、おそらく鉄剣銘文の辛亥年を471年と推定した方々が、『日本書紀』の紀年からその年を雄略天皇の治世と判断して、「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読めば、雄略天皇の諱である「大泊瀬幼武」の「ワカタケ(注:厳密にはワカタケルではない)」と一致する。獲
保渡田古墳群の続きです八幡塚古墳上毛野はにわの里公園かみつけの里博物館かみつけの里博物館を見学しました展示室の写真撮影は可ですがSNSにあげることは不可でした【代表的な展示物】鵜形埴輪(東博で撮影)八幡塚古墳から出土鵜形埴輪は、大阪府茨木市・太田茶臼山古墳(宮内庁が比定する継体天皇陵)からも出土しています。※以下の画像はお借りしました金銅製飾履(しょくり)【5世紀の渡来系遺跡・遺物】・積石塚方墳・方墳以外の積石塚・鍛冶道具・朝鮮式
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ
ご訪問ありがとうございます。雄略天皇、今回以降は外国関連の記事が増えていきます。夏四月、百濟の加須利君カスリノキシ蓋鹵コウロ王であるは、人伝に池津媛が焼き殺されたことを聞いて、適稽女郎チャッケイエハシトである相談して「昔、女性を献上して采女としたが既に無禮なことを行い、我が國の名を貶めた。今より以後は、女性を献上するのはやめよう。」と言った。そして其の弟である軍君コニキシ崑支コニキであるに「そなたが日本に行って、天皇に仕えよ。」と言った。軍君は「王の命に違うことはありません。願わく
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」はけっこう長いので、さっそく読み進めましょう。3年夏4月、阿閉臣アベノオミ國見クニミまたの名を磯特牛シコトヒが、𣑥幡タクハタ皇女(伊勢斎宮)と湯人ユエ(皇子女の養育の一族)の廬城部連イオキベノムラジ武彥タケヒコを誹謗中傷して「武彥が、皇女を犯して妊娠させました。」と言った。湯人ユエで武彥の父の枳莒喩キコユは、此の流言を聞いて、自分に禍いが及ぶのを恐れて、武彥を廬城イオキ河(三重県津市雲出川)に連れ出し、水に潜って魚を捕るように騙して、不意
ご訪問ありがとうございます。今回から雄略天皇の治世に入って行きますが、このお方、あんまり書かれ方が良くない(^^;)その理由はおいおい指摘して行きます。(雄略天皇)元年春3月3日、草香幡梭姬クサカノハタビヒメ皇女を立てて、皇后と為す。またの名橘姬皇女。えーと(;^_^A分注の橘姫皇女ですが、何かとヤマトタケルに戻って申し訳ないですが、雄略天皇がワカタケ、またはワカタケルという名前(大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇)なので、昔からヤマトタケルのモデルだと言われてまして、「古事記」
ご訪問ありがとうございます。今回は倭王武の上表文を通して、当時の東アジアの状況下で、倭国が何を目指し歩んでいたのかを見ていこうと思います。478年、武王は前年に遣使を行った兄の興の跡を受けて、宋に遣使をします。兄の急死を受けての事でした。倭国は邪馬台国の頃から、朝鮮半島の最南部に支配圏を広げていました。ですから高句麗が百済を一時的にせよ、滅ぼしたことは、そういった支配圏の安全保障もありますし、中国大陸への通交も遮断される恐れが十分にあったのです。興の遣使も15年ぶりに行われたというの
ご訪問ありがとうございます。今回は「宋書」に描かれる倭の五王の5人目、倭王武について見ていこうと思いますので、まずは大陸と半島の情勢を確認しておきましょう。倭国から、済王の死去を伝えて世子興が遣使した462年の前後、宋の北魏に対する劣勢はますます顕著になり、高句麗はあからさまに北魏への遣使を増やしていました。それに対して宋の方は、高句麗長寿王に車騎大将軍・開府儀同三司を叙爵して、最高の待遇を用意します。儀同三司は「光る君へ」にも出てきていて、皇后定子(高畑充希さん)の兄、伊周(三浦翔
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴
【考古学における「事実」と「解釈」】関川尚功氏は、『考古学からみた邪馬台国大和説畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)の「考古学のもつ有効性」と題した項目の中で、考古の基本とするところは、結論が分かれることの多い「解釈」よりも、まず、その前提となる「事実」の確認が優先されるからである。と述べている。【例えば、稲荷山鉄剣の「事実」と「解釈」】例えば、稲荷山鉄剣が発見された時に、「鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されている」のは“事実”で、その
古代史研究者には有名なこの上表文。そして宋書にある倭国の情報。これらを正しく読み解くと倭王武の本当の正体がわかります。雄略天皇ではありません。ではスタート。先ずは上表文の原文を引用します。全てを訳す必要はありませんが、資料として全文を掲載します。「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,
武寧王は蓋鹵王の子、日本書紀だけを見ている人には当たり前のことだが、他の史書、「三国史記」等を読んでいる人にはそうとは言えないと思うだろう。事実「三国史記」には武寧王は牟大王の次男となっている。このあたりは情報が錯綜していてどれが真実だかわからなかった。ただ「三国史記」を読み返しているうちに気になった記述があった。蓋鹵王の次の王、文周王の内容だ。冒頭では蓋鹵王の子とある、これはストレートだ。しかしその後蓋鹵王が王位を継いだとき、文周がこれを輔佐して位が上佐平になったとある。これ
突然古代史ですが、最近謎が解けたので整理するためにここに書きます。中国の史書には倭の五王についての記述があり、それらが日本の記紀にある天皇の誰にあたるかが論争になっています。しかしそれらは全て徒労であったことがわかったのです。具体的にはタイトルにあるように倭王武とは百済の武寧王のことでした。唐突過ぎてわからない人も多いかと思いますが、このことは事実らしく他の候補では矛盾が出ていたことが解消され全てのパズルのピースがはまります。まずは当時の百済と日本列島の中に在った倭国との関
あす3月24日の午後9時から、NHKスペシャル「古代史ミステリーヤマト王権空白の世紀」が放映されます。内容の詳細はわかりませんが、倭の五王(讃・珍・済・興・武)について描かれるようです。そこで、以前に倭の五王についてYouTube動画でシリーズ化していたこともあり、今回それをまとめた動画を作りました。動画本編は私の説が中心となりますので、多くの異論もあると思います。それで、今回動画では冒頭に中国史書に現れる倭の五王の記事や、一般的な解釈をまとめました。その部分を
前回のブログ(2022.5.24若日下部の命の、雄略天皇へのキモチ⑪)で木梨の軽の太子(允恭天皇崩御後の次の皇位継承者)と安康天皇の近親●●について、触れました。古事記に記載されている箇所を御衣黄なりに、まとめます。詳細が気になる方は古事記で確認してください!新潮社・古事記(P227〜P234)参照---木梨の軽の太子は、允恭天皇崩御後の次の皇位継承者に決まっていた。しかし、中々、即位されなかった...安康天皇との権力闘争があったのでしょうか..
先日のブログ(2022.5.11・雄略天皇の妻への歌)で「雄略天皇が、その場で、若日下部の命と交合するには至らなかった...」と記載しました。上手く、若日下部の命がはぐらかしたのですよね...・・・。その理由が...安康天皇・允恭天皇の段を読むことで何となく視えてきたので私なりに、まとめます。*詳細が気になる方は古事記で確認してください。*新潮社・古事記P225〜P234参照---安康天皇は弟(大長谷(泊瀬)王(後の雄略天皇))のお嫁さ
前回の続き(古事記と近江のササキの山の君⑨)です。御衣黄なりに近江の沙沙貴の山の君が祖【韓帒】について記載されている、古事記の箇所をまとめてみます。詳細が気になる方は古事記で確認してください!新潮社・古事記(P232〜P239、P258〜P260)参照---大長谷(泊瀬)王(後の雄略天皇)は安康天皇が殺されたのにもかかわらず、いい加減で、テキトーな態度をしている黒日子王と白日子王が許せなかった。そして、二人を死に至らしめる。その後、大長谷(
前回のブログの続きです。古事記の下つ巻・雄略天皇の段に近江の沙沙貴の山の君が祖、【韓帒】についての記述があります。私には「偶然...」だと思えました。なぜならば、御衣黄は先生の志の高い教え子さんとは違い、古事記を完読できておりませんので(^^;つまり、鰹木の部分だけではなく「【雄略天皇の段】を通して読みなされ!」という、メッセージなのでしょうね...琵琶湖旅の時から変わらず、キツイですね。ササキの神様に嫌われているのかしら?スパルタだよ.../
前回に続き古事記(下つ巻・雄略天皇の段)に於いて御衣黄が気になった箇所をまとめています。*意訳もしておりますのでご容赦くださいませ。気になる方は古事記を確認してください。*新潮社古事記P246〜P247参照ある日、雄略天皇は葛城山へ行幸した。(偶然にも)帝自身の容姿、立ち振る舞いと非常によく似た、男が登拝していた。(しかも)、行列(さえも...)ドクターXの院長回診が目に浮かびますね...おばさん!雄略天皇は、あんなに傲慢ではないわよ!
前回に続き古事記(下つ巻・雄略天皇の段)に於いて御衣黄が気になった箇所をまとめています。*意訳もしておりますのでご容赦くださいませ。気になる方は古事記を確認してください。*新潮社古事記P246〜P247参照雄略天皇が、狩りをされていた時一匹のアブが、帝の腕に食いつこうとした。(その瞬間)、蜻蛉がやって来てそのアブをくわえ、飛び去った。*蜻蛉を訓読みすると、アキヅという。そこで、雄略天皇は、歌を詠んだ。---み吉野(えしの)の小室(をむろ)が
前回に続き古事記(下つ巻・雄略天皇の段)に於いて御衣黄が気になった箇所をまとめています。*意訳もしておりますのでご容赦くださいませ。気になる方は古事記を確認してください。*古事記P245〜P246参照雄略天皇が吉野離宮に行幸されていた時、容姿端麗な若い女に吉野川で会いました。その場で、遊女(川→水→水商売?)と交合をし雄略天皇は長谷朝倉宮に戻られた。その後、再び、吉野離宮に行幸した際(偶然にも)その女と会います。同場所に大御呉床(
*1月24日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは倭の五王です。本日は、倭王武の上表文のおはなし。***関連超略年表***前1世紀倭人、定期的に献見(漢書)西暦57倭の奴国奉貢、後漢の光武帝印綬を賜う(後漢書)107倭国王・帥升、安帝に生口160人献上147~189倭国内乱238邪馬台国女王卑弥呼、魏に遣使、親魏倭王印授(魏志)247卑弥呼の使者・
あけましておめでとうございます。雄略期に関して、顕宗紀から崇峻紀までの分析によって得られた、日本書紀α群の再編纂仮設に基づいて、雄略紀を分析しました。宋書の倭王興と倭王武は、それぞれ日本書紀の安康と雄略に、その治績や人物像の少なくとも一部が反映されており、倭王武は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王とみてよいと思います。ことに477年と478年の倭王武の朝貢に関しては、雄略紀の身狭村主青と檜隈民使博徳の二回目の呉への使いが、任意性なしに細部にわたって一致し、偶然とは思えない符合を示します。その
黥をした兵士(復元埴輪:八幡塚古墳)黥を顔(額や目の周り)に入れることを刑罰の一つに組み込んだのは、黥を蔑みの対象に貶めたことになります。それは倭人世界の支配階級から黥の習俗を取り上げ、華夏の風習に倣わせるのがねらいでした。文身を禁じなかったのは、被支配階級の習俗だったことに依っています。ヤマト王統の中核(王族、貴族、上級吏僚、宗教関係者)が黥・文身の世界から離れたのは、中華思想を具現する過程での出来事だったことを物語ります。政治が代々の習俗・習慣を意図的に改変するのは、決して難
『梁職貢圖』『梁書』における倭國、倭人の地理観前節からの続き。『梁職貢図』を模写した『王會圖』と『北宋模本残巻』の違いは、「残巻」が異族の使者ごとに、華夏王朝との来歴をまとめた説明文(題起)を添えている点です。その文章はおそらく、原本にあったものでしょう。ただし倭國、末國の記事は剥落のため、全体の解読はできません。2011年のこと、清代の模写『諸番職貢圖巻』が発見され、そこに「倭國は南斉の建元に上表した」とあることが分かりました。『南斉書』「蛮東南夷伝」倭國条「建元元年(
原則1回の問題数は2問。アトランダムに出題する。センター試験前日まで、できるかぎり連日出題する。問13倭王武の上表文の一節を示す史料として正しいものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。➋昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。➌国に二の君なく、民に両の主なし。率土の兆民、王を以て主とす。➍日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。問14日米安全保障条約(旧安保条約)につ
久しぶりに、日本の歴史のことを・・・俺が子ども古事記プロジェクトに参加してることに対してあれって?って思ってる人がいるかもしれません。過去のブログを読んでいただいたら俺が古事記や日本書紀を頭から鵜呑みにしていないのが分かると思います。じゃあ、なんで、信じてもないものを子供たちにすすめるのか?1番の目的は古事記は物語になっていて入りやすいからです。
(つづき)○興→武(興の弟)・興死弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。[興死して弟武立ち、自ら使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。]《興が死去し、弟の武が擁立され、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。》○478年:宋(南朝)の順帝(8代)-倭の武・順帝昇明二年、遣使上表。曰、封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、
➊倭王武・ワカタケル大王・雄略天皇の関係を説明せよ。(100字)■関連記事日本史の基本17(3-2倭の五王)■重要図表【倭の五王と天皇】★解答例は↓の先にあります。↓↓↓↓↓■解答例朝貢の結果、中国史書『宋書』などに倭王武と記された人物は、江田船山古墳・稲荷山古墳出土の銘文に漢字の音で表記されたワカタケル大王にあたり、8世紀になって成立した「記紀」に登場する雄略天皇に比定される。(100字)