ブログ記事7件
【四新唐書の史料批判】旧唐書が存在していながら、なぜ再び、事新しく新唐書が作られねばならなかったか。古田氏は『新唐書』巻末に付せられた「進唐書表」に記された内容を吟味して新唐書批判を行っている。旧唐書があるにもかかわらずなぜ『新唐書』が編纂されたか。「進唐書表」の中から5項目を抽出している。①帝紀・列伝の立て方が適当でない。②旧唐書の欠乏しているところ、誤っているところを補正した。③旧唐書が編纂された「五代」の時代は道義性・教訓性に欠けているため信頼できない。⓸当
【旧唐書と新唐書の記述】旧唐書と新唐書には、倭国と日本国の過渡期に遣唐使として派遣された使者の発言が記述されている。使者の発言は、日本国と言う名前の由来、日本国と倭国の大小・併合関係、日本国の支配領域が記されている。旧唐書も新唐書も漢文で書かれているので、まず漢文の解釈が正確でなければならない。それほど難しい構文ではないが、記されている内容が少し入り組んでいるために日本語でも糸がもつれてしまいそうな文章になっている。そのためにこれまで歴史家たちは自説に都合がよいように
地名から邪馬台国の位置を考察する記事のコメントの中に、『隋書』の俀(倭)国伝の隋使裴世清の「魏志の所謂邪馬臺なり」の発言を根拠に「邪馬台国=近畿」としているのがあった。生野先生はフォーネット2022年6月号で『三国志』魏志倭人伝と『隋書』俀(倭)国伝を取り上げ、その中で608年に来日した裴世清が「邪靡(摩)堆(やまと)」を3世紀魏使が見た「邪馬臺(やまと)」と同じだと勘違いしたと考察してあります。その勘違いの原因は・・・①隋朝は、ヤマト王家が3世紀終末に近畿に東遷した事実を知らな
キャッチ邇邇藝は安寧で大年神倭国大乱は鵜葺草葺不合の死後の王位継承争い邪馬台国は京都付近の山代卑弥呼は夜麻登母母曾姫卑弥弓呼は近畿大和の王倭五王は北部九州の紀王家倭人伝に書かれているように、山がちな倭国は、日本列島に点在する狭い平地ごとに小国家があり連合していた師升の時代には百余国、卑弥呼の時代には三十国程度この諸国を束ねていたのが、須佐之男から大国主命へと続いた出雲王朝主体は、九州北部から越までの日本海沿岸で大国主命のときに山代まで支配領域を広げていた一方、瀬戸内海から東
昨日のブログでご紹介した『漢文の素養』第5章「中世の漢詩文」にとりあげられた、明の洪武帝と懐良(かねなが)親王とのすったもんだ(一応、公式文書のやり取りですが)は、『明史』巻322・外国3に残されています。明の第1代皇帝・洪武帝の姓名は朱元璋(1328~1398)といい、貧農の家に生まれて孤児となり、紅巾軍(元末期におこった宗教的農民反乱軍、紅色の頭巾をつけていた)に参加して頭角をあらわし、群雄を下して1368年明朝を建てました。懐良親王(1329~1383)は後醍醐天皇の皇子です
アジアの国で行ってみたいのは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう今回は交流・交渉という意味で古代の東アジアに時空間移動しました。シルクロードは、なにも西域にかぎったことではありません。春秋戦国時代(紀元前8~3世紀)に急速に発展した中国の絹織物は、まず現在の山東省にあった斉と魯が中心地になりました。厳格な基準で管理された官営工場製品にかぎらず、商人が保有する工房や家庭でも生産されています。この時代にすでに絲(シ:絹糸)・帛(ハク:白絹)・染料を扱う大商人が誕生し
お風呂読書で滝汗をかいた後は身体が軽くなります。首や肩のコリもずいぶん良くなりました。最近では、本なしの入浴は考えられないくらいです。さて、読み終えたのは「倭の五王王位継承と五世紀の東アジア」。中国史書「宋書」倭国伝に記された讃、珍、済、興、武は倭という苗字を名乗っていました。大陸と比べ、同時代の史料が極めて少ない日本。五王がどの天皇に該当するのか、今も謎のままです。いつもポチっとありがとうございます!
日本はこう見られていた!〜旧唐書から読み解く〜【CGS日本の歴史2-2】古代の話、第2回は「魏志倭人伝」や「旧唐書(くとうじょ)」から、当時日本が世界からどう見られていたを考えていきます。今回もやはり歴史が何らかの力によりねじ曲げられて教育されている点が登場します。この先はさらに歴史の話が本格化していきます。まさに「目からウロコ」の日本の歴史が出てきますので、ご期待ください!